« 2018年11月 | トップページ | 2019年1月 »

2018年12月

2018年12月31日 (月)

大晦日の浅草寺

今年も平穏無事に過ごせた御礼に浅草寺にお参りしてきた。 チョイと待てよ! 本当に『平穏無事』で良かったのか? 浅草寺への道すがら、考えてみた。 正直な気持ちでは、『ジャンボに当たりたかった』、『白石麻衣の握手会に行きたかった』、『病院通いを減らしたかった』、などなど、いろいろ実現したかったこと、実行したくなかったことがあるある、考えるときりがない。、、、、、来年は多少変化の多い年にしよう! 初詣では、『ジャンボ、前後賞で1.5億円当選』、『白石麻衣のサインをゲット』、『通院している、眼科・整形外科・泌尿器科・心臓血管外科・循環器内科・歯科を半分に』、などなど、少々遠慮して、お願いすることにした。
 
 
 
●・・・・・・・・・・・大晦日の夕刻、お参りする人は少ないと思ったら、アリャ~! 何じゃコリャ~? 明らかに、去年より今年は、外人観光客の数は増えている、日本人はどこにいるのか、周囲は外人ばかりがゾロゾロ。、、、、、日本も観光立国になったようだ。 
 
1812311523540
 
1812311545130
 
1812311554210
 
1812311546440
 
1812311553220
 
1812311549380
 
1812311614260
 
 
 
●・・・・・・・・・本堂の東南、仲見世の裏側に、弁天山と呼ばれる小高い丘がある。 ここには、弁天堂鐘楼が建っている。 弁天堂は今年の仕事納めを済ませ、家主の弁天様が江の島の実家に帰省したのか、扉は閉まり静かである。 弁天堂に祀られている弁天さまは、白髪のため「老女弁財天」と呼ばれているそうだ。 若いピチピチの弁天様なら拝観したいが、乳の垂れた老女なら遠慮する。、、、、弁天堂の前には、元禄5年(1692)第五代将軍徳川綱吉(1646~1709)の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進、改鋳した梵鐘がある。 この鐘は、江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉の句:「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である。 昭和20年(1945)の東京大空襲では、鐘楼は焼失し昭和25年(1950)に再建された、またこの時、鐘は幸いにも無事に残った。 鐘は、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされる。 また、大みそかには、除夜の鐘として鳴らされる。、、、、、私が中学生の頃までは、約2km離れた浅草橋の我が家でもこの鐘の音が聞こえていたが、今は残念ながら、高層ビルも建ち聞こえない。
 
1812311625450
 
1812311621420
 
1812311623290

2018年12月30日 (日)

年末休暇で銀座へ

一年は早いもので明日は大晦日、一年中日曜日の私には忙しいはずはないのだが、なぜか年末の数日は毎年忙しくなる。 午後から、チョイト買い物に日本橋・銀座に行ってきた。、、、、、散歩は年末で休み!、、、、、何を買ったか? ナイショだけれど、一つだけ教えると、柳家小菊のCD:『江戸のラブソング』
 
 
1812301615430
 
1812301615080_2
 
1812301620370
 
1812301622370
 
1812301624240
 
1812301632560
 
1812301635140
 
1812301656370
 
1812301700540
 
1812301705260
 
1812301706280
 
1812301712040

2018年12月28日 (金)

年末寒波の東向島

年末寒波襲来の日本列島。 今朝の台東区は気温6℃、風速5m/s。 家を出るなり、『寒い!コリャ、散歩に出るんじゃなかった、失敗!』と、自分に言いながら浅草橋駅に向かう。 この寒さの中、散歩の途中で具合が悪くなって救急車にお世話になると恥ずかしいので、近場の曳舟から歩くことにした。 ここからなら、異常事態になっても、タクシーで家まで帰れるからね。
東武伊勢崎線の曳舟駅から、東向島の町を抜け、白鬚橋から台東区に入り今戸神社まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●リニューアルした駅・・・・・・・・曳舟駅 は、明治35年(1902)4月1日の吾妻橋(業平橋)~北千住間開業時にできた駅で、開業120周年まであと4年。、、、、駅は伊勢崎線が発着する島式ホーム2面4線と、亀戸線専用の片面ホーム1面1線の高架駅である。 改札口は最近リニューアルした高架下に1か所あるのみ、改札を出ると東西の出口に分かれる。、、、、駅は明るくなり、女性は綺麗に見える。(気のせいか?)
 
1812280801000
 
1812280806560
 
1812280813010
 
 
 
●路地尊て何?・・・・・・・・・駅から北へ、水戸街道(=国道6号)を横断し、東向島1丁目の裏通りに芝の覆われた広い一角がある。 奥にシャレた平屋の建物がある。 公園にしては遊具が無い、住宅にしては開放的すぎる、建物の前まで行くと「一寺言問集会所」と表示されてた。
 
1812280818560
 
・・・・・・・・・・・・・・一寺言問集会所の「一寺言問」とは地名か(?)、聞いたことがないな。、、、、、墨田区向島5丁目、東向島1・3丁目、堤通1丁目の隅田川と水戸街道に挟まれた地域の名前であった。 この地域内の、二つの小学校が災害時の防災活動拠点となっていることから、第一寺島小の「一寺」と言問小の「言問」を合わせ、「一寺言問地区」が誕生したそうだ。 地区内には6町内会があり、細い道の住人が皆で燃えないいえ町づくりを目指し、活動している。
 
1812280827050
 
・・・・・・・・・・・・・その敷地の隅に、「路地尊」と標した金属製の祠のようなものが建っている。 はたまた、これは何か? 雨水を利用した地域内消火設備と教えてくれた、地中に雨水を貯めるタンクがあり、いざという時、手押しポンプで汲み上げるそうだ。 地域内に数か所の路地尊が設置されている。 「路地尊」の名は、細い通りの住人であることを互いに認識し、コミュニケーションを尊重していこうとの思いがあるそうだ。、、、、この辺りは、木造住宅も密集し、防火意識の高い処である。 路地尊が役立たないことを願うね。
 
1812280825500_2
 
 
 
●消えてゆく赤線地帯・・・・・・・・向島5丁目と東向島1丁目の境には、「鳩の街通り商店街」がある。 この商店街の付近は、戦時中、「玉の井」の娼家が焼き出され移転し、新たに開業した処で「鳩の街 」と呼ばれている。 戦後は、米軍の慰安施設となり、さらに、日本人相手の赤線地帯となった。 昭和27年には、娼家が108軒、娼婦が298人いたそうだ。(念のため、私は6歳、知るよしもない)、、、、、今は、狭い路地は変わらないが、建物はほとんど建て替わり、当時の面影を残す建物は少なくなった。、、、、今日は、路地を歩くと日が射さず、風が吹き付け、寒い寒い!
 
1812280836430
 
1812280837240
 
1812280831030
 
1812280832480
 
1812280833230
 
1812280833370
 
・・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の中程にある保育園の付近に、作家「吉川英治旧居跡」の案内板があった。、、、、吉川英治が住んでいたのは、赤線ができる以前の大正6年頃と思われる。 
 
1812280836510
 
・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の北詰の少し先に、「露伴児童遊園」がある。 ここは文豪幸田露伴が、明治41年(1908)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡。
 
1812280845370
 
 
 
●姿見えない地蔵尊・・・・・・・・・地蔵通りが墨堤通りにぶつかる角(東向島3丁目)に、子育地蔵尊が祀られている。、、、、、地蔵尊の由来は案内板によると、『文化年間(1804~1817)に隅田川の堤防修築工事の際、 土中から発見されたと伝えられている地蔵様で。 当初は村の子供たちが、 神輿がわりにこの地蔵様をかついでいたそうだ。 ところがこの地に古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が村のこどもの口をかりて犯人をお告げになり、 たちまち犯人を捕えることができた。 この奇跡に驚いた平作は、 当所に地蔵を安置して供養を怠らず。 その後、将軍家斉が当地に鷹狩に来て、 平作方に小憩の際、 地蔵の由来を聞いて感銘し、帰城の時にお参りした。 平作はこれを記念して小堂を建てて、 地蔵を安置したところ、 多くの人々が参詣するようになった。』、、、、、小さな境内に、庚申塔、道標などが並んでいる。 しかし、地蔵尊は暗い堂内に祀られているようで、残念ながら姿が見えない。
 
1812280856440
 
1812280856220
 
1812280856270
 
 
 
●ちんブラブラ・・・・・・・・・・・・・・東向島3丁目、墨堤通りに面して白鬚神社がある。、、、、天暦5年(951、=平安時代初期)に近江の白鬚大明神の分霊をこの地(旧寺島村)に祀った。 商売繁盛、方災除け、厄除けの神として多くの人々の崇敬を受けている。、、、、、神社には、七福神の一つ寿老人が祀られており、毎年正月は「隅田川七福神巡り」で参拝する人が多い。、、、、、既に神社は初詣の準備が終わったのか、提灯がぶら下がっていた。、、、、小学生の頃 ♪ ちょうちんブラブラ ♪ という歌詞の歌(?)があって、初めの“ちょう”を小さな声で、その後を大きな声で歌った記憶があるが、何の歌だったか?
 
1812280903220
 
 
 
●空にカーブが映える橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)に竣工した白鬚橋 (しらひげばし)を渡り、隅田川をこえ台東区に入る。、、、、、北風ビュービュー、橋の上ではブルブル、超寒い。
 
1812280924580
 
1812280925560
 
1812280926370
 
1812280931250
 
 
 
●寒い寒い猫神社・・・・・・・・台東区に入り、今戸神社 に立ち寄る。、、、、今戸神社は、御祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神様を祀っている事から、縁結びに御利益あると言われている。 今日も寒波襲来の下、若い娘が参拝していた。、、、、私は、そろそろギブアップ。 もうこれ以上寒さに耐えられない! バスで帰宅することにした。
 
1812281000400
 
1812281010170

2018年12月26日 (水)

野方で石仏巡り

本人は自覚していないのだが目に炎症があり、10月から中野の東京警察病院で診てもらってる。 今日は、今年最後の通院日。 朝、いの一番の診察で、『順調に良くなっています。点眼薬を続けてください』と言われ、9時には解放された。 警察病院から野方駅まで、裏道を気ままに歩いてきた。
 
 
 
●市川雷蔵が学んだ学校・・・・・・・・・・・・警察病院は以前飯田橋に所在していたが、平成20年(2008)に中野の警視庁警察学校跡地に移転したきた。 私の眼科の受診は飯田橋時代からで、通院歴も20数年になる。、、、、ところで、この警察病院の敷地内に「警視庁警察学校跡」の碑があるのは知っているが、「陸軍中野学校跡」の碑があるのは、うかつにも知らなかった。 今日、探して見つけてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・・現在は、中野四季の森公園を中心に、警察病院、中野セントラルパーク東棟・南棟、早大・明大・帝京平成大のキャンパス、野方署がある「中野四季の都市(まち)」。、、、、ここには、明治30年(1987)頃から陸軍の諸施設が置かれた。 昭和14年(1939)には陸軍中野学校が開設された。 戦後になると警察大学校と警視庁警察学校が置かれ、平成13年まで使用された。、、、、、約17haの広さがある。
 
1812260840210
 
1812260840300
 
・・・・・・・・・・・・・・中野四季の都市の一画に東京警察病院があり、その敷地内を正面玄関前から入り、チョイト怖そうな警備員の立つ駐車場を抜け、只今増築工事中の建設現場の横を抜け、早稲田大学側の塀際を歩き、植栽の中に目を凝らすと、アッター。 ありました「陸軍中野学校跡」の碑が!
 
