挙式もできる目黒区役所
久しぶりに東急東横線中目黒駅で下車してみた。 駅前の商店街を歩き目黒区役所に立ち寄って、祐天寺にて手を合わせ学芸大学駅まで、1万歩の散歩です。
●埼玉の電車も停まる駅・・・・・・・・・東横線と、東京メトロの日比谷線が乗り入れている中目黒駅は、東急が駅を管轄している。 1番線ホーム(横浜方面)に立つと、東京メトロ副都心線を介して相互直通運転している東武東上線、西武池袋線、横浜高速鉄道みなとみらい線などの車両が入線し、隣りの2番線ホームは日比谷線の終点で乗客は全員降りて、乗り換える客も多い。 ホームの上は、通勤・通学で朝から忙しそうだ。、、、、昭和2年(1927)8月28日、渋谷~丸子多摩川(現:多摩川)間の開業に合わせ、同時に中目黒駅も相対式2面2線の高架駅で開業した。(東横線の始まりである) 昭和39年(1964)、日比谷線が乗り入れ東横線日吉駅まで相互直通運転が始まる。 平成25年(2013)、副都心線がみなとみらい線・東横線に乗り入れ、相互直通運転が始まる。 この時から、日比谷線の乗り入れは終わり、中目黒駅は日比谷線の終着駅となる。、、、、女性憧れの東横線に、埼玉の電車:東上線・池袋線が乗り入れたので、東横線沿線の価値は下がったかな?
●馬面から銀座のお姉さんに!・・・・・・・・・・東横線の南側に「目黒銀座」商店街がある。 朝、駅に向かう人がせわしなく通り過ぎて行く。 人を避けたた時、「目黒馬頭観音」の提灯が目にとまり、路地を入ると商店街の裏に小堂があった。、、、、大正時代の終わりごろ、乳牛牧場や馬力運送する業者がこの辺りに多かったことから、何名かが発起人となり牛馬の息災を護り、亡くなった動物の霊を弔うために建てたそうだ。 現社殿は昭和10年(1935)の建築。、、、、、昭和31年(1956)から“馬頭観音”改め、「目黒銀座観音」と改称したらしい。 観音さまの姿は拝見していないが、馬面の観音さまより、銀座のお姉さんをイメージする観音さまの方がいいね。 私も好きになれそうな名だ!
●挙式もできる区役所・・・・・・・・目黒銀座をもう少し歩くと、目黒区役所に向かう道が目にとまる。 今度は、目黒区役所にお立ち寄り。、、、、、昭和42年(1967)の文化勲章受章者である建築家:村野藤吾(1891~1984)の作品の一つ旧千代田生命保険相互会社本社ビルで、現在は目黒区総合庁舎となっている。 区役所の建物を見てきた。、、、、地上6階/地下3階の本館と、地上9階、地下3階の別館で構成、延床面積 48,075m2の建物は、昭和41年(1966)の竣工。 外壁の白色アルミ鋳物製ルーバーが印象的な建物。 平成15年(2003)から区役所庁舎に生まれ変わり使用されている。、、、、民間の建物から役所の建物に変わり、建物の汚れも目立ち、チョイト使い方が荒い気もするが、致し方ないか!
・・・・・・・・・・・・・・内部は住民への窓口が並ぶ。 一部、茶室、和室もある。 広いエントランスホールと螺旋階段に設計者:村野の特徴が現れている。 目黒区では、この庁舎を利用したウエディングの応募者を募っていた、私も若ければ・・・・?
