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2019年1月 5日 (土)

チョイト、マイナーな神社巡り

三が日は過ぎたがまだ松の内、平成最後の年の散歩始めは我が家の近くの神社巡りから。 浅草橋の氏神様からスタートし、柳橋、東日本橋、大伝馬町、秋葉原の、チョイトマイナーで、チョイト歴史ある、普段参拝する人の少ない神社を巡り我が家に戻る、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●何はともあれ氏神様から・・・・・・・浅草橋駅東口(江戸通り側)裏、飲食店と問屋が並ぶ裏通りに、せせこましく祀られた銀杏岡八幡神社。 御祭神は、誉田別皇命と武内宿祢命の二神。 雅万歩の氏神様である。、、、、、中世、この付近には小高い丘があり隅田川が一望できたそうだ。 源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。、、、、江戸時代には、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となったといわれている。 ちなみに、雅万歩出生時の住所は浅草区新福井町(現:浅草橋2)であった。 
 
・・・・・・・・・・・・・浅草橋1丁目と2丁目の境「福井町通り」は、まだ正月気分で人通りも少ない。、、、、福井町は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町である。 新福井町は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。そして、昭和39(1964)の住居表示にて、両町は現在の浅草橋一、二丁目になった。
 
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・・・・・・・・・・・・・・銀杏岡八幡神社。 コンクリート造の鳥居と社殿。 
 
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●花柳界のちっぽけな神社・・・・・・・浅草橋駅から総武線の高架橋に沿って両国の側に歩くと、隅田川沿いのビルの角に小社がある。 これぞ、“知る人ぞ知る 知らん人は知らん!”、かの有名ではない石塚稲荷神社である。、、、、石塚神社の祭神は倉稲魂命であり。 神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといわれ、元禄元年(1688)当地へ移転した。 火伏神と言う事で火除けの神。 戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建された。 玉垣には右から「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」「卯の木」「深川亭」「二葉」「鶴の家」と続いている。 柳橋の橋の袂から隅田川沿いに建っていた料亭の名である。 神社を中心に、花柳界:柳橋の料亭が家並みを連ねていた。、、、、雅万歩の小学生の頃(昭和30年代)は神社の近くに、見番(組合)があり、銭湯があった。 料亭は愛用できなかったが、銭湯はよく利用した。
 
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●花柳界の神社・・・・・・・・柳橋にもう一社、有名ではない神社がある。 その名は、篠塚稲荷神社。、、、、篠塚稲荷神社の御祭神は倉稲魂命、創建年代は不詳。 正平年間(1346~1369)に新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に主家再興の祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになったそうだ。 延宝9年(1681)には篠塚山玉蔵院宗林寺となったが、明治維新の神仏分離令により廃寺となり、篠塚稲荷神社が残った。、、、、、神社の近くに小学校の同級生が住んでいて、お母さんは柳橋の芸者さんだった。 家は黒板塀の家で、放課後よく遊びに行った処。
 
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・・・・・・・・・・・・・手を合わせた後、柳橋を渡り中央区に入る。 橋の左側には、料亭:亀清楼が営業中。、、、、柳橋から上流:浅草橋を眺める。、、、、この辺りは、雅万歩の遊び場の一つで、船宿の桟橋から四手網を持ってハゼ釣りした処。
 
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●七味唐辛子の薬研堀・・・・・・・・・・・・・柳橋を渡り京葉道路を横切ると、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院 の呼び込み用の赤い旗が、道路わきで“おいでおいで”をしている。、、、、手招きで“おいでおいで”されると男は弱いもの、ついフラフラと誘い込まれて、身ぐるみ剥がされ、身も心も寒い寒いこととなる。 ここでは旗の手招きなので、安心して誘われ、賽銭とられても心は暖かくなる。、、、、天正13年(1585)豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、安置されていた不動明王尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、兵火を逃れて遥々東国に下ってきた。 僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。 これが当不動院の開創。、、、、、“薬研堀”とは、現在の東日本橋にあった運河のことで、この辺りの運河の断面はⅤ字形をしており、漢方の調薬道具に似ていることから“薬研堀”と呼ばれていた。 堀の名が地名となり、この辺りで“七味唐辛子”を売る店があったことから、薬研堀の七味唐辛子が有名になった。 不動院とは直接関係なし。
 
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●昭和7年の銀行建築・・・・・・・・・・・薬研堀から日本橋堀留町へ向かう途中、日本橋富沢町に国登録文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店 の建物がある。 外観は、明治から昭和初期に建てられた銀行・保険会社の建物に多く見られる、西欧古典主義様式によるデザイン。 この建物では1、2階を貫くコリント式の大オーダーが通りに面して並んでいる。 建物角の、隅切りされた正面のデザインに建築家の苦労の跡が見られる。、、、、現在は「ハリオグラスビル」として使用されている。
 
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●宝くじの神様に賽銭はずむ・・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の小伝馬町駅に近い、日本橋堀留町の椙森神社(すぎのもりじんじゃ)に到着。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。、、、、早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在では、「東京2020大会協賛くじ」を売ってオリンピックの財源確保するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、サッパリ当たらない。 今日は拝殿横にある「富塚」にも手を合わせてきた。 『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ヨロシク』
 
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・・・・・・・・・・・・・【蛇足】 ① 明治維新以後も、東京の古社として盛んに信仰されたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 自社の再建には富くじを発行しなかったらしい!  ②神社は日本橋七福神 の内の一社で、恵比寿神を祀っている。
 
 
 
