« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

2019年11月

2019年11月29日 (金)

芸妓のいない池袋三業地

かつて池袋にも三業地があった。 その名も「池袋三業通り」と名付けられた通りが、今もある。 5年ほど前に歩いた処を、今日歩いてみた。 池袋駅で下車し、東武東上線の大山駅まで、1万2千歩の散歩です。




●区民全員が一日一回乗降 ・・・・・・JR池袋駅は、島式ホーム4面8線を有する地上駅。 山手線・埼京線・湘南新宿ラインの3路線が乗り入れており、東側の2面4線を埼京線・湘南新宿ラインに、西側の2面4線を山手線にそれぞれ割り当てている。、、、、一日当たりのJR乗降客数は566,000人程。 これは、池袋駅が所在する豊島区の人口(約281000人)のほぼ倍。 つまりは豊島区在住の、誕生したばかりの赤子から、ヨタヨタ歩き・寝たきりの御老人までが、一日一回池袋駅からJRに乗り、JRで帰ってくる勘定である。、、、、他社線への乗り換えも多く、改札口は5か所あり、北口・中央北口・中央南口・南口は池袋駅を東西に結ぶ3本の地下道に直結している。 ホーム南端(目白寄り)のメトロポリタン口は跨線橋に併設され、西口(東武東上線側)方面のみに出ることができる。 年を取り田舎者になった私には、迷路に近い通路から地上に出るのに一苦労!

201911290820450

201911290820060

201911290822350

・・・・・・・・・・・・駅前の地上に出ても通行人は少ない、皆さん改札に直結している地下通路を利用し勤務先に行くようだ。

201911290827150


201911290837580

・・・・・・・・・・・・飲食店街、ラブホテル街、仕事帰りにはいろいろ悩ましい誘惑を受ける街を抜けていく。、、、、『触れるように なでるように 極上の癒しを貴方に ひざまくら みみかき』なんて読むと、朝からゾクゾク、コリャ仕事帰りにぜひ寄ろう! 負けそうだ!

201911290840190

201911290839390

201911290843360



●消えた三業地! ・・・・・・・池袋2丁目(劇場通り)から池袋3丁目(山手通りの手前)までを結ぶ裏通りに、「池袋三業通り」と名が付いている。(豊島区設定の名称) この池袋三業通りの西側、池袋御嶽神社周辺の一画にかつて「池袋三業地」があった。、、、、“三業”とは料亭、芸子屋、待合茶屋の総称である。 つまり、赤坂、柳橋、浅草、向島などと同じ花柳界である。 池袋三業地は、昭和3年(1928)に待合の許可が下り正式な三業地となり、昭和10年(1935)前後の最盛期には、料亭・待合が40数軒、置屋10数軒が狭い路地に並んでいたそうだ。 その後、戦渦に巻き込まれ街は衰退したが、戦後再び復活し、昭和30年代には料亭39軒、芸妓数200名を数えたそうだ。 しかし、ピークは過ぎ再び衰退の一途をたどり、現在はその面影もほとんどなく、数軒のスナックやバーが散在するだけとなった。、、、、5年前までは面影を残していた建物も取り壊され消えた!

・・・・・・・・・・・・「池袋三業通り」は、ゴク普通にどこにでもある裏通りとなった。、、、、最盛期には、多くの芸者が通っていた道。 旦那を乗せた人力車も通っていたかも?

201911290856340

201911290858330

201911290907550

201911290909280

・・・・・・・・・・・・数軒の建物に、それとなく面影が残っているようだ。

201911290900230

201911290901350

201911290907210

・・・・・・・・・・・・閑静な住宅街という雰囲気に変わった三業地の一角に、狭い境内、赤い鳥居の「三社神社」がある。 “三業”を生業とする人たちが信仰対象としていたらしい。 三業地で働らく芸妓や遊女はここで手を合わせたであろう。、、、、三社神社の近くの電柱に“三業”の文字を発見!、、、、町内会の名は「池袋三業町会

201911290902350

201911290905260

201911290906300

・・・・・・・・・・・・三業地の鎮守さまか(?)、池袋3丁目の「御嶽神社」。 池袋駅西口一帯の氏神様だが、創建年代は不詳。 祭神は倭建命、神武天皇、武甕槌命。 倭健命の草薙の剣の話(駿河の野火の難を逃れた)により古くより災難除・厄除・防火の神徳有り。 鎮座した年代は不詳だが、天正年間頃に鎮座し、貞享4年(1687)に社殿が創建されたといわれる。 昭和13年(1938)には村社に昇格し、社名を三嶽神社から御嶽神社に改める。 嘉永6年(1854)に社殿が造営され、昭和34年(1959)に改築。、、、、境内社の「子育稲荷神社」では御祭神:保食神(うけもちのかみ)に願いを書いて吊るしてた。

