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2019年1月

2019年1月30日 (水)

東京だョおっ母さん

我が家(浅草橋)から江戸通りを南に歩き、日本銀行前に出ると、新旧の常盤橋が三橋ある。 この常盤橋を見て、大手町から皇居前に出て、東京駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●お勤め御苦労さま!・・・・・・・・・浅草橋、馬喰町、小伝馬町、室町と、江戸通りを歩き、外堀通りと交わる新常盤橋交差点に出る。、、、、時刻は9時前、マフラーとマスクで顔を隠した人が、私を追い越していく。  あせるな いそぐな たまには遅刻で リフレッシュ、、、、、我が家から新常盤橋まで、ブラブラ歩いて50分也。 
 
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●石と皿の“ときわばし”・・・・・・・・・・・日本銀行の西側を流れる日本橋川。 そこに、上流側から、新常盤橋、常磐橋、常盤橋と、「ときわばし」が3橋並んで架かっている。 3橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んでいる。、、、、写真は、免震化工事中の日本銀行本店本館。
 
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・・・・・・・・・・・・まずは、「新常盤橋」、、、、、この橋は、大正9年(1920)の市電(戦後は三輪橋~都庁前の31系統路線)開通に合わせ、現在の江戸通りの延長線上にに架けられた橋である。 コンクリート造の三連アーチ橋であった。、、、、昭和63年、東北新幹線高架工事に伴い、現橋に架け替えられた。、、、、隣りに新幹線の高架橋、頭上に首都高都心環状線が架かり、橋の全容が見えにくい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・次は、“元祖ときわばし”であるが、残念ながら落橋の危機にさらされ、只今文化財として修復工事中。 その為、近くに立ち入ることもできない。、、、、ところで、この「ときわばし」は、“盤”と“磐”の違いで、「常磐橋」と書く。、、、、初代は、常磐橋御門の見附橋として、天正18年(1590)の架橋と言われている。、、、、現在の橋は明治10年(1877)に架けられた、石造のアーチ橋である。 多数の肥後(熊本)の石工が集められ、橋の架設に当たったと言われている。、、、、、国指定の文化財で、修復工事は基礎部分から全面的にやり直されていたが、途中で東日本大震災があり、工事中の橋も被災し、工期は大幅に延長されている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・以下の写真は、7年前、工事着手直前の常磐橋。 全景と親柱
 
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・・・・・・・・・・・・・・最後は「常盤橋」である。 上流の「常磐橋」は古くて小さな石橋で、かつ歴史的に貴重な橋であったため、昭和元年(1926)に、主要幹線の橋として隣りに新しい橋を架けた。 これが“磐”を“盤”に変えた「常盤橋」である。、、、、橋のデザインは常磐橋を模した、2連のアーチ橋(不等間隔)として造られた。、、、親柱の隣りにラーメン屋の屋台があった、お品書きは新しそうだ、するとこれは?
 
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●ビルの名も判らない田舎者となった・・・・・・・大手町界隈の再開発ビル群を抜ける。、、、、どのビルも。現代的でカッコイイが、個性の薄れた、不動産屋の安直ビルに思える。 
 
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●おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね・・・・・・・・・・・必ず記念撮影する皇居正門石橋(二重橋はこの奥にある)、その脇に、懐かしい交番「祝田町見張所」がある。石橋のできた、明治21年(1888)前後にこの交番も造られたようだ。、、、、皇居前広場から農協の団体が消え、修学旅行の学生も消え、はとバスの団体が細々、残るは東南アジアを中心とした外人さん。 時代も変わったね!
 
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・・・・・・・・・・・・・皇居前から見た丸ノ内
 
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●おっ母さん ここが ここが 東京駅 記念に写真を とりましょね・・・・・・・・・・・東京駅に赤帽がいた頃が懐かしく思われるのは、年とった証拠かな?
 
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2019年1月29日 (火)

浅草橋はどっちの区

今日も北風が吹く寒い日である。 寒さに負けじと散歩に出るか?、暖かい我が家でゴロゴロするか?、、、、悩みに悩み、とりあえず、遠い処に出て行きたくないので、『浅草橋まで散歩しよう』と、浅草橋の我が家を出た。 「浅草橋」を渡り、「浅草橋交差点」でウロチョロしていたら、中国人か韓国人か、可愛い娘がキャリーバックを引いて浅草方向に歩いて行く。 その後ろ姿を見送り、『ヨシ、俺も男だ! 今日は浅草まで歩こう!』、、、、と、云うことで、江戸通りを浅草まで歩いてきた。 1万歩
 
 
 
●元祖:浅草橋とは?・・・・・・・・・・元祖「浅草橋 」は、外堀(神田川)に架かる橋で、台東区浅草橋・柳橋と中央区東日本橋・日本橋馬喰町を結ぶ。 旧江戸郭内の日本橋から浅草・吉原に通じる橋で、かつては浅草見附があった。 橋の北詰に「浅草見附跡」の碑がある。、、、、、浅草橋は江戸36見附の一つ、浅草橋御門として寛永年間に架けられた。 現在の橋は、昭和5(1930)年1月に開通。 
 
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●“浅草橋”をめぐる、台東区と中央区の三角関係(?)相関図・・・・・・・・・・・・・・・
 
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●台東区の“浅草橋”・・・・・・・・・・総武線の浅草橋駅は、昭和7年(1932)の開業当初から「浅草橋」を名乗り、都営浅草線の浅草橋駅も昭和40年(1965)開業時からの駅名である。 さらに、昭和7年(1932)に完成した、総武線のガードは「浅草橋架道橋」である。、、、、しかし、現町名で「台東区浅草橋」を名乗る町は、かつて(住居表示が変わる以前)「浅草〇〇町」と称していた。 雅万歩も出生地は「浅草區浅草新福井町」で“浅草橋”とはなっていない。 さらに、江戸通りを走る都電の駅前の停留場は「浅草橋駅前」であった。
 
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●中央区の“浅草橋”・・・・・・・・・・中央区にある交通の要所:「浅草橋交差点」。 ここは、「江戸通り」が南北に走り、「靖国通りが」西に向かい、「京葉道路」が東に向かい、「清杉通り」が南に向かう、幹線道路の五叉路である。 間違いなく昔から“浅草橋”を名乗っていた。、、、、明治30年代に開通した市電では、浅草橋交差点内の停留場名は当初から「浅草橋」である。 市電が都電と変わっても、「浅草橋」停留場名は昭和40年代の廃線まで続いた。(現在は、交差点付近のバス停名として「浅草橋」を使用中)、、、、昭和4年(1929)に浅草橋交差点付近の道路拡張工事の写真が土木学会に保管されている、そこにも“浅草橋付近”と加筆されている。、、、昭和60年頃造られた、交差点の地下道名は「浅草橋交差点横断地下歩道」である。、、、、中央区では、交差点名以外では“浅草橋”を使用していないようだ。
 
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●“浅草橋”はどっちのもの?・・・・・・・・・・・・・・“浅草橋”の使用実績からみると、中央区の方が早かったようだ。 しかし現状は、地名、駅名とも台東区で使用中。 コリャ、難しい判定で、両区の引き分けとする。 何が何だか判らんが、メデタシ・メデタシ???
 
 
 
●雨に濡れず冬は暖かく寝心地は良い・・・・・・・・・・さて、浅草橋交差点横断地下歩道について、もう少し書くと、、、、、交差点角から階段を下りて地下道に達すると、ナント「国土交通省」と書いた三角コーンがズラリ並んでお出迎え! 知らない人は『工事で並べたのかな?』 所々に段ボールが置かれている。、、、もう、お判りですね、豆助!、、、、段ボールはホームレスの寝室。 コーンはホームレスの占領を避けるために置かれたもの。 30年ぐらい前は、ズラリ並んだ段ボールで通るのが怖いぐらいだった。 今は、ほんのチョイト改善し、寝泊まりする人も少ない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・もう一言、、、、、地下道の入口には何も書かれていないのだが、この地下道はJR総武快速線の馬喰町駅に直結しているのだ。 さらには、都営新宿線の馬喰横山駅にもつながっている。 さらにさらに、もう少し地下道を歩くと都営浅草線の東日本橋駅に到達する。、、、、不親切にも、このことは地下道入口にシッカリと明示されていない!(地図上ではつながっているが)、、、、我が家では、子供が幼い頃、雨が降って外で遊べないときには、この地下道で走り回らせた思いでがある。
 
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●老舗も多い江戸通り・・・・・・・・・・・地下道から我が家へ戻るかと、浅草橋を渡り、駅前付近に来ると、外人観光客(主に東南アジア系)が目立つ。 特に最近、浅草橋はリーズナブルなビジネスホテルの建設ラッシュで、ホテルの前にホテル、ホテルの隣りにホテル。、、、、皆さん、浅草・銀座・新宿・上野を目指し駅に向かうようだ。 浅草橋はこれらの繁華街に20分で行ける、便利な処!、、、、可愛い娘もいる、つい道を教えてあげたくなるけど、誰も聞いてくれない。、、、、今日の寒さの中、浅草に行く娘もいた。 私もつられて、江戸通りを浅草まで歩いてきた。
 
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2019年1月27日 (日)

五反野から北風の中を歩く

風が強く今日も寒い。 東武伊勢崎線の五反野駅から、つくばエクスプレスの六町駅に向かい歩きはじめたが、途中でもたもたし、青井駅までの散歩となった。 1万歩
 
 
 
