今はなき今川家の菩提寺
西武新宿線上井草駅から南下し、今川氏の菩提寺観泉寺を訪ね、中央線荻窪駅まで、1万歩の散歩です。
●寝むりたくなる腰掛のある駅 ・・・・・・・・・・・・・上井草駅は、昭和2年(1927)4月16日西武村山線(西武新宿線の前身)の高田馬場~東村山間の開通と同時に開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 それぞれのホームは完全に独立していて、跨線橋がないため双方の行き来はできない。 それゆえ、駅舎は上下線それぞれ別で、下り側が南口、上り側が北口で、駅事務室も双方にある。 乗降客は少なく、朝の下りホームは人影もまばら。 さすがに、上りは多いね!、、、、木造のホーム上屋に長~~いベンチ式の腰掛、のんびりした気分になれ嬉しいね。
・・・・・・・・・・・・・・【うわさ話】 西武新宿線では、上井草駅をはさむ井荻駅~西武柳沢駅間の5.1kmを高架線にして、19カ所の踏切りを解消する高架化工事が計画されているそうだ。、、、、私が生きている間に完成するか?
●バス通りを歩く ・・・・・・・・・・・・上井草駅から駅前のバス通りを荻窪駅に向かい南下する。 私にはゴチャゴチャした裏道が無いのが残念であるが、この辺りは直線道路ばかりで方向感覚はしっかり掴め歩きやすい。
・・・・・・・・・・・・・・旧井草川の跡が遊歩道となっている。、、、、今やセイタカアワダチソウに負けず、爆発的に勢力範囲を拡大している雑草「ナガミヒナゲシ」がここでも侵食していた。 ポピーに似た可愛いオレンジの花で、“雑草”と云っては失礼にあたるかも。 でも、地中海原産のこの花、精力絶倫で一つの果実に約1600粒の種子が内包され、風に乗ってばら蒔いているそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・上井草2丁目のマンション入口脇に、聖観音塔と庚申塔が祀られている。 いずれも、この付近にあった塔で、区画整理のため大正14年(1925)にこの地に移したものだ。 向って右側の聖観音は「富士向観音」の名で親しまれたもので、寛延2年(1749)の造立。 左側の庚申塔は、享保7年(1722)の造立。、、、、何処の誰かさんが、掃除・献花・供養しているようだ!
・・・・・・・・・・・・・・早稲田通りを横断し、杉並区今川の町に入る。 「今川」の地名は、“今川”なる川、“今川村”なる村があったわけではない。 この地は江戸時代から上井草村の一部であった。 そこには、今川氏の菩提寺である観泉寺があった。 昭和7年(1932)の住居表示にて観泉寺を中心とする一画が「今川町」となった。 昭和39年(1964)の住居表示では今川町を含む広い範囲で、“町”のとれた「今川」となった。、、、、この時、祝儀に配った餡入りの饅頭が“今川焼き”である。 コレ、本当の嘘!
●一度は参拝したい凄い寺 ・・・・・・・今川2丁目の宝珠山観泉寺は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来である。 戦国時代、桶狭間で織田信長に敗れた名門今川氏ゆかりの寺。 慶長2年(1597)今の下井草二丁目付近に開山創建され、観音寺といわれていた。 正保2年(1645)今川13代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤め、その功により井草村など三か村五百石の加増をうけた。 これを機に、当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興とした。 その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬した。、、、、私がこの寺を訪れるのは4回目であるが、来るたびに感心させられるのは、緑の多い広い境内だが隅々まで手入れが行届き美しい、さらに小鳥のさえずりが聞こえる静けさがあり、都内の住宅地にある寺院とは思えない。 一度は参拝したい寺だ!
・・・・・・・・・・・・・・門前町を感じさせる、広い周囲の寺域を抜けると山門が迎える。 山門をくぐると、緑がより広がり正面に本堂がある。
・・・・・・・・・・・・・・本堂の左に観音堂、右に鐘楼。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・境内には誰も居らず小鳥だけ。 芝の緑と、苔の緑が競う庭。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・駿河・遠江・三河を統一し、天下に号令しようとした今川義元が、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、討死した。 その後、今川氏は3ヶ国を維持できず領国を武田・徳川・北条らに奪われて滅亡した。 子孫は代々高家として江戸幕府に仕え、上・下井草・鷺宮などを所領に持ったが、維新後最後の当主は子孫を残さぬまま行方不明となり絶家した。 観泉寺には今川家の菩提寺として、義元の子氏眞以降の当主、一族の墓が祀られている。 現在墓域は都の旧跡として、維持管理は都が受け持っている。 墓は20基程あるが、形も様々な、小ぶりの墓である。
・・・・・・・・・・・・・・観泉寺には、山門前、墓地などに、苔をかぶった多くの石仏、石塔などが残されている。