201911290918210

201911290921260


201911290924350


201911290920260



●スタコラ通過! ・・・・・・・池袋三業通り(豊島区)を抜け、山手通りを横断すると、板橋区中丸町と南町の境に「中丸通り」が北に向かい伸びている。 中丸通りの北端は、板橋区大山西町で川越街道にぶつかる交差点である。、、、、面白いもの、珍しいもの、喜ばせるもの、商店街、コンビニ、何もない極々普通の通りである「中丸通り」である。 端から端まで中丸通りの素顔を公開する。

201911290938320

201911290940010

201911290944080

201911291004220

201911291014590

201911291016300

・・・・・・・・・・・・中丸通りからチョイト脇に入ると、板橋区南町に新義真言宗豊山派の寺:医王山西光院薬圓寺がある。 本尊は阿弥陀如来。 創建は慶長年間(江戸時代初期)とされているが、無住時代があったことや火災にあったために、開山が覚慧大和尚であること以外は全く不明。、、、、本堂横に薬師堂があり、これは正徳元年(1711)の建立。、、、、参道には大きな仁王像が立ち、その後ろには天然記念物である樹齢400年の椎の木と、区の保存樹木に指定されてる公孫樹3本が聳え立っている。 山門を入ると、右手に鐘楼、左手が墓地と薬師堂。 正面の本堂は古く落ち着きのある寺だ。

201911290958410

201911290948470

201911290949000

201911290949210

201911290951260

201911290951590



●元気な商店街! ・・・・・・大山駅昭和6年(1931)8月25日に開業した。(私が住む浅草橋駅より1年前に開業している。 負けた!) 相対式2面2線の大きくカーブするホームの地上駅。、、、、駅前のハッピーロード大山商店街は活気あるね、午前11時、お年寄りがカートを押しながら、つるんで元気に買い物に来ている。 午後は若い人が来るのだろう!

201911291020280

201911291027330

201911291029130

201911291029500

2019年11月25日 (月)

もやもやの宇喜田

三日間降り続いた雨も今朝6時頃にやっと止んだ。 7時半過ぎに散歩に出る。 道路は雨で濡れあちらこちらに水溜まり。、、、、都営新宿線に乗車、東大島駅手前で電車が地下から地上に顔を出すと、雨上がりの霧と荒川からの水蒸気がブレンドされ視界不良。 コリャ、何かが起きることを期待して次の船堀駅で下車した。 船堀駅から南へ、宇喜田の町を歩いてみた。 散歩中に視界は良くなり、期待に反し何も起きず。 多少の靄(もや)の中、西葛西駅近くの「宇喜田」バス停まで。 1万歩の散歩です。




●金魚の船堀 ・・・・・・・船堀駅は、昭和58年(1983)12月23日に開業した、相対式ホーム2面2線の高架駅。

201911250817321

201911250820480

201911250825220

・・・・・・・・・・・・船堀は、かつて金魚の養殖が盛んだった街で、駅舎の壁面には金魚の絵が描かれている。 私は、「江戸川区の名物は、船堀の金魚、鹿骨のシクラメン、篠崎の風鈴」と記憶しているが、今では養殖業者は数軒となったそうだ。
201911250829380

・・・・・・・・・・・・駅前のタワーホール船堀」は、平成11年(1999)にオープンした江戸川区のシンボル施設です。 高さ103mの展望室は靄の中。

201911250833190



●秋の新川 ・・・・・・・駅前の篠崎街道を南に歩く。、、、、枯れ葉が舞い落ち、秋を感じる。、、、、♪♪秋が来た 飽きが来た どこに来た 鼻に来た 口にきた 眼にも来た♪♪ 枯れ落ちないよう、すぐに整形しましょう!
201911250838190

201911250838270

201911250846500

・・・・・・・・・・・・・童謡を口ずさみながら、中川と旧江戸川を結ぶ運河:新川に架かる宇喜田橋(昭和32年完成)を渡る。、、、、続いて、隣りに架かる擬宝珠橋(平成20年完成)の際を歩く。

201911250850320

201911250852400

201911250852090

201911250901060



●ボウボウの3社 ・・・・・・・北葛西1丁目の「第一三共 葛西研究開発センター」の南側、北葛西1丁目から2丁目にかけ半円状に通る「棒茅場通り」がある。 この通り名「棒茅場」は、難読地名と有名である。 さて何と読むのでしょうか?、、、、答えは、かつての宇喜田村の小名:「ぼうしば」。 由来は不明であるが、「棒」の音読みは“ぼう”、「茅」の音読みも“ぼう”で、“ ぼうぼうば ”なのだが、茅を“し”と読み“ぼうしば”と読む。、、、、北葛西八雲神社前のバス停名にその名が残っている。

201911250920580

201911250920580-2

・・・・・・・・・・・・・棒茅場通りの小さな三社を紹介する。、、、、まずは、家と家の間に鎮座する七軒町水神宮(北葛西1-20)。 謂れは知らないが、私の推測では、昔、この付近の農業用水の守り神だったのかも?