●“田”と“野”の違い・・・・・・・大正13年(1924)10月1日、両隣の小菅・梅島の両駅と同時に追加開業した、足立区南部に位置する五反野駅。 島式ホーム1面2線の高架駅で、複々線の内側を走る緩行線のみにホームがある。、、、、「五反野」の付近は、低湿地帯で河川が年中洪水を起こし、定住して農業を営むには極めて難しいとされた土地であった。 しかし、江戸時代、河川の改修工事がなされ新田開発が活発化した。 綾瀬村の一部である弥五郎新田の小字で「五段野」ともいわれ、徳川の御料地として豊かな農村地帯として発展したそうだ。、、、、、“田”と“野”の一字違いで、五反田は都心に近い品川区、五反野は埼玉県に近い足立区。
 
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・・・・・・・・・・・・・・五反野駅周辺は、商店街と住宅街の混在する町である。、、、、、昭和40年代前半に、駅前通りに沿って存在していた用水路も含め、この地区にあった「どぶ川」が整備され暗渠化された。 駅周辺にその後商店も増え、昭和45年(1970)には商店会が発足した。 戦後の街である。、、、、日曜日の朝、まだお店のシャッターは下りたまま。
 
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●町の裏通り都営住宅が点在!・・・・・・・・商店街からはずれ、足立区弘道の裏道を歩くと、都営住宅 「弘道一丁目第3アパート」がある。 平成3年(1991)に完成した、3棟(95戸)の団地である。、、、、この付近には、都営住宅が多いのだが、集合住宅が整然と並ぶ大規模団地は少ない。 裏通りを入った、不整形の小さな敷地(都営住宅としては小さい)に5階建てぐらいの中層の住宅が建っている。
 
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・・・・・・・・・・・・・こちらは、「弘道一丁目第4・5アパート」。 ここも平成7年~10年に建てられた、全3棟で126戸の都営住宅。
 
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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、チョイト大きめの「弘道一丁目アパート」。 昭和60年~61年に建てられた、総戸数160戸(全8棟)の都営住宅。
 
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●ホント、一人で建てたの!・・・・・・・・・・『この建物使用できるの?』、チョイと建築に関わってきた私が驚いた弘道1丁目の貸倉庫。 建築基準法を無視したのか、法に従っているのか、判らない倉庫だ! 近づきじっくり拝見すると、鉄筋は丸出し、壁・柱・梁のいたるところに錆びた鉄筋が出てる、控え柱(?)も劣化している、「なんじゃこれは!」、、、、、以前、ご近所の人に訊ねてみたら、『あの建物は、かつて製氷会社の倉庫で、素人の当時のオーナが自ら一人で建てたらしいですよ。 建物の一部が落下したりして危険でもあり、役所に陳情しました』、、、、、ネットで調べると、現在も貸倉庫として使用しているようだ。 また、周辺には同じような建物が複数ある。、、、、一人で、これだけの建物を造った当時のオーナに感服!
 
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●第十六まであった!・・・・・・・・・・弘道1丁目にある区立第十一中学校がある。 昭和22年(1947)、旧制都立江北中学校に間借りして開校し、翌23年私立東洋学園校舎に生徒収容。 昭和24年(1949)東洋学園を買収し、現在地に移転した。 今年で創立72年になる中学校。、、、、足立区には、地名を冠した中学校も多いが、連番をふった中学校も多い。 第一・第四・第五・第六・第七・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十三・第十四まで現存する。 第十五、第十六中学校は他校と統合されていた。 こういう連番の校名、生徒はどう思うか、チョイト聞いてみたいね。
 
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・・・・・・・・・・・・・中学校の隣りに小さな堂があり、中に地蔵尊と、宝暦8年(1758)銘の庚申塔が祀られている。
 
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●徳川家康を祀る神社・・・・・・・・・・・足立区青井2丁目に入ると四ツ家稲荷神社がある。 祭神は、宇迦之御魂命と徳川家康。 江戸時代から四ツ家(地名)のある次郎左衛門新田には、東の宮と西の宮の二つの稲荷社があった。 近代になって、1村1社政策が進められたため、現在地にあった西の宮に東の宮が合祀され、その際、鵜飼家(地元の地主)の屋敷神だった「権現さま(徳川家康)」も合祀した。、、、、タヌキ(家康)とキツネ(稲荷)を祀る神社。 蕎麦屋には御利益ありそうだ!
 
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●迷路!・・・・・・・・・・・青井2丁目・3丁目、裏道が迷路のように曲がりくねっている。 私好みの道! 
 
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●寒い、誰か温めて!・・・・・・・・・・・・風が強く、歩いていると寒い、鼻はグズグズ、帽子飛びそう、熱い珈琲が飲みたい。 コンビニはあったが、コーヒーショップ、喫茶店が無い! インフルエンザも怖いので、帰ることにした。、、、、青井三丁目第3アパートの中を抜け駅に向かう。 第3アパートは12棟(458戸)の都営住宅で、昭和57年(1982)~昭和60年(1985)に建てられた。
 
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●地下深い駅・・・・・・・・・青井三丁目第3アパートの一画に、つくばエクスプレスの青井駅がある。  つくばエクスプレスの開業、平成17年(2005)8月24日に同時開業した。、、、、地下深く、幅が狭いホームは、平日、通勤客で混みあいそうだ。
 
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2019年1月25日 (金)

埼玉県足立区を散歩

チョイ寒だが、空は青空いい天気、雅万歩の頭はノー天気、赤羽に行くつもりで電車に乗ったが、日暮里で日暮里・舎人ライナーに乗りたくなり急遽下車。 ライナーに乗ってから、『さて何処で降りようか?』 何の目的もなく、終点の一駅手前「舎人」で下車。 気ままに西方に歩き、埼玉高速鉄道「川口元郷」まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●今日は終点の手前で下車・・・・・・・・・・・なにはともあれ、日暮里・舎人ライナーに乗ろう!
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、で先頭車両の一番前に座る。 早速、カメラをかまえ、『発車オーライ』。、、、、次の西日暮里で乗客が増え、私の隣りに若いマスク美人が座る。 『いい歳して、電車の先頭でハシャグ爺』と、思われるのが恥ずかしく、カメラをそ~っと隠す。
 
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・・・・・・・・・・・・・・西新井大師西駅で隣のマスク美人が下車し、車内も空いてきたので、カメラを取り出し窓にはり付く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・ライナーに乗ると、つい終点まで行ってしまうので、今日は一つ手前の舎人(とねり)駅で下車することにした。 「舎人駅」は、尾久橋通りの頭上にある日暮里・舎人ライナーの駅である。 平成20年(2008)3月30日、日暮里~見沼代親水公園間の開業と同時にできた、島式ホーム1面2線の駅。 
 
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●埼玉生まれ東京育ちの舎人!・・・・・・・・・・・・舎人駅の西側に、足立区立舎人小学校がある。 明治初期に開校し、今年は創立から126年になる歴史ある学校。 その校門の脇に「舎人村役場跡」の碑があった。、、、、「舎人」の名の由来は定かでなく、今だ定説もない。 舎人村は明治8年(1875)に埼玉県から東京府に移管された。 昭和7年(1932)からは舎人町となった。
 
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●へーー、塀がない!・・・・・・・・・・・舎人の町の西隣に入谷の町がある。 1丁目から9丁目まである広い町だ。、、、、入谷2丁目に、浄土宗の五台山太子院源證寺(げんしょうじ)がある。 天文元年(1532)に創建された古刹である。 本堂は文久3年(1863)に再建し、昭和47年(1972)に銅板葺入母屋造りに改築した。 太子堂は、江戸中期の古建築で、開山上人所持の聖徳太子像を祀り、近隣の信仰をあつめ、古来、正月・5月・9月の22日に太子講が盛大に行われてきた。小堂であるが、江戸時代の建築様式のなごりをとどめる貴重な建造物である。 また、江戸時代中期、正徳2年(1712)在銘の梵鐘もある。、、、、只今、境内では、太子堂・納骨堂など改修中。 ぐるり塀のない、どこからでも入れる境内、貴重な仏さまを盗まれないように、南無阿弥陀仏。
 
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●埼玉県足立区?・・・・・・・・・・・この辺り、“舎人村大字入谷”の雰囲気が残っているのか、アチラコチラに畑が点在する。、、、、小さな畑でも、町の中にあると癒しの効果があるね!
 
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●都県境は橋を渡り10m程・・・・・・・・・・・・鳩ヶ谷街道と頭上の首都高速川口線を横切り、芝川に架かる南平大橋(なんぺいおおはし)を渡る。、、、、この付近では、芝川が東京都足立区と埼玉県川口市の境かと思いきや、ナント両側とも東京であったり、埼玉県であったり。 つまり、地図を見ると一目瞭然なのだが、都県境が川の中央に無く、微妙にずれている。 ここ南平大橋では、橋の両端とも、足立区入谷7丁目・8丁目。 橋を渡り西詰を10m程歩くと川口市である。
 
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●走る凶器、怖い!・・・・・・・・・川口市に入ると、どうやら物流の動脈を歩いているようだ。 私の横を、前を、大型トラックが引切り無しに通り過ぎる。 怖い! 裏道に入ろう!
 
