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2019年10月

2019年10月30日 (水)

防災意識の高い町

台風15号・19号・21号による大雨、その被害がいまだに連日放送されている。 否応なしに、防災意識が高まり、私の住む浅草橋では、地滑り、土砂崩れの心配はないが、隅田川・神田川の氾濫がヤバそうだ。 町内掲示板に貼られていたハザードマップによると、平成12年の東海豪雨(総雨量589mm、時間最大雨量114mm)を想定した場合、隅田川の外水氾濫はなく、神田川では浅草橋の際でチョイト外水氾濫が生じるようだ、むしろ怖いのは雨量が多すぎて、両河川に放流処理できなくなることらしい。 いわゆる、内水氾濫である。 ハザードマップでは、上野公園の高台を除いて、台東区のほぼ全域が色づけされていた。 色付けの最大値は2mの浸水で、御徒町と竜泉の町付近にある。 大半は1m以下の浸水、気になる我が家は0.5m以下の浸水が想定されている。 『50cm以下なら床下浸水だ、助かるかな? 油断大敵!

・・・・・・・・と、云うことで、今日の散歩は、荒川・隅田川の氾濫が心配になり、赤羽の荒川治水資料館に行って氾濫の予備知識を得ようと思った。 ところが出がけに、京浜東北線・山手線が運転されていないとテロップが流れる。 急遽、予定を変え三河島付近を歩くこととした。 今日の散歩は、京成三河島駅付近から町屋駅までの9千歩。




●浸水するな! ・・・・・・・荒川四丁目バス停で下車し、散歩の開始。 西へ歩くと、京成本線高架橋がある。 この高架橋は藍染川に沿って、昭和6年(1931)の青砥~日暮里間の開通時に造られたものだ。、、、、ところで、「藍染川」とは、日暮里の高台を流れていた谷田川(藍染川本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠で分水し、それより下流は隅田川に合流するまで開渠の川(排水路)として存在した。 昭和7年(1932)から新三河島駅より上流(日暮里側)の暗渠化工事が行われたが、満州事変後は中断した。 戦後、工事は再開し、昭和35年(1960)には、下流までの全長が暗渠化され、川の上部は「藍染川通り」となっている。 京成本線高架橋の東南側に沿う道路がその跡だ。、、、、この付近、荒川が氾濫すると最大3mの浸水。京成本線の水没はなさそうだが、付近の住宅の1階はダメだ! もし、ココが水没したら、直線で4km程の距離にある我が家も多少は影響するであろう。 何事も起きないよう、神様・仏様・キリスト様に願うだけ!

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●小さな駅! ・・・・・・京成本線の「新三河島駅」をチョイト覗いて行こう!、、、、昭和6年(1931)12月19日1931に開業。 島式ホーム1面2線の高架駅で、ホームの一部は明治通りにかかっている。 平成30年(2018)の一日平均乗降客数は約6千人で、京成線全69駅中48位、これは都内の京成線全駅で乗降客が最も少ない駅である。 改札口は一ヵ所だけ、自動改札機も3台だけの侘しい駅。、、、、ところで、「三河島」の地名の由来は、“三本の川筋があった”、“木戸三河守の館があった”、“家康と伴に三河の者が移り住んだ”など諸説あるらしい。 どれが、本当だか?、、、、現在は、地名として「三河島」は消えた。 残っているのは、京成の駅名「新三河島」と、JRの駅名「三河島」、都の汚水処理場名「三河島水再生センター」ぐらい。 そして、国鉄の「三河島事故」は忘れられない。 

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●戦時中の延焼対策! ・・・・・・新三河島駅前の明治通り、駅から150m程西に寄った処から、荒川区東尾久の町と荒川区荒川・町屋の町の境に一本の広い道路が北へ伸びている。 延長1,360mの道路は隅田川のまで伸びている。、、、、この道路がある一帯は、戦時中には木工場、セルロイド工場などが多く、数度の火災が発生した処である。 そこで、空襲による延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路がこの道である。 日本各地ではこのような道路を一般に「疎開道路」と呼んでいるが、ここ荒川区では戦後、道路を整備し、愛称:「尾久の原防災通り」と呼んでいる。  また地元では、昭和48年(1973)に「消防道路」と命名し記念碑を建てた。、、、、防災通りの両側は、緊急車両も入れない細い道路と木造家屋の密集した地域で、現在は「不燃化特区」に指定されている。

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●アラ・アラ・荒川の裏道散歩 ・・・・・・防災通りは歩いても面白くないので、今日は防災通りの東側、荒川5丁目・6丁目(ともに木造密集地区で不燃化特区)の裏道を歩いてきた。

・・・・・・・・・・・・・・まずは、町のここにも、あそこにも、赤いバケツと消火器が置かれてる。 イザ火事だ! 消防車が入れない! 町内総出のバケツリレーで初期消火!、、、、こんな事にならないように、標語『あなたです! 火事を出すのも防ぐのも

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・・・・・・・・・・・・・・緊急車両が入れない裏道の奥にある小公園にも、手押しポンプ、防災グッズの倉庫、防火水槽、太陽光発電機など、一通りの設備・備品が備えられていた。、、、、火災・震災の備えは万全。 『蟻の穴から堤の崩れ 』とならぬように!

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト、長い・狭い・折れ曲がった、荒川6丁目の奥の細を歩いてみた! 陽当りが悪いのか、道路にはコケが生えている。

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・・・・・・・・・・・・・・下町ではあちらこちらで見られた、懐かしい木製の引き戸。
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・・・・・・・・・・・・・・・・裏道の奥に『好評分譲中』の土地があった。 71.69㎡、1,480万円、安いか高いか、あなたしだい!、、、、近くには居酒屋もある。

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●チンチン電車で帰宅! ・・・・・・都電が走る表通りに出たので、町屋駅前停留場から都電とバスで帰宅する。

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2019年10月26日 (土)

松原遠く消えた団地

東武伊勢崎線の松原団地駅が獨協大学前駅と改称したのは平成29年(2017)4月1日、それから約2年半が経過した。 駅名改称の時に訪れ(団地の詳細はココを見て!)今回は2度目の訪問である。 松原団地の古い建物が残っているか、新しい建物はどの程度できたか、興味があった。、、、、今日は、獨協大学前駅で下車し、松原団地が建っていた処をタップリ歩いてきた。 1万2千歩




●乗降客6万人の駅! ・・・・・・・・獨協大学前駅(旧松原団地駅)は、東洋一のマンモス団地と言われた住宅公団の「松原団地」入居開始に合わせて、昭和37年(1962)12月1日、新田~草加間に開業した。 開業当時は島式ホームの地上駅であったが、昭和60年代初めに現在の島式ホーム1面2線の高架駅となる。 普通列車のみ停車する駅だが、一日当たりの乗降客は約6万人と意外と多い。(私が住む都営浅草線浅草橋駅の乗降客数は約6万1千人で、いい勝負だ!)

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・・・・・・・・・・・・・・駅コンコースに、昭和37年(1962)当時の団地全景を撮影したパネルがあった。、、、、団地の周りは一面畑で、下の方に地上駅だった松原団地前駅が写っている。、、、、建てた処から一部ずつ、徐々に入居するのではなく、約6000戸の住居を全部作ってから、入居を開始したようだ。  当時の公団は、やることが凄いね!

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・・・・・・・・・・・・・・駅改札からは、東口(旧日光街道側)と西口(旧松原団地側)に出ることができる。 東口は駅前のロータリー付近から飲み屋、パチンコ屋、コンビニ、レンタルビデオ屋などが並び、“これぞベッドタウンの駅前”を演出している。

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・・・・・・・・・・・・・・西口は駅前ロータリーはあるものの、その正面には草加市立中央図書館と30階建てのタワマン「ハーモネスタワー松原」(平成11年完成)。 チョイト、面白味が欠ける駅前だ!、、、、キャンパスが西口にある獨協大学の学生さん、勉強帰りは東口で遊んで帰るのか? 

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●まぼろしとなった松原団地 ・・・・・・・駅前に広がっていた、総敷地面積60ヘクタール、住戸5926戸、東洋一のマンモス団地「松原団地」は、都市再生機構により、事業面積約54ヘクタール、整備計画戸数約6,000戸の大規模な団地「コンフォール松原」建替事業を計画し、平成17年(2005)から工事に着手した。 平成30年(2018)までに、UR賃貸住宅3,050戸が完成。 現在は残っていた古い建物も全て取り壊され、計画の残りを工事中。 また、民間事業者への売却も行われたようだ。、、、、最後まで残っていた建物は数カ月前に取り壊されたそうだ、工事のオッサンに『もうちょっと早く来ればあったよ、残念だね!』と慰めの言葉を貰う。

・・・・・・・・・・・・・まずは、建て替えられ、巨大な住宅都市に変わり、モダンな名となった「コンフォール松原」 “団地”の文字が消えた!