1812260839130
 
1812260850410
 
1812260849230
 
・・・・・・・・・・・・・・この地に日本のスパイ養成所があったことは公には内緒の話、でも巷ではうわさ話が広がっていたそうだ。 碑を見ていると、映画「陸軍中野学校」が思い起された。 主演の市川雷蔵は、私に似た色男で、陸軍中野学校で諜報活動を学ぶ青年将校を演じてた。、、、、、正月は、DVDを買って、もう一度映画「陸軍中野学校」を見ることにするか。
 
 
 
●都会の石仏巡りだ!・・・・・・・・・・・・警察病院から、中野区野方の町を北に歩き、野方駅に向かう。 駅までは、石仏を巡りながら、いつもと同じように裏道・路地をあるくことにした。
 
1812260904510
 
・・・・・・・・・・・・・野方1丁目の住宅街の中に、田中千禾夫(チカオ) ・田中澄江両劇作家夫妻の旧居跡がある。 その向かいには、赤い前掛けがかわいい小さな地蔵尊が二体、祀られている。 幼い子がここで交通事故(大型車が通れる道幅でもないが)? それとも水子供養? ??? 
 
1812260906510
 
1812260906130
 
・・・・・・・・・・・・『大型・普通自動車の通行できません』、『ちかんに注意』と立て看板の並ぶ道を行く。、、、、夜は怖い道!
 
1812260908450
 
1812260909020_2
 
・・・・・・・・・・・・・野方2丁目、住宅街の中に、「南向地蔵」の祠がある。 右に元禄2年(1689)の子育て地蔵、左に貞享4年(1687)庚申塔が置かれている。 この二体の石仏は以前は付近の別な処にあったが、周囲の交通が激しくなり、現在地に移転したそうだ。
 
1812260914470
 
1812260913100
 
・・・・・・・・・・・・・・野方2丁目の小さな祠は「三谷稲荷」。 三谷はこの辺りの旧称。 江戸時代に創祀したと言われている稲荷社らしい。、、、、嘘か、真実か、稲荷のみぞ知る。
 
1812260918180_2
 
・・・・・・・・・・・・・南向地蔵から北へ200m程の処に「北向地蔵」があった。 南北の地蔵さまが背を向き合わせて祀られているのだ!、、、、左の馬頭観世音には、享和二年戌(1802)の銘がある。 いずれも、古そうだ!
 
1812260920360
 
・・・・・・・・・・・・・昭和41年(1966)に架けられた三谷橋(さんやばし)で妙正寺川を渡り、野方3丁目に入る。
 
1812260923440
 
1812260924520
 
・・・・・・・・・・・・・野方3丁目のバス通りに出ると、街角に「がんかけ地蔵」が祀られている。 地蔵だけではない、道標、庚申塔、二十三夜碑もある、豪華3点セットだ。 地蔵尊は延享元年(1744)に建立された。 庚申塔は享保21年(1736)、二十三夜碑は昭和2年(1927)に建てられた。、、、、二十三夜とは、十五夜と同じように月齢を意味し、二十三夜の夜、村人、業者、女性のみ、など、特定の人々が集まり飲食を共にすること。 講の組織と同じである。
 
1812260934310
 
1812260936060
 
1812260935550_3
 
1812260935390_2
 
 
 
●狭いホームの野方駅・・・・・・・・石仏巡りから、西武新宿線の脇に出た。 線路沿いを歩き野方駅に向かう。
 
・・・・・・・・・・・・・西武新宿線中井~野方間は只今連続立体交差事業により、新宿線を地下化し、7か所の踏切りをなくす計画である。 この事業で、沼袋、新井薬師前の2駅は地下駅になるが、野方駅は現在のまま。、、、、地下化は、もぐらないと工事の進捗が判らず、現場を見てもあまり面白くないね!
 
1812260940420
 
1812260941010
 
・・・・・・・・・・・・・・野方駅に到着。 昭和2年(1927)4月16日に開業した野方駅は、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。、、、、幅の狭いホームで特急が通過する時、軽い私は風で飛ばされそうだ。 『気をつけよう 狭いホームに 軽い俺』
 
1812260949450
 
1812260944250
 
1812260955400
 
1812260958070

2018年12月25日 (火)

東上線の歴史をチョッピリ

東武東上線沿いに歩いてみようと思い、池袋から3駅先の大山まで、1万2千歩の散歩です。
 
・・・・・・・・・・・・・・東武東上線(正式には「東武東上本線」)は、川越の豪商、出雲大社の宮司などが発起人となり、明治36年(1903)に東上鉄道を発起したが出資者が集まらず、根津嘉一郎に会社設立を託した。 明治44年(1911)に、根津嘉一郎の下で東上鉄道が設立され、本社所在地は現在の墨田区押上の東武鉄道本社に置かれた。 “東上”の名は「東京」と「上州(群馬県渋川)」を結ぶ鉄道を意味し、名付けられた。 大正3年(1914)5月1日に池袋~田面沢(現:川越市付近)間が開業。 大正14年(1925)には、池袋~寄居間の全線が開通。
 
 
 
●地上に出るとホットする駅・・・・・・・・・・JRの池袋駅は明治36年(1903)に周囲に何もない田舎の途中駅として開業した。 この当時は、まだ山手線の丸い線路は開通していない。 それから、11年後の大正3年(1914)5月1日、東武東上線の池袋駅が開業した。、、、、現在の東武東上線の池袋駅は、東武百貨店の1階にある。 頭端式ホーム3面3線の地上駅である。 改札口は北口・中央北口・中央南口と正面の南口の4か所あるが、多くは地下の連絡通路に面しており、たまにしか訪れない私には改札を出ても、『ここは何処? 地上出口はどっち? 右に行くの?左に行くの? 誰か教えて!』
 
1812251024490
 
1812250812210
 
1812251026110
 
1812250818110
 
1812250821420
 
 
 
●どこのお宿も混浴?・・・・・・・池袋駅を出て東上線沿いに歩く。 
 
1812250831340
 
1812250839230
 
・・・・・・・・・・・・・・昨日はクリスマスイブ、この辺りのホテルはきっと満室だったと思うね。 鶯谷もそうだが、なぜか線路沿いにあるホテル街。、、、、、どこのお宿も混浴?
 
1812250840450
 
1812250842420
 
・・・・・・・・・・・・・川越街道をこえ、北池袋駅に向かう。
 
1812250857400
 
 
 
●浅草橋駅も負けた!・・・・・・・・・池袋の次の駅が北池袋。 併走するJR埼京線(赤羽線)の池袋~板橋間にあるが、JR板橋駅や東上線の下板橋駅に近い。、、、、昭和9年(1934)5月1日に、東武堀之内駅として開業したが、昭和20年に東京大空襲で駅舎は被災し休止となり、その後廃止となる。 昭和26年(1951)、北池袋と名を変えて復活・再開する。、、、、1面2線の島式ホームがある地上駅。 ホームの両端にラッシュ時には開かずとなる埼京線と共用の踏切がある。
 
1812250915320
 
1812250912000
 
1812250907060
 
1812250908580
 
・・・・・・・・・・・・・・駅舎の脇に、電飾のトナカイに守られて「北池袋駅開設記念碑」が建てられている。、、、、我が家の最寄り駅:浅草橋駅はここより古い駅だが、記念碑なんて無い、負けた!
 
1812250917040
 
 
 
●下板橋駅は板橋区に戻るのか?・・・・・・・・・・・北池袋から近い、次の下板橋駅。 下板橋駅は大正3年(1914)5月1日に開業。 相対式ホーム2面2線の地上駅で、駅舎は上りホームの川越寄りにある。、、、、駅舎・ホームともに豊島区池袋本町に所在する。 駅舎前の道路が、豊島区と板橋区の境で、旧駅舎は道路の反対側(板橋区側、現在は東上線の留置線がある)にあった。、、、、、【ないしょの話】 東武鉄道では、下板橋駅を旧駅舎のあった板橋区側の留置線の敷地内に移転し、駅舎の上部には日本大学医学部の附属病院を誘致する計画があった。 この話、日大側の都合で、どうやら頓挫しているようだ。
 
1812250932250
 
1812250933140
 
1812250934540
 
1812250924450
 
・・・・・・・・・・・・・・ホームの南側に、その名も「池袋本町 電車の見える公園」がある。 わざわざ、公園名に“電車の見える”と入れる程、気合の入った公園。 これはきっと、電車が見えやすいように、展望台があるとか、丘が築かれているとか、いい写真が撮れるように工夫が凝らされた公園と期待した。、、、、、行ってガッカリ、見てガッカリ、確かに見えるが、児童の遊具がある脇に電車が走っているだけだ! “詐欺だ!”と叫びたくなった。
 
1812250929210
 
 
 
●東上鉄道記念碑のある留置線・・・・・・・・・・・・・・下板橋駅の駅舎前(板橋区側の留置線敷地内)に「東上鉄道記念碑」がある。 東武東上線の前身である東上鉄道は、大正3年に池袋~田面沢間が開通した。 記念碑は、これを記念して大正8年(1919)5月に建てられた。
 
1812250938450
 
1812250936560
 
・・・・・・・・・・・・・・東上鉄道記念碑がある処には、数本の留置線がある。 
 
1812250951070
 
1812250957140
 
1812250955030
 
 
 
●ドアが開かなかった駅・・・・・・・・・・・・・散歩の終点は、賑やかな駅前商店街に面する大山駅。 大山駅は昭和6年(1931)8月25日に開業した、相対式2面2線の地上駅。 かつてはホームの前後に踏切があった関係で、ホーム有効長は6両編成分であった。 そのため8両編成の電車は停車する際には2両分のドアが開かない「ドアカット」を行った。 その後、池袋寄りの踏切が地下道に改良され、ドアカットは解消された。
 
1812251012210
 
1812251012530
 
1812251007010

2018年12月23日 (日)