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●高所恐怖症は住めない・・・・・・・・・・裏通りを、川口元郷駅に向かい歩く。、、、、塗装、土建、金属加工などの業種が目立つ町、、、、、古びたアパートも健在の町、、、、、母子が遊ぶ公園、、、、タワーマンションは、地上185m、55階建ての「エルザタワー55」(平成10年竣工、650戸)
 
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●まだ、新しさの残る駅・・・・・・・川口元郷駅 (かわぐちもとごうえき)は、平成13年(2001)3月28日に開業した埼玉高速鉄道線の駅。 島式1面2線の地下駅。
 
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2019年1月23日 (水)

裏道歩いて東中野へ

今日は眼科の受診日、中野の病院で朝一番の診察を受け、帰りは中央線の南側を東中野駅まで歩いてきた。
 
 
 

●名残惜しい診察・・・・・・・・・・・どこの病院でも、眼科の診察では、細隙灯(さいげきとう)顕微鏡という拡大鏡を使い、帯状の光を目に当てて、結膜、角膜、前房水、虹彩、瞳孔、水晶体などを目視し、検査してくれる。 この検査、先生と患者が顕微鏡を挟んで、30cm程の距離で対面するので、若い女医さんの時はドキドキ。 目は先生の顔・胸元にチラチラ。 先生から、『チャント真直ぐ正面を見て!』と叱責を受ける。 『ハイ』と正面を向き、心は目と違うソッポに向いている。 診察が終わると、もっと診てもらいたかったと、名残惜しく退室することになる。  毎度のこと!

 
 
 
●現代的なキャンパス・・・・・・・・・・病院の前には、帝京平成大学中野キャンパスと明治大学中野キャンパスが並んでいる。、、、、雅万歩が学んだ50年前の明治大学とは、大学の雰囲気も変わり、親しみやすい建物である。(ココ中野キャンパスは平成25年(2013)に開校した)
 
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●稲荷が守る会館・・・・・・・・中野駅南側、マルイの裏にある、大正時代に建築されたという町会の「桃園会館」。 町内の集会場で、町で使用しないときにいは、貸しだしているそうだ。、、、、桃園地域は中野駅南口を中心に、8町会、1自治会で構成されている地域。 地域の歴史は古く、五代将軍綱吉は約30万坪(100ha)に及ぶ野犬を保護するための施設「お囲い御用屋敷」をこの地に作った。 後に。将軍吉宗が犬囲いの跡地を「お立て場(休息所)」とし、紅白の桃を植え「桃園(とうえん)」と称えたことに由来する。、、、、、会館の脇にはお稲荷さんが祀られている。
 
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●裏道が好きなの!・・・・・・・・・・・今日も、裏道を歩く、“お天道様をまともにみられない男”。 ただただ、裏道が好きなだけ、雅万歩はけして刑務所帰りではありません。
 
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●明るくなった駅・・・・・・・・・裏道から東中野駅西口前に出た。、、、、東中野駅 は、明治39年(1906)6月14日、甲武鉄道の柏木駅として開業デビューした。 大正6年(1917)、東中野駅に改称する。 現在は、都営大江戸線の駅も開業し、乗り換え駅となった。、、、西口には駅ビルもでき、明るい駅に変わった。
 
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2019年1月21日 (月)

環七の下に葛西城址

今朝はチョイト風が強く寒い。 都営浅草線の浅草橋駅に入ってきたのは、青砥行の普通電車、これで決まり、今日は青砥で降りて歩くことにした。
青砥駅から環七通り沿いに歩き、中川大橋を渡り、金町駅までの散歩です。
 
 
 
●散歩のスタート・・・・・・・・・浅草橋でも、青砥でも、帽子にマフラーにジャケットを身につけ、最後はマスクで顔を隠し、北風の中、皆さん出勤。、、、、呑気な雅万歩は青砥駅 に着いた、電車は終点。 『ヨシ、歩くぞ!』
 
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●少なくなったトタン張りの住宅・・・・・・・・・・青戸7丁目、数軒の波型トタン張りの木造住宅が視界に入る。 昭和の匂いが漂い、チョイト覗いてみたくなる、空き家かと思うと、誰かいるようだ!、、、、、アパートだった建物は、ポストを縛り『入れないでね!』
 
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●武士はスッポンで戦う・・・・・・・・・・・青戸7丁目の中央を南北に走る環七通り。 その環七通りを挟むように、二つの公園が向かい合わせにある、「御殿山公園」と「葛西城址公園」である。 この両公園は葛西城の主郭があった場所で、周囲には堀も廻っていた。 昭和47年(1972)に環七通り建設に伴う発掘調査が行われ、戦国期の陶磁器、漆器、人骨など様々な遺物が発掘された。 また、中世末期から近世初頭の多数のスッポン遺体が出土しており、近世に西日本から新たにもたらされた食文化と考えられている。 なお、道路建設のため城跡は道路下に埋め戻された。、、、、葛西城は、築城者、築城年代は不明だが、桓武平氏の流れをくむ葛西氏が鎌倉時代に城館として築いたとされる。 東側を流れる中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城である。 天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐の際には攻められ落城する。 廃城となるが、家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿」と呼ばれる陣屋が建てられ、三代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用された。、、、、今は、当時を偲ぶものは何もなく、城址の碑と案内板があるのみ。 せめて、公園で『葛西城址まんじゅう』でも売れば、SNS映えし人気が出るかも。
 
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・・・・・・・・・・・・・・環七通りから見た、「御殿山公園」と「葛西城址公園」
 
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・・・・・・・・・・・・・・案内板にあった上空写真。 写真上側が南(青砥駅方面)、下側は北(亀有駅方面)  点線内が葛西城の範囲
 
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●城内の寺社?・・・・・・・・・・葛西城址公園の東側に青砥神社がある。 天正4年(1576)に、三社明神として創建し、青戸村の鎮守さま。 昭和に入り、近くの6社を合祀している。
 
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・・・・・・・・・・・・・・青砥神社の鳥居前には、神社の別当寺であった真言宗豊山派の観音寺がある。 寺は両鎮山慈眼院と号す。 天正4年(1578)の創建。 現在の本堂は昭和41年(1966)に建て替えられた。
 
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●シンプルな橋・・・・・・・・・・・・青戸の町と同じ葛飾区の新宿の町を結ぶ中川大橋 を渡る。 水戸街道(=国道6号)が通るこの橋は、昭和10年(1935)に開通し、現在の橋は平成元年(1988)に竣工した二代目の橋。 橋長は134.4m。、、、、、橋の上は、北風で寒い!
 
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●ウメが咲いていた!・・・・・・中川大橋を渡り、新宿2丁目の中川沿いに、浄土宗寺院の西念寺がある。 覚林山宝樹院と号す。 文安5年(1448)僧浄円が結んだ草庵を起源とし、天文元年(1532)に寺院として創建した。 江戸時代には門末7ヵ寺を擁する小本寺格の寺院であった。、、、、、ウメがほころび、寒さの中に春を感じる一刻。
 
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●整列!・・・・・・・・・新宿4丁目、道がY字に分岐する三角地に、十三体の石仏と帝釋道標と八大龍神碑がある。 新宿4丁目の川っ縁にあったものを、川の埋め立てと道路拡張工事のため移転してきたそうだ。 十三仏は全て地蔵12基と庚申塔1基、それに帝釋道標と八大龍神碑。そしてこれらを集めたことの記念碑。、、、、、園児が整列し迎えてくれてるてようだ。
 
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●たまには見たい通過列車・・・・・・・・・新金貨物線浜街道踏切を渡り金町駅へ向かう。、、、、一日2~3本の貨物列車が往復するだけの踏切り。、、、、列車が通過する写真を撮るのは難しい!
 
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●早いのどっち?・・・・・・・金町駅到着。 浅草橋(我が家)までは、JRより京成の方が早い、帰りは京成金町線にしよう!
 
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2019年1月18日 (金)

隠れ湯のある、要町

池袋から中板橋(東武東上線)あたりまで歩くつもりで家を出た。 池袋駅で下車し、西口前の要町通りを進むと、広い通りは『どうも面白くない』。 要町で裏道に入り、迷路に遭遇、『コリャ面白い』と、行ったり来たり、結局、東上線沿線には行けず。 地下鉄有楽町線千川駅までの散歩となった。
 
 
 
●裏通りは怖そうだ!・・・・・・・明治36年(1903)4月1日、乗降客も少なそうな農村地帯の中にあった池袋信号所が駅に昇格して池袋駅が開業した。 それから、115年過ぎ、今や池袋駅は、JR東日本、東武東上線、西武池袋線、地下鉄有楽町線・副都心線・丸ノ内線のターミナル駅である。、、、その池袋駅西口(東武デパートのある出口。 西武百貨店があるのは東口)に出た、駅前でキョロキョロ見回す。 学生・社会人の時代はほとんど縁のなかった町で、雅万歩は江戸っ子のお上りさんだ!、、、、裏通りは、ラブホテル街。 黒いスーツのお兄さんにキャッチされ、ホストクラブに勧誘されたらどうしよう? チョイト心配になる、雅万歩。 やっぱり、表通りを歩こう!
 