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・・・・・・・・・・・・・・再開発はまだまだ続く、コンフォート松原の隣りから日光街道沿いまで、松原団地の全敷地の4割程が残っている。 民間事業者によるマンション建設、雨水の貯水槽構築などインフラ整備、雑草の中でボーリング調査、既存建物撤去工事など、多岐にわたり当分は終わりそうにない。

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・・・・・・・・・・・・・・松原団地内で現存する古い建物として、昭和40年(1965)に開園した藤幼稚園の園舎がある。 建物は当時のままらしい。、、、、松原団地で育った人の多くが通ったであろう幼稚園、今は工事現場に囲まれているが、数年後にはマンションに囲まれた幼稚園となるだろう。

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●大学も週休二日? ・・・・・・・コンフォート松原とは道路向かい合わせに校舎が建つている獨協大学キャンパス。 チョイト覗いてきた。
・・・・・・・・・・・写真右側にコンフォート松原、左側奥に獨協大学。

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・・・・・・・・・・・・・語学・経済学・法学・リベラルアーツなどの4学部4研究科を置く、人文科学・社会科学系総合大学である。 昭和39年(1964)、第2次吉田内閣で文部大臣を務めた天野貞祐を初代学長として設立。、、、、今日は土曜日だからなのか、学生が少ない! 図書館・学生会館はガラガラだ。、、、、大学キャンパスに入ると、自分が学生の頃を思い出し、も一度、勉強したくなるね。 出来れば、女子大生と一緒に! 

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2019年10月24日 (木)

きつく辛い女坂

以前からチョイト気になっていた、神田明神の男坂と女坂、どちらが急か現地調査に行ってきた。 ついでに、帰りに秋葉原のヨドバシカメラで、腕時計の電池交換してもらう。 我が家(浅草橋)から神田明神まで往復歩いて、9千歩。




●離れられない駅! ・・・・・・・我が家からJR浅草橋駅西口まで、素直に歩いて徒歩3分、ご近所の人に会うと徒歩5分、途中で忘れ物に気付くと徒歩8分、途中で気が変わり地下鉄に乗りたくなるとトホホのホ!、、、、70余年、同じ駅のそばで暮らしていると、たまには違う駅のそばで暮らしてみたくなる。 「どこがいいかな?」 風光明媚で、静かで、山に近く、海もあって、交通の便が良く、大型スーパーに近く、駅前にコンビニがあって、女子大が近くに在って・・・・・いくら考えても、浅草橋しか浮かばない、チョイト悲しいね!

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●頭上の電車に手を振って! ・・・・・・・JR総武線の高架橋(昭和7年開通)に沿って秋葉原へ。 浅草橋から秋葉原まで徒歩15分。 今日は、キョロキョロ脇見しながら、電車に手を振って、徒歩30分。、、、、浅草橋駅は台東区、浅草橋駅前のガードから先は千代田区である。、、、、途中、高架橋脇の佐久間公園は早起きラジオ体操発祥の地。、、、、秋葉原駅の「アトレ1」がある処には、昭和26年(1951)から駅直結の「アキハバラデパート」があった。 入口では家庭用品の実演販売も行われていた“庶民のデパート”だった!

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●漆塗りの社殿! ・・・・・・・まずは、神田明神へ、、、、神田明神は、千代田区外神田に鎮座する神社で、正式名称は「神田神社」。 神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 毎年5月に行う御祭礼、「神田祭」は有名である。 旧社格は府社で、現在は別表神社である。 また旧准勅祭社の東京十社の一社である。 商売繁盛の御利益を期待し、正月になると企業の初詣で大賑わい。、、、、古い江戸時代の社殿は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。 その後、3年の歳月をかけて昭和9年(1934)に権現造・鉄骨鉄筋コンクリート造・総朱漆塗で現在の社殿が完成した。 日本初の鉄骨鉄筋コンクリート製社殿となった。 この社殿は、建築家:大江新太郎(1875~1935)と早稲田大学大隈講堂の作品が残る佐藤功一(1878~1941)の設計、請負師:木田保造(1885~1940) の施工で建てられた、桃山建築風の豪華絢爛な造りである。 社殿は国の登録有形文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・・・・・神田神社は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現:千代田区大手町、将門塚の地)に創建された。 元和2年(1616)に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座し、江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬された。 神田神社を愛する氏子に銭形平次・八五郎もいたか(?) 二人の碑が境内にある。、、、、摂社・末社も多く10社程が本殿を囲むように並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・Googleマップを見ると、神田明神の東側に「明神男坂」と「明神女坂」が載っている。 この階段坂は以前からあるのだが、勾配は女坂の方がキツイようだ。 一般に男坂と女坂というと、勾配のキツイい方が男坂で、緩やかな方が女坂なのだが? さらに、話をややっこしくすると、神田神社の北側、社殿の裏側に蔵前橋通りに下る「裏参道」がある。 ここも階段坂で勾配はキツイ。 今日は、この3つの坂を現地調査した。

・・・・・・・・・・・・・・まず「明神男坂」、、、、神社の境内の標高は20mほどで、ほぼ平らだ。 神社の東側、一般に明神下と呼ばれている部分の標高は7m程で、約13mの標高差がある。 ここに男坂と女坂が造られている。、、、、明神男坂は江戸時代の名所絵図にも描かれてる古くからの坂。 上から見ても、下から見ても、一直線の立派な階段坂で上りやすい。

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・・・・・・・・・・・・・・・「明神女坂」、、、、神社の隋神門をくぐらずに右(東側)に折れて、細い道を入ると「坂のホテル トレティオお茶の水 」というホテルがありその前から天神下に下る坂である。 チョイト判りずらい処に在る、折れ曲がった坂だ。、、、、男坂と上り比べると女坂の方が自分にはきつく、辛い。 上り終えると、ハアハア、ゼイゼイ!

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・・・・・・・・・・・・・・「裏参道」、、、、社殿後ろの祖霊社の脇を蔵前橋通りに下る。 神社の公式案内図では、この参道は「旧女坂」と標されている。、、、、明神男坂、明神女坂に比べ長さは短いが、勾配は一番キツイ!

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・・・・・・・・・・・・・・さて自分勝手な調査の結論は、「明神男坂」は昔からある坂で一番“男っぽく、立派な坂”なので現状の名でいいだろう。、、、、「明神女坂」は明治以降に造られた坂で、神社は公式に「女坂」と認めていない。 どうやら、誰かが勝手に女坂と言ってしまったようだ。 タフな人向けの「猛女坂」と名付けたらどうだろう。、、、、「裏参道」は、昔ここに女坂があったそうだ。 よって、今あれば100歳を超えた「老女坂」と呼んだらどうだ!、、、、いずれにしても、“女坂”と呼ぶような男性に優しく、心地よい坂ではないことは確かである。




●チクタック・チクタック! ・・・・・・・・神田明神を後に、帰りは腕時計の電池を交換して我が家に戻る。

2019年10月23日 (水)

OFF LIMITS の街

今朝、秋晴れの下、草加方面を散歩する予定で家を出た。 朝8時、自分の乗った電車が曳舟駅に着いたら、動かない? 15分後、駅アナウンスで『西新井駅で人身事故が発生しました。 振替輸送を行っております。』 「アリャリャ、自分は何処へ振替輸送してくれるんだ?」 SUICAで乗車し、行先は明示されていない、振り替えも何もない! とりあえず改札へ向かうと、『遅延証明書』を貰う人で行列ができている。 「コリャマタ・タマゲタ、自分は証明書貰っても持っていく先がない!」 大勢の通勤客と同じ行動ができない自分に、チョッピリ寂しさを感じながら駅をでる。

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駅前で「さて、東西南北どっちへ歩くかな?」 「東南北(=シャーない=しょうがない)、西へ歩いてみよう!」 出てきた処は国道6号水戸街道)に面した、出桁造り商家「萬屋糸店」の前。 萬屋さんは、糸・毛糸・寝具・洋品とタバコを扱う地元の老舗。、、、、こちらの向かい側には鳩の街通り商店街の入口がある。 今日の散歩は、久しぶりに鳩の街の周辺を探訪することにした。

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●「鳩の街」は、現在の墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。 地理的に私娼街「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。 太平洋戦争末期に、空襲で焼け出された玉の井の銘酒屋(銘酒を売る看板を上げ、飲み屋を装い、私娼を抱えて売春した店)が何軒か、この地で開業したのが始まり。 終戦直後は、米兵の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが“off limits”となった。 その後は日本人相手の赤線として発展したが、昭和33年(1958)の売春防止法の完全施行で、店は廃業となる。 店は警察の指導でカフェー風に造られ、一目でその手の店と識別できたそうだ。 昭和27年(1952)頃は、108軒の店に、298人の娼婦がいたらしい。、、、、戦後生まれの自分は、当時は赤子。 知っていれば一度は行って見たかった!
 
●一本道の商店街 ・・・・・・・現在は「鳩の街通り商店街」として、国道6号(水戸街道)と都道461号(墨堤通り)を結んでいる商店街。 昭和3年(1928) 「寺島商栄会」としてスタートし、戦後になると隣接する赤線「鳩の街」に因み、「鳩の街商栄会」と名乗る。

・・・・・・・・・・・・・・水戸街道側の入口。 入口のポールには、商店街の名は見えず、あるのは、デザインされたハトだけ。 「鳩の街」の名を伏せたいのか?