軍の跡だらけの赤羽台

曇り空の下、赤羽台3丁目・4丁目を歩いてきた。 赤羽駅から埼京線北赤羽駅までの1万歩。、、、、赤羽台1丁目・2丁目は、昭和37年(1962)に竣工した、日本住宅公団の大規模団地である「赤羽台団地 」が建っている。 現在は団地も建て替えられ、URの「ヌーヴェル赤羽台」とシャレた名に変わっている。 3丁目・4丁目は、ヌーヴェル赤羽台の北側で、東北新幹線・埼京線沿いの南側の戸建て住宅の多い地区である。
 

・・・・・・・・・・・・「赤羽台」と称する町(村)は昔から存在していたわけではない。 まず1丁目・2丁目の土地には、終戦前まで陸軍被服本廠があり、戦後米軍に接収され、昭和34年(1959)に返還された。 そこに公団の団地が建設され、赤羽台1丁目・2丁目と命名された。 次に、昭和39年(1974)の住居表示にて、かつての赤羽町、袋町などが赤羽台3丁目・4丁目となった。、、、、、「赤羽台」という呼称は、戦前、陸軍が使用していた隠語で、赤羽の高台を意味する。 同じように、「相武台」(相模原市・座間市)は陸軍士官学校、「日吉台」(横浜市、現:慶応大)は海軍軍令部などがあった。 軍部の隠語が戦後の住居表示で復活したのだ。 

 
 
 
●・・・・・・・・・・・通勤・通学客の少ない、日曜の赤羽駅で下車し散歩のスタート。
 
1812230808580_2
 
1812230824030
 
 
 
●一般通行禁止の坂・・・・・・・・・・赤羽駅から東北新幹線・埼京線の高架橋沿いに北へ300m程歩く。
 
1812230825130
 
・・・・・・・・・・・・・赤羽台3丁目に入ってスグ赤羽台1丁目に向かう上りの「うつり坂」がある。、、、、この坂は旧板橋街道の坂の一つであった。 旧陸軍被服本廠が大正8年(1919)に赤羽に移転してきた時から被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行はできなくなった。 戦後被服本廠跡地に赤羽台団地ができ、元のように誰もが通れる坂道となった。、、、、坂名の由来は誰も知らないようだ、謎の坂名?
 
1812230833380
 
・・・・・・・・・・・・・・坂の上は、旧赤羽台団地の一部が更地となっている、またその奥にはヌヴェール赤羽台が建っている。 その更地の手前に、赤羽台団地の名残である54号棟・55号棟の2棟の建物が取り壊されるのを待っている。、、、、空き家となった建物を見ていると、この団地で生まれ育った人が想像され、もの悲しくなり目が潤んできた。
 
1812230837230
 
1812230835100
 
 
 
●ドロボウ気分でコッソリ歩く!・・・・・・・・・うつり坂の中程から赤羽台3丁目の裏道を歩く。 私好みの裏道(路地)で、クネクネ曲がり、途中に階段あり、玄関前をコッソリ歩いて、墓地に横に出た!
 
1812230844290
 
1812230845050
 
1812230845540_2
 
1812230846050_2
 
1812230846380_2
 
1812230847220_2
 
1812230847460_2
 
1812230849350_2
 
・・・・・・・・・・・・・道の脇(赤羽台3-4)に「陸軍」の境界石を発見。 この辺りは、どこにでも軍の施設があったと思われる。 戦後70余年、よくぞ残った境界石。 (上の写真の赤〇印)
 
1812230849160
 
 
 
●二つの赤羽台トンネル・・・・・・・・・赤羽駅を通過し北に向かう新幹線は埼京線とともに、赤羽駅~北赤羽駅間にある総延長585mの複々線鉄道トンネル:「赤羽台トンネル」に入る。
 
1812230851430
 
1812230855080
 
・・・・・・・・・・・・・・トンネルの上には、かつて旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した2つの工兵大隊があった。 その跡地は現在は星美学園、東京北医療センターなどがある。、、、、星美学園は本日、クリスマスバザーが行われていた。  気の弱い私には“女学校”と聞いただけで、恐れをなし近づきがたい処、正門前で遠くからパチリ!
1812230924400
 
・・・・・・・・・・・・・また、新幹線ルート沿いに赤羽八幡神社入口から星美学園正門前に上る坂がある。 この坂は、旧陸軍の2つの工兵大隊に向かう坂道で、「師団坂」と呼ばれた。
 
1812230920290
 
1812230920580
 
・・・・・・・・・・・・・・【チョイトおまけ】 「赤羽台トンネル」と呼ぶトンネルは、実は2か所ある。 もう一か所は赤羽駅に近い、赤羽台1丁目に在る。 ヌヴェール赤羽台(赤羽台団地)の下を抜ける道路トンネルである。、、、、平成2年(1990)に着工し、平成4年(1992)に完成した。 
 
1812230820430
 
 
 
●Ⅴゾーンの神社・・・・・・・・・・・赤羽駅の北側で、東北本線・京浜東北線などと、東北新幹線・埼京線などが、Ⅴ字形に分かれる。 その二又に別れる間の地点に赤羽八幡神社がある。 社務所は赤羽台トンネルの真上だ!、、、、、赤羽八幡神社の創建は不詳だが、延暦年中(782~806)坂上田村麻呂が東征の際に当地に陣を敷き祭神を勧請したのにはじまると言われている。 その後、源頼光、源頼政、太田道灌らが八幡神社維持に尽力し、江戸時代には徳川幕府から7石余の朱印を受けていた。 歴史ある古社。、、、、神社、隣りの星美学園(旧陸軍工兵第一大隊兵舎跡)、東京北医療センター(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台地上の一帯は、八幡原と呼ばれた。
 
・・・・・・・・・・・・・・神社には、新幹線・埼京線の高架下抜けて、鳥居のあるⅤゾーンにはいる。 鳥居の脇には「八幡宮 是ヨリ左へ一丁」と彫られた、天保11年の道標もある。、、、、下の写真で、参道脇のフェンスの中に草の生えた空き地がある。 この空き地は、戦前、東北本線を北から上ってきた列車が荒川の鉄橋を渡って、東京に入ったとこで分岐し神社の前をとおり、陸軍赤羽火薬庫(現:桐ヶ丘団地)、陸軍被服本廠(赤羽台団地)へ向かう軍用線の跡である。
 
1812230856250
 
1812230858070
 
・・・・・・・・・・・・・・キツイ、急な階段と社殿。 
 
1812230900280
 
1812230903300
 
・・・・・・・・・・・・・アレ!でっかいアレがあった。 隣に「なで牛」の案内がある。 かんじんの「なで牛」はナント小さいことか、足下にある。 牛を撫でずに、アレの先っぽを撫で撫でしてきた。 御利益、乞う御期待!
 
1812230910460
 
・・・・・・・・・・・・・こちらの神社、石碑などが好きなようで、境内には、日露戦争記念碑日露戦争紀年碑各種樹木境内奉納記念碑石坂碑神域整備完成記念石坂忠魂碑、などなど、もっとある。 他に、境内社も多い。 軍の工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社)などもある。
 
1812230907320_2
 
・・・・・・・・・・・・・境内から見るⅤゾーン。 ここからは、赤羽駅を通る全ての列車を見ることができる。 右から、新幹線・埼京線、左に東北本線・京浜東北線などを! 鉄道ファンにはたまらないね。
 
1812230914230
 
 
 
●赤羽台の高台・・・・・・・・・・・・赤羽台4丁目の住宅地を歩いてみる。 戦後の分譲地? 小さな区画に木造住宅が建ち並んでいる。
 
1812230925580
 
1812230931300
 
1812230932280
 
1812230933360
 
1812230933590
 
・・・・・・・・・・・・・・4丁目の東京北医療センターの脇に「赤羽台さくら並木公園」がある。 ここは、近衛師団工兵第一大隊の跡地で、現在は東京北医療センターとなっている。 南の斜面が整備されて区立公園となった。 嘗ては射撃場だった。 誤射した際にも弾が脇に逸れないようにという配慮がなされている。 園内の斜面に、当時の防空壕が残っている。、、、、、チョイと小さいようだが、数人用の防空壕かな?
 
1812230940430
 
 
 
●透けて見える新幹線・・・・・・・・・・・北赤羽駅は、昭和60年(1985)、国鉄時代に開業した埼京線の駅。 島式ホーム1面2線の高架駅で、ホームは新河岸川の上にあり、改札口は川を挟んで赤羽寄りに「赤羽口」、大宮寄りに「浮間口」の2カ所がある。 ホームの隣りには新幹線が走っているのが見える。、、、、、駅が川の真上に在る、珍しい“河川橋上駅”の一つで、都内には、当駅のほか都営新宿線の東大島駅がある。
 
1812231002360
 
1812231010270
 
1812231015410
 
1812231016560

2018年12月19日 (水)

挙式もできる目黒区役所

久しぶりに東急東横線中目黒駅で下車してみた。 駅前の商店街を歩き目黒区役所に立ち寄って、祐天寺にて手を合わせ学芸大学駅まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●埼玉の電車も停まる駅・・・・・・・・・東横線と、東京メトロの日比谷線が乗り入れている中目黒駅は、東急が駅を管轄している。 1番線ホーム(横浜方面)に立つと、東京メトロ副都心線を介して相互直通運転している東武東上線、西武池袋線、横浜高速鉄道みなとみらい線などの車両が入線し、隣りの2番線ホームは日比谷線の終点で乗客は全員降りて、乗り換える客も多い。 ホームの上は、通勤・通学で朝から忙しそうだ。、、、、昭和2年(1927)8月28日、渋谷~丸子多摩川(現:多摩川)間の開業に合わせ、同時に中目黒駅も相対式2面2線の高架駅で開業した。(東横線の始まりである) 昭和39年(1964)、日比谷線が乗り入れ東横線日吉駅まで相互直通運転が始まる。 平成25年(2013)、副都心線がみなとみらい線・東横線に乗り入れ、相互直通運転が始まる。 この時から、日比谷線の乗り入れは終わり、中目黒駅は日比谷線の終着駅となる。、、、、女性憧れの東横線に、埼玉の電車:東上線・池袋線が乗り入れたので、東横線沿線の価値は下がったかな?
 
1812190812000
 
1812190815200
 
1812190817560
 
1812190819140
 
 
 
●馬面から銀座のお姉さんに!・・・・・・・・・・東横線の南側に「目黒銀座」商店街がある。 朝、駅に向かう人がせわしなく通り過ぎて行く。 人を避けたた時、「目黒馬頭観音」の提灯が目にとまり、路地を入ると商店街の裏に小堂があった。、、、、大正時代の終わりごろ、乳牛牧場や馬力運送する業者がこの辺りに多かったことから、何名かが発起人となり牛馬の息災を護り、亡くなった動物の霊を弔うために建てたそうだ。 現社殿は昭和10年(1935)の建築。、、、、、昭和31年(1956)から“馬頭観音”改め、「目黒銀座観音」と改称したらしい。 観音さまの姿は拝見していないが、馬面の観音さまより、銀座のお姉さんをイメージする観音さまの方がいいね。 私も好きになれそうな名だ!
 
