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2019年9月11日 (水)

物語の多いゼームス坂

熱中症が心配になるほどの残暑、朝から暑いザンショ! 今日は、JR大井町駅から、ゼームス坂通りを歩き京急新馬場駅まで、9千歩の散歩。


●お勤めご苦労さん! ・・・・・・明治34年(1901)に国有鉄道東海道本線に大井聯絡所が開設。 大正3年(1914)12月20日に京浜線(現:京浜東北線)運行開始に伴い、大井聯絡所を駅に格上げし大井町駅が開業。 昭和2年(1927)に、目黒蒲田電鉄(現:東急電鉄)大井町線が開通。 平成14年(2002)には、東京臨海高速鉄道りんかい線の駅が開業。、、、、100年の歴史を誇るJR大井町駅は、一日に約20万人が乗り降りするターミナル。 到着する電車は全て満員、乗るのに苦労する人もいる、通勤ラッシュを体感できる駅。 

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●物語の多い坂道だ! ・・・・・ゼームス坂とは、南品川5丁目と6丁目の境にある坂道で、「南品川五丁目西交差点」から上り、南品川6-18でYの字に分岐する「すずらん通り」入口付近までの、全長410mである。 この坂道を前後に延長し、第一京浜「南品川四丁目交差点」から、南へ坂を上り、大井町駅手前の「ゼームス坂上交差点」までを、「ゼームス坂通り」と呼ぶ。、、、、今日の散歩はこのゼームス坂通りを、坂上から下り制覇してきた。
・・・・・・・・・・・・・・大井町駅北側で、跨線橋によりJR線を横切る区役所通り。 JR大井町駅東口から100m程東に寄った、区役所通りに「ゼームス坂上交差点」がある。 ここが、ゼームス坂の南端であり、坂上である。、、、、写真1:中央奥が大井町駅、右へ向かう道がゼームス通り。 写真2:周囲のゴチャゴチャに紛れ目立たないように坂名の標識が建っている。 写真3:坂下の方向を望む。 

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・・・・・・・・・・・・・・ゼームス坂の頂部、大井町駅へ若干の近道となる「すずらん通り」の入口。 日が落ちると近道が、近道でなくなる、誘われつい寄り道したくなる通りである。

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・・・・・・・・・・・・・・ゼームス坂の標識、、、、標識には、『ゼームス坂 musu(James)zaka-Slope もとは浅間(せんげん)坂と呼ばれ,かなり急な坂でした。片側は切り落としになっていて,崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたそうです。 明治時代,この坂の途中に英国人の J・M・ゼームスが住んでいたことから,ゼームス坂と呼ばれるようになりました。』と標されている。

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・・・・・・・・・・・・・・ゼームス坂の中程、品川特別支援学校の向い側の一車線の狭い道にを入って行くと、ジグザグに曲がる、長さ80m程の急な下り坂がある。 これぞ「幽霊坂」である。 品川区のHPでは、「道幅が狭く、途中でかぎ型に曲がる。 かつては道の両側に大きな樹木がしげっていて、うす暗く寂しい場所だったために、この名称がついたといわれている。」と記されている。、、、、今は、両側にマンションも建ち、暗さはなく明るい坂だ! “幽霊”を嫌ったのか、坂には坂名を表示したものは一切なし!

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・・・・・・・・・・・・・・再びゼームス坂に戻り歩くと、9階建て195戸、昭和58年築の大きな「三越ゼームス坂マンション」がある。、、、、このマンションは、ゼームス邸跡地に建っている。 マンション中庭にある石碑には、その経緯について記されている、『此の処は、南品川英国人ジョンMジェームス邸跡地である。 Mジェームスは慶応二年(一八六三年)二十八歳の時来日した。 そして坂本竜馬等とも知り合い後に日本海軍創設に貢献し明治五年海軍省雇入れ以降幾多の変遷を経て住いを此の地に構え隣人に慕われつつ明治四十一年七十歳にて没した。 墓は身延山本堂裏山に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。 その頃のジェームス在りし日を偲ぶ庭の欅も品川区の保存指定樹として樹齢百数十年の姿をそのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。 昭和五十八年十月』