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●単調な大通り・・・・・・・駅正面の「要町(かなめちょう)通り」を歩く。 この通りの地下に、有楽町線・副都心線が走っている。
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・・・・・・・・・・・・・要町通りに面して建つ、チョイト大きなビルは「東都自動車ビルヂング」。 昭和48年(1973)に竣工した15階建て。 1階から4階まではオフィス、5階以上はマンション。 低層階のイスラム建築に見られるような半円のデザインが印象的。
 
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・・・・・・・・・・・・・こちらは、曹洞宗の瑞鳳山祥雲寺。 祥雲寺は、天文元年(1532)江戸城主遠山隼人正景久の室(北条上総介綱成の娘、法号浄光院)の菩提所として江戸城和田倉門内に起立、浄光院と称していた。 德川家康入府により駿河台、日向金杉、小石川戸崎町と点々と移転する。 宝永6年(1709)五代将軍徳川綱吉の死に伴い御台所が出家し浄光院と号したため祥雲寺と改称した。 大正4年(1915)、現在地(池袋3)へ移転した。、、、、境内には、漫画家:石ノ森章太郎の墓がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・祥雲寺から短い坂を下り、山手通りと交差する要町交差点に出る。
 
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・・・・・・・・・・・・・交差点には、地下鉄有楽町線・副都心線の要町駅がある。 
 
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●迷路の町・・・・・・・・・・広い通りを歩いていると退屈になる、何か変わったものは、何か面白そうなものは、キョロキョロしても何もない! 要町駅を通り過ぎたあたりに、「えびす通り商店街」があったので、こちらを歩くことにした。 えびす通り商店街は、要町通りの北側(要町1丁目)を南北に伸びる商店街で、200m程歩くと「仲見世商店街」に変わる。 どちらにしても、地元密着型の商店街で、よそ者にはどうでもいいや!、、、、歩く人は少なく、閑散として、元気がない商店街のようだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・商店街の途中に「延命地蔵尊」が祀られている。、、、、、謂れも由緒も判らず、“延命”を願い手を合わす。
 
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・・・・・・・・・・・・・延命地蔵尊から商店街に別れを告げて、商店街の裏(要町1丁目)を歩いてみた。、、、、ナント、雅万歩好みの裏道があった。 どの道も車一台が通れるくらいの幅で、鍵の手に折れ、また折れ、途中に階段があり、途中にコンクリートの塊があり、途中に「車の通り抜けできません」の看板あり、そしてまたまた折れ曲がっている。 どこの家も車は持っているが、どうやって自分の家までたどり着いたのか、歩く人でも迷路なのに、車にとっては超難問の迷路でもある!、、、、、歩く楽しみを充分味わうことができ魅力的な裏道で、行ったことないが、何となくモロッコの裏道のようだ!、、、、後で、地図を見たら、要町1丁目の町全体がこんな雰囲気、嬉しいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・オー、ナント、迷路の中に銭湯があった。 裏道から路地を入ると「山の湯」の玄関があった。 玄関前の縁台に外人が座り、美味そうにパイプタバコをふかしている。 『今から開くのを待っているんですか?』 『これから仕事で、その前に一服』(しっかりした日本語で応えてくれた) 『ここの湯舟、少し小さいですが温まりますよ』 『あ、ここの常連さんですね』 『はい、よく来るんですよ、今日も仕事が終わったら来ます』と、言って仕事に出かけた。 外人さんにも愛されている「山の湯」は、昭和34年(1959)の創業。 地元の隠れ湯かな?、、、、私も、ひとっ風呂入って行きたくなったが、営業は15:30から、残念! 
 
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●塚は立派、社は〇〇・・・・・・・・要町1丁目の北側(高松2丁目)に富士浅間神社がある。 創建年代は不詳だが、富士塚が文久2年(1862)に築造されたことから江戸末期には創建されていたそうだ。、、、、社の建物は平屋の住宅ようで、どうでもいいや!、、、、富士塚は、高さ8m、直径21mで、表面は富士山の溶岩で覆われている。 塚上には、50基ほどの石造物がある、立派な富士塚だ! この富士塚は国指定重要有形民俗文化財。
 
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●そろそろ帰る時間!・・・・・・再び要町通りを歩き、地下鉄千川駅に到着。 千川駅は、昭和58年(1983)有楽町線の開業と共に営業を始める。、、、、、上下2層構造で、各層に島式ホーム1面2線を有する地下駅。 地下1階は改札階、地下2階が有楽町線、地下3階が副都心線。
 
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2019年1月16日 (水)

副都心の裏をブラブラ

東日本橋駅から橋本行の電車に乗る。 相変わらず行先の当てもない散歩、『さて、何処で降りようか?』 いつものように車内で、『あの娘が降りる駅で降りよう』と決めた。 電車が新宿を過ぎた、『アレ、降りない? このまま、終点まで行かれたら散歩する時間が無くなる、どうしよう』と、チョイト考える。 電車は新宿の次の初台駅に停まる。 ドアが閉まる間際に、あの娘が降りた。 『アッ、失敗、一緒に降りられない!』、、、、ということで、初台の次の幡ヶ谷駅で下車し、気ままにブラブラ、適当にアッチャコッチャ、行きついた先の駅は東京メトロ丸ノ内線中野新橋駅。 気ままな散歩です。
 
 
 
●上ってみたい階段・・・・・・・・幡ヶ谷駅は、甲州街道の地下にある京王新線の駅。 大正2年(1913)11月11日に京王電気軌道の駅として開業。 昭和53年(1978)の京王新線開通に伴い、それまでの京王線の地上駅から、現在地の地下駅に移設された。、、、、ホームは相対式2面2線の構造で、地下2階にある。 改札口は地下1階に1ヶ所のみある。 地上の出口は甲州街道の南北両側に、北口と南口がある。、、、、平成20年(2008)にホームの初台駅寄りに、非常階段が設置された。 普段は閉鎖されているので、利用不可。
 
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●公園になった駅・・・・・・・・幡ヶ谷1丁目にある区立幡ヶ谷駅前公園は、京王線が地上を走っていた頃の幡ヶ谷駅跡である。 大正2年(1913)11月11日に駅が開業してから、昭和53年(1978)京王新線開通に伴い現在地に移設されるまで、ここに幡ヶ谷駅があった。、、、、、公園の隣りと向かい側には細長く駐車場がある。 この下に京王線が走っている。(京王新線は甲州街道の下) 京王線は幡ヶ谷駅のチョイ先で、地上に顔を出し隣の笹塚駅に向かう。
 
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●総延長500mの商店街・・・・・・・幡ヶ谷駅の東50m程にある「六号通商店街」を北に歩くと、水道道路に出る。  水道道路を横断し、「六号坂通り商店街」を歩く。 両商店街の総延長500m強。
 
・・・・・・・・・・・・・「六号通商店街」の“六号”とは、かつて水路(水道道路)に架けられていた橋を新宿側から順に、一号橋・二号橋・三号橋、と名付け、その六番目の橋を指す。 水道道路の南側に、甲州街道と水道道路を結ぶ六号通商店街はある。、、、、まだ通勤時間で、シャッターが降りている店が多い。
 
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・・・・・・・・・・・・・水道道路 は、明大前から新宿副都心にあった淀橋浄水場へ、玉川上水の水を引き込んだ水路の跡に造られた一直線の道路である。 道路の東側正面には、新宿副都心が見える。 また、この道路の南側に、ズラリと建ち並ぶ都営住宅は“お見事!” 1.5km以上の距離に30棟程は建っていると思う。
 
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・・・・・・・・・・・・・・水道道路を横断し、六号通商店街の向かいに「六号坂通り商店街」が続く。、、、、長くのびる商店街の端には、ちゃんと「六号坂」がある。
 
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●昔の仲間だ!・・・・・・・・渋谷区本町5丁目で、大きな工事現場が目にとまる。 アッ、雅万歩がよく知っているゼネコンの現場。 かつての仲間が、消防庁の職員用住宅を建てていた。、、、現場を遠目で見て、立ち去ろうとしたら、現場の所長が出ててきた。 チョイト挨拶し、『ガンバって!』、、、、ア~~、若けりゃ、もう一度現場に戻って仕事がしたい!
 
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●左右反転の副都心・・・・・・・・渋谷区から中野区南台に入りと、「南台いちょう公園」がある。 グランドを通して、新宿副都心のビル群が見える。、、、、普段は新宿駅側から眺めることが多いので、左右反転した今日は、副都心の裏側を見ているようだ。
 
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●道場?・・・・・・・・中野区弥生町の裏道に入ると、玄関の一部がなまこ壁の木造の建物があった。 接骨院の看板があるが気になる。 誰もいないので、チョイト周囲から拝見すると、どうやら柔道の道場だったようだ。 内部の壁には名札が掛けられていた。 味のある建物だ!、、、、接骨院は奥の別棟で開いているようだ。
 
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●繋がりのある2社1寺・・・・・・・・・・・弥生町の中央を通るバス通りをブラブラすると、2社1寺に遭遇。 チョイト、参ってくる。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは神明氷川神社で、文明元年(1468)太田道灌が江戸城鎮護のため武蔵大宮氷川神社より勧請し、当地周辺(雑色村)の鎮守社だった。、、、、只今、正月の提灯などを片付けていた。 もう、初詣の参拝客はないからね!
 