1812190826420
 
1812190827300
 
1812190828160
 
 
 
●挙式もできる区役所・・・・・・・・目黒銀座をもう少し歩くと、目黒区役所に向かう道が目にとまる。 今度は、目黒区役所にお立ち寄り。、、、、、昭和42年(1967)の文化勲章受章者である建築家:村野藤吾(1891~1984)の作品の一つ旧千代田生命保険相互会社本社ビルで、現在は目黒区総合庁舎となっている。 区役所の建物を見てきた。、、、、地上6階/地下3階の本館と、地上9階、地下3階の別館で構成、延床面積 48,075m2の建物は、昭和41年(1966)の竣工。 外壁の白色アルミ鋳物製ルーバーが印象的な建物。 平成15年(2003)から区役所庁舎に生まれ変わり使用されている。、、、、民間の建物から役所の建物に変わり、建物の汚れも目立ち、チョイト使い方が荒い気もするが、致し方ないか!
 
1812190907280
 
1812190904560
 
1812190904040
 
1812190842240
 
1812190840120
 
1812190836040
 
・・・・・・・・・・・・・・内部は住民への窓口が並ぶ。 一部、茶室、和室もある。 広いエントランスホールと螺旋階段に設計者:村野の特徴が現れている。 目黒区では、この庁舎を利用したウエディングの応募者を募っていた、私も若ければ・・・・?
 
1812190846480
 
1812190838390
 
1812190852480
 
1812190847130
 
1812190851460
 
 
 
●移設された庚申塔・・・・・・・・・・・・・目黒区役所の近く、駒沢通りに面し、天照大神を祀っている上目黒天祖神社がある。 創建年代は不詳。 現社殿は昭和8年(1933)の造営。、、、、、境内には、2基の庚申塔がある。 ともに青面金剛と三猿が彫られたものだ。一方は宝永五年(1708)の年号、もう一方は享保元年(1716)の年号が刻まれており、享保の年号を持つ塔は道標にもなっていたという。 道標の銘には、道をまっすぐ行けば九品仏、右に行けば世田谷、左に行けば目黒不動と、標されている。 なお、庚申塔は、昭和15年、駒沢通りがオリンピックの準備で拡張された時に、ここ神社の境内に移された。
 
1812190912590
 
1812190912210
 
 
 
●REITで儲けた寺・・・・・・・・・・・・・駒沢通りを南に歩くと、浄土宗の名刹:明顕山祐天寺 の前に出た。、、、、江戸中期祐天上人を開山とし弟子の祐海が創建した。 祐海は経営の才があり、寺の経済的基盤を固めることに努め、寺憲を作って、喜捨された金が100両になる毎に地所を購入するように定めた。 その後も祐全・祐東などの努力によって、寺運は発展し、その所有地は幕末には4町歩を越えた。 現在でも目黒区一の大地主らしい。 明治27年(1894)日清戦争の時、目黒火薬製造所が増産で出てくる弾丸の貯蔵に困り、寺に預けたものが爆発し、堂塔の大半を失ってしまった。 しかしそれでもなお多くの寺宝、文化財を今日に伝えている。 江戸時代から不動産投資(REIT)で儲けていたらしいね。、、、、山門前にはすでに門松が用意され、境内は初詣のため参道沿いに電球が用意されていた。 
 
1812190935590
 
1812190931170
 
1812190928350
 
1812190921010
 
 
 
●どこを歩いても古道か?・・・・・・・・祐天寺から学芸大学駅へ向かう駒沢通り沿いに石仏・道標が3か所にあった。 この辺りは、どの道も古道なのか? あちら、こちら、石仏・石碑のたぐいが残されているようだ。、、、、、私の住む浅草橋には“古道”と呼ばれる道はないが、現江戸通り(水戸街道)は吉原へ通じる道だった。 出来れば“廓(くるわ)古道”とでも命名して欲しいね!
 
・・・・・・・・・・・・・中町2丁目、「祐天寺2丁目交差点」近くに「さわら庚申と道標」がある。 五叉路の一角に木を背にして小さいながら立派な堂があり、中には3基の庚申塔がある。 また、その右側に道標があり正面に“おく沢、ひもんや、いけかみ道”左面に“あさふ、あを山道”右面に“ごほん木、ふたご道”と彫られている。
 
1812190944320
 
1812190942510
 
・・・・・・・・・・・・・・五本木2丁目、ビルの角に石仏の観音像が祀られている。 この石仏は、もと上目黒にあったものを、再開発のため現在地に移転したそうだ。 この観音像は、目黒川にあった水車の無事やそこで働く人々の安全、また川で水死した子供の供養のために造られたといわれている。 ただそれが何時頃、誰によって造られたか不明。
 
1812190947360
 
・・・・・・・・・・・・・・小堂内に庚申塔が4基、地蔵1基が納められ、その手前に念仏塔1基、堂の外にも庚申塔が建っている、ここは五本木2丁目の「五本木庚申塔群」。、、、貞享3年(1686)から文化8年(1810)にかけての年号や五本木庚申塔講中の氏名が刻まれている。 庚申塔群の前の道は、鎌倉古道であったそうだ。 やっぱり古道か!
 
1812190952170
 
 
 
●シャレた名の稲荷・・・・・・・・・・・・・・・・中央町2丁目、駒沢通りに面して十日森稲荷神社の鳥居がある。、、、、、この神社は、もと五本木の旧家である島崎佐五衛門の邸内にあった屋敷神を移されたと伝えられ、旧上目黒村五本木組の鎮守であった。 五本木田圃の豊作守護神としてあがめ、信仰のもとにこの神社を祀ったと言われている。 蒼稲魂命を例神として今もこの地域の人々に深く崇敬されている。、、、、現本殿は明治17年(1884)に、拝殿は昭和32年(1957)の建築。、、、、社名の“十日森”は、“稲荷の森”を“稲荷(とうか)の森”と読んで転じたと言われている。
 
1812190955520
 
1812190957450
 
 
 
●名を変えてきた駅・・・・・・・・・・学芸大学駅に着いた。、、、、駅名の由来となった東京学芸大学は昭和39年(1964)に小金井市へ移転したが、東京学芸大学附属高等学校は当駅を最寄り駅として現存している。、、、、、昭和2年(1927)8月28日の開業時は碑文谷駅と称していた。 その後、碑文谷駅→青山師範駅→第一師範駅→昭和27年(1952)7月1日学芸大学駅に改称してきた。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。
 
1812191007030
 
1812191013000

2018年12月18日 (火)

王子から軍都をブラブラ

京浜東北線王寺駅から、北上して、隣りの東十条駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
●東北本線の列車に見放された駅・・・・・・・・王子駅は明治16年(1883)7月28日に日本鉄道の上野駅~熊谷駅間の開業と同時に、上野駅の隣り駅として開設された。 現在の東北本線で最も古い駅の一つである。  今は、東北本線、高崎線などの列車は脇を通過するのみで、停車するのは京浜東北線の電車だけ。、、、、、駅は築堤上に島式ホーム1面2線を有する高架駅。 駅の改札口は、北口、中央口、南口の三ヵ所あるが、みどりの窓口、びゅうプラザなどがあるメインの改札は北口である。
 
1812180805090
 
・・・・・・・・・・・・・駅のメインは北口改札。 地下鉄南北線、都営バスへの乗り換えはこちらから。 
 
1812180829240
 
1812180830450
 
・・・・・・・・・・・・・北口改札の西側出入口は「親水公園口」と標されている。 その名のごとく、音無親水公園の前に出る。
 
1812180835590
 
1812180836510
 
・・・・・・・・・・・・・高架下、なぜか寂しい中央口改札。 改札の横に都電荒川線の王子寺駅前停留場 があり、早稲田方面に向かう電車は、改札前のガード下をとおり飛鳥山を上る。
 
1812180826250
 
・・・・・・・・・・・・ホームの南端の下に出る南口改札。 地元住人の専用出入口みたいなものだ!
 
1812180819300
 
 
 
●美女のヒップライン!・・・・・・・・・・・王子駅南口改札の脇に、線路を越えて飛鳥山公園に向かう飛鳥山下跨線人道橋がある。 大正14年(1925)に、古レールを構造材として使用し、橋長41m、幅員2.74mの固定アーチ橋の形式で造られた。 女性的な曲線の美しい跨線橋。、、、、同じように古レールを使用した人道橋として、目黒駅近くに架かる白金桟道橋も美しい曲線を描いている。
 
1812180814410
 
1812180810240
 
1812180816581
 
1812180811430
 
 
 
 
●約15万円で造った名橋・・・・・・・・・・・王子駅から音無親水公園を上流側にチョイト遡ると、御茶ノ水の聖橋に良く似たシルエットの、コンクリート造三連アーチ橋の音無橋がある。 増田淳の設計により、総工費:149,976円にて、昭和5年(1930)に竣工した名橋。 小さなテラスや凝った装飾のある優美な橋である。
 
1812180839200
 
1812180846580
 
 
 
●狐はいません!・・・・・・・・音無橋の北詰に王子神社がある。 平安時代に勧請され、当地名由来の神社である。 王子神社は、源義家が奥州征伐の際には当社で祈願をした、また豊島氏・後北条氏らからも崇敬を受け、さらに徳川家康からは天正19年(1591)に社領200石の御朱印状を拝領、明治期には准勅際社の指定を受け、戦後には東京十社の一社に数えられている。 御祭神は、錚々たるメンバーで、伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大御神、速玉男之命 事解男之命の五神。、、、、、戦災で被災し、現社殿は昭和39年の第一期、昭和57年の第二期造営を経て、黒塗りと金箔をほどこした壮大な権現造りで再建された。、、、、【老婆心ながら】 「王子の狐」で有名な王子稲荷神社は、王子神社の北、400m程の処にある。
 
1812180857420
 
1812180852410
 
 
 
●昭和のモダン建築・・・・・・・・・王子本町交差点角に建つ王子工業会館。 昭和8年(1933)の建築、鉄筋コンクリート造2階建て、3階部分は後の増築である。 丸みのある玄関部分が特徴的だ!
 