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・・・・・・・・・・・・・・でも、案内板・立て看板・店舗名に“鳩の街”がある。

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・・・・・・・・・・・・・・ほぼ真直ぐな道の商店街。 しかし、開いてる店舗は半数もない。 チョイト寂しいが、只今、商店街活性化の最中で効果が出ているそうだ。 モダンな店舗もオープンしている。 数年後には、元気な商店街の復活も夢ではない! 

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・・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に建てられた木造の薬屋さんをリノベーションしたカフェ「こぐま」。 あいにく、火曜・水曜は定休日。 オリジナルカップで出されるコーヒーは美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・・商店街の中程には保育園(写真:右)もある。 この保育園がある場所は、『鳴門秘帖』を書いた作家:吉川英治の旧居跡。、、、、吉川英治は明治25年(1892)横浜生まれ、小学校を中退し、職を転々としながら、朝から晩まで働き通した18歳の時、上京。 大正6年(1917)、25歳の時、下谷の花街で知り合った赤沢やすと、寺島村1820(東向島1丁目)のこの辺りの家で同棲を始め、母たちを近くの借家に呼んだといわれている。 30歳で『親鸞記』を初めて新聞連載し、以後、雑誌「キング」に『剣難女難』、大阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載し、国民文学作家としての大成した。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト懐かしい雰囲気の元理髪店もある。 数年前に廃業した。

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・・・・・・・・・・・・・・墨堤通り側の商店街入口(出口かな?) コチラにも商店街の名はみえない、ポールの上には鳩が止まっている。

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●向島の路地裏の建物 ・・・・・・・鳩の街通りの東側、赤線があったと思われる裏道の一帯を歩いてみた。 

・・・・・・・・・・・・・・この辺りは救急車両が入れない木造家屋密集地区であるが、
最近建て替えられた建物では建て替えに伴い前面道路を広く確保している。 赤線Ⓙ時代の路地裏のゴチャゴチャ感は無くなってきた。

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・・・・・・・・・・・・・・・裏道に、赤線当時の名残と思われる建物が数棟ある。 いずれも、外装にタイルを使用し、丸みを帯びた柱・コーナー部・庇などがあり、出入口が狭いなど共通する。

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・・・・・・・・・・・・・・10年程前まで残っていた“OFF LIMITS”(立入禁止)、、、、外壁の窓下に、白ペンキで書かれていた。 既に、この建物は取り壊された。 (2010年撮影)

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・・・・・・・・・・・・・・鳩の街通り商店街の墨堤通り側の入口から東へ100m程歩くと、文豪幸田露伴が明治41年(1908)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡である、児童公園:「露伴児童遊園」がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト、おまけで鳩の街通り商店街の西側の裏道にある、榎本武揚居住跡に寄ってみた。、、、、武揚は幕末に徳川軍の海軍奉行に就き、戊辰戦争では五稜郭にて戦い、その後明治政府の文部大臣・外務大臣に就いた。 引退後は、この地(現:墨田区向島5-13)に住んでいた。、、、、“旧居跡”というと、都心ではだいたいマンションに変わっている処が多い。 ここも、そうだ。なんだか、実感が沸かないね!

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●・・・・・・・この後、押上まで歩き、今日の散歩は1万2千歩。   【蛇足】押上で電車に乗ったら、ホームに止まったまま20分経過。 その後、『信号装置のトラブルにより、この電車は回送となります』のアナウンスあり。 今日は最悪の日、方角が悪かったのか?

2019年10月20日 (日)

端から端まで橋の梯子

台風19号とその後の雨などで、散歩の機会を逸した十日間程である。 今日は、スカイツリーの下を流れる北十間川沿いに、両端の隅田川から旧中川まで歩いてきた。 1万3千歩

・・・・・・・・・・・・・・北十間川とは、墨田区の中央部(スカイツリーの足下)で、隅田川と旧中川を結ぶ総延長3.24kmの運河である。 川の名は、本所の“北”を流れる幅“十間”程の川に由来する。(幅18mの北十間川は墨田区では一番狭い川である) かつては大横川の分流点より西側(隅田川寄り)を源森川、東側(旧中川寄り)を北十間川と称していたが、現在は両方合わせて北十間川と呼んでいる。 源森川は材木を運ぶための掘割で、万治年間(1659~)に業平橋の北から隅田川までを繋げて堀り進めた。 しかし、隅田川の洪水で大横川沿岸が度々水害に遭うため、寛文12年(1672)には早々に堤を築いて大横川への流れを遮断した。 しかし明治になって再び水を通しています。現在は源森川は北十間川の一部です。 東部の(旧)北十間川は、農業用水として寛文3年(1663)に開削された。、、、、現在は、観光スポットのスカイツリー人気により観光客も増え、北十間川は各所で遊歩道の整備・橋の改修工事が行われている。

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●ゼロメートル地帯を守る水門 ・・・・・・・北十間川の隅田川との合流点は、水上バス浅草乗船場の前から対岸の墨田区役所の方を眺めると、首都高の下に源森川水門が見える。 この水門が北十間川の入口だ。、、、、源森川水門は、平常時、ゲートは開放されているが、台風が接近し高潮・洪水などが予測される場合は閉められ、いわゆるゼロメートル地帯に居住する住民の生命・財産を守る為に造られている。 墨田区・江東区の大部分はゼロメートル地帯で、この源森川水門、木根川水門、新小名木川水門、竪川水門、大島川水門の5つの水門で高潮・洪水から守られている。、、、、水門は、高さ7.5m、昭和34年(1959)に竣工した。 平成28年(2006)には耐震化工事も完了し、これで安心できるかな?

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●枕一つで二人寝た?  ・・・・・源森川水門の東側、墨堤通りに架かる枕橋。 昭和3年(1928)に架けられた震災復興橋。北十間川 、、、、寛文2年(1662)、中之郷(現:吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。 またその北側にあった水戸屋敷内(現:隅田公園)に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、ここに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。 この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称された。 その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。 明治8年(1875)、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。、、、、現在の枕橋は昭和3年(1928)に架け替えられた震災復興橋。 コンクリート製のアーチデザインの橋であるが、石橋のように見える、デザインが素敵な橋。 街灯のレトロ感もいいね!

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・・・・・・・・・・・・・・枕橋からスカイツリーにかけて、北十間川沿いに親水テラス東武鉄道伊勢崎線の高架下には店舗・船着場を整備中。 来年のオリンピック前にはオープンするかも?

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●お名前、拝借! ・・・・・・・枕橋の次は、水戸街道に架かる源森橋。 創架年は不詳であるが、現橋は平成19年(2007)に架けられた比較的新しい橋です。 名前は明治8年に西隣りの源森橋が枕橋と改称されたのにともない、「源森橋」の名をチョイト拝借したそうだ。、、、、全長16m、幅35mの橋。

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●お口の恋人、ロッテの小梅ちゃん? ・・・・・・源森橋の東隣は小梅橋なのだが、“小梅ちゃん”は只今工事中。、、、、昭和4年(1929)に架けられた震災復興橋なのだが、昭和28年(1953)に架け替えられた。 この橋の北側と、現在の業平橋駅一帯が小梅瓦町、小梅村とそれぞれ呼ばれていた処で、旗本の隠居所や富商の妾宅があったのはこの辺りだったのか(?)、、、、現在行われている架け替え工事では、車道幅員を7mから11.8mに広げ、これまで無かった歩道を両側に整備するそうだ。 令和2年(2020)竣工予定。

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・・・・・・・・・・・・・・小梅橋の東隣(旧中川寄り)に北十間川樋門がある。 昭和53年(1978)に竣工したこの水門は、水位を調整するとともに、水質浄化もしている。 ここから大横川が分岐し、南に流れていた。、、、、現在、この樋門も耐震化工事中で、近づくことも出来ず。

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●東武の跡地にペンギンが入居! ・・・・・・スカイツリーの街の西側に架かる東武橋。 その名の通り、スカイツリーが建つ前までは、業平橋駅(現:東京スカイツリー駅)前の東武鉄道本社前に架かっていた橋。 現在の東武鉄道本社は400m程東に移転し、跡地にはスカイツリータウン(水族館)が建っている。、、、、東武橋は昭和初期に架けられたが、現在の橋は昭和63年(1988)に架け替えられた全長19.7m、幅22mの橋。

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●インスタ映えする撮影スポット! ・・・・・・・北十間川に架かる最も新しい橋は、スカイツリーの直下に架かる「おしなり橋」。 車は通行できない(自転車は可)人道橋。 スカイツリー開業時の付近の再開発事業で誕生した、長さ18.2mの橋。 橋上から見上げて見るスカイツリーはド迫力である。 それゆえ、橋上は観光客の撮影スポット。