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・・・・・・・・・・・・・次は、真言宗豊山派の寺院、正蔵院。 寺は円通山海章寺と号す。 天文元年(1532)に創建された。 神明氷川神社の別当寺。、、、、、ここの御詠歌は、「あなうれし 行くも帰るも 留まるも 我は大師と 二人連れなり」  そこで、雅万歩の毎日は、「ああうれし 寝るも起きるも お食事も 我は家内と 二人連れなり」 (これホント) 
 
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・・・・・・・・・・・・・さてドン尻は、中野新橋駅に近い藤神稲荷神社。 先の神明氷川神社の境外末社として古くから鎮座していたと言われてるが、創建年代は不詳。
 
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●中野の新橋・・・・・・・・・昭和36年(1961)2月8日、帝都高速度交通営団荻窪線開通に伴い、途中駅として開業。 相対式ホーム2面2線の地下駅。 駅名は、近くを流れる神田川 に架かる橋の旧名称「新橋」に由来する。、、、、、駅の近くには、昭和36年頃、40軒以上の料亭があり、花街として栄えていたそうだ。 
 
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2019年1月15日 (火)

面白くない冬の曳舟川親水公園

昨日は、曳舟川(ひきふねがわ)通りを、押上から新四ツ木橋を渡り、「曳舟川親水公園」の入口まで歩いた。 これだけ歩くと、続きの曳舟川親水公園も踏破したくなるのが人情である。 真冬で、草木は緑を脱いで冬眠中、親水公園の“水”も抜かれてカラカラ、花なんて咲いておらず自分の鼻に“ミズッパナ”が咲くだけだ! これだけ、判っていながら、あえて親水公園の踏破に男魂が燃えて挑戦してきた。
四ツ木駅で下車し、水戸街道(=国道6号)から親水公園に入り全長3kmの公園を踏破し、亀有駅までの散歩です。 1万2千歩也
 
 
 
●通勤時間です・・・・・・・・朝8時、四ツ木駅では通勤のお時間です。 直出で、朝一、客先訪問の日は遅刻しないように気は焦る、電車が遅れようなら駅員を怒鳴りたくなる、電車が遅れたらタクシー拾って飛ばす、こういう時に腹痛が襲う、腹痛は下痢となりトイレに駆け込みたい、されどトイレは満員、静かに並んで待てず、足踏みしながら限界に近づく、冬だというのに冷や汗ダラダラ・・・ア・ア・アー、もう駄目だ!、、、、こんな経験サラリーマン時代一度はあるはず、雅万歩は10年程前にリタイヤ、今は毎日が日曜日、通勤が懐かしくなってきた。
 
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●さすが国道です・・・・・・・・・さて、四ツ木駅から水戸街道を越えて、曳舟川親水公園に向かう。、、、、さすが水戸街道は国道だ! 交差点か歩道橋でないと横断できないように、中央分離帯に柵がある。 柵を飛び越えてまで、無理な横断はしたくないので、渋々歩道橋を利用することにした。 年とると階段が辛い! こんな時、婦人警官が手をつないで階段の上り下りをサポートしてくれるといいね。 愛される警察官だ!
 
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●水のない親水公園・・・・・・・・・四つ木から亀有まで、南北に約3kmの長~~い「曳舟川親水公園」。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、江戸時代後期に牛馬に縄をかけ小舟を曳いて渡っていたことから「曳舟川」と呼ばれるようになった。 その曳舟川は、安政4年(1857)、初代歌川広重の「名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね」に描かれている。(写真は、葛飾区「郷土と天文の博物館」の壁に貼ってあった絵をパチリ!)
 
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・・・・・・・・・・・・・江戸時代の用水は、明治以降になると都市化も進み、用水の不要も招いた。 戦後は、用水ではなく排水路となり、投入物や悪臭問題を生じることになった。 曳舟川もその一つで、昭和28年(1953)から用水の統合・整理と暗渠化が始まった。 その暗渠の上に造られた公園が「曳舟川親水公園」である。、、、、現在の公園の様子を、四つ木側から亀有までの全区間、一挙堂々公開!
 
・・・・・・・・・・・・・四つ木4丁目、水戸街道から分岐点が、曳舟川親水公園の起点である。、、、、、この寒い時期に公園でブラブラしている人はいない、あたり前田のクラッカー。
 
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・・・・・・・・・・・・・・かつて曳舟川に架けられていた橋の地点には石碑が建てられている。 親水公園内だけでも、19カ所程あったようだ。 「曳舟一橋」~「曳舟十五橋」、他に、「曳舟橋」、「お花茶屋橋」、「宝青橋」、「曳舟古上水橋」である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・園内の清掃は行届いているようでゴミは無く、気持ちよく歩ける。 暖かくなり、草木が芽吹いてくれば、もっといいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・冬は花のない公園と思っていたが、スイセンがチョコット咲いていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・荷下ろしする堀のイメージで水路が作られ、脇には休憩所・便所も作られている。、、、、、冬は水を流していないようだ、温泉を流して足湯にしたら、近所のお年寄りが利用するかも! その時は「曳舟川親湯公園」に変更!
 
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・・・・・・・・・・・・・・ナント・ナント、サギがいました。 剥製か? 生きているのか? 本物か? 疑い深く近づくと、飛んで行った。 詐欺ではなかった。 
 
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・・・・・・・・・・・・・半分程歩いたところで、親水公園を京成本線が横切る。 ここには踏切がある。 写真の左側に、京成本線のお花茶屋駅 がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・踏切を渡ると、曳舟川親水公園も大きく広がる。 公園に隣接して地下には大きな駐輪場がある。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・白鳥2丁目付近の親水公園は幅も狭く公園と云うより、単なる歩道だ!、、、、誰も歩いていない、面白くないね。 若い娘でも歩いていたら、チョイト楽しいのだがね。
 
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・・・・・・・・・・・・・・公園の中に田圃があった。 コメの収穫は誰が?
 
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・・・・・・・・・・・・・・その先には、鷹匠の像があり、江戸時代の鷹狩りと、この地が鷹場であったことをあらわしている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・鷹匠の像の前には、葛飾区の「郷土と天文の博物館」がある。 『チョックラ覗いて行こう!』と、入館料100円で葛飾区の歴史を楽しんできた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・石組の間を清流が流れ、噴水からは水が落ちるはずの公園に水が無い! 断水か? 節水か? 寒いからか? 葛飾区はケチなのか?
 
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・・・・・・・・・・・・・・そろそろ親水公園も終点に近づくと、また公園らしくなってきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・「曳舟古上水橋」の碑がある、道上小学校東交差点が「曳舟川親水公園」の終点。、、、、、全長3kmの公園は、“水”の少ない“親水公園”であった。 今度来るときは、夏にしよう! 
 
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●・・・・・・・・・・・・・亀有駅に到着。 男の意地で、冬の面白くない(本音)曳舟川親水公園を踏破した。 ご苦労様!
 
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2019年1月14日 (月)

スカイツリーの足下、曳舟川通り

曳舟川(ひきふねがわ)は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、明暦3年(1657)の大火(振袖火事)の後、万治2年(1659)に開削したもの。 当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に飲料水として配水されたそうだ。 その後、業平橋以南の曳舟川は埋め立てられ、小梅村(墨田区)から亀有村(葛飾区)に至る約7.4kmは、通船運河として改修された。 この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「ザッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものだ。 明治期になると、人力車なども横行し、曳舟の様子も変わってきた。 明治末期には、荒川放水路(現:荒川)の開削工事により、墨田区側と葛飾区側に分断された。 そして、大正期の震災に遭い、川は流域の都市化とともに汚れ、悪臭、蚊・ハエの発生源となる。 両側の幅6mの道路の間を流れる、川幅5.5mの曳舟川も、戦後になると暗渠化された。 墨田区側は幅18mの立派な舗装道路となり「曳舟川通り」と命名した。 荒川には「新四つ木橋」が架かり、曳舟通りと共に水戸街道のバイパス的役割を担っている。 葛飾区側は暗渠の上に「曳舟川親水公園」を造り、四つ木からお花茶屋・亀有まで伸びる長~い親水公園となっている。
 
今日の散歩は、本所吾妻橋駅から、曳舟川通りを歩き曳舟川親水公園の入口まで行き、四ツ木駅から帰宅した。 1万3千歩
 
 
 
●雅万歩の通った駅・・・・・・・・・都営地下鉄浅草線の本所吾妻橋駅は、東京スカイツリーの西側(墨田区吾妻橋)に位置する。 昭和35年(1960)12月4日に開業した、相対式2面2線の地下駅。、、、、雅万歩が大学生の頃、家庭教師として通っていた駅である。 この辺りは結構詳しかったのだが、いつの間にか時代も変わり、私が知る店・住宅はマンションに変わってしまった。 
 
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●曳舟川通りを行く・・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、東武伊勢崎線の「とうきょうスカイツリー駅」に仁義を切って!、、、、、この駅、スカイツリーができる前までは「吾妻橋」、「浅草」、「業平橋」と、3回も名を変えていた。 今は、シャレた名前で出ています。 特急も停まる駅となり、お客の指名も増えました。
 
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・・・・・・・・・・・・・・駅のとなりのスカイツリー
 
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・・・・・・・・・・・・・ときょうスカイツリー駅の北側、交差点の角に曳舟川由来碑がる。 この交差点から曳舟川通りは新四ツ木橋へのびて行く。、、、、けして古い石碑ではない、平成5年(1993)に地元墨田区が建てたもの。 曳舟川の由来とこの辺りの昔の地名「小梅」の由来が述べられている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・曳舟川由来碑がある一画に、都営住宅の押上二丁目アパートがある。 昭和45年(1970)以降に建てられた161戸の団地である。、、、、団地の前はとうきょうスカイツリー駅、さらにその隣にスカイツリー。 スカイツリーから立ち小便をされたら、もろに当たりそうな団地だ。 展望台はガラス窓がシッカリ閉められていて、ヨカッタ!
 
