渡辺小右衛門の梅島
東武伊勢崎線梅島駅から、駅前の旧日光街道と現在の日光街道(国道4号)の間の裏道を北上するつもりで散歩に出た。 途中で立ち寄った神社では、予定外に話がはずみ、お散歩タイムがオーバーしそうになる。 途中から西新井駅に向かい帰宅。 今日はおしゃべりが多く、歩数は8千歩。
●足立区の中心? ・・・・・・東武伊勢崎線の梅島駅は、島式ホーム1面2線の高架駅であるが、用地幅が狭いためホームの幅も狭くなり、北千住寄りに上りホーム、西新井寄りに下りホームが一直線に配置された変則タイプである。 停車するのは全て普通列車で、優等列車はホーム外側の急行線で通過する。 階段・エレベーター・エスカレーターは、上下両ホームの間(細長い島式ホームの中央部分)にのみ設置されている。、、、、朝の下りホームは人影まばら、上りホームは乗客が線路にこぼれそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・大正13年(1924)10月1日に開業した梅島駅は、昭和43年(1968)に高架駅となった。 駅出入口は旧日光街道に面している。、、、、駅は地理的に足立区のほぼ中心に位置し、周辺は民家・店舗がビッシリ建ち並ぶ、“This is 足立区の駅”である。

・・・・・・・・・・・・・・駅横から裏道を歩く。 足長の女性が短足の私を追い越していく。 歩幅が違うようだ、ドンドン離されていく。 カッコイイ~彼女を見て、おのれにガックリ!
●ケチャップの公園? ・・・・・・裏道を北の方角に歩くと、緑の芝生の向こうに煉瓦造りの洋館が見える。 入口には「ベルモント公園」(足立区梅島1)と標されている。 以前に一度訪れたことがある公園だ!、、、、当時、いい加減な私は、トマトケチャップの「デルモンテ」と早とちりし、「ここは会社が提供した公園」で、洋館の中ではトマトジュースなどが飲める施設がきっとあると期待し、園内をキョロキョロしたことが思い起こされた。、、、、ベルモント公園は、平成5年(1993)、足立区と西オーストラリア州ベルモント市との友好親善のシンボルとして作られた洋風の公園です。 美しい花壇、赤レンガの陳列館(オーストラリアの工芸品・日用品などを展示)、ヒツジのモニュメントのほか、ユーカリ・ブラシノキ・アカシアなどのオーストラリア原産の植物などを観ることができる洋風の公園。



●彰義隊の地蔵! ・・・・・・・・梅島2丁目の裏道を、クネクネと曲がりながら歩くと、小さな地蔵堂があった。 由来を記した案内には「槐戸地蔵尊」と記されているが、はて、何と読むのやら? 玉垣の石に、“さいかちどじぞうそん”と送り仮名が降られていた、難しい読みだ。、、、、由来を引用すると、『昔 此の辺りを槐戸耕地といいました。南を中沼耕地、東南を長張耕地、道海耕地といい東を背出し道面耕地と呼んでいました。西に富士山・箱根の山を望める景色の佳い農村でした。明治・大正の頃は村内ににまだ八軒の晒屋があり、風に白布がたなびく風景は見事であったそうです。お地蔵さまは、享保四年二月、今から二百七十九年前、花畑の講中が本木の石屋に彫らせたものです。立派に仕上がったお地蔵様を紫微そりに乗せて、数名の有志達が運んでいました。ところがこの場所まで来たところ、何故か急に全員の手足が動かなくなってしまいました。これはお地蔵様が此の地をお選びになり、ここて村人たちを守りたいというご意志を示されているにちがいないと解釈し、ここにお奉りしたと言われています。以来、お地蔵様による数々の霊験が伝えられています。 平成十年九月吉日 小右衛門新田講中 』、、、、、、、、このお地蔵さまは足立区の資料によると、『彰義隊ゆかりの石地蔵』として、次のように説明されていた。 『 梅島二丁目にある槐戸地蔵には、彰義隊ゆかりのものという語り伝えがあります。彰義隊は、慶応4(1868)年5月14日の夜から上野の山に立てこもった一部の幕軍のことで、一日で官軍に敗れてしまいました。官軍の目を逃れてきた者もいましたが、その中には傷ついた者がかなりおりました。そうした隊員の中に、梅島二丁目10-5付近の葦の茂みに潜伏した者がありました。この5人はいずれも変装し大八車に少しばかりの家財道具と1,2個の石を積んでおりました。しかし、葦の茂みの中で数日を過ごしましたが、薮蚊が多く、初夏の日差しもあり傷は悪化するばかりでした。傷ついた5人はもうこれまでと、付近の農家に持ってきた石を建てて供養してくれるように頼みました。村人は頼みを聞き入れて、運んできた石を建てると地蔵に変身し、村人たちの危難を何度となく救ってくれました。特に皮膚に効験があるということで「いぼ地蔵」の名がつけられました。』、、、、、、、、約290年前に遡る由来と、約150年前の彰義隊の話、どちらも信じられないが歴史あるお地蔵さまの物語。、、、、今日の散歩は、このお地蔵さまに彫られた「小右衛門」の名によって、この後の散歩コースが変わることとなった!