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●京成の本社は都落ち? ・・・・・・スカイツリーの街の東側に架かる京成橋。 こちらは、スカイツリータウンの東側で、押上駅の出口前に京成電鉄本社ビル(現:京成ビル、ホテル、スーパーなどが入居)があった。 スカイツリーの完成に合わせ本社は本八幡(千葉県市川市)に移転した。 その旧京成電鉄本社前に架かる橋が京成橋。 昭和4年(1929)の架橋。、、、、この橋も只今補修工事中。

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●静かになった橋の上 ・・・・・・・・・・・・・京成橋からさらに東へ行く、西十間橋がある。 長さ21m、幅10m、平成元年(1989)7月竣工。、、、、スカイツリー工事中の時は、この西十間橋と次の十間橋は逆さツリーが撮れる格好の撮影スポットで、連日、アマチュアカメラマンで橋の上はイッパイであった。 時の経つのは早いもので、スカイツリーが完成して既に7年経過、橋の上にはあの当時の賑わいはなし。

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●634×2=1268m? ・・・・・・西十間橋の次は十間橋。 業平5丁目と文花1丁目を結ぶ橋で、昭和14年(1939)に架けられた橋。、、、、橋の上では、日本人ではなく外人がスカイツリーを撮っていた。、、、、工事中の頃は、実物と川面に移るスカイツリーが一つの写真に写り込んだが、今は広角レンズでないと撮れない、チョン切れ写真となってしまう。 高さ634m×2倍=1268mの撮影は無理だ! 

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・北十間川はこの橋のすぐ東で、写真左へ流れる横十間川とつながっている。

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●見晴らし良し! ・・・・・・横十間川との分岐部の東に、北十間川と浅草通りに架かる大きな歩道橋がある、その名は柳島歩道橋。 ここからの景色は絵になるね!、、、、写真は、歩道橋全景、歩道橋から隅田川(スカイツリー)方向を見る、同じく旧中川方向を見る。   

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●殺人事件の現場か? ・・・・・江東区亀戸3丁目と墨田区文花1丁目・2丁目を結ぶ境橋。 長さ17m、幅8mの橋で、昭和49年(1974)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・・境橋の南詰に小さな祠:祐天堂がある。 祐天堂は、元禄時代、祐天上人が旅の途中で、堂の後ろに流れる北十間川を見ると多くの水死者があり、その屍を救い上げこの場所に葬り供養し堂をたてたと言われている。、、、、なぜ、多くの水死者が出たのか不明だ! 大量殺人事件かも?

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●ふりむいてほしいね! ・・・・・・・・墨田区文化2丁目、石鹸の「花王すみだ事業所」の近くに福神橋が架かっている。 橋上は明治通りが通る。 橋長21.30m、幅22.00m、昭和58年(1983)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上からスカイツリーを見ると、いいね! 写真右端の建物は「花王」。、、、、“花王”といえば、エメロンシャンプー。 エメロンシャンプーといえば、ハニー・ナイツが歌たうCMソング「ふりむかないで」。 この歌、昭和40年代の歌、私の好きな歌。 歌詞 ♪♪ 泣いているのか 笑っているのか うしろ姿の すてきなあなた ついてゆきたい あなたのあとを ふりむかないで 東京の人 ♪♪ 歌は最高、CMに登場した女性は可愛い娘だった! 時代は変わり、今では物陰で、ストーカーの歌と噂されているらしい。 

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●チョイトだけよ! ・・・・・・北十間川を渡る亀戸線の橋梁。 只今、隣りの小原橋が工事中で、東武亀戸線北十間川橋梁の全景が見えず、残念!、、、、昨年撮影した北十間川橋梁はコチラ!

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●端の橋で終わり! ・・・・・・・東武亀戸線北十間川橋梁のすぐ横に、小原橋があるが、只今架け替え工事中。 その頭上には丸八通りの新小原橋(車道専用)が通っている。、、、、ここが、北十間川で最も旧中川寄りの橋。

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・・・・・・・・・・・・・・旧中川と北十間川の合流点。 左から北十間川、右から旧中川が流れてくる。

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2019年10月16日 (水)

カエルの寺

台風19号に騒がせられ、驚かされ、踊らされ、疲れさせられた一週間。 我が家では幸い被害はありませんでしたが、被災した方にはお見舞い申し上げます。

今日は朝から東上野の病院で泌尿器科の定期検診。 結果はもちろん異状なし、看護婦さんが『年が明けたらまた来てね!』。 その後、病院の近所を散歩してきた。




●寄席発祥の地 ・・・・・まずは、病院の近くの神社。 上野駅前から駒形橋方向に伸びる浅草通りに面し、朱塗りの大きな一の鳥居が建つ下谷神社。、、、、天平2(730)上野の忍ヶ岡に創建されたと云われてる。 寛永4年(1627)寛永寺建立のため山下に移された(現:上野駅入谷口前)。 しかし土地が狭く、延宝8年(1680)に広徳寺前通り(現:浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。 その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。 本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」などとよばれた。 稲荷町(現:地下鉄銀座線の駅名でもある)という地名も、本社に由来する。 江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。 「下谷神社」と改称したのは明治5年である。 関東大震災の後、昭和3年(1928)の区画整理により、東南に50mほどの現在地(台東区東上野3)に移る。、、、、都内最古の“お稲荷さん”で、浅草通りに面する一の鳥居は、昭和8年5月の建立で朱塗りである。 扁額の字は元帥:東郷平八郎の書。 東郷元帥は、翌年の昭和9年5月に87歳で亡くなった。 現社殿は昭和9年の完成。

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・・・・・・・・・・・・・・・境内には、「寄席発祥之地」の碑と正岡子規の句碑「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」がある。、、、、寛政10年(1798)山生亭花楽(3代目三笑亭可楽)が境内で初めて寄席興行を打ってから200周年目の平成10年、落語協会、落語芸術協会と上野鈴本・新宿末広亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場の寄席が心を合わせて建立した碑。 興行は有料で行われたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・社殿左手隅にある境内社:陸栄稲荷神社(下谷稲荷神社)。 鳥居前の石の上に神使(狐の石像)が何匹もいる。、、、、これが全て生きた狐だと、チョイト怖いね! 

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●昭和の建築 ・・・・・チョイト、下谷神社周辺の「昭和の残照」、、、、看板建築・長屋建築を拝見! 

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●柔道発祥の地 ・・・・・下谷神社から浅草通りを横断し、地下鉄銀座線稲荷町駅出入口前の交番横(東上野5)に、朝日山願成院永昌寺の門がある。 永昌寺は、朝日長者が尊譽榮全を招いて永禄元年(1558)下谷御成小路辺長者町に創建、寛永14年(1637)に現在地へ移転した。 慈恵大師が厄除のため彫刻し、後に朝日長者の守護仏となったと伝える千手観音が秘仏として祀られている。 俗に「厄除本尊」といわれる。、、、、境内はさほど広くはないが、樹木は少なく、石畳の参道が本堂へ導いてくれる。 また、本堂裏にはビルの谷間に整然と墓石が並ぶ墓地がある。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂に向かい左側に丸みをおびた自然石に「講道館柔道発祥之地」と彫った碑がある。、、、、その横に発祥の地を説明する石柱がある。 『明治14年嘉納治五郎は、東京大学を卒業、学習院に奉職したが、翌15年2月より、当寺内に居住して、同寺書院を道場として学生を養柔道を中心とする訓育を始めた。 これが、今日国際的な広がりを持つに至った。 唯一の国技講道館柔道の発祥である。時に治五郎は、年23才。 道場の広さは12畳初年の入門者は9名。 当時住職は、朝舜法大和尚であった。 平成8年吉祥日  朝日山願成院永昌寺中興廿八世 白蓮社純誉貞晋上人』と説明している。、、、、地下鉄駅に近い場所に道場に開くとは、交通便利で入門者も通いやすく、さすが先見の明ある治五郎君!