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・・・・・・・・・・・・・続いてその先(押上2-12)にあるセントル中之郷は、日本最初の近代的アパート「同潤会中之郷アパートメント」の跡地に、昭和65年(1990)に建てられた。、、、、震災後の東京の各地に建てられた同潤会アパートの一つ。 鉄筋コンクリート造の建物は、上野下アパート を最後に全て取り壊された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・そのセントル中之郷の前に、同潤会建築もどきの建物「墨田民主商工会」がある。 おそらく、戦前の建築と思われる木造の看板建築だが、正面の柱のデザインはチョイト味があるね!、、、、正面の玄関ポストに「移転しました入れないでください」の貼り紙があった。 取り壊しか? また一つ、昭和の建築が消えるのか?
 
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・・・・・・・・・・・・・・東向島4丁目付近の曳舟川通り。 奥のタワーマンションは、東武亀戸線と京成押上線が交差する地点にたつ「イーストコア曳舟」(墨田区京島1)。
 
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・・・・・・・・・・・・・・応仁2年(1468)の創立と伝えられる高木神社(押上2)、昔は第六天社と称した、旧寺島村大字新田の鎮守。 明治15年村社に列格した。 祭神は、男女の「むすび」を象徴する神として、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)である。 縁結びの神として、絵馬は“おむすび”形である。、、、、社殿は昭和42年に鉄筋コンクリート造で建て替えられた。
 
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・・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線の曳舟駅 前を歩く。 駅前の東京曳舟病院の1階は通り抜けができ、駅の改札、改札挟んで反対側の西口に行くことができる。
 
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・・・・・・・・・・・・・歩いてきた道を振り返ってみると、スカイツリーが良く見える。 ここは京島1丁目、曳舟文化センター前。 
 
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・・・・・・・・・・・・・明治通りを越え、左は東向島6丁目・右は八広1丁目の町に入る。 でも、特に変わったこともない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・交差点角の喫茶店に置かれていたサボテンに心惹かれ、しばし眺める。  「吹雪柱」という名のサボテンらしい。 なんだか、見る人の見方、意識によって、動物のようにも見え、人体の一部のようにも見え、手に持ってコチョコチョしたくもなり、イロイロ頭の中で連想してしまった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東向島6丁目の長浦神社では、成人式の晴れ着で両親と参拝する姿が見られた。 いいね!、、、、、長浦神社の創建年代は不詳だが、第六天社として創建し、明治維新後地名より長浦神社と改称したといわれている。 祭神は神皇産霊神、登由宇気神。
 
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・・・・・・・・・・・・・そろそろ曳舟川通りの終点。 交差点の先に新四ツ木橋が見える。
 
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●渡れば葛飾区・・・・・・・・・・墨田区八広と葛飾区東四つ木を結び、荒川に架かる新四ツ木橋。 昭和27年(1952)にそれまでの木橋に変わり、新四ツ木橋(現在の四ツ木橋)が永久橋として開通した。 しかし、橋の前後で慢性的に渋滞が発生したことから、曳舟川通りを延長する形で国道6号に平行して新橋「新々四ツ木橋」(現在の新四ツ木橋)を建設した。 昭和48年(1973)に竣工し、供用を開始し。 全長547.8mの鋼連続箱桁橋。
 
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・・・・・・・・・・・・・・下流側には京成押上線の荒川橋梁が架かる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・上流側には、四ツ木橋が架かり、水戸街道(=国道6号)と並行する。
 
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・・・・・・・・・・・・・新四ツ木橋を渡り、水戸街道と合流すると、スグ、その先で道路は分岐する。 直進(写真右側)するのは水戸街道、左側に分岐するのは「曳舟川親水公園」のある道路で、亀有方面に向かう。
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・・四ツ木駅 から、『おひとり様 お帰りです~』
 
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2019年1月11日 (金)

坂の町、代々木

JR中央線代々木駅から、小田急線の西側に位置する渋谷区代々木2丁目・3丁目・4丁目の町を、いつものように気ままにアッチャ・コッチャ歩いて、小田急線参宮橋駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
●代々木村からは遠い代々木駅・・・・・・・・・・・・明治39年(1906)9月23日、甲武鉄道(現:中央線)の駅として代々木駅が開業した。 この時すでに、現在の山手線の一部となる日本鉄道の山手線(品川-渋谷-新宿-池袋-田端)が開通していた。 しかし代々木には駅は無く通過。 明治42年(1909)12月16日から山手線も代々木駅に停車することになった。、、、2面2線の相対式ホームの間に1面2線の島式ホームを配した3面4線の高架駅。 都営大江戸線の乗換駅でもある。、、、、代々木駅は、明治44年(1911)の一日平均乗車人員は2,026人であったが、平成29年(2017)には、約35倍の69,935人となった。 駅周辺には、各種の専門学校が多く、若い人の乗り降りが多い。、、、、江戸時代の代々木村は、現在の小田急線代々木上原駅を中心とする西原・上原のあたりであった。 代々木駅開業時には小田急線・京王線もまだ開通しておらず、代々木村に近い駅(代々木上原駅から2.5km程離れている)として命名されたそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・【親切に一言】 代々木公園、代々木警察署、代々木郵便局、代々木中学校など、“代々木”と名の付いた施設の最寄り駅は代々木駅ではありません。 お間違えなきように!
 
 
 
●踏切が好きな雅万歩・・・・・・・・・今日は小田急線の踏切り数か所を歩いてきた。 
 
・・・・・・・・・・・・・・まずは、小田急線が新宿駅に出入りする「新宿1号踏切」。 踏切の地下には都営大江戸線が走っている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・南新宿駅の手前にある「新宿2号踏切」。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・新宿2号踏切の西側に、建築家:渡辺仁(1897~1973)が設計した小田急電鉄の旧本社ビルが残っている。 清水組(現:清水建設)の施工で昭和2年(1927)に竣工した、鉄筋コンクリート造3階/地下1階建ての建物。 数年前に改修工事が行われたが、半円形の窓などドイツ表現派の影響が強くみられる建物である。、、、、渡辺仁は、横浜のホテルニューグランド、銀座和光(服部時計店)、第一生命相互館などを手掛けた昭和を代表する建築家。、、、、、(3枚目の写真は2012年撮影)
 
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・・・・・・・・・・・・・・旧小田急本社ビルのチョイト先に南新宿駅がある。、、、、昭和2年(1927)4月1日に、当時の駅所在地の地名をとって千駄ヶ谷新田駅として開業した。 その後、駅名は小田急本社前駅に改称し、さらに昭和17年(1942)からは南新宿駅となった。、、、、相対式ホーム2面2線の地上駅であるが、窪地に駅があるためか出入口はガード下にあり、高架駅のように見える。 周囲の超高層ビルから見下ろされているような駅だ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・南新宿駅ホームの南端には「南新宿2号踏切」がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・引き続き、「南新宿3号踏切」がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、「南新宿5号踏切」。
 
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・・・・・・・・・・・・・・南新宿5号踏切の先は切通し。、、、、、ちょうど、ロマンスカーが来た、平成17年(2005)に登場した50000形(VSE車)だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・切通しの先に、参宮橋駅のホームが見える。
 
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●坂の町、見下ろされる町・・・・・・・・代々木の町は小さな無名の坂が多い。 坂の先には、新宿副都心、初台の東京オペラシティタワーなど、超高層ビルが立ち並び、自分は鍋底に居て、見下ろされている圧迫感を強く受ける町だ!、、、、、参宮橋商店会では『坂の町 花の町』をキャッチフレーズにしている。 “坂の町”は納得! “花の町”は? どこにある?
 
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・・・・・・・・・・・・・・今日歩いた坂で、唯一名が付いていた坂。 その名は「切り通しの坂」。 画家:岸田劉生が描いた作品「道路と土手と塀」(東京国立近代美術館蔵、重要文化財)のモデルとなった坂。、、、、、この坂を見て、劉生の描いた坂をイメージすることは難しいね! ぜひ、画を観てね!
 
