赤い地下鉄の茗荷谷
今日は飯田橋の循環器内科クリニックの帰り、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅まで歩いてきた。 9千歩
●揺れる歩道橋は嫌いだ! ・・・・・・私が通う循環器内科は飯田橋交差点近くのビルの中。 今日は2ヶ月に1回の定期検診日である。 血液検査の結果は異状なし。(そりゃそうだ、医者に診てもらっているのだからね)、、、、駅前の飯田橋交差点から散歩をスタート。 飯田橋交差点は外堀通りと目白通りが交差し、大久保通りの起点でもある、主要道による五叉路である。 地下には神田川が流れ、その下には地下鉄の東西線、南北線、有楽町線、大江戸線が走り、神田川の頭上には首都高5号池袋線がとおる、さらに、飯田橋交差点の外堀通りはオリンピックのマラソンコースでもある、まさに交通の要所である。、、、、交差点には車の振動で揺れる(私が好きになれない)大きな歩道橋が掛かっている。



●長兵衛の死体が流された橋! ・・・・・・隆慶橋(りゅうけいばし)は、神田川に架かる橋で飯田橋交差点から目黒通りを上流側250m程行ったところ(文京区後楽2~新宿区新小川町)、頭上には首都高が走り、桁下の薄暗いところにある。 昭和10年(1935)前後に架けられた現存する鋼製ポニートラス橋である。、、、、ここには、江戸時代に木橋が架けられていたそうだ。 浅草花川戸の町奴:幡随院長兵衛が旗本:水野十郎左衛門と対立し、湯殿でだまし討ちにあい、その死体が流された場所は、この隆慶橋だったらしい。 橋の名は、江戸初期に祐筆大橋隆慶の屋敷地があったこで命名されたらしい。 、、、現在は上流側に新隆慶橋が架けられ、ほぼ歩行者専用橋となっている。、、、、20年程前、私の勤めるオフィスがこの橋の近くにあり、昼食時には、橋の文京区側に並ぶ、蕎麦屋、寿司屋、定食屋を日替わりで食べ歩いていた、思いである懐かしい処である。


●丸ノ内線の上だ! ・・・・・・・文京区後楽の裏道を歩き、安藤坂交差点に出た。 これより、丸ノ内線西側の小日向台地(文京区小日向)の裾を抜けていた神田上水の跡でもある「水道通り」(=巻石通り)を歩く。



・・・・・・・・・・・・・・丸ノ内線の跨線橋に出た。 ここは、車が通れないため、安心して電車を眺められる。、、、、今年2月から営業運転を開始した真赤な塗装の2000系車両、一世代前の02系車両が切通しを疾走する。



●丸ノ内線の下だ! ・・・・・・春日通りを250m程歩き茗台中の角を入ると、車は行き止まり。 人と犬・猫は階段坂を下ることができる。


・・・・・・・・・・・・・・この階段坂は庚申坂と呼ばれている。 長さ約45mの急な階段坂を下ると地下鉄丸ノ内線のガードにぶつかる。 ガードの上は丸ノ内線の車両基地。 坂からは、車両基地に留まる丸ノ内線を眺めることもできる、印象的なロケーション。、、、、下りは楽だが、上りはきつそうだ!


・・・・・・・・・・・・・・チョイト長いガードを通り抜ける。、、、、70過ぎた爺さんは痴漢に襲われる心配無用! 襲う方かも?

・・・・・・・・・・・・・・ガードを過ぎると、今度は上り坂。 坂上の切支丹屋敷跡へ向かう。、、、、文京区ではこの坂を切支丹坂としている。 しかし、庚申坂を含め、ここでいう切支丹坂まで、一気通貫で切支丹坂という説もある。
・・・・・・・・・・・・・・坂上には切支丹屋敷跡がある。 切支丹屋敷とは、江戸時代、小石川小日向(こひなた)(現:文京区小日向)に設けられ、山屋敷とも呼ばれたキリシタンらを収容した所。 宗門改役を兼ねた大目付井上筑後守政重の下屋敷に、寛永20年(1643)日本へ潜入したイタリア人伴天連キアラらを収容、改宗を促した。 正保3年(1646)には籠舎(ろうしゃ)・倉庫なども整備した。 宝永5年(1708)に潜入した伴天連シドッチは翌年ここに収容され、新井白石などの尋問を受けたが、牢死した。、、、、イタリア語と日本語、しかも、内容は宗教の教義、当時まともに通訳できたのであろうか、はなはだ疑問なり?
●茗荷谷の二寺 ・・・・・・・・・茗荷谷駅に至近(小日向4)の2寺。
・・・・・・・・・・・・・・まずは、浄土宗の深光寺。 急坂の参道を登ると右に鐘楼、正面に鉄筋コンクリート造りの本堂がある。 左側には古い歴史の在りそうな墓が並ぶ。 その正面中央に滝沢馬琴の墓がある。、、、、深光寺は、寛永16年(1639)の創建。 昭和2年には茗荷谷町良念寺を合併した。、、、、滝沢馬琴(1767~1818)は、江戸時代後期の著名な戯作者。 「南総里見八犬伝」など、多数の作品を残した。
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