消えた洲崎遊廓
地下鉄東西線の東陽町駅で下車し、かつてあった洲崎遊廓の跡を追って木場に出て、木場公園のバス停まで、1万1千歩の散歩です。
●中央区のような江東区 ・・・・・・・・・・・地下鉄東西線は、昭和39年(1964)12月23日、高田馬場~九段下間の開業に始まり西と東に延伸し、昭和42年(1967)9月14日に中野から東陽町までつながった。、、、、東陽町駅は永代通りの地下にある、相対式2面2線構造の地下駅である。 一日に12万人が乗り降りする大きな駅である。、、、、私は日本橋から満員電車に乗ってきたが、東陽町で一斉に下車。 アレ・レ? 電車はガラガラ
・・・・・・・・・・・・・・駅周辺には、大企業のオフィスが並び、朝は地下から出てくる通勤客が絶えない。、、、、多くのサラリーマンに紛れ、地下鉄の階段を上ると、中央区日本橋のビジネス街に出るようだ。 江東区とは思えない!
●男のパラダイス ・・・・・・・・・・・東陽町駅と木場駅の間、永代通りの南側に東陽1丁目の町がある。 この1丁目の全域が、戦後は「洲崎パラダイス」と呼ばれた、吉原とならぶ大歓楽街:「洲崎遊廓」であった。(この頃、私は乳飲み子で実態は? 残念!)、、、、歴史は明治まで遡り、、、、明治20年までに富坂(文京区)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に存在した根津遊郭の移転計画が発足した。 しかし受け入れ先となるはずの、最大の歓楽街だった吉原には受け入れの余裕がなかった。 そこで、洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽1丁目に洲崎弁天町が誕生した。 大正時代末期には300軒前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街となった。 昭和33年(1958)の売春防止法成立まで遊廓が設置されていた。
・・・・・・・・・・・・・洲崎遊廓は長崎の出島のように、海に突き出した形態で、周囲は堤防となっている。 遊女が逃げられない造りである。 遊廓の入口に当たる処は、永代通りと並行に流れていた洲崎川に架かる洲崎橋。 この橋を渡ると、正面に幅の広い大門通りがあり、左右に遊廓があったそうだ。、、、、写真は、東陽3丁目交差点(永代通り)の南側にあった洲崎橋の跡地に作られた碑。 洲崎川は埋め立てられ緑道となっている。 洲崎橋の正面に伸びる「大門通り」。
・・・・・・・・・・・・・現在も遊廓(東陽1丁目)を囲んでいる堤防。 現在は周囲の町に比べ、東陽1丁目の地盤が低く、斜路・階段などで隣接の町とつながっている。
・・・・・・・・・・・・・洲崎遊廓は現:東陽1丁目の中央を南北に貫く大門通りによって、洲崎弁天町1丁目(西側)・2丁目(東側)として、東西に分けられていた。 遊廓の時代は、洲崎弁天町全域が廓であったが、戦後は東側だけが洲崎パラダイスとして指定地となり、100軒程のカフェーがあったそうだ。、、、、当時の建物は全て取り壊され、今は住宅、マンション、アパートが並ぶ街。
・・・・・・・・・・・・・洲崎パラダイスの頃の建物と思われる、どちらも取り壊された。 (平成22年に撮影)
・・・・・・・・・・・・・遊廓の地の東南に、現在、「都営 洲崎弁天町アパート」がある。 かつてここには、遊廓の娼妓たちの性病の検診と治療を行っていた都営洲崎病院があった。、、、現在は、昭和40年~42年に建てられた都営住宅がある。
・・・・・・・・・・・・・都営洲崎弁天町アパートの一画に「洲崎遊郭追善供養歌碑」がある。、、、、性病で死んでいった娼妓たちを供養したものだ。 「白菊のはなにひまなくおく露のなき人しのふなみたなりけり」と彫られている。 昭和6年(1931)11月9日洲崎遊郭開業50周年記念法要に信州善光寺大本願119世大宮尼智栄上人が詠んだもの。 建立は洲崎三業組合。、、、、遊郭の存在が忘れられる半世紀あまり、はっきりと遊廓が在ったことを標す遺構だ。、、、、ここで亡くなった娼妓たちは、江東区平野2にある浄心寺で弔われた。 境内に洲崎遊女合葬墓がある。
●洲崎弁天だ! ・・・・・・・・・・・東陽1丁目の西隣の木場6丁目に洲崎神社がある。 元禄13年(1700)の創建。 洲崎神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神として祀っている。、、、、洲崎遊郭に隣接し、文人墨客だけでなく、遊女の参拝もあったであろうね!
・・・・・・・・・・・・・境内には、「波除碑(なみよけのひ)」がある。これは、寛政3年(1791)に高潮により多数の死者を出したため、幕府が洲崎弁天社の西を空き地にしてその境界に建てた碑のひとつである。、、、、、東日本大震災の津波と同様に、多くの人命が失われたことを忘れずに、後世に伝えるものだ!
●深川にぴったしの景観 ・・・・・・・・・・・・・・木場駅と洲崎神社を結ぶ、赤く塗られた鮮やかな新田橋(にったばし)。 大横川に架かる人道橋である。、、、、明治から昭和初期にかけ、木場5丁目で医院を開業していた医師:新田清三郎さんが、不慮の事故で亡くした夫人の霊を慰めるため、供養で架けた橋。、、、、、現在の橋は平成12年(2000)に架け替えられたものである。 当時の橋は深川富岡八幡の近くに保存されている。
●360度の芝生、広い! ・・・・・・・・・・・散歩の最後は、木場公園を横切り帰る!