201911250908340

・・・・・・・・・・・・次は、第一三共の研究所に隣接する豊栄稲荷神社(北葛西1-16)。 豊栄稲荷神社は、元禄3年(1690)に創建された、歴史ある小さい神社。 豊受姫命を主神とし誉田別神を合祀する。

201911250910180

201911250912080

・・・・・・・・・・・・最後は、“赤いポストと緑のバス停”に鳥居が挟まれた北葛西八雲神社(北葛西1-6)。 ここが棒茅場バス停

201911250920270



●眺望良し! ・・・・・・・半円状の棒茅場通り、その半円の中心(北葛西2-19)に都住宅供給公社の宇喜田第二住宅がある。 ここは、昭和46年(1971)に建てられた、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上12階、5棟(710戸)の団地である。 

201911250931300

201911250938510

201911250940250

・・・・・・・・・・・・・・12階から見下ろすと、写真中央奥に「第一三共 研究開発センター」の高層ビルが数棟、右端奥には「タワーホール船堀」の展望塔、左端奥には中川とその堤防上を走る首都高がある。

201911250935391_stitch



●隣接する公園 ・・・・・・宇喜田第二住宅から船堀街道に出ると都立宇喜田公園(北葛西3)がある。 野球場、草花広場など、身近なスポーツ、レクリエーションが楽しめる、広々とした公園である。

201911250952120

・・・・・・・・・・・・・・都立宇喜田公園の隣りに区立行船公園(ぎょうせんこうえん)がある。 両公園は一体化されてるようで、都立公園がスポーツ中心、区立公園が庭園・釣り堀が中心。、、、、行船公園は、昭和8年(1933)地元の府会議員田中源が、区民福祉の増進と生活文化向上のための公園用地として東京市に寄付したことにより開園。 行船の名は、田中家の屋号「行船」に由来する。 昭和25年(1950)には区に地上権・管理権が移管された。 昭和58年(1983)に無料で動物に触れられる「江戸川区自然動物園」が、平成元年(1989)には築山池泉回遊式庭園として「江戸川平成庭園」が、それぞれオープンした。、、、、今日の散歩の〆として、ユックリ庭園を散策。

201911251007340


201911250956480

201911250958000

201911250958250

201911250958330

201911250959100

201911251004580



●秀家とは無縁! ・・・・・行船公園の南側:葛西橋通りに「宇喜田」バス停がある。 今日は、ここから帰ることにした。、、、、ところで、「宇喜田」の地名は、“宇”田川“喜”兵衛新“田”を略したもので、戦国武将:宇喜多秀家とは一切無縁。 宇喜田の地は慶長元年(1596)、宇田川定氏によって開発された。 元は小松川地先の海辺であり、旧中川や旧江戸川の三角州の南端にあった萱(かや)生地・荒地だった。、、、、今日の散歩は、視界不良で靄靄(もやもや)だった。

201911251020060

2019年11月20日 (水)

一二三四、五反野、六町

北風ビュ~ン・ビュ~ン、いよいよ冬が近づき散歩にも出辛くなってきた。 今日は、近場の散歩にしようと家を出たが、行く先のあてもなく、結局東武伊勢崎線五反野駅で下車。 駅前の通りを北に向かい歩き、途中でチョイト東に寄れて、つくばエキスプレスの六町駅まで、1万1千歩の散歩。




●五反田は知ってる、五反野ってどこ? ・・・・・・東武伊勢崎線で北千住の次は小菅、小菅の次が五反野駅。 急行は通過する駅、準急も通過、区間準急も乗客を無視して通過、普通電車が親しみをこめのんびりと停車する駅。、、、、
大正13年(1924)10月1日に開業。 現在は島式ホーム1面2線を有する高架駅で、ホームの外側に優等列車が通過する急行線がある。、、、、チョイト知名度では五反田に負ける駅!