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●散歩の最後は参宮橋駅・・・・・・・・・・・・参宮橋駅は昭和2年(1927)4月1日に開業。 駅は相対式ホーム2面2線の地上駅。 只今、10両編成対応とするため、ホームの改良工事中。、、、ところで、駅名の「参宮橋」とは?、、、、参宮橋は小田急線を通すため、代々木練兵場の一部を切り通した時に架けられた橋である。 明治神宮への参道ともなるため「参宮橋」と命名した。、、、、(参宮橋の写真は2014年撮影)
 
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2019年1月 9日 (水)

寒さに負けて西洋美術館へ

今日は、東上野の病院で、泌尿器科の定期検診日。 昨年暮れに前立腺癌の検査を行い、本日はその結果のお告げがある日。 受付の可愛いマリアさまを見つめながら、悪いお告げがないように神に祈る。、、、先生から、『心配することはないですね』と神の言葉を聞いて、ホットした。
帰りは、上野公園を抜けて日暮里方面に向かうつもりで病院を出ると、気温7℃、風速6m/s、強風注意報も出ている久しぶりの北風、コリャ寒い! やせ我慢しながら、国立西洋美術館前まで来ると、『常設展 65歳以上無料』の文字を発見! 急遽、散歩の行く先変更、「今日は美術鑑賞して帰ろう!」、、、、ということで、国立西洋美術館に行ってきた。
 
 
 
●北風吹きぬく 寒い上野・・・・・・・・・・・・・北風が吹き抜ける上野駅。 雲はすっ飛び綺麗な青空、日は低く影は長い。、、、、正面玄関と公園口を結ぶパンダ橋の上も人影はまばら。 
 
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●考える人の美術館・・・・・・・・・・平成28年(2016)世界遺産に登録された、ル・コルビュジェ(1887~1965、近代建築の三大巨匠の一人、スイス生まれでフランスで活躍)の設計による国立西洋美術館。、、、、、寒さに負けた男一匹、入場無料の甘い言葉に誘われて、しばしの暖を求め玄関先から奥へ、、、、、『世界遺産で暖をとるなんて粋だね!』
 
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・・・・・・・・・・・・・国立西洋美術館は、先の大戦後、フランス政府に差し押さえられていた、川崎造船所社長:松方幸次郎がヨーロッパで収集した西洋美術品「松方コレクション」の寄贈返還を受けるため設立された。、、、、その時の返還条件の一つに国立西洋美術館の建設があった。 日本政府はル・コルビュジェに設計を依頼し、清水建設の施工により昭和34年(1959)に完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・・・建物の中心に置かれた「19世紀ホール」(ル・コルビュジェの命名)は、吹き抜けの大きな空間である。 天井には明り取りの三角形のトップライトがあり、やわらかな光が差し込んでくる。 その天井を支える打ちっぱなしの大きな円柱。 そして、大きな斜路が観る人を2階へ誘導する。 この空間にロダンの彫刻が配されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・19世紀ホールを囲むように、外周に展示室が配されている。、、、、、どの絵も超一級の作品のようだ。 西洋美術館には4000点以上の収蔵作品があるそうだ、1点1億円とすると、全部で・・・・・・?
 
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・・・・・・・・・・・・・雅万歩がチョイと気に入った作品2点、カルロ・ドルチの『哀しみの聖母』(1650年頃)と、マリー=ガブリエル・カペの『自画像』(1783年)、、、、、我が家に飾りたいが、この絵に合う部屋がないね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・ル・コルビュジェが設計した西洋美術館本館の接続する新館がある。 この新館は、ル・コルビュジェの設計を手伝った前川國男の設計。 こちらは外観を撮影することはできなかった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・新館から中庭をとおして本館を望む。
 
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・・・・・・・・・・・・・・前庭には、おなじみロダンの『地獄の門』と『考える人』、、、、、最近、テレビで見る、鶴瓶の「考える人」(太田胃散のコマーシャル)の方がなじみやすかも?
 
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2019年1月 7日 (月)

恋は暗い夜道で

七草がゆを食べ、お飾りをはずして、正月気分も今日まで。 夕暮れに近づく頃、総武線小岩駅から総武線の南側を歩き新小岩駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
●恋は~恋は~・・・・・・・・・・明治32年(1899)5月24日、総武鉄道の駅として小岩駅は開業し、その後国有化された。、、、、一昔前、電車が到着すると“小岩ー、小岩ー”とホームにアナウンスされていた。 それを聞いて、“恋は~、恋は~ 私の恋は~”と続けて口ずさんだ駅である。、、、、昭和43年(1968)、雅万歩が大学3年生の夏、ピンキーとキラーズが毎日、お昼になるとテレビ:コント55号の番組に出て『恋の季節』を歌っていた。 私は、大学の近くの中華ソバ屋で、棚の上のテレビを見ながら、野菜炒め定食を食べていた、思いである歌だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・駅前の「フラワーロード」。 この両側で、再開発工事が始まり、超高層が建つそうだ。、、、、、小岩より都心に近い、私の住む浅草橋には超高層ビルは一棟もない。 残念、負けた!
 
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●江戸時代の寺と神社・・・・・・・・・・フラワーロードの西側奥に、真言宗豊山派の神明山円蔵院がある。 天文年間(1532~1555)に創建された。 門前には庚申塔・地蔵尊が4基あり、歴史を感じさせる。
 
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・・・・・・・・・・・・・円蔵院の東隣りに南小岩天祖神社(沖天祖神社)がある。 かつての別当寺は円蔵院であった。 創建年代は不詳。
 
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●夕日に染まる川・・・・・・・・小岩駅から総武線沿いに新小岩方面に歩くと新中川にぶつかる。、、、、新中川は中川放水路として、昭和38年(1963)に完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・小岩駅から新中川まで伸びる高架橋。 小岩駅とこの高架橋は飛島建設の施工で造られた。 雅万歩が、社会人となった時、新人研修で訪れた現場がココである。 まだ総武快速線が走っていない高架橋の上を歩かされ、工事の説明を受けたことを覚えている。、、、、総武快速線の高架橋完成は昭和45年(1970)である。 並行して走る総武緩行線の高架橋は昭和31年(1956)に完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・・・新中川に架かる「JR総武本線中川放水路橋梁」で、総武緩行線が走る。 新中川掘削工事に伴い、架橋。 昭和31年(1956)に完成。 なお、快速線は緩行線と並行している。、、、、1径間複線下路ワーレントラス橋+4径間単線上路プレートガーター桁橋
 
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・・・・・・・・・・・・・・鉄道協の下流に架かるのは「辰巳新橋」で、初代は昭和31年(1956)に架けられ、その後、歩道橋が増設された。 現在の橋は、平成5年(1993)に架け替えられたものである。、、、、、水辺に人々が集うよう、やさしいイメージのデザインで架けられた。 バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋と称する形式の橋で、長さ120.3m。
 
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●身を切り、杜を守った神社・・・・・・・・・・・・辰巳新橋を渡り、江戸川区興宮町の興之宮神社に寄る。、、、、、興之宮神社の創建年代等は不詳ながら、寛永7年(1630)10月の改築(現本殿)と伝えられ、興宮村の鎮守だったとそうだ。 祭神は天照皇大神。 、、、、、戦後、荒廃した社殿・境内を整備すべく、境内の一部を宅地化し整備資金に充てたそうだ。
 
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●アパートの町・・・・・・・・・・・環七通りを越え、上一色1丁目の町に入ると、比較的新しそうなアパートの多いことに驚いた。 総武線沿線の学生用か? お高そうな高層マンションは見あたらない。
 
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●南無阿弥陀仏で供養・・・・・・・・・・・・・・総武線沿いに南側で、江戸川区上一色の町から葛飾区新小岩の町に入る。 小岩は江戸川区、新小岩は葛飾区、チョイト、スッキリしない町名だ!、、、、新小岩4丁目の歩道上に「六字名号塔(ろくじみょうごうとう)」があった。 「南無阿弥陀仏」の六文字を六字名号と呼び、阿弥陀仏への帰依を表す唱号である。、、、、正面に「南無阿弥陀仏」と彫ったこの供養塔は、享保16年(1731)に二人の子を亡くした村人が供養のために建てたものだ。
 
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●親爺でも乳がでる?・・・・・・・・・新小岩4丁目の於玉稲荷神社(おたまいなりじんじゃ)。 於玉稲荷神社は、千代田区岩本町繁栄お玉稲荷大明神を勧請して創建された。本社の繁栄お玉稲荷大明神が安政2年の大震火災で焼失し、明治4年(1871)に本社を当地へ遷座した。、、、、大きなイチョウの木の案内に次のように書かれていた。 「育児祈願の願掛け銀杏 江戸は奥戸の小松村 お玉稲荷の銀杏の幹は 神のお授け お乳が出るよ」 お乳の出ない爺の雅万歩も試しに願掛けしてきた。 今夜あたり乳がはり痛くなるかも、出たらどうしよう?!
 
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●日も落ち帰宅する・・・・・・・・・・・明かりの灯る商店街を歩き新小岩駅 から帰宅する。
 
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2019年1月 5日 (土)

チョイト、マイナーな神社巡り

三が日は過ぎたがまだ松の内、平成最後の年の散歩始めは我が家の近くの神社巡りから。 浅草橋の氏神様からスタートし、柳橋、東日本橋、大伝馬町、秋葉原の、チョイトマイナーで、チョイト歴史ある、普段参拝する人の少ない神社を巡り我が家に戻る、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●何はともあれ氏神様から・・・・・・・浅草橋駅東口(江戸通り側)裏、飲食店と問屋が並ぶ裏通りに、せせこましく祀られた銀杏岡八幡神社。 御祭神は、誉田別皇命と武内宿祢命の二神。 雅万歩の氏神様である。、、、、、中世、この付近には小高い丘があり隅田川が一望できたそうだ。 源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。、、、、江戸時代には、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといわれている。 ちなみに、雅万歩出生時の住所は浅草区新福井町(現:浅草橋2)であった。 
 
・・・・・・・・・・・・・浅草橋1丁目と2丁目の境「福井町通り」は、まだ正月気分で人通りも少ない。、、、、福井町は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町である。 新福井町は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。そして、昭和39(1964)の住居表示にて、両町は現在の浅草橋一、二丁目になった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・銀杏岡八幡神社。 コンクリート造の鳥居と社殿。 
 
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●花柳界のちっぽけな神社・・・・・・・浅草橋駅から総武線の高架橋に沿って両国の側に歩くと、隅田川沿いのビルの角に小社がある。 これぞ、“知る人ぞ知る 知らん人は知らん!”、かの有名ではない石塚稲荷神社である。、、、、石塚神社の祭神は倉稲魂命であり。 神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれ、元禄元年(1688)当地へ移転した。 火伏神と言う事で火除けの神。 戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建された。 玉垣には右から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」と続いている。 柳橋の橋の袂から隅田川沿いに建っていた料亭の名である。 神社を中心に、花柳界:柳橋の料亭が家並みを連ねていた。、、、、雅万歩の小学生の頃(昭和30年代)は神社の近くに、見番(組合)があり、銭湯があった。 料亭は愛用できなかったが、銭湯はよく利用した。
 