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●池の寺 ・・・・・・・浅草の方向に歩いて行くと、かっぱ橋道具街の手前(松が谷1)に、日蓮宗寺院の妙音寺がある。 妙音寺は妓楽山と号す。 慶長15年(1611)日本橋馬喰町に創建、富田半七(華光院日性)を開基とする。 明暦3年(1657)の大火で伽藍を焼失し現在地(松が谷1)に移転した。、、、、 江戸十祖師の一つとして著名である。、、、、境内には、小さいながらも鯉の泳ぐ池があり、「池の妙音寺」とも云われているそうだ。 立派な錦鯉が優美な泳ぎを披露している。 

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●格調高い寺 ・・・・・・妙音寺と同じ松が谷1丁目に、曹洞宗萬年山祝言寺(しゅうげんじ)がある。 祝言寺は、太田道灌が天文20年(1551)に創建したとも弘治2年(1556)の創建だともいい、祝言村(千代田区)に建立。、、、、もと駒込吉祥寺末の寺で、入口に「当山開山 太田道灌公顕彰碑」と彫られた碑がある。 寺は天正18年(1590)に徳川家康より萬年山の山号と松平家と同じ「丸に一つ葵」の紋所を賜り、江戸城大手門前から後に神田、日本橋を経て現在地の浅草に移った。、、、、寺は明暦の振袖火事、関東大震災、戦災などで何度も焼けたので、古文書や宝物は残っていないけれども、太田道灌の位牌「静勝軒春苑道灌居士」がある。、、、、祝言寺本堂は、内井昭蔵の設計、大成建設の施工で、昭和60年(1985)に竣工した。 また、燻したような光沢のボーダータイル張りの山門永代供養堂は、テツク建築設計事務所の設計、大成建設の施工で、平成18年に竣工した。 重厚で格調高い雰囲気を演出している、いいね!
・・・・・・・・・・・・・・山門から本堂へ

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・・・・・・・・・・・・・・納骨堂、、、、上部は鐘楼となっている

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・・・・・・・・・・・・・・墓地への入り口近くに、鉄鍋を被せた「鍋被り地蔵」がある。 地震の時にたまたま地蔵の上に落ちてきた鍋が被さって難を逃れたことからずっと鍋を被り続けている。 災害除けの霊感もあるとか。 直参旗本酒井家に祀られていたもので、眼病に利益あるとか。、、、、眼病より災害除けのほうが御利益ありそうだ! 

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●蛙の寺 ・・・・・・さて、本日の散歩の最後は、祝言寺の北側(松が谷2)にある日蓮宗寺院の龍嶋山本覚寺。 本覚寺は、天正19年(1591)馬喰町に創建、明暦3年の大火の後、現在地へ移転した。 江戸十大祖師の一つ日限祖師として著名。、、、、【蛇足】江戸十大祖師とは、江戸にある10ヶ寺の日蓮宗寺院を参拝することにより祖師(日蓮)のご利益にあずかろうとする民間信仰。 江戸時代は盛んであったが、現在では大がかりには行なわれていない。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂は昭和34年(1959)に城郭研究の第一人者だった東工大教授:藤岡通夫の設計で再建された。 カラフルでモダンな建築である。

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・・・・・・・・・・・・・・祖師堂は、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造で建立、戦災で焼損し昭和50年(1975)に改修された。

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・・・・・・・・・・・・・・数日前の台風19号、サンマの不良、どれもこれも地球温暖化による異常気象が原因らしい。 この寺でも類似の現象か(?)カエルの大発生である。、、、、本堂横の蟇大明神には、数えきれないほどの蟇(カエル)がイッパイ。 何じゃ、コリャ! よく見ると、陶器のカエル。 本堂で売ってる置物のカエルである。、、、、蟇大明神の横に、『蟇塚由来記   天保の頃、當山の檀家に秋山某なる人があった。故あって稼業を助ける神として蛙蟇塚という碑を建てて崇めていたと云う。大正一二年関東大震災の折、東京は一瞬にして焦土となり當山も又烏有に帰したがその時の墓守関某という人が霊感する所あって土の中より件の碑を探し出し小さな堂を建てて祠った。 丁度その頃下谷に千八という人がおり、この蛙蟇塚に願をかけた所大きなご利益を得、遂に一念發起して現在の地に蟇堂を建て、人に逢うことに蟇の分身を與えて利益のあることを宣伝した。 千八師は自らも歌舞をよくしこの方面に宣伝した為に花柳界歌舞演劇界映画芸能界等金銭物質の出入や人気稼業方面に信者が多い。昭和二十年三月の大空襲で全焼したが戦後いち早く下谷の高田家保袋家氏等の尽力で復興し今日に至っている。動物信仰の一形態としても誠に珍しいものである。昭和五十一年に至り堂宇の傷み甚だしくここに恒久的堂宇の再建を發願した所詣者多数の賛同と協力を得て昭和五十三年七月二十日新蟇堂の完成を見た。』と記されている。、、、、山のように積み重なったカエル。 ジーッと見ていると、チョイト不気味だ!

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●便利なバス ・・・・・・・ちょうど、浅草橋方面行のバスがやってきた。 このバス、我が家(浅草橋)の近くで止まってくれる、しかも運賃100円也。 下車して家までは徒歩1分。 世の中、便利でいいですね!

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2019年10月10日 (木)

ママに向かって、スタコラサッサ

今日も敬老パスで、浅草橋から都営地下鉄(北総線印旛日本医大行)に乗った。 「どこで降りようか?」電車の中で思案橋! 考えている間に、押上・青砥・高砂とすぎ、とうとう北総線に入った。 ついに考えがまとまらず、ヤケッパチで飛び降りた駅が秋山駅。 何度も散歩に訪れている駅で、どっちに向いて歩いても、来たことある処だ! 新しい発見は期待できず。 こういう時はよそ見せずに、ひたすら健康のため歩くことにする。 京成本線市川真間駅まで、1万1千歩の歩きです。、、、、今日の散歩コースは昨年5月15日と全く同じです。




●寂しい駅ですね ・・・・・・一日の乗降客数は約7,300人と少ない、千葉県松戸市の南に位置する秋山駅。 いつまでたっても、駅前にコンビニ、パチンコ屋、居酒屋が開店する気配はなく、寂しい駅。 訪れたよそ者には、駅構内の売店が唯一の店舗だ!、、、、駅前ロータリーには、バスも、タクシーも、自家用車も止まっていない。 止まっているのは、駐輪場の自転車のみ。

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●ここは市川市稲越町 ・・・・・・・ネギの香りが鼻をピリピリ刺激する畑を抜け、住宅地を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・駅から700m程歩くと、千葉県市川市の北部に位置する稲越町に入る。 北総台地の西の端でもある。、、、、判るかな、稲越町から眺めるスカイツリー? (18/5/15の記事に答えがある)

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・・・・・・・・・・・・・・この辺りにでは梨御殿をアッチ・コッチに見ることができる。 梨って儲かるようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・稲越町の南端:県立国分高等学校前から市川駅行のバスが出ている。 ここは、バスの終点であり、起点でもある。 生活の足として、多くの乗客が利用している。 市川駅まで、15分、240円は、高いか?安いか?スルメイカ。

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●次は市川市曽谷の町 ・・・・・・・北総台地を下り、曽谷貝塚で有名な市川市曽谷の町を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・国分川調整池に出てきた。 大きな緑地となっており、池ではサギが遊んでいる。 サギが舞う公園になると、住民に喜ばれそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・曽谷橋の交差点(曽谷と東国分の境)に国分交番がある。 国分交番の歴史は古く、昭和19年(1944)に国分交番の前進となる国分村立勤一所が当時の国分村に設置され、その後幾多の組織変更・移転を行い、昭和50年(1975)に現在の交番が建てられた。 これぞ、“ポリスボックス”と言うような、飾り気のない四角い箱型の建物である。


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●さて市川市国分の町 ・・・・・・下総国分寺の東側で外環道を越え市川市国分の町に入る。

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●続いて、市川市須和田の町 ・・・・・・・・・・・須和田は真間川の北側に広がる町。 バス通り沿いに六所神社が鎮座する。、、、、六所神社というのは、“下総の国”、“上総の国”と呼ばれていた時代、国府の近くに造られた総社の一つ。 国司はここに参拝すれば、国内の一ノ宮から六ノ宮までを巡ったことと同義となり、効率を良くすることができた。 よくよく考えると、国司は「手抜き」していたことになる。 昔も今も、要領良くルールを変える者がいる。、、、、神社の賽銭箱は鉄の檻に入れられ、鎖で縛られ、チョイト痛々しい状態だ。 大金は入っていないと思うが、取り出すのも大変だ!

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・・・・・・・・・・・・・・夏の名残と秋到来

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●ママはすぐそこ! ・・・・・・真間川を渡り真間の町に入れば、市川真間駅はスグそこ。

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2019年10月 9日 (水)

渡辺小右衛門の梅島

東武伊勢崎線梅島駅から、駅前の旧日光街道と現在の日光街道(国道4号)の間の裏道を北上するつもりで散歩に出た。 途中で立ち寄った神社では、予定外に話がはずみ、お散歩タイムがオーバーしそうになる。 途中から西新井駅に向かい帰宅。 今日はおしゃべりが多く、歩数は8千歩。




●足立区の中心? ・・・・・・東武伊勢崎線の梅島駅は、島式ホーム1面2線の高架駅であるが、用地幅が狭いためホームの幅も狭くなり、北千住寄りに上りホーム、西新井寄りに下りホームが一直線に配置された変則タイプである。 停車するのは全て普通列車で、優等列車はホーム外側の急行線で通過する。 階段・エレベーター・エスカレーターは、上下両ホームの間(細長い島式ホームの中央部分)にのみ設置されている。、、、、朝の下りホームは人影まばら、上りホームは乗客が線路にこぼれそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・大正13年(1924)10月1日に開業した梅島駅は、昭和43年(1968)に高架駅となった。 駅出入口は旧日光街道に面している。、、、、駅は地理的に足立区のほぼ中心に位置し、周辺は民家・店舗がビッシリ建ち並ぶ、“This is 足立区の駅”である。

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・・・・・・・・・・・・・・駅横から裏道を歩く。 足長の女性が短足の私を追い越していく。 歩幅が違うようだ、ドンドン離されていく。 カッコイイ~彼女を見て、おのれにガックリ! 