1812180900530
 
 
 
●軍都の面影・・・・・・・・・・・王子寺駅の北西、東十条駅の南、住所でいえば北区十条台1丁目に、自衛隊の十条駐屯地がある。 ここは、東京第一陸軍造兵廠の跡地で、終戦直後はアメリカ軍に接収され、昭和33年(1958)に返還され、以後自衛隊が使用している。、、、、この付近には、第一師団工兵大隊、近衛師団工兵大隊、王子火薬製造所、十条兵器製造所など、陸軍の施設が集中していた。 戦後、多くの跡地・施設は取り壊されたが、まだ戦前の面影を残す遺構が残されている。 今日は、その内の数か所を歩いてきた。、、、、、自衛隊の敷地内は立入禁止で入れない。
 
1812180939200
 
・・・・・・・・・・・・十条駐屯地の一角に、大正7年(1918)に建設された変圧所245号棟のファサードの一部が残されている。 煉瓦造りで、扉の上部には受電施設であった碍子が埋め込まれている。
 
1812180955510
 
・・・・・・・・・・・・・・こちらは、大正8年(1919)に建てられた旧第一陸軍造兵廠の275号棟。 現在は、北区の図書館の一部として再利用されている。
 
1812180952050
 
1812180943140
 
1812180943480
 
・・・・・・・・・・・・中央公園に建つこの建物は、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年(1930)に建てられた。 戦後は、米軍に接収され、昭和36年(1961)に「キャンプ王子」となり、同43年3月ベトナム戦争の激化に伴い「米軍王子野戦病院」として開設された。 しかし、“野戦病院”の名が刺激的であり、“陸軍病院”と改称した。 ベトナム戦争の終結により、昭和46年(1971)に返還された。 昭和56年(1981)から北区の文化センターとして、区民の学習と交流・文化創造のとして活用されている。、、、、建物は地下1階、地上2階建て。 正面はシンメトリーのアール・デコ建築。 内部は教室に改装され、正面階段部に戦前の面影が残る。
 
1812180913080
 
1812180913510
 
1812180925410
 
1812180915400
 
1812180917070
 
・・・・・・・・・・・・・・文化センターの脇に、東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板が残されていた。、、、、明治38年(1905)、東京芝浦製作所製のボイラーである。 部品状態で一部が残されていても、私には全体がイメージできなかった!
 
1812180931530
 
 
 
●臭い漂う地蔵坂・・・・・・・・中十条1-26と中十条2-9の境から下り、中十条2-9と岸町2-11の境(JR線路にぶつかる)に出る勾配のキツイ、クネクネの坂を「地蔵坂」という。、、、、、坂を下りきる直前に、公衆便所脇から十条跨線橋に出る階段がある。 この短い階段を上がると子育地蔵尊が祀られている。 建立年代不明であるが、江戸時代の地蔵尊らしい。、、、、、【余談だが】 坂の途中の公衆便所から廃水が地下に埋められた下水管を下っているようだ。 途中のマンホールから、誰のものか判らないが、香水(?)の臭いが漂い、長居は無用!
 
1812181007560
 
1812181009190
 
1812181009390
 
1812181011520
 
1812181015050
 
 
 
●客の少ない駅・・・・・・・・・・・・東十条駅南口に到着。 一日の乗降客数5万人弱と少ない駅である。 今日は、ここから乗って帰ることにする。 乗降客数が一人分増えるね!
 
1812181018520
 
1812181020360

2018年12月16日 (日)

秋の名残の九品仏

寒い朝をむかえ気温は2℃、今日も散歩の行き先が定まらず、家を出てからも二転三転し、最終的には世田谷の九品仏(浄眞寺)に行ってきた。 浄眞寺は私の好きな寺の一つで、この季節に行くのは初めてである。 境内には、まだ秋の彩が残っていた。 (夏の九品仏はコチラ
東急大井町線九品仏駅で下車し、浄眞寺に参拝し、大井町線自由が丘駅まで、8千歩の散歩です。
 
 
 
●手狭な駅・・・・・・・・・東急大井町線で、自由が丘駅の隣りが九品仏(くほんぶつ)駅。 昭和4年(1929)11月1日に開業した、島式ホーム1面2線の地上駅。 一日の乗降客数は1万3千人程で、都内の駅としては少ない。、、、、、【ついでの話】 駅前に「九品仏駅前」という、東急バスのバス停があるが、休日の夕刻に1往復発着するのみである。
 
1812160827240
 
・・・・・・・・・・・・・ホームの両端に踏切があり、ホームを伸ばすことができない手狭な駅である。 電車は5両編成で運行し、九品仏駅のホームの長さは4両分だけしかない。 その為、二子玉川寄りの車両一両はドアが開かない駅である。
 
1812160826430_2
 
・・・・・・・・・・・・・・短いホームの真ん中にトイレが作られている。 これも、苦肉の策か?
 
1812160828270
 
・・・・・・・・・・・・・駅の出入口(改札口)は上下線路の間にあるのも、御愛嬌。
 
1812160831511
 
1812160832120
 
 
 
●秋の名残りの九品仏・・・・・・・・・九品仏は正式には「九品山唯在念仏院浄眞寺(じょうしんじ)」と言う、浄土宗の寺で京都知恩院の末寺。 浄眞寺は、秀吉の小田原征伐後に廃城となった世田谷吉良氏の奥沢城の跡地に、延宝6年(1678、=徳川四代将軍家綱の時代)に開山した。 今でも、城跡と思わせる参道・総門の配置、土塁の遺構なども見られる。、、、、、本堂と向かい合わせに、三仏堂が三宇あり、中央の堂に上品上生・上品中生・上品下生、北の堂(右隣)に中品上生・中品中生・中品下生、南の堂(左隣)に下品上生・下品中生・下品下生の計九品の阿弥陀如来像が納められ、九品仏と呼ばれている。 九品の阿弥陀如来像を奉祀している寺院は、ここと、京都の浄瑠璃寺だけである。、、、、境内の広さ約12万㎡(3万6千坪)
 
・・・・・・・・・・・・・九品仏駅を出ると、境内に向かう長い参道がある。 参道沿いには数基の庚申塔が祀られている。
 
1812160835250
 
1812160840130
 
・・・・・・・・・・・・・参道の突き当りには立派な総門がある。 扁額には「般舟場(はんじゅじょう)」と書かれている。、、、、、般舟とは 常に行道念仏を唱えて諸仏を見奉う心だそうだ。参詣に訪れる人に自然に発するために書かれたものだ。 こう説明されても、私の頭の中では理解不能、まだ仏の心が少しも読めず、未熟者は困ったものだ! ただ、ひたすら称えるのは「南無阿弥陀仏」の六文字。
 
1812160840470
 
1812160931550
 
・・・・・・・・・・・・・・総門をくぐると閻魔大王葬頭河婆(そうずかば、=奪衣婆)が、閻魔堂で迎えてくれた。、、、、閻魔様が好きな私には嬉しいね!
 
1812160841490
 
1812160844020
 
1812160842370_2
 
1812160842590
 
・・・・・・・・・・・・・山門の手前に、浄眞寺を開山した珂碩上人(かせきしょうにん)の御尊像を安置している開山堂がある。 この像は、安産・厄除・開運に霊験があるそうだ。、、、、葵の御紋の賽銭箱に100円玉を投げ入れ、チョイト手を合わせてきたが、間違って安産の御利益を頂いたらどうしようか?
 
1812160846060
 
1812160846380
 
・・・・・・・・・・・・・重厚荘重な仁王門(山門)は寛政5年(1793)の建築である。 一対の仁王像、二十五菩薩像が安置されている。
 
1812160844580
 
1812160853110
 
1812160856540
 
・・・・・・・・・・・・・・本堂である龍護殿(りゅうごでん)は、真東に位置し釈迦如来を祀っている。 真西にある、三仏堂の九躰の阿弥陀仏像と釈迦如来像が対面して祀られているのである。 つまり、本堂が此岸(穢土)で娑婆の世界、三仏堂が彼岸(浄土)で極楽の世界を表しているそうだ。、、、、本堂に上がり、釈迦如来に合掌し、念仏を唱えてきた。 脇に祀られている賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ、=なでぼとけ)の、腹を撫で(大動脈瘤)、口を撫で(差し歯がはずれた)、チンチンを撫で(前立腺肥大)てきた。 
 
1812160921180
 
1812160909230
 
1812160858550
 
1812160900430
 
1812160903130
 
・・・・・・・・・・・・・・龍護殿の向かい合って三仏堂の三宇がある。 中央が上品堂、右に中品堂、左に下品堂。、、、、極楽往生を願う人の性質や行為によって、9段階の階位で分けられているそうだ。 大きく、上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)の三階位。 さらにそれぞれを、上生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)に分け、上品上生から下品下生まで、、、、さて、私はどこに位置するか?
 
1812160905231_stitch
 
1812160919170
 
・・・・・・・・・・・・・・上品堂 三躰の阿弥陀仏は似ているが、印相が異なっている。
 
1812160904270
 
1812160906580
 
・・・・・・・・・・・・・中品堂
 
1812160915450
 
1812160913190
 
・・・・・・・・・・・・・・下品堂
 
1812160910580
 
1812160909560
 
 
 
●シャレた町だが親爺には不向き・・・・・・・世田谷奥沢の町を歩いて自由が丘駅に出る。
 
1812160959310
 
1812161000260
 
1812161005031

2018年12月14日 (金)

北風吹きぬく夢の島

連日の寒さ、散歩する気力も凍り、部屋に籠って珈琲飲んで、本を開いて昼寝して、夜はお目々パッチリ眠れずに、ウトウトした頃、暗い・寒い朝がやって来た。 『今日こそ、健康的に散歩するぞ!』と、飛び起き、朝食済ませて玄関出ると、『やっぱり寒い! どこへ行こうか?』 駅への道すがら、以前から行こうと思っていた、夢の島の第五福竜丸展示館へ行くことにした。 『あそこなら、屋内で暖かいし、久しく行ってないので、散歩にバッチシだ!』、、、、、、と、云うことで、新木場駅に向かった。
 
 
 
●神が見放した、寒い駅・・・・・・・・・昭和13年(1938から都民のゴミ処理を目的に、東京湾の埋め立てが始まった。 戦時中は埋め立ても中止されたが、戦後再開し昭和42年(1967)まで続いた。 昭和53年(1978)には夢の島公園が開園した。、、、、公園の南側に営団有楽町線の新木場駅が開業したのは昭和63年(1988)6月である。 同じ年の12月には京葉線の新木場駅も開業した。 平成2年(1990)には、京葉線の新木場~東京間が延伸開業し、京葉線の途中駅となる。 平成8年(1996)には東京臨海高速鉄道臨海副都心線(後のりんかい線)の新木場駅も開業する。 現在はJR・東京メトロ・東京臨海高速鉄道の駅である。、、、、、、駅は高架の4階建てで、1階は出入口と飲食店、2階は東京メトロ有楽町線のホームと東京臨海高速鉄道りんかい線のホームがある。 3階は各線の改札口が並ぶコンコース、4階は京葉線のホームである。 各鉄道とも、島式ホーム1面2線。
 
・・・・・・・・・・・・駅外観。
 
1812140843560
 
1812140836320
 
・・・・・・・・・・・・・・2階の各線の改札。 電車が到着すると、客がド~と出てくる、乗り換えるようだ。 3線の合計で一日の乗降客数は33万人以上になるらしい。
 
1812140827320
 
1812140831100
 
1812140832030
 
・・・・・・・・・・・・・・京葉線。 北風が顔に打ち付け、鼻水は出る、頬はこわばる、帽子は飛びそう、こんな日に来なければよかったと、後悔するが遅すぎた。
 
1812141002160
 
・・・・・・・・・・・・・・ガーン、なんたることだ!、、、、、駅構内の夢の島公園掲示板を見ると、「第五福竜丸展示館」は来年3月まで休館。 下調べもせず、思い付きで来たのが失敗だった。 ガッカリ、この寒さの中、神は我を見放した。 どうしよう?
 