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●花柳界の神社・・・・・・・・柳橋にもう一社、有名ではない神社がある。 その名は、篠塚稲荷神社。、、、、篠塚稲荷神社の御祭神は倉稲魂命、創建年代は不詳。 正平年間(1346~1369)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に主家再興の祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったそうだ。 延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったが、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残った。、、、、、神社の近くに小学校の同級生が住んでいて、お母さんは柳橋の芸者さんだった。 家は黒板塀の家で、放課後よく遊びに行った処。
 
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・・・・・・・・・・・・・手を合わせた後、柳橋を渡り中央区に入る。 橋の左側には、料亭:亀清楼が営業中。、、、、柳橋から上流:浅草橋を眺める。、、、、この辺りは、雅万歩の遊び場の一つで、船宿の桟橋から四手網を持ってハゼ釣りした処。
 
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●七味唐辛子の薬研堀・・・・・・・・・・・・・柳橋を渡り京葉道路を横切ると、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院 の呼び込み用の赤い旗が、道路わきで“おいでおいで”をしている。、、、、手招きで“おいでおいで”されると男は弱いもの、ついフラフラと誘い込まれて、身ぐるみ剥がされ、身も心も寒い寒いこととなる。 ここでは旗の手招きなので、安心して誘われ、賽銭とられても心は暖かくなる。、、、、天正13年(1585)豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、安置されていた不動明王尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、兵火を逃れて遥々東国に下ってきた。 僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。 これが当不動院の開創。、、、、、“薬研堀”とは、現在の東日本橋にあった運河のことで、この辺りの運河の断面はⅤ字形をしており、漢方の調薬道具に似ていることから“薬研堀”と呼ばれていた。 堀の名が地名となり、この辺りで“七味唐辛子”を売る店があったことから、薬研堀の七味唐辛子が有名になった。 不動院とは直接関係なし。
 
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●昭和7年の銀行建築・・・・・・・・・・・薬研堀から日本橋堀留町へ向かう途中、日本橋富沢町に国登録文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店 の建物がある。 外観は、明治から昭和初期に建てられた銀行・保険会社の建物に多く見られる、西欧古典主義様式によるデザイン。 この建物では1、2階を貫くコリント式の大オーダーが通りに面して並んでいる。 建物角の、隅切りされた正面のデザインに建築家の苦労の跡が見られる。、、、、現在は「ハリオグラスビル」として使用されている。
 
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●宝くじの神様に賽銭はずむ・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の小伝馬町駅に近い、日本橋堀留町の椙森神社(すぎのもりじんじゃ)に到着。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。、、、、早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在では、「東京2020大会協賛くじ」を売ってオリンピックの財源確保するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、サッパリ当たらない。 今日は拝殿横にある「富塚」にも手を合わせてきた。 『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ヨロシク』
 
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・・・・・・・・・・・・・【蛇足】 ① 明治維新以後も、東京の古社として盛んに信仰されたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 自社の再建には富くじを発行しなかったらしい!  ②神社は日本橋七福神 の内の一社で、恵比寿神を祀っている。
 
 
 
●べったら漬けの神様・・・・・・・・・・・・ここまで来たらチョックラべったら漬けの神様にもご挨拶していくことにした。 椙森神社から西に250m程、日本橋本町の駐車場に挟まれた小さな小さな宝田恵比寿神社。、、、、宝田恵比寿神社は、宇迦能御魂命・素盞嗚尊・大国主命・事代主命・大穴持命・少彦名命の6柱を祀る。 集団管理体制の神社。、、、、、元は江戸城外宝田村の鎮守だった。 創建年代は不詳だが、慶長年間の江戸城改築の際、移転したものといわれる。 移転作業を命ぜられた馬込勘解由は、家康の命に従って千代田・宝田・祝田3ヶ村の常盤橋外へ無事移転させ、大業を成し遂げた功により、徳川家繁栄祈念の恵比寿像を授けられ、平穏守護の神体として、鎮守の社に安置したのが今日に至った。 その像の作者は鎌倉時代の名仏師運慶と伝えられている。、、、、、神社のある、旧大伝馬町は江戸開府以来の木綿問屋の町で、1月と10月には繁栄を祈って盛大に夷講を行った。 現在は10月のみに開催されているが、宝田恵比寿は、商売繁盛、一家繁栄、火伏せの神として崇敬者は広く関東一円におよび、10月19日・20日の「べったら市」恵比寿神祭が盛大に行われる。 明治6年神田神社(神田明神)の兼務となり、大正12年大震災の災厄を蒙ったが、本殿のみは炎上を免れ、のち拝殿を再建し今日に至っている。、、、、、宝田恵比寿神社も、日本橋七福神の一社。
 
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●体験したい伝馬町牢屋敷・・・・・・・・・・宝田恵比寿神社のある旧大伝馬町(現:日本橋本町)から、伝馬町の牢屋敷があった小伝馬町は、江戸通りを挟み隣り同士だ。 チョイト寄ってみよう!、、、、日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の寺院:大安楽寺(だいあんらくじ)は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡にある。 明治15年(1888)、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して創建されました。 高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。、、、、ここの牢屋敷は、延宝5年(1677)常磐橋門外からここに移されて、明治8年(1875)市ヶ谷監獄ができるまで使用されていた。 今は、当時を語るようなものは何も残っていない。 体験入牢できるような施設を作ったら、訪れる人も多くなるかも?
 
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●天照大神の兄姉神を祀る神社・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡から北西に約250m、千代田区岩本町2丁目に金山神社がある。、、、ナンジャ! 正月だというのに、誰もいない、扉もとじられたまま、コリャどうなっているのか、サッパリ判らん? とりあえず、二礼二拍一礼して行くことにした。、、、、金山神社は、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社の御分霊を組合事務所に奉斎し創建されました。 第二次大戦の災禍にあったものの、昭和29年11月8日に再建されました。、、、、御祭神の金山彦命、金山姫命の二柱は、伊勢に鎮座される天照大神の兄姉神で、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司る神である。 金属業界には打って付けの神だ。、、、、天照大神の兄姉神が、金属業界の神とは知らなかった!
 
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●たぬきの神社・・・・・・・・・・岩本町まで来たら、靖国通りを越え、神田川沿い(千代田区須田町2)にある柳森神社(やなぎのもりじんじゃ)に寄って行こう。、、、、、長禄3年(1459)、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けの柳の森とした。 その鎮守として祀られたことを創祀とする。 万治2年(1659)、神田川の築堤のため現在地に移転した。 烏森神社(新橋)・椙森神社とともに江戸三森と称された。、、、、、境内社の福寿社は5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。 かつては八百屋の娘から将軍の生母になった桂昌院にあやかりたいという女性たちに崇められた。 当初は江戸城内に祀られていたが、後に旗本の瓦林邸内に移され、明治維新に際して柳森神社で祀るようになった。、、、、、ここも、正月だというのに、訪れる人は少ない。 神社も、特別に人を出していないようだ。
 
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●引越しの日通が引越し・・・・・・・・・・和泉橋を渡り神田川を越え、秋葉原駅前から浅草橋方向に歩くと三井記念病院があり、その隣は日本通運の敷地である。 現在、13階建ての新本社ビルを建設中、その一画に、金綱稲荷神社(きんつないなりじんじゃ)がある。 神社は日通金綱稲荷奉賛会によって維持されている。、、、、、およそ420年、前日本通運の前身である飛脚問屋京屋弥兵衛が、日頃から五穀豊穣・商売繁盛・衣食住の神・道中の安全の神として崇められていた伏見稲荷大社を信仰し参拝していましたが、浪速・京・江戸間の運送業務を始めるにあたり、自店に“御霊”を勧請した。 ある日夢枕に、ご神霊が立ち「汝の篤信のため金の綱を授ける」とのお告げがあり、自店で奉祀している神様を「金綱稲荷」と称した。 その時、祀った場所が、現在の地(神田和泉町)であり、日本通運の創業の地でもある。、、、、日本通運は現本社の所在地:港区から、2021年に新本社ビルに移転し、創業地に帰ることになる。 
 
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●神社巡りのゴールは我が家・・・・・・・金綱稲荷神社から、浅草橋の我が家までは徒歩5分。 つまり、千代田区神田和泉町と台東区浅草橋は隣り同士の町である。 出発した福井町通りに戻った。
 
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2019年1月 2日 (水)

宝くじ当選を祈願し浅草寺

穏やかな正月を迎え家族全員で初詣。 今日の浅草寺は超満員の状態で、雷門前から規制され、仲見世から本堂まで渋滞行列である。、、、、今年こそ、チョイト遠慮気味に『宝くじ、前後賞の1.5億円当選』を期待し、お賽銭も奮発し100円で、じっくり、懇ろに、しつこく、祈願した。 ついでに、家族の無病息災、鶴寿千歳を願い、おまけに、夫婦円満も願ってきた。、、、いよいよ、平成31年の始まりです、今年も雅万歩を続けられることに喜びを感じ、一年を過ごせればこれ幸いです。

 
 
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