●移設された庚申塔・・・・・・・・・・・・・目黒区役所の近く、駒沢通りに面し、天照大神を祀っている上目黒天祖神社がある。 創建年代は不詳。 現社殿は昭和8年(1933)の造営。、、、、、境内には、2基の庚申塔がある。 ともに青面金剛と三猿が彫られたものだ。一方は宝永五年(1708)の年号、もう一方は享保元年(1716)の年号が刻まれており、享保の年号を持つ塔は道標にもなっていたという。 道標の銘には、道をまっすぐ行けば九品仏、右に行けば世田谷、左に行けば目黒不動と、標されている。 なお、庚申塔は、昭和15年、駒沢通りがオリンピックの準備で拡張された時に、ここ神社の境内に移された。
●REITで儲けた寺・・・・・・・・・・・・・駒沢通りを南に歩くと、浄土宗の名刹:明顕山祐天寺 の前に出た。、、、、江戸中期祐天上人を開山とし弟子の祐海が創建した。 祐海は経営の才があり、寺の経済的基盤を固めることに努め、寺憲を作って、喜捨された金が100両になる毎に地所を購入するように定めた。 その後も祐全・祐東などの努力によって、寺運は発展し、その所有地は幕末には4町歩を越えた。 現在でも目黒区一の大地主らしい。 明治27年(1894)日清戦争の時、目黒火薬製造所が増産で出てくる弾丸の貯蔵に困り、寺に預けたものが爆発し、堂塔の大半を失ってしまった。 しかしそれでもなお多くの寺宝、文化財を今日に伝えている。 江戸時代から不動産投資(REIT)で儲けていたらしいね。、、、、山門前にはすでに門松が用意され、境内は初詣のため参道沿いに電球が用意されていた。
●どこを歩いても古道か?・・・・・・・・祐天寺から学芸大学駅へ向かう駒沢通り沿いに石仏・道標が3か所にあった。 この辺りは、どの道も古道なのか? あちら、こちら、石仏・石碑のたぐいが残されているようだ。、、、、、私の住む浅草橋には“古道”と呼ばれる道はないが、現江戸通り(水戸街道)は吉原へ通じる道だった。 出来れば“廓(くるわ)古道”とでも命名して欲しいね!
・・・・・・・・・・・・・中町2丁目、「祐天寺2丁目交差点」近くに「さわら庚申と道標」がある。 五叉路の一角に木を背にして小さいながら立派な堂があり、中には3基の庚申塔がある。 また、その右側に道標があり正面に“おく沢、ひもんや、いけかみ道”左面に“あさふ、あを山道”右面に“ごほん木、ふたご道”と彫られている。
・・・・・・・・・・・・・・五本木2丁目、ビルの角に石仏の観音像が祀られている。 この石仏は、もと上目黒にあったものを、再開発のため現在地に移転したそうだ。 この観音像は、目黒川にあった水車の無事やそこで働く人々の安全、また川で水死した子供の供養のために造られたといわれている。 ただそれが何時頃、誰によって造られたか不明。
・・・・・・・・・・・・・・小堂内に庚申塔が4基、地蔵1基が納められ、その手前に念仏塔1基、堂の外にも庚申塔が建っている、ここは五本木2丁目の「五本木庚申塔群」。、、、貞享3年(1686)から文化8年(1810)にかけての年号や五本木庚申塔講中の氏名が刻まれている。 庚申塔群の前の道は、鎌倉古道であったそうだ。 やっぱり古道か!
●シャレた名の稲荷・・・・・・・・・・・・・・・・中央町2丁目、駒沢通りに面して十日森稲荷神社の鳥居がある。、、、、、この神社は、もと五本木の旧家である島崎佐五衛門の邸内にあった屋敷神を移されたと伝えられ、旧上目黒村五本木組の鎮守であった。 五本木田圃の豊作守護神としてあがめ、信仰のもとにこの神社を祀ったと言われている。 蒼稲魂命を例神として今もこの地域の人々に深く崇敬されている。、、、、現本殿は明治17年(1884)に、拝殿は昭和32年(1957)の建築。、、、、社名の“十日森”は、“稲荷の森”を“稲荷(とうか)の森”と読んで転じたと言われている。
●名を変えてきた駅・・・・・・・・・・学芸大学駅に着いた。、、、、駅名の由来となった東京学芸大学は昭和39年(1964)に小金井市へ移転したが、東京学芸大学附属高等学校は当駅を最寄り駅として現存している。、、、、、昭和2年(1927)8月28日の開業時は碑文谷駅と称していた。 その後、碑文谷駅→青山師範駅→第一師範駅→昭和27年(1952)7月1日学芸大学駅に改称してきた。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。
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