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●ケチャップの公園? ・・・・・・裏道を北の方角に歩くと、緑の芝生の向こうに煉瓦造りの洋館が見える。 入口には「ベルモント公園」(足立区梅島1)と標されている。 以前に一度訪れたことがある公園だ!、、、、当時、いい加減な私は、トマトケチャップの「デルモンテ」と早とちりし、「ここは会社が提供した公園」で、洋館の中ではトマトジュースなどが飲める施設がきっとあると期待し、園内をキョロキョロしたことが思い起こされた。、、、、ベルモント公園は、平成5年(1993)、足立区と西オーストラリア州ベルモント市との友好親善のシンボルとして作られた洋風の公園です。  美しい花壇、赤レンガの陳列館(オーストラリアの工芸品・日用品などを展示)、ヒツジのモニュメントのほか、ユーカリ・ブラシノキ・アカシアなどのオーストラリア原産の植物などを観ることができる洋風の公園。

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●彰義隊の地蔵! ・・・・・・・・梅島2丁目の裏道を、クネクネと曲がりながら歩くと、小さな地蔵堂があった。 由来を記した案内には「槐戸地蔵尊」と記されているが、はて、何と読むのやら? 玉垣の石に、“さいかちどじぞうそん”と送り仮名が降られていた、難しい読みだ。、、、、由来を引用すると、『昔 此の辺りを槐戸耕地といいました。南を中沼耕地、東南を長張耕地、道海耕地といい東を背出し道面耕地と呼んでいました。西に富士山・箱根の山を望める景色の佳い農村でした。明治・大正の頃は村内ににまだ八軒の晒屋があり、風に白布がたなびく風景は見事であったそうです。お地蔵さまは、享保四年二月、今から二百七十九年前、花畑の講中が本木の石屋に彫らせたものです。立派に仕上がったお地蔵様を紫微そりに乗せて、数名の有志達が運んでいました。ところがこの場所まで来たところ、何故か急に全員の手足が動かなくなってしまいました。これはお地蔵様が此の地をお選びになり、ここて村人たちを守りたいというご意志を示されているにちがいないと解釈し、ここにお奉りしたと言われています。以来、お地蔵様による数々の霊験が伝えられています。 平成十年九月吉日   小右衛門新田講中 』、、、、、、、、このお地蔵さまは足立区の資料によると、『彰義隊ゆかりの石地蔵』として、次のように説明されていた。 『 梅島二丁目にある槐戸地蔵には、彰義隊ゆかりのものという語り伝えがあります。彰義隊は、慶応4(1868)年5月14日の夜から上野の山に立てこもった一部の幕軍のことで、一日で官軍に敗れてしまいました。官軍の目を逃れてきた者もいましたが、その中には傷ついた者がかなりおりました。そうした隊員の中に、梅島二丁目10-5付近の葦の茂みに潜伏した者がありました。この5人はいずれも変装し大八車に少しばかりの家財道具と1,2個の石を積んでおりました。しかし、葦の茂みの中で数日を過ごしましたが、薮蚊が多く、初夏の日差しもあり傷は悪化するばかりでした。傷ついた5人はもうこれまでと、付近の農家に持ってきた石を建てて供養してくれるように頼みました。村人は頼みを聞き入れて、運んできた石を建てると地蔵に変身し、村人たちの危難を何度となく救ってくれました。特に皮膚に効験があるということで「いぼ地蔵」の名がつけられました。』、、、、、、、、約290年前に遡る由来と、約150年前の彰義隊の話、どちらも信じられないが歴史あるお地蔵さまの物語。、、、、今日の散歩は、このお地蔵さまに彫られた「小右衛門」の名によって、この後の散歩コースが変わることとなった!

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●奥の深い物語にビックリ! ・・・・・・・槐戸地蔵尊から北に向かい、再び裏道をクネクネ曲がり歩くと、「小右衛門稲荷神社 」があった。 先ほど見たお地蔵さまと同じ「小右衛門」(こえもん)の名を冠してる。 ここで、境内を掃除されていた人に神社の由来を聞いたら、ナント、物語を語ってくれた。 主人公は渡辺小右衛門である。(私と同姓) 物語(由来)を要約すると、『今から数百年前のこと、岩槻の太田氏に仕え、徳川家康の江戸討入り後も、同じ岩槻城主高力河内守の家人をしていた渡辺小右衛門という人がこの地に移ってきた。 彼が主家を何故去ったのかというと、理由ははっきりしないが、村田利兵衛と共に、同僚の高橋伴右衛門を斬ったため逐電したのだという。 しかし逃れてきたものの日は落ちて思案に暮れているとどこからともなく一匹の狐が現れて、小右衛門の袴の裾を引くではないか。 引かれるままに付いていくと小堂がある。 これ幸いと一夜を明かし、翌朝目を覚まして堂を出てみると、6軒ほどの家がちらほらと目に付いた。 がその外は一面の荒野だ。 そこで白狐に引かれてきたのも神の引き合わせと思いこの地に腰を据えて開墾することにした。 そこで村田を呼び寄せ、先住の日比谷・中館・岩館・相沢・深井・佐倉井の6人にも声をかけて、開発に取り掛かった。 この端緒を作った白狐との縁を忘れぬため稲荷を祀り、「裾引稲荷大明神」としたという。 現在は開発者を忘れないように小右衛門稲荷神社と呼んでいる。』、、、、神社の方には、由緒を説明して頂き、さらに渡辺小右衛門の墓を教えていただき、さらに神社の参道の敷石が北斗七星の形をしていること、さらに小右衛門稲荷神社と江戸城と鎌倉の鶴岡八幡宮が一直線上にあること、さらに神輿の担ぎ手が減少していること等々、いろいろ長時間におよびお話して頂き、ありがとうございました。
 
・・・・・・・・・・・・・・小右衛門稲荷神社、、、、鳥居、参道、拝殿と続く

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・・・・・・・・・・・・・・神社の隣りの墓地に渡辺小右衛門の墓がある。 足立区の文化財。

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・・・・・・・・・・・・・・神社の参道は、空から見ると「北斗七星」によく似た形をしていることが発見された。 私も、Googleマップで確認してみました、ナルホド北斗七星です。 TVでも話題になったらしい。 さらに、夏至の頃には太陽が拝殿の中心に沈むことも明らかになっている。 、、、、陰陽道か?

・・・・・・・・・・・・・・地図で確認すると、小右衛門稲荷神社と江戸城と鶴岡八幡宮が、見事に一直線上にあることも確認できた。 



●家光お手植えの松がある! ・・・・・・・チョイト話が長引き、梅島の北側:島根の町に入り帰宅することにした。 西新井駅に向かう途中で、日蓮宗の天下長久山国土安穏寺(島根2)に寄って帰る。、、、、国土安穏寺の創建は、応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。 江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。 したがって寺では、葵の御紋を随所に見ることができる。 寺宝として、日蓮聖人の断簡、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがあるそうだが、見ることは難しい。、、、、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営。

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●帰るぞ! ・・・・・・・・西新井駅から帰宅する。、、、、8千歩の散歩でした。


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2019年10月 8日 (火)

くず餅食べに川崎大師へ

最近、年のせいか物忘れすることが多くなってきた。 顔は知ってるが御近所の人の名が出てこない、昨日食べた料理の名を忘れた、歌は知ってるが歌手の名を忘れた、『コリャ~、ボケだ!』 まだ、妻の名は知ってるから重症ではないと思う。、、、、今日は、夫婦で呆け封じに川崎大師(平間寺)に行ってきた。 本音は、川崎大師が呆け封じに効くかどうかは知らないが、くず餅が食べたくて行っただけ。

川崎大師周辺は、今夏に、京急大師線(川崎~小島新田)を踏破したので、以下の記事を見てください。 今日は手抜きで要所のみ紹介!

