防災意識の高い町
台風15号・19号・21号による大雨、その被害がいまだに連日放送されている。 否応なしに、防災意識が高まり、私の住む浅草橋では、地滑り、土砂崩れの心配はないが、隅田川・神田川の氾濫がヤバそうだ。 町内掲示板に貼られていたハザードマップによると、平成12年の東海豪雨(総雨量589mm、時間最大雨量114mm)を想定した場合、隅田川の外水氾濫はなく、神田川では浅草橋の際でチョイト外水氾濫が生じるようだ、むしろ怖いのは雨量が多すぎて、両河川に放流処理できなくなることらしい。 いわゆる、内水氾濫である。 ハザードマップでは、上野公園の高台を除いて、台東区のほぼ全域が色づけされていた。 色付けの最大値は2mの浸水で、御徒町と竜泉の町付近にある。 大半は1m以下の浸水、気になる我が家は0.5m以下の浸水が想定されている。 『50cm以下なら床下浸水だ、助かるかな? 油断大敵!』
・・・・・・・・と、云うことで、今日の散歩は、荒川・隅田川の氾濫が心配になり、赤羽の荒川治水資料館に行って氾濫の予備知識を得ようと思った。 ところが出がけに、京浜東北線・山手線が運転されていないとテロップが流れる。 急遽、予定を変え三河島付近を歩くこととした。 今日の散歩は、京成三河島駅付近から町屋駅までの9千歩。
●浸水するな! ・・・・・・・荒川四丁目バス停で下車し、散歩の開始。 西へ歩くと、京成本線高架橋がある。 この高架橋は藍染川に沿って、昭和6年(1931)の青砥~日暮里間の開通時に造られたものだ。、、、、ところで、「藍染川」とは、日暮里の高台を流れていた谷田川(藍染川本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架橋付近まで暗渠で分水し、それより下流は隅田川に合流するまで開渠の川(排水路)として存在した。 昭和7年(1932)から新三河島駅より上流(日暮里側)の暗渠化工事が行われたが、満州事変後は中断した。 戦後、工事は再開し、昭和35年(1960)には、下流までの全長が暗渠化され、川の上部は「藍染川通り」となっている。 京成本線高架橋の東南側に沿う道路がその跡だ。、、、、この付近、荒川が氾濫すると最大3mの浸水。京成本線の水没はなさそうだが、付近の住宅の1階はダメだ! もし、ココが水没したら、直線で4km程の距離にある我が家も多少は影響するであろう。 何事も起きないよう、神様・仏様・キリスト様に願うだけ!
●小さな駅! ・・・・・・京成本線の「新三河島駅」をチョイト覗いて行こう!、、、、昭和6年(1931)12月19日1931に開業。 島式ホーム1面2線の高架駅で、ホームの一部は明治通りにかかっている。 平成30年(2018)の一日平均乗降客数は約6千人で、京成線全69駅中48位、これは都内の京成線全駅で乗降客が最も少ない駅である。 改札口は一ヵ所だけ、自動改札機も3台だけの侘しい駅。、、、、ところで、「三河島」の地名の由来は、“三本の川筋があった”、“木戸三河守の館があった”、“家康と伴に三河の者が移り住んだ”など諸説あるらしい。 どれが、本当だか?、、、、現在は、地名として「三河島」は消えた。 残っているのは、京成の駅名「新三河島」と、JRの駅名「三河島」、都の汚水処理場名「三河島水再生センター」ぐらい。 そして、国鉄の「三河島事故」は忘れられない。
●戦時中の延焼対策! ・・・・・・新三河島駅前の明治通り、駅から150m程西に寄った処から、荒川区東尾久の町と荒川区荒川・町屋の町の境に一本の広い道路が北へ伸びている。 延長1,360mの道路は隅田川のまで伸びている。、、、、この道路がある一帯は、戦時中には木工場、セルロイド工場などが多く、数度の火災が発生した処である。 そこで、空襲による延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路がこの道である。 日本各地ではこのような道路を一般に「疎開道路」と呼んでいるが、ここ荒川区では戦後、道路を整備し、愛称:「尾久の原防災通り」と呼んでいる。 また地元では、昭和48年(1973)に「消防道路」と命名し記念碑を建てた。、、、、防災通りの両側は、緊急車両も入れない細い道路と木造家屋の密集した地域で、現在は「不燃化特区」に指定されている。
●アラ・アラ・荒川の裏道散歩 ・・・・・・防災通りは歩いても面白くないので、今日は防災通りの東側、荒川5丁目・6丁目(ともに木造密集地区で不燃化特区)の裏道を歩いてきた。
・・・・・・・・・・・・・・まずは、町のここにも、あそこにも、赤いバケツと消火器が置かれてる。 イザ火事だ! 消防車が入れない! 町内総出のバケツリレーで初期消火!、、、、こんな事にならないように、標語『あなたです! 火事を出すのも防ぐのも 』