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・・・・・・・・・・・・・・・三越ゼームス坂マンションの中庭と道路を挟み向かい側に、「高村智恵子終焉の地」の碑がある。 この地は高村智恵子が入院していたゼームス坂病院があった処で、彼女はここの病院で亡くなった。 詩集「智恵子抄」として有名であった高村光太郎の妻であった智恵子は、福島県の裕福な造り酒屋の娘として生まれ、日本女子大を卒業した後、絵画を学ぶ中で光太郎と知り合い結婚した。 しかし、その幸せもつかぬ間のもので、父の死や実家の没落などが重なり次第に精神を病むようになり昭和10年に、この地のゼームス坂病院に入院した。 入院してからの智恵子は、創作意欲を吐きだすかのごとく紙絵に没頭して千数百点もの作品を残した。 だが、病には勝てず3年後にこの病院で52歳の生涯を終えた。  昭和13年10月5日智恵子が死ぬ数時間前にレモンを口に含んだ時の様子が、高村光太郎の詩に見事に描かれている。 この日10月5日は「レモンの日」と名づけられている。 この石碑は智恵子とほぼ同じ高さで作られ、「レモン哀歌の碑」と呼ばれている。、、、、ぜひ、詩集「智恵子抄」の“レモン哀歌”を読んで・・・智恵子が噛んだレモンの数滴の汁が、一瞬、智恵子の意識を正常に戻し、眼はかすかに笑い、死に導かれる情景が詩に綴られている。 チョイト、しんみりさせられる!

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・・・・・・・・・・・・・・ゼームス坂の坂下は「南品川五丁目西交差点」である。 この先、「品川銀座」商店街があり、ゼームス坂通りとして続く。、、、、ココにもあった“銀座”、品川区の商店街連合会のHPによると、370m程の通りに全12店舗の名が標されている商店街。 「品川銀座」のバス停もある。 「品川銀座」の提灯がチョイトむなしい、小さな商店街、ガンバレ! 

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・・・・・・・・・・・・・・品川銀座の中程に、江戸時代の創建と伝わる「東關森稲荷神社」がある。 この付近の畑の鎮守神として祠が祀られていたそうだ。 かつては「稲荷(とうか)の森」と呼ばれ、祠も「稲荷森稲荷」と呼ばれていたそう。これが転じて「東關森(とうかんもり)」になったそうだ。、、、、参道が長く、社は小さく、境内は広い、稲荷ずしが供えられてる稲荷。


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・・・・・・・・・・・・・・商店街の北端に近い処、馬頭観音が祀られている。、、、、由来???判りません!

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・・・・・・・・・・・・・・ゼームス坂通り(品川銀座)の北端に、時宗の海蔵寺がある。海蔵寺は深広山無涯院と号す。 藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が当地に永仁6年(1298)創建、江戸時代には数多くの無縁仏を供養していたことから投込寺とも呼ばれたそうだ。、、、、本堂裏にある首塚は、かつて、品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺骨を集めて、宝永5年(1708)に築かれた塚である。 お参りをすると頭痛が治るということから頭痛塚と呼ばれた。 この塚に、天保の大飢饉(1833-40頃)の折になくなった215人を祀る215人塚も合葬され、更に品川宿の娼妓の大位牌や、鈴ヶ森処刑場で処刑された人の首の一部も埋葬されて、総称を首塚と名付けられた。 この首塚の他に境内には、慶応元年(1865)の造立の津波溺死者供養塔や、大正4年(1915)に造立の京浜鉄道轢死者供養塔、昭和7年(1932)に造立の関東大震火災横死者供養塔などがある。 いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので、ここ海蔵寺は品川の投込寺であったことが理解できる。、、、、そろそろ歳で、私も医療費で頭痛に悩まされる事もある、今日は懇ろに首塚に手を合わせてきた。 

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・・・・・・・・・・・・・・海蔵寺の山門脇には第一京浜が走り南品川四丁目交差点」がある。 この交差点が、ゼームス坂通りの北端で、ハイ・ココまでヨ!

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●長~いホーム ・・・・・・・新馬場駅は、昭和51年(1976)まであった北馬場駅と南馬場駅を統合して設けられた駅。 ホームは相対式2面2線構造で3階にある。 全長200mの非常に長いホームを持つが、4両か6両の普通列車(列車の長さは約100m程)しか停まらないため、ホームを持て余している。 これは、2駅を統合するため、元の北馬場・南馬場駅の近くに改札口を設け、両駅の間にホームを造ったためである。

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