●奥の深い物語にビックリ! ・・・・・・・槐戸地蔵尊から北に向かい、再び裏道をクネクネ曲がり歩くと、「小右衛門稲荷神社 」があった。 先ほど見たお地蔵さまと同じ「小右衛門」(こえもん)の名を冠してる。 ここで、境内を掃除されていた人に神社の由来を聞いたら、ナント、物語を語ってくれた。 主人公は渡辺小右衛門である。(私と同姓) 物語(由来)を要約すると、『今から数百年前のこと、岩槻の太田氏に仕え、徳川家康の江戸討入り後も、同じ岩槻城主高力河内守の家人をしていた渡辺小右衛門という人がこの地に移ってきた。 彼が主家を何故去ったのかというと、理由ははっきりしないが、村田利兵衛と共に、同僚の高橋伴右衛門を斬ったため逐電したのだという。 しかし逃れてきたものの日は落ちて思案に暮れているとどこからともなく一匹の狐が現れて、小右衛門の袴の裾を引くではないか。 引かれるままに付いていくと小堂がある。 これ幸いと一夜を明かし、翌朝目を覚まして堂を出てみると、6軒ほどの家がちらほらと目に付いた。 がその外は一面の荒野だ。 そこで白狐に引かれてきたのも神の引き合わせと思いこの地に腰を据えて開墾することにした。 そこで村田を呼び寄せ、先住の日比谷・中館・岩館・相沢・深井・佐倉井の6人にも声をかけて、開発に取り掛かった。 この端緒を作った白狐との縁を忘れぬため稲荷を祀り、「裾引稲荷大明神」としたという。 現在は開発者を忘れないように小右衛門稲荷神社と呼んでいる。』、、、、神社の方には、由緒を説明して頂き、さらに渡辺小右衛門の墓を教えていただき、さらに神社の参道の敷石が北斗七星の形をしていること、さらに小右衛門稲荷神社と江戸城と鎌倉の鶴岡八幡宮が一直線上にあること、さらに神輿の担ぎ手が減少していること等々、いろいろ長時間におよびお話して頂き、ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・小右衛門稲荷神社、、、、鳥居、参道、拝殿と続く


・・・・・・・・・・・・・・神社の隣りの墓地に渡辺小右衛門の墓がある。 足立区の文化財。
・・・・・・・・・・・・・・神社の参道は、空から見ると「北斗七星」によく似た形をしていることが発見された。 私も、Googleマップで確認してみました、ナルホド北斗七星です。 TVでも話題になったらしい。 さらに、夏至の頃には太陽が拝殿の中心に沈むことも明らかになっている。 、、、、陰陽道か?
・・・・・・・・・・・・・・地図で確認すると、小右衛門稲荷神社と江戸城と鶴岡八幡宮が、見事に一直線上にあることも確認できた。
●家光お手植えの松がある! ・・・・・・・チョイト話が長引き、梅島の北側:島根の町に入り帰宅することにした。 西新井駅に向かう途中で、日蓮宗の天下長久山国土安穏寺(島根2)に寄って帰る。、、、、国土安穏寺の創建は、応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。 江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。 したがって寺では、葵の御紋を随所に見ることができる。 寺宝として、日蓮聖人の断簡、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがあるそうだが、見ることは難しい。、、、、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営。