二つの内田ゴシック
台風17号のため、出足が遅れた彼岸の墓参りを昨日やっと終え、今日は朝から散歩。 都営地下鉄浅草線の高輪台駅から、都営地下鉄三田線の白金台駅まで、1万歩の散歩です。
●狭い駅です! ・・・・・・高輪台駅は昭和43年(1968)11月15日に都営地下鉄1号線(現:浅草線)の駅として開業。 駅ホームは上下線それぞれ単線シールド工法で建設された。 ホーム途中に上下線ホームを結ぶ数本の連絡通路が設けられている、またホーム階と改札階を結ぶ階段・エスカレーターはホーム中央に一ヵ所あるのみ、チョイト狭苦しい構造の駅である。、、、、一日当たりの乗降弱数は15,000人に満たず、浅草線内では最も乗降客の少ない駅。 客が少ないためか、地上の出入口も、国道1号沿いに向かい合わせで2カ所しかない。



●寺町に出た! ・・・・・・・高輪台駅で下車したが、地上に出るとそこは港区白金台2丁目。 白金台の裏道を西へ向かう。
・・・・・・・・・・・・・・・階段下には日本郵政の宿舎が並んでいる。 宿舎脇の坂を下る。、、、、引き続き、坂を上ると、上大崎2丁目の宝蔵寺の前に出た。 この辺りは、9ヶ寺が集まっている寺町である。


●福沢諭吉が眠っていた寺! ・・・・・寺町の中に常光寺という寺がある。 浄土宗寺院の常光寺は、正福山と号し、元和元年(1615)芝金杉に開山した。 その後、高輪北町への移転を経て、明治42年(1909)に当地にあった正福寺と合併、明治43年に現在地へ移転した。、、、、この辺りは、上皇后美智子様の実家などがあった高級住宅街。 ここに、元々芝公園の増上寺の子院であった、常光寺を含む浄土宗の9ヶ寺が、明治末期に集団移転してきたのである。 このことが、死後の福沢諭吉を悲しませることとなった。(詳細はこの後)
・・・・・・・・・・・・・・さて、福沢諭吉の話。、、、、福沢諭吉は明治34年(1901)2月3日に脳溢血で亡くなる。 葬儀は福沢家の菩提寺:麻布善福寺で執り行われたが、しかし、諭吉は善福寺には埋葬されず、正福寺(現:常光寺)の墓地に埋葬された。 これは、諭吉が生前、この地:正福寺の眺望が気に入って、生前に自分の墓地を用意していたからである。(ちなみに、現在でも常光寺の墓地からは高輪の台地を見渡すことができ。眺望抜群!) 昭和50年頃、常光寺は本堂の建て替えを行い、その時、墓の所有者は浄土宗信徒であることを条件とした。 福沢家の菩提寺:善福寺は浄土真宗であったため、常光寺に墓を持てなくなり、昭和52年(1977)に墓は、常光寺から菩提寺の善福寺に改装された。、、、、諭吉が自ら建てた墓は無くなり、現在常光寺には、「福沢諭吉先生永眠の地」の碑と、慶大三田キャンパスにある胸像の原型を復元したものがある。


●これぞ、ゴシック建築! ・・・・・・寺町から北へ向かい目黒通りの白金台駅に出る。 駅前にある「東京大学 医科学研究所」と隣の港区立「ゆかしの杜」にお立ち寄り。(本日の散歩のハイライト!)
・・・・・・・・・・・・・・まずは、東京大学 医科学研究所、、、、医科学研究所は明治25年(1892)に設立された伝染病研究所を前身とし、附属の研究病院を持つ我が国随一の医学・生命科学の研究所。、、、、研究所に入り正面に建つ1号館は、設計は内田祥三の設計により、昭和12年(1937)に完成した旧伝染病研究所である。 (正面玄関は改装中)

・・・・・・・・・・・・・・旧伝染病研究所と同じ敷地内にあった旧国立公衆衛生院の建物が隣にある。、、、、内田祥三により設計され、昭和15年(1940)に建てられた。 「内田ゴシック」と呼ばれる、ゴシック様式の特徴が取り入れられ、両翼を広げた、城壁のような造りの建物である。 鉄骨鉄筋コンクリート造5階建て(一部8階)。 施工は大倉土木(現:大成建設)。、、、、昨年(2018)この建物は、港区の郷土歴史資料館を中心とした複合施設「ゆかしの杜」に生まれ変わり、開館した。、、、、今日は1階から5階まで、ジックリ、ユックリ、タップリ拝見。 外観も素晴らしいが、340席を有する階段状の講堂が当初の姿で、そのまま残されていた。、、、、明日にでも国宝に指定したいね!
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