1812140832550
 
 
 
●今日は厄日だ!・・・・・・・・・・・とりあえず、夢の島熱帯植物館にでも行くか。 北風をまともに受けながら、公園に向かうと、またもやガーン。 なんたることだ、公園は整備中でいたるところで掘り返していた。、、、、ガード・ウーマンに尋ねると、「植物館は開いていますが、工事の為チョイト遠回りして下さい」と言われた。 どうも今日は厄日のようだ、こうなりゃ、植物館もあきらめて、明治通りを亀戸方向へ歩くことにした。
 
1812140851000_2
 
1812140851580
 
1812140859450
 
・・・・・・・・・・・・・植物館のドーム屋根を眺めながら、明治通りを歩く。
 
1812140905120
 
・・・・・・・・・・・・・北風に海風を混ぜ、風力もチョイト強く吹き付けてくる。 昔は股引き、今はメンズタイツ、履いてくればよかった、後悔しながら夢の島大橋(昭和55年(1980)竣工)を渡る。
 
1812140906160
 
1812140906220
 
1812140911470
 
1812140909190
 
 
 
●「蟻の町」の教会・・・・・・・・・・・夢の島大橋を渡ると、JR京葉線潮見駅に近いこと、潮見には「カトリック潮見教会があることを思い出す。 寄ってみることにした。、、、、、「カトリック潮見教会」は昭和35年(1960)に創立し、聖堂は「蟻の町のマリア」を冠している。、、、、現聖堂は昭和61年(1986)に間組の手で竣工した。
 
1812140947500
 
1812140933030
 
1812140933260
 
・・・・・・・・・・・・・蟻の町の教会、、、、、、戦後、隅田川の言問橋の西詰に、廃品回収で生計を立てていた「蟻の会」という共同体があった。 ここに住む人は、職も、家もない人たちだった。 その町に、大学教授の娘で裕福な家庭に育った北原怜子(さとこ)が訪れるようになった。 怜子は見舞いに訪れるだけでは納得できず、自ら「バタ屋」となり町にすみ、蟻の町の子供たちの世話をした。 しかし、怜子はまもなく結核を患い、28歳の若さで息を引き取った。 隅田公園(台東区)にあった「蟻の町」は、昭和35年に江東区枝川に移り、そこに怜子の願いでもあった教会が建てられた。 その後、蟻の会の人々も徐々に離れ、会は解散した。、、、、、、カトリック潮見教会には、ロザリオを手にした怜子の像、枝川にあった当時の教会の十字架がある。 
 
1812140927510
 
1812140938260
 
 
 
●汁粉が欲しい!・・・・・・・・・・・・・・時間も早いが、寒い散歩を終わらして、潮見駅から帰る。 8千歩だった。 帰ったら、汁粉が食べたいね!
 
1812140952560
 
1812140956010

2018年12月10日 (月)

正月の準備中、西新井大師

今季最低の気温、私に住む台東区では今朝6時に3℃であった。 寒さに負けじと、一枚多く着込んで歩いてきた。 大師前駅で下車し、西新井大師に手を合わせ、栗原団地、竹の塚第二団地を抜けて竹ノ塚駅まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●たった一駅間、行ったり来たり・・・・・・・・東武大師線は西新井駅から隣の大師前駅まで、路線距離1.0kmの盲腸線。 2両連結のリバイバルカラー(昭和30年代の塗装)の電車が運行している。、、、、大師線は、昭和6年(1931)12月20日に、西新井駅と上板橋駅を結ぶ東武西板線(計画路線)の第一期区間として開業した。 その後、西板線の計画は中止となり、既存の部分は大師線に名を変え現在に至っている。、、、、、一駅間を行ったり来たりでは、ワンマン運転の運転手さんもつまらないかも?
 
・・・・・・・・・・・・・西新井駅で、大師線の向かいのホームから見ると、たった一駅間のを走る電車なのだが、降りてくる通勤客は多い。 逆に、西新井から大師前に向かう人は少ないね。
 
1812100814280
 
1812100815070
 
1812100817220
 
・・・・・・・・・・・・・・大師前駅は、1面1線の高架駅である。 駅は無人で乗車券売り場は無い、自動改札も無い。 自由に電車に乗れる駅、ただし西新井駅でチャント乗車券を買わないと出られない。 自動改札も西新井駅にある。
 
1812100820410
 
1812100823080
 
1812100826550
 
 
 
●坊主丸儲け?・・・・・・・・真言宗豊山派の寺で、西新井大師は通称、正式の名は五智山遍照院總持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)という。、、、、空海(弘法大師)が関東巡錫の途中、西新井を通ったおりに、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を彫り天長3年(826)に寺院を建立したことに始まる。 江戸時代に建立された本堂は昭和41年(1966年)火災により焼亡したが本尊は難を逃れた。 その後、現本堂が昭和46年(1971)に再建された。、、、、、師走に入り境内のあちらこちらに、足場を組む人、幕を張る人など、年末年始の準備をする人が見える。 西新井大師には、正月三が日に約45万人が参拝するそうだ。 一人当たりの賽銭200円とすると約9000万円。 お札・お守り・おみくじ、なども売り上げを加算すると、約1億円以上になりそうだ! 
 
1812100838210
 
1812100842180
 
1812100848010
 
 
 
●チョイト昔の店・・・・・・・・・懐かし雰囲気が残る参道の店。 これから、店を開ける処もある。
 
1812100833400
 
1812100834050
 
1812100835080
 
1812100835230
 
 
 
●地下道抜けると、そこは団地・・・・・・・・・・東武伊勢崎線の下をくぐり抜ける「栗原立体交差」をとおり、線路の東側に出ると都市再生機構の「栗原団地」前である。、、、、、昭和42年(1967)にできた団地で、全部で21棟(約650戸)の集合住宅が並んでいる。 
 
1812100915110
 
1812100923170
 
1812100929100
 
 
 
●松の木だけが知っている・・・・・・・・・・・・栗原氷川神社の創建年代は不詳だが、天正2年(1574)に再建され、栗原村の鎮守社であったと言われている。 明治5年に村社に指定された。、、、、境内のクロマツは樹齢300年以上と思われる。
 
1812100933290
 
1812100936400
 
 
 
●判らん!・・・・・・・・・足立区六月(ろくがつ)の地に、真言宗豊山派寺院の炎天寺がある。 寺は、幡勝山成就院と号す。 炎天寺は、天嘉4年(1056)奥州鎮定に赴いた源頼義・義家父子が必勝祈願の成就を感謝して、幡(旗)勝(正)山成就院炎天寺とした。、、、、源氏ゆかりの寺で江戸後期の俳人:小林一茶がいくつかの名句を残している。 「やせ蛙負けるな一茶是にあり」 「蝉鳴くや六月村の炎天寺」、、、、私には判らん! わざわざ遠くから来るほどの大きな寺でもないし、高僧がいたわけでもないし、寺の案内文・資料を読んでも判らないのは、なぜ一茶がこの地に来たのか? 
 
1812100950430
 
1812100955230
 
1812100955450
 
・・・・・・・・・・・・・炎天寺が別当であった、地続きの隣りに六月八幡神社がある。
 
1812101000000
 
 
 
●人も建物も高齢化!・・・・・・・・・・・・竹ノ塚駅の南側、線路沿いに「竹の塚第2団地」がある。 全28棟(約790戸)の建物は昭和40年(1965)の建築。 築後50年以上経過し、この団地も高齢化が進んでいるようだ!
 
1812101004400_2
 
1812101002390_2
 
1812101003510_2
 
1812101005240_2
 
 
 
●只今工事中!・・・・・・・・・・竹ノ塚駅は、只今、高架化工事中。 完成は2022年3月の予定。、、、、現在、旧駅ビルは閉鎖され、改札は地下通路からとなっている。
 
1812101014050
 
1812101028000

2018年12月 7日 (金)

戦後の名橋、葛西橋

埼玉県から流れ下る荒川は、東京湾に出る河口付近では、右岸(西側)が江東区で、左岸(東側)は江戸川区である。 この両区を結び葛西橋が架かっている。 今日の散歩は葛西橋を歩いて渡ってみようと、江戸川区側の「葛西橋東詰」バス停からスタートし、橋を渡り、江東区東砂・南砂・北砂の裏道を歩き「北砂5丁目」バス停まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●アレ、誰も降りないの?・・・・・・・・・・・現在の葛西橋の東詰(江戸川区)めにバス停「葛西橋東詰」がある。 亀戸から朝の通勤客を乗せ、立ってる人もいるバスだが、この停留場で下車したのは私だけだった。 橋の際で、乗降する人の少ない停留場みたいだ、降りる時チョイト申し訳ない気がしたね!
 