            19/7/10  京急大師線 (小島新田~川崎大師)

            19/7/17  京急大師線 (川崎大師~京急川崎)



●ガラガラ? ・・・・・・・夫婦揃って川崎大師駅のホームに立つ。 正月は超混みあう駅だが、今日、平日の昼過ぎ、ガラガラ。 人影も少なく、ひょっとすると「川崎大師は定休日かな?」 

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●撫で撫で! ・・・・・・・川崎大師に行く前に、駅前の若宮八幡宮にお立ち寄り。 この神社は、「若宮」という名から子供・若者の守護神でもある。、、、、境内社の金山神社は、加治屋と性の神様と云われており、御神体は「男根」である。 社殿の前には、御神体を模した黒光りする大きな男根がある。 今日初めて来た家内は、先ちょを撫で撫でして、何やら願掛けをしているようだ。 社殿脇の草の中に橙色の小ぶりな一物を見て、「あなたのは、こっち!」

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●・・・・・・・・・・・・さて神社の次は、開店休業中かと思うような人通りの少ない川崎大師参道を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・参道中程に朱塗りの山門が目を引く、天台宗寺院の明長寺がある。 創建年代は不詳だが、文明年間(1469~1487)に創建したと伝えられている。 現本堂は、明和2年(1765)に再建された。 小さいが、緑豊かな落ち着いた寺である。、、、、境内には、この付近にあったと思われる、馬頭観音、地蔵尊、庚申塔などが集められ、多くが祀られている。 一つぐらい、我が家の置物に頂戴したくなった! 
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・・・・・・・・・・・・・・川崎大師山門前の参道は、飴屋、達磨屋、くず餅屋、どこの店も営業中。 客の少ない参道では、可愛い売子の呼び声に惑わされず、参道を通り抜けるのは至難である。 ついつい「帰りに買うね!」と言いながら通過。

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●ガンガン願掛け! ・・・・・・・川崎大師に着きました!、、、、二葉百合子の「岸壁の母」の気持ちで、♪♪ 妻は来ました 今日も来た この御大師に 今日も来た とどかぬ願いと 知りながら 呆けを封じに 呆けを封じに 願掛けに ♪♪、、、、夫婦揃って、本堂で合掌、「南無大師返照混合」を唱える。

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●アメアメ舐め舐め! ・・・・・・・お参り済ませて、くず餅を頂く。、、、、夫婦の話題は、「ここと、亀戸天神、池上本門寺、西新井大師、何処のくず餅が美味しいかな?」 「〇〇〇はチョイト硬めで荒い」 「ここのは優しい味」 「あそこは食べた後に胃に堪える」 話題は盛り上がる、単純な夫婦。

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・・・・・・・・・・・・・・くず餅の次は、を買って帰ろう!、、、、咳が止まらない“せき止め”を買う。、、、、ふと思う、飴にヒ素を混ぜて“息止め”と称して、闇の世界で売ったら、儲かりそうだ。 製造中、チョイト味見、自分でつまんで舐めたら、彼の世行!

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・・・・・・・・・・・・・・大失敗! “呆け封じ飴”買うの忘れた! もうボケていた、御利益なし!

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●しめしめ! ・・・・・・・川崎大師の南東に位置する大師公園の中に瀋秀園(しんしゅうえん)はある。 この瀋秀園は、中国瀋陽市と川崎市との姉妹都市提携5周年を記念して、昭和62年(1987)、瀋陽市から寄贈されたもので、 中国の庭園技術指導団の指導と協力の下に造成が行われ開園した。 庭園面積は4,300㎡で、国内では最大規模の中国式自然山水庭園。、、、、小さな公園であるが、妻は一刻、中国に行った気分を味わえたようだ。 しめしめ、これで中国旅行は達成か!

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●・・・・・・・・・・・・・この後、JR川崎駅前に出て買い物をして帰宅。

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2019年10月 5日 (土)

近藤勇の滝野川

京浜東北線王子駅から石神井川沿いに歩いて埼京線板橋駅まで、10月だというのに熱中症に注意して、1万歩の散歩です。




●最古の駅!・・・・・・・京浜東北線(東北本線)の王子駅は、日本鉄道上野駅~熊谷駅間の開業時に、上野駅の次の駅として同時に、明治16年(1883)7月28日に開設された。 現在の東北本線で最も古い駅の一つである。、、、、築堤上に島式ホーム1面2線を有する高架駅で、改札口は北口・中央口・南口の3ヶ所。 駅前ロータリーがあり、バス停があり、地下鉄の出入口があるメイン改札は北口の東側である。 今日、私が利用したのは北口の西側、音無親水公園に出る通称:親水公園口である。 土曜日なので通勤客は少なく、改札も楽に通過!

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●痒い痒い公園! ・・・・・・石神井川は、小平市の東部を源にして王子駅の下を流れ隅田川に注いでいた。 北区付近では“音無川”と呼ばれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季を通し、行楽・景勝の地として親しまれてきた。 しかし戦後は、生活排水などで汚れた臭い川となり、洪水の危険度も増したため、昭和30年代から改修工事が行われた。 石神井川の新ルートとしては、音無橋の上流側から飛鳥山の下をトンネルで抜け隅田川へ流れていくようになった。 音無橋から王子駅に至る旧ルートは、昭和63年(1988)に音無親水公園として整備された。、、、、親水公園となって約30年、流域はゴツゴツした石に苔がへばりつき、あちらこちらに誰が捨てたかビニール袋、渓谷のように造られた薄暗い公園で遊ぶ子供は一人もいない。 もう少し、日常の手入れに努め、明るい公園にすると良いと思うね! 写真を撮っていたら、やぶ蚊にヤラレタ、手も足も痒くて痒くて、ウナコーワでも、キンカンでも、何でもいいから塗ってくれ!

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・・・・・・・・・・・・・・公園の上に架かる音無橋。 昭和5年(1930)、隅田川に架かる白鬚橋を設計した橋梁技術者:増田 淳の設計、総工費149,976円也で造られた、コンクリート製三連アーチ橋。 橋の中程には半円形のテラスが設けられ、モダンな照明もある優美な橋。

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●水子の寺! ・・・・・・・北区役所庁舎と石神井川を挟み向かい合う浄土宗の正受院(北区滝野川2)  思惟山浄業三昧寺と号し、正受院は不動即我の密法を修していたという僧学仙房(弘治3年(1557)寂)が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を創建したと伝えられている。、、、、本堂は新しそうだ! 昭和の建築かも?

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・・・・・・・・・・・・・・参道に建つ鐘楼門は、明治35年(1902)建造の竜宮門形式の山門。下部は大谷石造り。

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・・・・・・・・・・・・・・正受院は、一般に「赤ちゃん寺」として知られており、嬰児や水子のための納骨堂である慈眼堂がある。 慈眼堂は平成になって建て替えられた赤子供養仏堂。 赤ちゃん寺の名の由来は、江戸時代から札所として独立した観音堂を持っていたことから、昭和23年の衛生保護法施行を機に、同29年(1954)頃に都衛生局と赤子の納骨供養をする寺として話がまとまったことによるそうだ。 慈眼堂の他に、赤ちゃんの供養塔:地蔵大菩薩の銅像、六地蔵などもある。、、、、私には、嬰児も水子もいないが、念ごろに手を合わせてきた。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂前に、幕末択捉島を探検した近藤守重の武者姿の石像がある。 間宮林蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれた。 現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱を建てたのが近藤守重である。 守重は明和8年(1771)江戸町奉行与力の次男として生まれ、家督を継いで、通称を重蔵、号を正斎と称しました。 寛政10年(1798)、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽くした。 文政5年(1822)から9年までの4年間を正受院の東隣に、瀧野川文庫という書斎を設けて住んでいた。 石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して製作したと伝えられている。

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●橋の向こうに紅葉の寺 ・・・・・・石神井川に出て川沿いを歩く。 紅い欄干の紅葉橋(もみじばし)が見える。 この橋は、大正4年(1915)に初代の木橋が架けられた。 王子・滝野川間の交通のため、地元の商人が府知事の許可を得て、ここに賃取橋(有料橋)を架けたのが始まりである。 橋名は、橋の南詰にある紅葉寺(金剛寺)に由来する。、、、、深いコンクリート護岸が続くのは、チョイト味気ないね!

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●弁天様だけ堂の中! ・・・・・・・紅葉橋南詰(滝野川3)、真言宗豊山派寺院の金剛寺がある。 瀧河山松橋院と号す。 金剛寺は、弘法大師が遊歴した際に創建したと伝えられており、治承年中(1177~1181)に源頼朝がこの辺りに布陣したとも記されている。 寺は紅葉の名所であったことから「紅葉寺」とも呼ばれている。

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・・・・・・・・・・・・・・金剛寺の弁財天は、岩屋弁天、松橋弁天とも呼ばれ、多くの信仰を集めたそうだ。 弁天堂の参道には、弁財天を除く七福神6神の石仏がある。、、、、また、山門脇には石造の仁王像もある。

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●かつては軍用鉄道橋! ・・・・・・紅葉橋の上流に架かる滝野川橋。 ここには、かつて軍用鉄道橋「西高橋」が架かっていたそうだ。 現橋は昭和36年(1961)3月完成。

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●近藤勇の菩提寺! ・・・・・・石神井川の左岸(滝野川4)の裏道を歩くと、真言宗豊山派寺院の寿徳寺がある。 南照山観音院と号す。寿徳寺は、建保2年(1214)早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い、追われて落ち延びる途中で観音像を水中から拾いあげ、 これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのに始まると伝えられている。 本尊は、谷津子育観音と親しまれているらしいが、秘仏となっており拝見できず。、、、、寿徳寺は、新撰組の近藤勇、および隊士の菩提寺でもあり、境外寺地には、谷津大観音、近藤勇と新撰組隊士供養塔があります。

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・・・・・・・・・・・・・・寿徳寺の山門前から石神井川に出ると観音橋の脇に、寿徳寺の住職が建てた、台座を含め高さ7.7m程の谷津大観音が座している。 観音様は平成20年(2008)12月開眼供養が行われた。、、、、ちなみに、この観音像の原型を製作したのは、仏師:渡邉雅文氏である。 お顔を拝見したことはないが、何となく、私と兄弟のような気がするね! 

