王子から軍都をブラブラ
京浜東北線王寺駅から、北上して、隣りの東十条駅まで、9千歩の散歩です。
●東北本線の列車に見放された駅・・・・・・・・王子駅は明治16年(1883)7月28日に日本鉄道の上野駅~熊谷駅間の開業と同時に、上野駅の隣り駅として開設された。 現在の東北本線で最も古い駅の一つである。 今は、東北本線、高崎線などの列車は脇を通過するのみで、停車するのは京浜東北線の電車だけ。、、、、、駅は築堤上に島式ホーム1面2線を有する高架駅。 駅の改札口は、北口、中央口、南口の三ヵ所あるが、みどりの窓口、びゅうプラザなどがあるメインの改札は北口である。
・・・・・・・・・・・・・駅のメインは北口改札。 地下鉄南北線、都営バスへの乗り換えはこちらから。
・・・・・・・・・・・・・北口改札の西側出入口は「親水公園口」と標されている。 その名のごとく、音無親水公園の前に出る。
・・・・・・・・・・・・・高架下、なぜか寂しい中央口改札。 改札の横に都電荒川線の王子寺駅前停留場 があり、早稲田方面に向かう電車は、改札前のガード下をとおり飛鳥山を上る。
・・・・・・・・・・・・ホームの南端の下に出る南口改札。 地元住人の専用出入口みたいなものだ!
●美女のヒップライン!・・・・・・・・・・・王子駅南口改札の脇に、線路を越えて飛鳥山公園に向かう飛鳥山下跨線人道橋がある。 大正14年(1925)に、古レールを構造材として使用し、橋長41m、幅員2.74mの固定アーチ橋の形式で造られた。 女性的な曲線の美しい跨線橋。、、、、同じように古レールを使用した人道橋として、目黒駅近くに架かる白金桟道橋も美しい曲線を描いている。
●約15万円で造った名橋・・・・・・・・・・・王子駅から音無親水公園を上流側にチョイト遡ると、御茶ノ水の聖橋に良く似たシルエットの、コンクリート造三連アーチ橋の音無橋がある。 増田淳の設計により、総工費:149,976円にて、昭和5年(1930)に竣工した名橋。 小さなテラスや凝った装飾のある優美な橋である。
●狐はいません!・・・・・・・・音無橋の北詰に王子神社がある。 平安時代に勧請され、当地名由来の神社である。 王子神社は、源義家が奥州征伐の際には当社で祈願をした、また豊島氏・後北条氏らからも崇敬を受け、さらに徳川家康からは天正19年(1591)に社領200石の御朱印状を拝領、明治期には准勅際社の指定を受け、戦後には東京十社の一社に数えられている。 御祭神は、錚々たるメンバーで、伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大御神、速玉男之命 事解男之命の五神。、、、、、戦災で被災し、現社殿は昭和39年の第一期、昭和57年の第二期造営を経て、黒塗りと金箔をほどこした壮大な権現造りで再建された。、、、、【老婆心ながら】 「王子の狐」で有名な王子稲荷神社は、王子神社の北、400m程の処にある。
●昭和のモダン建築・・・・・・・・・王子本町交差点角に建つ王子工業会館。 昭和8年(1933)の建築、鉄筋コンクリート造2階建て、3階部分は後の増築である。 丸みのある玄関部分が特徴的だ!
●軍都の面影・・・・・・・・・・・王子寺駅の北西、東十条駅の南、住所でいえば北区十条台1丁目に、自衛隊の十条駐屯地がある。 ここは、東京第一陸軍造兵廠の跡地で、終戦直後はアメリカ軍に接収され、昭和33年(1958)に返還され、以後自衛隊が使用している。、、、、この付近には、第一師団工兵大隊、近衛師団工兵大隊、王子火薬製造所、十条兵器製造所など、陸軍の施設が集中していた。 戦後、多くの跡地・施設は取り壊されたが、まだ戦前の面影を残す遺構が残されている。 今日は、その内の数か所を歩いてきた。、、、、、自衛隊の敷地内は立入禁止で入れない。
・・・・・・・・・・・・十条駐屯地の一角に、大正7年(1918)に建設された変圧所245号棟のファサードの一部が残されている。 煉瓦造りで、扉の上部には受電施設であった碍子が埋め込まれている。
・・・・・・・・・・・・・・こちらは、大正8年(1919)に建てられた旧第一陸軍造兵廠の275号棟。 現在は、北区の図書館の一部として再利用されている。
・・・・・・・・・・・・中央公園に建つこの建物は、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年(1930)に建てられた。 戦後は、米軍に接収され、昭和36年(1961)に「キャンプ王子」となり、同43年3月ベトナム戦争の激化に伴い「米軍王子野戦病院」として開設された。 しかし、“野戦病院”の名が刺激的であり、“陸軍病院”と改称した。 ベトナム戦争の終結により、昭和46年(1971)に返還された。 昭和56年(1981)から北区の文化センターとして、区民の学習と交流・文化創造のとして活用されている。、、、、建物は地下1階、地上2階建て。 正面はシンメトリーのアール・デコ建築。 内部は教室に改装され、正面階段部に戦前の面影が残る。
・・・・・・・・・・・・・・文化センターの脇に、東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板が残されていた。、、、、明治38年(1905)、東京芝浦製作所製のボイラーである。 部品状態で一部が残されていても、私には全体がイメージできなかった!
●臭い漂う地蔵坂・・・・・・・・中十条1-26と中十条2-9の境から下り、中十条2-9と岸町2-11の境(JR線路にぶつかる)に出る勾配のキツイ、クネクネの坂を「地蔵坂」という。、、、、、坂を下りきる直前に、公衆便所脇から十条跨線橋に出る階段がある。 この短い階段を上がると子育地蔵尊が祀られている。 建立年代不明であるが、江戸時代の地蔵尊らしい。、、、、、【余談だが】 坂の途中の公衆便所から廃水が地下に埋められた下水管を下っているようだ。 途中のマンホールから、誰のものか判らないが、香水(?)の臭いが漂い、長居は無用!
●客の少ない駅・・・・・・・・・・・・東十条駅南口に到着。 一日の乗降客数5万人弱と少ない駅である。 今日は、ここから乗って帰ることにする。 乗降客数が一人分増えるね!
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