1812070817430
 
1812070816390
 
 
 
●55年経った戦後の名橋・・・・・・・・・葛西橋(かさいばし)は、西岸の江東区東砂と東岸の江戸川区西葛西を結んで、荒川と中川に架かる。 橋上には、「葛西橋通り」(都道475号)を通す。、、、、橋の工事は昭和34年(1959)に着工し、約3年数ヵ月要し、昭和38年(1963)に完成した。 全長727.4m、幅員15.0m、最大支間長142.0mの鋼カンチレバー吊補剛桁橋である。 チョイト見、清洲橋のような吊り橋に見えるが桁橋である。 下部工は鹿島建設、上部工は横河橋梁・他が施工を担当。 総事業費約19億円也。、、、、、竣工時は荒川の最下流に架かる橋で交通量も多かったが、現在は600m程下流に清砂大橋、さらに2.0km下流には湾岸道路の荒川河口橋が架かり、混雑が緩和している。
 
1812070829220
 
1812070842590
 
1812070840570
 
1812070836340
 
・・・・・・・・・・・・・・・葛西橋は、並行して流れる荒川と中川を連続して越える。 その両川を隔てる堤防上には首都高速中央環状線が走っている。
 
1812070824250
 
1812070827591_stitch
 
・・・・・・・・・・・・・・・今朝は、うっすら靄(もや)がかかった曇り空。 橋上から眺める景色も、私の頭の中と同じで、ぼーっとしてスッキリしない。
 
1812070822240
 
1812070826050
 
1812070828130
 
・・・・・・・・・・・・・・・葛西橋は現在の橋が完成する以前には、約300mほど上流側に架けられていた、「旧葛西橋 」である。 清洲橋通りが荒川にぶつかる延長線上に旧葛西橋があった。 現在は旧橋の姿はなく、河川敷に案内板がある。
 
 
 
●東砂の相撲部屋・・・・・・・・・・・・江東区東砂に“ふんどし姿”の力士を発見。、、、、平成27年(2015)に北の湖部屋を引き継いで誕生した山響部屋の前だ。 平成29年(2017)に部屋は、現在の東砂に移転したそうだ。 稽古に励んで面白い相撲を見せて欲しいね、期待します。 (力士の名前が判らずゴメンなさい)
 
1812070851400
 
1812070852350
 
 
 
●富岡から富賀岡に、さらに富岡に!・・・・・・・・・・南砂7丁目に富賀岡八幡宮がある。、、、、横浜市金沢区富岡東に鎌倉時代の創建である富岡八幡宮がある。 これを勧請したのが南砂の元八幡と呼ばれる富賀岡八幡宮である。 さらにこれを勧請したのが、門前仲町駅の近くにある江戸最大の八幡様:富岡八幡宮だ。、、、、社殿は、幾多の水害、空襲などで大きな被害を受け、昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート造で現社殿が再建された。
 
1812070912520
 
1812070914130
 
・・・・・・・・・・・・・・本殿の後ろに、富賀岡八幡宮の富士塚がある。 江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚。
 
1812070921080
 
・・・・・・・・・・・・・境内にある「砂村新左衛門顕彰碑」は、現在の南砂1丁目から7丁目までと東砂8丁目を含むほぼ全域の地を、湿原や洋上から、干拓と埋立てによって、万治2年(1659)、砂村新田に変えた福井県鯖江市出身の砂村新左衛門の遺徳を偲び、平成11年に建てられた。
 
1812070911380
 
 
 
●全長約3.7kmの都内最大の親水公園・・・・・・・・・・・南砂5丁目の仙台堀川公園 を抜けて行く。、、、、、樹々は秋色に染まっていた。 既に、葉のない木もある。 
 
1812070941550
 
1812070947410
 
1812070953370
 
 
 
 
●静かな裏道・・・・・・・・北砂6丁目の裏道に入る、生活の匂いはするが、人影はすくない。、、、、下町らしい、ざわつきが無く、チョイト期待ハズレの裏道。 
 
1812070956270
 
1812070957210
 
1812071005570
 
1812071006360
 
・・・・・・・・・・・・北砂6丁目を抜けると、「北砂5丁目」のバス停があった。 散歩はココまで。
 
1812071013410

2018年12月 5日 (水)

瑞江で、今日も終活

江戸川区江戸川の「今井」バス停から、同区春江町の「瑞江斎場」バス停まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
●地名は消え、バス停は残る・・・・・・・・・・JR亀戸駅から歩くつもりで駅前に立つと、目の前に今井行きのバスが停車していた。 いつものごとく、目的地が定まらぬまま、衝動的に飛び乗ってしまった。 終点の「今井」でバスを降り、適当に裏道を歩くことにした。、、、、都営新宿線の一之江駅と東京メトロ東西線の南行徳駅の中間に、東京都と千葉県の境である旧江戸川が流れ、そこに今井橋が架かっている。 その西詰(東京都側)が「今井」である。 現在の住居表示では江戸川区江戸川3丁目、4丁目。 年配の人には、昭和27年(1952)から昭和43年(1968)まで運行していたトロリーバス(上野公園~今井間)の終点と言えば判るかな。 ちなみに、トロリーバス廃止時の運賃は全線30円でだった。
 
1812050822410
 
1812050830380
 
1812050830570
 
 
 
●旧江戸川沿いの江戸川らしい町、江戸川・・・・・・・・・・江戸川の町は旧江戸川沿いに細長く伸びた町で、区画整理はあまりされておらず、道路はクネクネ、寺社の多い町。 早速、裏道に入って、江戸川3丁目の裏道を気ままに歩く。
 
1812050832340
 
1812050842180
 
1812050855500
 
・・・・・・・・・・・・・“ソロバン塾”だ、だいぶ古そうな看板だが、塾は開いているのかな?
 
1812050837210
 
・・・・・・・・・・・・・・新義真言宗寺院の円照寺に立ち寄った。 円照寺は、天文年中(1532~1555)に開山した。 建物は新しそうだ。
 
1812050841280
 
1812050840140
 
・・・・・・・・・・・・・・続いて、浄土宗寺院の金蔵寺にも手を合わせる。 金蔵寺は、応永22年(1415)頃に開山した。 現本堂は昭和11年(1936)に上棟。
 
1812050846310
 
・・・・・・・・・・・・・・裏道の奥に都営住宅がある。 「江戸川三丁目第3アパート」で、全2棟(80戸)と小規模だ。 都は土地さえあればどこにでも建てたという感じだ!、、、、最近塗り替えたのかキレイ。
 
1812050850150
 
1812050852000
 
・・・・・・・・・・・・・鳥居の扁額は「日枝神社・三峯神社」を併記しているが、「山王神社」と称して祀られている。 鳥居、狛犬、社殿、水盤などすべて新しく、古いものがない、由緒も不詳。、、、、、いまどき、新しく神社を興すことはないと思うので、合祀したようだ。
 
1812050859380
 
 
 
●町の隅々までお見通し!・・・・・・・・・「江戸川3丁目」から「西瑞江(にしみずえ)3丁目」に入る。 この町は江戸川の町とは大きく異なり、地図を見ると一目瞭然だが、きれいに等間隔で区画整理されており、町の端から端まで見通せる。 また、神社、寺院のような建物は一切無く、私の推定では、以前はハス池とか畑で戦後に開発された町だと思う。 民間アパートも多そうだ、新築と思われるシャレたアパートが並んでいる。
 
1812050908170
 
1812050908350
 
1812050918250
 
 
 
●寺域20,000㎡の役者寺・・・・・・・・・・西瑞江3丁目を抜けると、瑞江4丁目の大雲寺前に出てきた。、、、、浄土宗寺院の長行山専称院大雲寺は、元和6年(1620)浅草森田町(蔵前)に創建、寛文8年(1668)に本所押上へ、昭和6年に現在地へ移転した。 押上にあったことから歌舞伎役者の墓所が多数安置されており、「役者寺」と呼ばれている。、、、、、
 
・・・・・・・・・・・・・・山門は曳家工法で基礎工事中の為、縛られている。
 
1812050935590
 
・・・・・・・・・・・・・大きな本堂が迎えてくれる。 色づいた紅葉は見頃。
 
1812050937170
 
1812050947460
 
・・・・・・・・・・・・・・歌舞伎役者墓碑群として、市村羽左衛門累代墓(初代より17代合葬、13代は五代尾上菊三郎)、坂東彦三郎累代墓(初代より七代合葬)、三代坂東彦三郎家墓、初代尾上菊五郎供養碑、寺島家門弟一同建立碑、寺島家門弟代々墓、瀬川菊之丞累代墓(初代より六代合葬)、中村勘三郎累代墓(初代より十三代合葬)、三代中村勘三郎墓、福地家墓、坂東彦三郎墓(初代より二代合装)が、並んでいる。、、、、、江戸時代からの古い役者は、顔も知らず、誰がどうだの、歌舞伎知らずの私にはさっぱり判らん!
 
1812050944090
 
1812050945530
 
 
 
●今日も終活!・・・・・・・・・・・昨日、四ツ木斎場に寄ってきたが、今日は大雲寺の前が「東京都瑞江葬儀所」であった。 終活の参考に、チョイト見学してきた。、、、、、瑞江葬儀所は都内唯一の都営の火葬場だ。 葬儀用の式場はなく、煙の出ない火葬設備の炉が20基ある。 早い話、焼くだけの施設である。 昭和13年(1938)2月1日から使用が開始された。 現在は東京都公園協会が運営管理しているそうだ。、、、、広い公園のような敷地の中に低層の建物がある。 今日も、既に火葬が始まっているらしく、喪服の人が目にとまる。、、、、、私もそろそろ、エンディングノートを用意する歳かな?
 
1812050951280
 
1812050959030
 
1812050956480
 
1812050957250
 
1812051003240
 
 
 
●落ち葉で滑らないように・・・・・・・・・瑞江葬儀所前の「瑞江斎場」バス停から帰ることにした。、、、、バス停のある斎場前の通りはイチョウ並木となっており、この季節、落ち葉の処分が大変だ! 『ご苦労様です』、掃除している方に感謝。
 
1812051004450
 
1812051007570

2018年12月 4日 (火)

将軍を看病したお花茶屋

京成押上線四ツ木駅から堀切菖蒲園駅をとおり常磐線綾瀬駅まで歩く予定で、四ツ木駅を下車した。 歩いているうちに、どこかで終着地が変わり、京成本線お花茶屋駅まで歩いてきた。 1万2千歩。
 
 
 
●ハッピー!・・・・・・・京急新1000形車両を黄色に特別塗装した、幸せを運ぶ『KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN』に乗り、四ツ木駅で下車する。、、、、、ホームは濡れ、空はどんより、傘が無いけど大丈夫かな? 雨降れば、通りがかり娘が、『よろしければ、私と御一緒に・・・』と、傘を差しだしてくれることに期待して、散歩を続ける。
 
1812040755370
 
1812040807480
 
1812040814020
 
 
 
●葛飾の豪族の館跡・・・・・・・・四ツ木駅から300m程北に、天台宗の寺院、超越山来迎院西光寺がある。 西光寺は、嘉禄元年(1225)に創建された。 当地は鎌倉時代の豪族:葛西清重の居館跡と言われている。、、、、、、葛西清重は鎌倉三代将軍(源頼朝・頼家・實朝)に仕えた武将。 四ツ木を中心に金町・亀有・掘切・篠崎・瑞江・木場あたりまで葛西氏の領地だったと伝えられている。 本堂裏に清重塚がある。 
 
1812040819440
 
1812040824231
 
 
 
●清重の城下町?・・・・・・・・・「葛飾区四つ木」の町をはずれ、「堀切」の町を歩く。 まだ朝なので、店は開いていないのか? それとも廃業したのか? チョイト、判断に悩む店が多い!、、、、、町工場も点在する、、、、、かつて農家、今は地主も多そうだ。
 
1812040834450
 
1812040837070
 
1812040840550
 
1812040838520
 
1812040848300
 
1812040842340
 
 
 
●タコも治すか疣取り地蔵・・・・・・・・・・・堀切菖蒲園の東側に、真言宗豊山派の極楽寺がある。 医王山薬王院と号す。 宝徳元年(1449)に紀伊根来寺の普闍梨が創建したと伝えられている。、、、、良く言えば、素朴な寺。 チョイト、言わせてもらうと廃寺と間違える寺。、、、、、写真は右:本堂、左:薬師堂。
 
1812040854460
 
・・・・・・・・・・・・・山門前の「いぼとり地蔵」は有名で、この地蔵に塩をふりかけ、その塩を疣(いぼ)にすりこむと良く治ると伝えられている。、、、、、『この塩をタコにすり込んだら、どうなる?』  『塩たこ焼きになる!』  『ブー、×。 そうではなくて、“疣”と“魚の目”と“タコ”のタコ。 タコも治るかな、試してみて!』
 
1812040850110
 
1812040850340
 
 
 
●裏道散歩!・・・・・・・・・極楽寺に寄った後、裏道を選んで歩き、堀切菖蒲園駅とは離れた方向に歩いてしまった。 
 
・・・・・・・・・・・・・・堀切の医院か(?) 廃業したみたいで、看板も出ていない。 白い壁に規則正しく並んだ窓、なんだか子供の頃の、町の医院を思い出す。
 
1812040901360
 
・・・・・・・・・・・・・・曲がりくねった堀切の裏通りを歩く。
 
1812040907300
 
・・・・・・・・・・・・・日蓮宗寺院の妙源寺の前に出てきた。 正覚山妙源寺は、嘉元2年(1304)あるいは建武年中(1334~36)に創建された。 本所番場町(墨田区東駒形1丁目)にあって、大名・儒者・歌舞伎役者の菩提寺として栄えた。 関東大震災後の大正15年(1926)、現在地へ移転した。
 
1812040923040
 
・・・・・・・・・・・・・・・こちらは米屋さんのようだ。 雰囲気のある建物、いいね!
 
