近藤勇の滝野川
京浜東北線王子駅から石神井川沿いに歩いて埼京線板橋駅まで、10月だというのに熱中症に注意して、1万歩の散歩です。
●最古の駅!・・・・・・・京浜東北線(東北本線)の王子駅は、日本鉄道上野駅~熊谷駅間の開業時に、上野駅の次の駅として同時に、明治16年(1883)7月28日に開設された。 現在の東北本線で最も古い駅の一つである。、、、、築堤上に島式ホーム1面2線を有する高架駅で、改札口は北口・中央口・南口の3ヶ所。 駅前ロータリーがあり、バス停があり、地下鉄の出入口があるメイン改札は北口の東側である。 今日、私が利用したのは北口の西側、音無親水公園に出る通称:親水公園口である。 土曜日なので通勤客は少なく、改札も楽に通過!



●痒い痒い公園! ・・・・・・石神井川は、小平市の東部を源にして王子駅の下を流れ隅田川に注いでいた。 北区付近では“音無川”と呼ばれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季を通し、行楽・景勝の地として親しまれてきた。 しかし戦後は、生活排水などで汚れた臭い川となり、洪水の危険度も増したため、昭和30年代から改修工事が行われた。 石神井川の新ルートとしては、音無橋の上流側から飛鳥山の下をトンネルで抜け隅田川へ流れていくようになった。 音無橋から王子駅に至る旧ルートは、昭和63年(1988)に音無親水公園として整備された。、、、、親水公園となって約30年、流域はゴツゴツした石に苔がへばりつき、あちらこちらに誰が捨てたかビニール袋、渓谷のように造られた薄暗い公園で遊ぶ子供は一人もいない。 もう少し、日常の手入れに努め、明るい公園にすると良いと思うね! 写真を撮っていたら、やぶ蚊にヤラレタ、手も足も痒くて痒くて、ウナコーワでも、キンカンでも、何でもいいから塗ってくれ!

・・・・・・・・・・・・・・公園の上に架かる音無橋。 昭和5年(1930)、隅田川に架かる白鬚橋を設計した橋梁技術者:増田 淳の設計、総工費149,976円也で造られた、コンクリート製三連アーチ橋。 橋の中程には半円形のテラスが設けられ、モダンな照明もある優美な橋。


●水子の寺! ・・・・・・・北区役所庁舎と石神井川を挟み向かい合う浄土宗の正受院(北区滝野川2) 思惟山浄業三昧寺と号し、正受院は不動即我の密法を修していたという僧学仙房(弘治3年(1557)寂)が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を創建したと伝えられている。、、、、本堂は新しそうだ! 昭和の建築かも?
・・・・・・・・・・・・・・参道に建つ鐘楼門は、明治35年(1902)建造の竜宮門形式の山門。下部は大谷石造り。


・・・・・・・・・・・・・・本堂前に、幕末択捉島を探検した近藤守重の武者姿の石像がある。 間宮林蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれた。 現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱を建てたのが近藤守重である。 守重は明和8年(1771)江戸町奉行与力の次男として生まれ、家督を継いで、通称を重蔵、号を正斎と称しました。 寛政10年(1798)、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽くした。 文政5年(1822)から9年までの4年間を正受院の東隣に、瀧野川文庫という書斎を設けて住んでいた。 石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して製作したと伝えられている。
●橋の向こうに紅葉の寺 ・・・・・・石神井川に出て川沿いを歩く。 紅い欄干の紅葉橋(もみじばし)が見える。 この橋は、大正4年(1915)に初代の木橋が架けられた。 王子・滝野川間の交通のため、地元の商人が府知事の許可を得て、ここに賃取橋(有料橋)を架けたのが始まりである。 橋名は、橋の南詰にある紅葉寺(金剛寺)に由来する。、、、、深いコンクリート護岸が続くのは、チョイト味気ないね!


●弁天様だけ堂の中! ・・・・・・・紅葉橋南詰(滝野川3)、真言宗豊山派寺院の金剛寺がある。 瀧河山松橋院と号す。 金剛寺は、弘法大師が遊歴した際に創建したと伝えられており、治承年中(1177~1181)に源頼朝がこの辺りに布陣したとも記されている。 寺は紅葉の名所であったことから「紅葉寺」とも呼ばれている。

・・・・・・・・・・・・・・金剛寺の弁財天は、岩屋弁天、松橋弁天とも呼ばれ、多くの信仰を集めたそうだ。 弁天堂の参道には、弁財天を除く七福神6神の石仏がある。、、、、また、山門脇には石造の仁王像もある。



●かつては軍用鉄道橋! ・・・・・・紅葉橋の上流に架かる滝野川橋。 ここには、かつて軍用鉄道橋「西高橋」が架かっていたそうだ。 現橋は昭和36年(1961)3月完成。

●近藤勇の菩提寺! ・・・・・・石神井川の左岸(滝野川4)の裏道を歩くと、真言宗豊山派寺院の寿徳寺がある。 南照山観音院と号す。寿徳寺は、建保2年(1214)早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い、追われて落ち延びる途中で観音像を水中から拾いあげ、 これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのに始まると伝えられている。 本尊は、谷津子育観音と親しまれているらしいが、秘仏となっており拝見できず。、、、、寿徳寺は、新撰組の近藤勇、および隊士の菩提寺でもあり、境外寺地には、谷津大観音、近藤勇と新撰組隊士供養塔があります。
・・・・・・・・・・・・・・寿徳寺の山門前から石神井川に出ると観音橋の脇に、寿徳寺の住職が建てた、台座を含め高さ7.7m程の谷津大観音が座している。 観音様は平成20年(2008)12月開眼供養が行われた。、、、、ちなみに、この観音像の原型を製作したのは、仏師:渡邉雅文氏である。 お顔を拝見したことはないが、何となく、私と兄弟のような気がするね!

・・・・・・・・・・・・・・ついでに、観音橋の全景をどうぞ、、、、

●元気出して! ・・・・・石神井川の散歩は観音橋で終わり、ここから南に折れ板橋駅に向かう。 国道17号(中山道)を横切り、「きつね塚通り」を抜け板橋駅前に出る。、、、、この商店街も寂れてきたようだ! 『客がコン・コン』では困るね、元気出して!



●首はどこに行った? ・・・・・・板橋駅に到着。 駅の正面に寿徳寺の境外墓地(滝野川7)がある。 境外墓地と云うより、そのものズバリ、新選組の近藤勇の墓がある。、、、、新撰組局長として幕末に活躍した近藤勇は、慶応4年(1868)板橋刑場(板橋駅の近く)で処刑された。 函館で戦死した土方歳三をはじめ新撰組隊士と共に、駅前に墓が建てられています。、、、、ところで、近藤勇は斬首の刑を受け、首は京都に晒され、胴は滝野川の無縁塚(現在地)に葬られたそうだ。 京都に行った“首”は、その後どうなったのか? 足が無いので、東京に戻れなかったのか?、、、、墓碑は近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のために、新選組隊士永倉新八が発起人となり、旧幕府典医松本順の協力を得て明治9年(1876)に建てられた。
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