巾着腹と大根足
そろそろ夏バテする時期だ。 私は、隅田川花火大会で孫を抱き腰がイテテ、連日のアイスコーヒーの飲み過ぎでお腹はピーピー、昼寝が多く不規則な睡眠でお眼目シバシバ、熱中症と戦いエアコンと扇風機でガンガン躰はヒエビエ、リバブル先生に見とれ鼻血ブー(病院で血管を焼いてもらった)、、、、どうやら、私もバテてきた!
今日は、浅草寺の支院の一つ本龍院(待乳山聖天)と、浅草寺に行ってきた。
●巾着腹・大根足の寺? ・・・・・・浅草寺の北東650m程離れた隅田川沿いの小高い丘にある、浅草寺の支院で、聖観音宗の寺院である本龍院(ほんりゅういん)。 “小高い丘”は待乳山(まつちやま)と呼ばれ、寺は別名「待乳山聖天」と呼ばれている。、、、、この丘は推古天皇3年(595)に突然小高く盛り上がりできた。 そして、この山に金龍が舞い降り守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となった。 この不思議な降起は、十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」が出現するめでたい先触れで、それから6年後村人は天候不順に悩まされ、永い旱魃(ひでり)のために飢えと焦熱の地獄に陥っていた。その時大聖歓喜天が出現し、雨を降らせて村人を苦しみから救ったという。それ以来民衆の篤い尊信が集まり、天安元年(857)慈覚大師円仁が東国巡拝の折、この山に籠もって21日の間浴油修法して国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫んで奉安したと伝えられている。、、、、本堂などの建築物は震災・戦災で焼失し、現在の本堂は昭和36年(1961)に権現造りで再建されたものである。

●猿若三座? ・・・・・待乳山聖天と浅草寺の間の町、現在の浅草6丁目。 この地はその昔、丹波国(京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町(現中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。 芝居小屋は、天保13年から翌14年にかけて当地に移り、猿若町はできた。 芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。 そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座が世にいう「猿若三座」である。 町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名に由来する。、、、、現在は、芝居小屋の跡に碑が建つのみ。

●カッコイイ侠客が勧請した ・・・・・・浅草寺の裏手に、新門辰五郎が勧請した被官稲荷社がある。、、、、安政元年(1854)新門辰五郎の妻女が重病で床に伏した時、京都の伏見稲荷社に祈願した。 その効果があって病気全快、安政2年(1855)お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。、、、、江戸後期の町火消、鳶頭、侠客で、映画、芝居では、カッコイイね!