1812040930220
 
・・・・・・・・・・・・・この辺りから住所は「葛飾区宝町」となる。 裏通りの銭湯:「富士の湯」は開店前の掃除中。 昭和28年(1953)の創業。
 
1812040937380
 
・・・・・・・・・・・・・・宝町の「八幡神社」。 江戸時代初期の創建か? 現:宝町の前身:宝木塚村の鎮守社である。、、、、、お賽銭は50円玉にした。
 
1812040943230
 
・・・・・・・・・・・・・京成本線の線路脇を歩き、お花茶屋駅に向かう。
 
1812040951530
 
 
 
●チョイト、終活・・・・・・・・・・・お花茶屋駅前を通過し、チョイト自分の終活で、新装なった斎場を見てきた。、、、、、「四ツ木斎場」は駅から近く便利な所にある。 建物は4階建てで、2年前の平成28年(2016)12月に竣工した。 モダンで綺麗な建物だ、最新式の火葬炉が12基備えられている。 式場も5室あり、葬式もバッチシ。(結婚式はダメ!) 、、、、建物の設計は石本建築事務所、施工は熊谷組。 
 
1812041015061_stitch
 
 
 
●お花ちゃんの駅・・・・・・・・・京成本線お花茶屋駅は昭和6年(1931)12月19日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅、駅舎は橋上。、、、、駅名の「お花茶屋」は地名でもある。 その由来は、江戸時代、幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜った。
 
1812041009270
 
1812041023260
 
1812041034500

2018年12月 2日 (日)

久が原は日蓮宗の寺ばかり

毎日が日曜日の私は曜日を意識することが少なくなった。 今朝、地下鉄浅草橋駅で、人の少ないホームに立って、『今日は日曜日』と気づいた。 銀座・泉岳寺方面行の電車も今日は乗客が少ない、『座れるぞ』咄嗟の判断で、散歩の行先方向を急遽変更し西馬込行電車に飛び乗った。 下車駅が定まらぬまま、終点の西馬込に着いてしまった。 こうなれば、あとは足まかせの散歩にした。、、、、、西馬込駅から西へ歩き、東急池上線久が原駅まで、1万歩の散歩となった。
 
 
 
●終点だ、しかたない降りよう・・・・・・・・・またまた来てしまった西馬込駅 。 終点に近づくと車内はガラガラ。 電車は印旛日本医大行となって折り返す。 駅前には通勤客の姿はなく閑散としている。
 
1812020814220
 
1812020816070
 
1812020824590
 
 
 
●お金持ちの坂・・・・・・・・・・・太田区仲池上2丁目2番と5番の境を西へ下るかなりの急坂、その名は大尽坂。 昭和初期に行われた耕地整理によってできた坂道であるといわれている。 坂名は、その昔大尽(だいじん、=金持ち)がこのあたりに住んでいたということで名づけられたそうだ。 この大尽が誰であったかについては不明である。、、、、今の世でも、坂の周辺はお金持ちが住んでいるような住宅街だ。
 
1812020837150
 
1812020839490
 
・・・・・・・・・・・・・・坂の上に昭和初期頃に建てられたと思う住宅がある。、、、、かなり広いお屋敷のようだ、母屋が見えない。
 
1812020833150
 
・・・・・・・・・・・・・坂の下に庚申塔がある。 正面には、「南無妙法蓮華経 庚申  享保三戌歳十二月吉辰」と彫り、右側に「池上めぐろ江道」、左側には「せんそくほりの内江道」とある。 池上本門寺目黒不動尊、堀の内(杉並区)の妙法寺への参詣道を示した庚申塔である。 享保三年(1718)は暴れん坊将軍:徳川吉宗の時代。
 
1812020840050
 
 
 
●水が綺麗になった川、臭わない!・・・・・・・世田谷区桜新町を水源とし大岡山の東工大を流れてきた呑川(のみかわ)を、久が原の八幡橋(昭和35年竣工)で越える。 呑川は八幡橋から池上本門寺前、蒲田駅、羽田空港へと流れ下る。
 
1812020848550
 
1812020849240
 
 
 
●側室のパワーか?・・・・・・・・吞川に架かる道々橋(どどばし)の南側(久が原2)に日蓮宗の長照山樹林寺がある。 開創の年代は不明だが、寛永5年(1628)頃に創建されたと言われている。、、、、、、寺伝によれば、当時この道々橋村の周辺各村には、1ヶ寺以上の寺があったが、なぜか道々橋村には寺が1ヶ寺も無かった。 村の人達は、村内に寺の建立されることを熱願していたが、資力が無く、これを実現できないでいた。 たまたま土地の綿屋の娘が江戸城に奉公し、将軍の側室付きの腰元となった。 この側室が、腰元の親の願いを聞き、その奇得を感じて、道々橋の村内に樹林寺を創建したと言われている。、、、さすが“側室”の力、『殿、道々村に寺を建ててくりゃれ』と、殿のほっぺにチュー。 『良きに計らえ』と、抱き寄せる。 これにて、1ヶ寺が建ったのか?(私の邪推)
 
1812020858070
 
1812020903521
 
1812020902040
 
 
 
●半径200mに3社3寺・・・・・・・・・・・・「久が原」1丁目、2丁目、3丁目の境である「出世観音前交差点」を中心に半径200m程の円内に、寺社が複数あった。 樹林寺もその一つ、他に道々橋八幡神社、久が原西部八幡神社、末廣稲荷神社、久が原出世観音、安祥寺がある。、、、、全部手を合わせてきたので、堂々一挙公開。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、久が原1丁目の道々橋八幡神社。 神社の創建年代等は不詳ながら正保年間(1644~1647)に創建、道々橋村の鎮守社だった。 現在の社殿は昭和35年(1960)の建造。、、、、、狛犬の首に注連飾りをかけている。
 
1812020906310
 
1812020909370
 
1812020908420
 
・・・・・・・・・・・・・・次は、久が原4丁目の久が原西部八幡神社。 神社は、天平神護元年(765)に、久が原の高所に創建した。 久ヶ原村には元々一つの八幡社しかなかったが、江戸時代初め村が馬込領と六郷領に分断された時、八幡社も二つに分けることになり、元の八幡社が東部八幡となり、西部八幡は独立して現在地に新たに造営された。、、、、現在の社殿は昭和53年(1978)に建てられたものである。
 
1812020941470
 
1812020939440
 
・・・・・・・・・・・・・三番目は、久が原2丁目にある小社:末廣稲荷神社。 周囲を雑木に囲まれ、社は見えないので判り辛い。 
 
1812020920190
 
・・・・・・・・・・・・・四番目は、久が原2丁目のパワースポットである久が原出世観音。 閑静な住宅街の中、野村證券の寮の隣りにあり、両サイド塀になった狭い参道を入った奥に、堂がある。、、、、、伊藤博文の恋人(築地の大料亭の先代)が建てた観音堂だそうで、政財界の方も手を合わせに来るそうだ。 私も、御利益を期待して線香をあげてきた。、、、、堂の内部は見えるが、観音様は正月三が日のみ一般公開されるそうだ。 
 
1812020926520
 
1812020933390
 
・・・・・・・・・・・・・さてさて五番目は、久が原4丁目の長久山安祥寺。、、、、本門寺周辺はどの寺も日蓮宗、ここもそうだ! 寛永6年(1629)の創建。 建物は戦災で焼失し、全て戦後再建した。
 
1812020944140
 
1812020948110
 
・・・・・・・・・・・・・最後に、“おまけ”で出世観音前交差点の角にある庚申堂。 一つは板状駒型の青面金剛像。 「元禄十三庚辰十二月吉日」の銘がある。 もう一つは、板碑型の庚申塔で、「元禄五壬申年十一月十五日」の銘がある。
 
1812020915400
 
・・・・・・・・・・・・・もう一つ“おまけ”の庚申堂があった。 久が原三丁目交差点にある小祠。 板状駒型の青面金剛で「享保廿乙卯天十一月吉日」の銘。 もう一つは、同じく板状駒型の青面金剛で「元禄十四辛巳十二月八日 久ヶ原村」の銘。
 
1812020956410_3
 
 
 
●トイレがない、漏れちゃう!・・・・・・・・ワンマン運転で3両編成の電車が走る、東急池上線の久が原駅。 大正12年(1923)5月4日蒲田から延伸してきた池上電気鉄道が、池上~雪ヶ谷間を開業させた時にできた。 開業当初は「末広駅」と名乗っていたが、その後「東調布駅」、「久ヶ原駅」を経て、昭和41年(1966)に現在名となった。 ホームは地上相対式2面2線の構造で、上下ホームは完全分離されていて行き来ができない。、、、、、トイレは2番線五反田方面ホームにしかないので、1番線ホームで行きたくなったら、次の千鳥町駅まで我慢する。 我慢できないときは、さて、どうする? 
 
1812021010021
 
1812021010470
 
1812021012010
 
1812021013520
 
1812021014410
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・久が原駅にもある長~い腰掛け。 かつては、多くの駅のホームや待合室でよく見かけた10人以上が座れる、あの長い腰掛けが残っている。 腰掛けの断面は座りやすく絶妙なカーブで作られ、懐かしい座り心地を感じるのは私だけではないと思うね!
 
1812021015220

« 2018年11月 | トップページ | 2019年1月 »