●べったら漬けの神様・・・・・・・・・・・・ここまで来たらチョックラべったら漬けの神様にもご挨拶していくことにした。 椙森神社から西に250m程、日本橋本町の駐車場に挟まれた小さな小さな宝田恵比寿神社。、、、、宝田恵比寿神社は、宇迦能御魂命・素盞嗚尊・大国主命・事代主命・大穴持命・少彦名命の6柱を祀る。 集団管理体制の神社。、、、、、元は江戸城外宝田村の鎮守だった。 創建年代は不詳だが、慶長年間の江戸城改築の際、移転したものといわれる。 移転作業を命ぜられた馬込勘解由は、家康の命に従って千代田・宝田・祝田3ヶ村の常盤橋外へ無事移転させ、大業を成し遂げた功により、徳川家繁栄祈念の恵比寿像を授けられ、平穏守護の神体として、鎮守の社に安置したのが今日に至った。 その像の作者は鎌倉時代の名仏師運慶と伝えられている。、、、、、神社のある、旧大伝馬町は江戸開府以来の木綿問屋の町で、1月と10月には繁栄を祈って盛大に夷講を行った。 現在は10月のみに開催されているが、宝田恵比寿は、商売繁盛、一家繁栄、火伏せの神として崇敬者は広く関東一円におよび、10月19日・20日の「べったら市」恵比寿神祭が盛大に行われる。 明治6年神田神社(神田明神)の兼務となり、大正12年大震災の災厄を蒙ったが、本殿のみは炎上を免れ、のち拝殿を再建し今日に至っている。、、、、、宝田恵比寿神社も、日本橋七福神の一社。
 
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●体験したい伝馬町牢屋敷・・・・・・・・・・宝田恵比寿神社のある旧大伝馬町(現:日本橋本町)から、伝馬町の牢屋敷があった小伝馬町は、江戸通りを挟み隣り同士だ。 チョイト寄ってみよう!、、、、日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の寺院:大安楽寺(だいあんらくじ)は、江戸時代の伝馬町牢屋敷跡にある。 明治15年(1888)、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して創建されました。 高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。、、、、ここの牢屋敷は、延宝5年(1677)常磐橋門外からここに移されて、明治8年(1875)市ヶ谷監獄ができるまで使用されていた。 今は、当時を語るようなものは何も残っていない。 体験入牢できるような施設を作ったら、訪れる人も多くなるかも?
 
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●天照大神の兄姉神を祀る神社・・・・・・・・伝馬町牢屋敷跡から北西に約250m、千代田区岩本町2丁目に金山神社がある。、、、ナンジャ! 正月だというのに、誰もいない、扉もとじられたまま、コリャどうなっているのか、サッパリ判らん? とりあえず、二礼二拍一礼して行くことにした。、、、、金山神社は、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社の御分霊を組合事務所に奉斎し創建されました。 第二次大戦の災禍にあったものの、昭和29年11月8日に再建されました。、、、、御祭神の金山彦命、金山姫命の二柱は、伊勢に鎮座される天照大神の兄姉神で、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司る神である。 金属業界には打って付けの神だ。、、、、天照大神の兄姉神が、金属業界の神とは知らなかった!
 
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●たぬきの神社・・・・・・・・・・岩本町まで来たら、靖国通りを越え、神田川沿い(千代田区須田町2)にある柳森神社(やなぎのもりじんじゃ)に寄って行こう。、、、、、長禄3年(1459)、太田道潅が江戸城を築いた際、現在の神田佐久間町辺りに柳を植えて鬼門除けの柳の森とした。 その鎮守として祀られたことを創祀とする。 万治2年(1659)、神田川の築堤のため現在地に移転した。 烏森神社(新橋)・椙森神社とともに江戸三森と称された。、、、、、境内社の福寿社は5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像を祀る。狸に「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の利益があるとして信仰を集める。 かつては八百屋の娘から将軍の生母になった桂昌院にあやかりたいという女性たちに崇められた。 当初は江戸城内に祀られていたが、後に旗本の瓦林邸内に移され、明治維新に際して柳森神社で祀るようになった。、、、、、ここも、正月だというのに、訪れる人は少ない。 神社も、特別に人を出していないようだ。
 
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●引越しの日通が引越し・・・・・・・・・・和泉橋を渡り神田川を越え、秋葉原駅前から浅草橋方向に歩くと三井記念病院があり、その隣は日本通運の敷地である。 現在、13階建ての新本社ビルを建設中、その一画に、金綱稲荷神社(きんつないなりじんじゃ)がある。 神社は日通金綱稲荷奉賛会によって維持されている。、、、、、およそ420年、前日本通運の前身である飛脚問屋京屋弥兵衛が、日頃から五穀豊穣・商売繁盛・衣食住の神・道中の安全の神として崇められていた伏見稲荷大社を信仰し参拝していましたが、浪速・京・江戸間の運送業務を始めるにあたり、自店に“御霊”を勧請した。 ある日夢枕に、ご神霊が立ち「汝の篤信のため金の綱を授ける」とのお告げがあり、自店で奉祀している神様を「金綱稲荷」と称した。 その時、祀った場所が、現在の地(神田和泉町)であり、日本通運の創業の地でもある。、、、、日本通運は現本社の所在地:港区から、2021年に新本社ビルに移転し、創業地に帰ることになる。 
 
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●神社巡りのゴールは我が家・・・・・・・金綱稲荷神社から、浅草橋の我が家までは徒歩5分。 つまり、千代田区神田和泉町と台東区浅草橋は隣り同士の町である。 出発した福井町通りに戻った。
 
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