我が家(浅草橋)から、浅草橋交差点、須田町、神保町、九段坂と、靖国通りを歩き、市ヶ谷駅まで、1万2千歩の散歩です。
●浅草橋から 九段まで かって知ったる この道を 杖にたよらず 一刻あまり 友よきたぞや 逢いにきた ・・・・・・・・この世に生を受け七十余年、生まれは浅草橋、育ちは神田、通学は靖国通り、大学はチョイト駿河台、勤めは九段上と、何かとお世話になり、ナンダカンダ・鼻かんだと思い出多い
靖国通り 。、、、今日も、通り沿いの一軒一軒に思いを馳せ、歩いた。
・・・・・・・・・・・・・我が家に近い浅草橋駅“裏口”(正式には西口と云う)
・・・・・・・・・・・・・靖国通りの起点:浅草橋交差点。 ホテルの隣りにホテルが建って、裏にもホテル。
・・・・・・・・・・・・12系統(新宿駅~両国駅前)、25系統(日比谷~西荒川)、29系統(須田町~葛西橋)の都電が走っていた靖国通り(浅草橋交差点付近)。
・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと交差する東神田交差点。 40年程前まで、都電の「豊島町」停留所があり、私も通学時ここで乗り降りしたこともある。
・・・・・・・・・・・・・ここ岩本町交差点の角にあるビルに、一時、私の机があったこともある。
・・・・・・・・・・・・・新幹線・東京上野ライン・山手線・京浜東北線のガードをくぐり、中央線のガードもくぐる。、、、、、40年の間に2つのガードが増えた、変化する東京!
・・・・・・・・・・・・・須田町交差点。 写真中央のビルは、弘化3年(1846、江戸時代)創業、宮内庁御用達の果物屋(フルーツパーラー)「万惣」の跡地。、、、、、私も祖母と、よく果物を買いに行った店。 ついでに、フルーツポンチも!、、、、、甘い思い出。
・・・・・・・・・・・・・淡路町交差点。 右横をはいると、「神田 志乃だ寿司」がある。 いまだに、おつかいで、稲荷ずしを買いに行かされる雅万歩。、、、移転前の「交通博物館」も、この横にあった。
・・・・・・・・・・・・・小川町交差点。 交差点から大手町方向に100m程の処に、YMCA本部のビルがあった。 地下のプールでは、フルチンで泳がされた。、、、、恥ずかしい思いで。
・・・・・・・・・・・・・・駿河台下交差点。 我が母校の校舎が見えるが、ここは文系のキャンパス。 私は理工系で、川崎のキャンパス学んだ。 でも、チョイト可愛い娘(松原智恵子?)に逢いたく、文系の数科目を受講していた。、、、、青いレモンの思い出。
・・・・・・・・・・・・神保町交差点。 水道橋方向に曲がると、エロ本(知る人ぞ知るH書店)がある。 雨上りに入店し、買ったばかりの高い傘を忘れてきた、後で気がついたが、恥ずかしくて問いかけることもできず。、、、、にがい思い出。
・・・・・・・・・・・・・九段下交差点。 サラリーマン時代、九段上から坂を下り、交差点裏の雀荘へ、度々負けた!、、、、、頭にきた思い出。 雀荘はなくなっている。
●空をつくよな 大鳥居 こんな立派な おやしろに 神とまつられ もったいなさよ 雅万歩は泣けます うれしさに ・・・・・・・・・靖国神社に着きました。 神妙に手を合わせる。
・・・・・・・・・・・・・高さ25m、日本一の大鳥居。 昭和49年(1974)、1億6000万円で建てられた。、、、、、鳥居は鋼管で造られているが、内部にコンクリートが充填されている。
・・・・・・・・・・・・・・境内の中程には、大村益次郎の像が建っている。 明治26年(1883)に作られた、日本初の銅像。 上野戦争で司令官として彰義隊の立て籠もる上野寛永寺を見つめている姿で、大村と靖国神社の関係は、大村が東京招魂社の設立に熱心だったことによる。、、、、、私とこの像の関係は、社会人になって新人研修があり、近くの市ヶ谷ユースホステルに宿泊していた。 その夜、同期の仲間と飲酒し、翌朝叱責をくらい、この像の台座の上で正座をさせられた。、、、、脚の痛い思い出。
・・・・・・・・・・・・・第二鳥居と神門。 神門の内側に、東京の桜の開花を予測する標本木がある。 今年の開花も早そうだが、まだ蕾を見て予測するには早そうだ。
・・・・・・・・・・・・・・明治34年(1901)に建てられた拝殿、その後ろに明治5年(1872)に建てられた本殿がある。、、、、246万6千余柱の神霊が鎮まる。
●鳶が鷹の子 生んだよで 今じゃ果報が 身にあまる 泰緬鉄道が みたいばかりに 逢いにきたぞや 九段坂 ・・・・・・・・・靖国神社の境内にある、明治15年(1882)に開館した遊就館は、遺品などを収蔵、展示する施設である。 館内には、靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやその事蹟を今に伝える貴重な史・資料が展示されている。 今日は拝観せずに、ショップで軍歌を収めたCDをチョイト見てきた。
・・・・・・・・・・・・・遊就館は、陸軍省経理局建築課 (陸軍技師内藤太郎・柳井平八、顧問伊東忠太) の設計、銭高組の施工で、昭和6年(1931)に竣工した。 戦後は一時、本社の建物をGHQにより接収された富国徴兵保険相互会社(現:富国生命)に、貸し出していた。 その後、昭和61年(1986)に遊就館再開となる。
・・・・・・・・・・・・・ついでに、遊就館入口ロビーに展示している、C56-31機関車(泰緬鉄道として活躍)は、戦時中、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。、、、、、昭和11年(1936)に日本車輛製造(株)で製作され、戦時中タイで活躍し、昭和52年(1977)に引退した。 引退後、泰緬鉄道を建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイから譲り受け、神社に奉納された。
●・・・・・・・・・・・・・お帰りは市ヶ谷駅から。