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・・・・・・・・・・・・・・ついでに、観音橋の全景をどうぞ、、、、

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●元気出して! ・・・・・石神井川の散歩は観音橋で終わり、ここから南に折れ板橋駅に向かう。 国道17号(中山道)を横切り、「きつね塚通り」を抜け板橋駅前に出る。、、、、この商店街も寂れてきたようだ! 『客がコン・コン』では困るね、元気出して!

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●首はどこに行った? ・・・・・・板橋駅に到着。 駅の正面に寿徳寺の境外墓地(滝野川7)がある。 境外墓地と云うより、そのものズバリ、新選組の近藤勇の墓がある。、、、、新撰組局長として幕末に活躍した近藤勇は、慶応4年(1868)板橋刑場(板橋駅の近く)で処刑された。 函館で戦死した土方歳三をはじめ新撰組隊士と共に、駅前に墓が建てられています。、、、、ところで、近藤勇は斬首の刑を受け、首は京都に晒され、胴は滝野川の無縁塚(現在地)に葬られたそうだ。 京都に行った“首”は、その後どうなったのか? 足が無いので、東京に戻れなかったのか?、、、、墓碑は近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のために、新選組隊士永倉新八が発起人となり、旧幕府典医松本順の協力を得て明治9年(1876)に建てられた。

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●駅が変わる! ・・・・・・埼京線板橋駅では東口(滝野川口)に5階建ての駅ビルを建設中。 只今、内装工事中のようだ。、、、、線路の反対側、西口(板橋口)では、JR用地と板橋区用地があり、2つの用地を一体化して35階建ての超高層を建てる予定らしい。

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2019年10月 2日 (水)

赤い地下鉄の茗荷谷

今日は飯田橋の循環器内科クリニックの帰り、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅まで歩いてきた。 9千歩




●揺れる歩道橋は嫌いだ! ・・・・・・私が通う循環器内科は飯田橋交差点近くのビルの中。 今日は2ヶ月に1回の定期検診日である。 血液検査の結果は異状なし。(そりゃそうだ、医者に診てもらっているのだからね)、、、、駅前の飯田橋交差点から散歩をスタート。 飯田橋交差点は外堀通りと目白通りが交差し、大久保通りの起点でもある、主要道による五叉路である。 地下には神田川が流れ、その下には地下鉄の東西線、南北線、有楽町線、大江戸線が走り、神田川の頭上には首都高5号池袋線がとおる、さらに、飯田橋交差点の外堀通りはオリンピックのマラソンコースでもある、まさに交通の要所である。、、、、交差点には車の振動で揺れる(私が好きになれない)大きな歩道橋が掛かっている。


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●長兵衛の死体が流された橋! ・・・・・・隆慶橋(りゅうけいばし)は、神田川に架かる橋で飯田橋交差点から目黒通りを上流側250m程行ったところ(文京区後楽2~新宿区新小川町)、頭上には首都高が走り、桁下の薄暗いところにある。 昭和10年(1935)前後に架けられた現存する鋼製ポニートラス橋である。、、、、ここには、江戸時代に木橋が架けられていたそうだ。 浅草花川戸の町奴:幡随院長兵衛が旗本:水野十郎左衛門と対立し、湯殿でだまし討ちにあい、その死体が流された場所は、この隆慶橋だったらしい。 橋の名は、江戸初期に祐筆大橋隆慶の屋敷地があったこで命名されたらしい。 、、、現在は上流側に新隆慶橋が架けられ、ほぼ歩行者専用橋となっている。、、、、20年程前、私の勤めるオフィスがこの橋の近くにあり、昼食時には、橋の文京区側に並ぶ、蕎麦屋、寿司屋、定食屋を日替わりで食べ歩いていた、思いである懐かしい処である。

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●丸ノ内線の上だ! ・・・・・・・文京区後楽の裏道を歩き、安藤坂交差点に出た。 これより、丸ノ内線西側の小日向台地(文京区小日向)の裾を抜けていた神田上水の跡でもある「水道通り」(=巻石通り)を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・文京区春日2、金富小学校のグランド脇を上って行くと、コンクリート塀にぶつかる。 長い塀に沿って歩くと、塀の向こう側からゴウーという音が聞こえ、姿は見えねど電車の通過音と気づく。 塀の向こうは丸ノ内線だ! 塀沿いに斜路を上って行く。

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・・・・・・・・・・・・・・丸ノ内線の跨線橋に出た。 ここは、車が通れないため、安心して電車を眺められる。、、、、今年2月から営業運転を開始した真赤な塗装の2000系車両、一世代前の02系車両が切通しを疾走する。

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・・・・・・・・・・・・・・跨線橋の先には、これまた、私好みの細い狭い階段坂となる。 階段を上り、裏道を歩き、再び数段の階段を上ると、春日通りに出る。 正面には、名門の学芸大附属竹早小・中学校がある。(ちょうど下校時間だったようだ) 隣には、も一つ名門の都立竹早高等学校が並ぶ。 

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●丸ノ内線の下だ! ・・・・・・春日通りを250m程歩き茗台中の角を入ると、車は行き止まり。 人と犬・猫は階段坂を下ることができる。

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・・・・・・・・・・・・・・この階段坂は庚申坂と呼ばれている。 長さ約45mの急な階段坂を下ると地下鉄丸ノ内線のガードにぶつかる。 ガードの上は丸ノ内線の車両基地。 坂からは、車両基地に留まる丸ノ内線を眺めることもできる、印象的なロケーション。、、、、下りは楽だが、上りはきつそうだ!
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・・・・・・・・・・・・・・チョイト長いガードを通り抜ける。、、、、70過ぎた爺さんは痴漢に襲われる心配無用! 襲う方かも? 

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・・・・・・・・・・・・・・ガードを過ぎると、今度は上り坂。 坂上の切支丹屋敷跡へ向かう。、、、、文京区ではこの坂を切支丹坂としている。 しかし、庚申坂を含め、ここでいう切支丹坂まで、一気通貫で切支丹坂という説もある。 

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・・・・・・・・・・・・・・坂上には切支丹屋敷跡がある。 切支丹屋敷とは、江戸時代、小石川小日向(こひなた)(現:文京区小日向)に設けられ、山屋敷とも呼ばれたキリシタンらを収容した所。 宗門改役を兼ねた大目付井上筑後守政重の下屋敷に、寛永20年(1643)日本へ潜入したイタリア人伴天連キアラらを収容、改宗を促した。 正保3年(1646)には籠舎(ろうしゃ)・倉庫なども整備した。 宝永5年(1708)に潜入した伴天連シドッチは翌年ここに収容され、新井白石などの尋問を受けたが、牢死した。、、、、イタリア語と日本語、しかも、内容は宗教の教義、当時まともに通訳できたのであろうか、はなはだ疑問なり?

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●茗荷谷の二寺 ・・・・・・・・・茗荷谷駅に至近(小日向4)の2寺。
・・・・・・・・・・・・・・まずは、浄土宗の深光寺。 急坂の参道を登ると右に鐘楼、正面に鉄筋コンクリート造りの本堂がある。 左側には古い歴史の在りそうな墓が並ぶ。 その正面中央に滝沢馬琴の墓がある。、、、、深光寺は、寛永16年(1639)の創建。 昭和2年には茗荷谷町良念寺を合併した。、、、、滝沢馬琴(1767~1818)は、江戸時代後期の著名な戯作者。 「南総里見八犬伝」など、多数の作品を残した。

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・・・・・・・・・・・・・・・次は、曹洞宗寺院の林泉寺。 林泉寺は青龍山と号し、通山宗徹和尚(元和7年寂)が開山、伊藤半兵衛(1660年頃)が開基となり創建したと云われている。 本堂は昨年新築したモダンな鉄筋コンクリート造でピッカピカ。、、、、人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄でしばり、願いが叶うと縄をほどく「しばられ地蔵」が境内に祀られている。 「縄でグルグルに、身動きできず、地蔵はギブアップ」てなことがないのかな?

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●学生がゾロゾロ! ・・・・・・さすが文京区の茗荷谷駅。 茗荷谷駅を最寄り駅とする、拓殖大学、御茶ノ水女子大学と付属の女子高・中・小・幼、筑波大学の学校教育部と付属高・中、跡見学園の短大・高・中、都立竹早高、貞静学園、第一中、茗台中、窪町小、学芸大付属高など、頭脳明晰な学生と、チョイト色気づいた女子大生、かわいい小学生などなど、学生がひしめいている駅。、、、、駅は昭和29年(1954)1月20日、丸ノ内線池袋~御茶ノ水間開業と同時に設けられた。 ホームは相対式2面2線構造で、半地下式の地下1階にある。

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