201911200816390

201911200810310

201911200813590

201911200814500

・・・・・・・・・・・・・改札口は高架下の一ヵ所のみ。 

201911200821170

201911200822180

・・・・・・・・・・・・・駅前に立ち、『さて、東西南北、右左、どっちへ歩こうか?』考えても決まらないのに考えて、ヤッパリ決まらない。 悩んだ時は『美女に従え!』と神のお告げ。 朝の通勤時間、電車に乗る人は多いが、改札から出てくる人は少なく、まして美女がいない! 条件を緩め、『女性なら誰でもいいや!』 パートのおばさん風の人が改札から出て右へ行った。 『ヨシ、自分の運命をあのおばさんに託し、自分も右へ歩こう!』 駅から右、北の方角に歩くことにした。

201911200832350

201911200826060



●銀ブラの後はコンチクショウ! ・・・・・・駅前の商店街「五反野駅前通り銀座会」を歩いてみる。、、、、商店街は駅前から北に伸び「四家交差点」までの約600mで、50店舗程が加盟しているそうだ。 昭和45年(1970)に発足した、下町の“銀座”?、、、、早朝なので、店のシャッターは下りているが、活気のありそうな商店街だ! 北の端には銭湯もあり、熱気も感じられる。

201911200836240

201911200837300

201911200841460

・・・・・・・・・・・・・・商店街の端は「四家交差点(よつやこうさてん)」、、、、「四家」の地名は、江戸時代この地域に住んでいた、鶴飼、市川、高橋(兄弟)さんの四家族から名付けられたそうだ。、、、、この交差点、名は“四”でも、“六”差路となっている。 駅から歩いて来た自分だが、まっすぐ先(草加方面)に行こうと思って、イザ交差点に立ったら『あれ、どの道を行くのだ?』 判らなくなった。 しっかり確かめず、自分の鋭い勘に過信し先へ進んだ。、、、、写真中央右側の道を歩いた。 草加方面には写真中央左側の道を歩かなければならなかった。 間違いに気付いたのは、「後の祭りだ! 山鉾も帰り コンチキチンのコンチクショウ」 我が進路は、北から北東に変わった。 

201911200846001_stitch



●一、二、三、四? ・・・・・・四家交差点から北東へ向かう道は足立区西加平で、都道102号(足立区と越谷を結ぶ道路)にぶつかり、その先でつくばエキスプレス六町駅に出る。、、、、道路沿いの迷所を巡る

・・・・・・・・・まずは、四ツ家稲荷神社(足立区青井2)、、、、祭神は、宇迦之御魂命とチョイト異色な徳川家康です。 江戸時代から四ツ家のある次郎左衛門新田には、東の宮と西の宮の二つの稲荷社があった。 明治にり、1村1社政策が進められたため、現在地にあった西の宮に東の宮が合祀され、その際、四家の一つ鶴飼家の屋敷神だった徳川家康「権現さま」も合祀した。、、、、創建年代は不明だが、安土桃山時代の文禄年間(1592~1596)頃の創建と考えられているそうだ。

201911200900460

201911200859140

・・・・・・・・・・・・続いては、愛宕神社青井1)、、、、神体は馬に乗った愛宕権現で、元々は旧家の屋敷神だったそうだ。 安産の神・火の用心の神として信仰されている。 神社の祭日は、「彼岸の中日」という珍しい神社である。、、、、彼岸の墓参りしてから、神輿をかついでワッショイするのか?

201911200908450

201911200911010

・・・・・・・・・・・・・・愛宕神社の近く(青井1)には「二ツ家町」バス停がある。、、、、チョイト興味が湧いたので調べてみると、愛宕神社の北300m程に環七通りが東西に走り、その北側の地名は「一ツ家」であった。 「二ツ家」はバス停として残り、「四家交差点」の南側には「三ッ家堀」があったそうだ。 そして「五反野」、この後向かった駅は「六町」。 “一”から“六”まで揃い踏み!

201911200913510

・・・・・・・・・・・・環七通りを横断し足立区西加平に入ると、東電の花畑変電所がある。 自分のような素人には、設備の名称も機能も判らず、大きな鉄塔をスゲーと叫び、変な機械・装置を見てナンジャコリャ?

201911200926570

201911200931560

201911200932430

・・・・・・・・・・・・都道102号とぶつかる角に西加平神社がある。、、、、西加平神社の創建年代は不詳だが、嘉兵衛新田の開拓に伴い創建された。 明治時代には加平天祖神社の摂社となったが、昭和29年(1954)稲荷神社としてとして分離独立、昭和49年(1974)西加平1丁目にあった天祖神社を合祀し、西加平神社と改称した。、、、、境内周辺は区画整理され平成28年(2016)に社殿は新しくなる、しかし境内にはいまだ樹木が少なくスッポンポンの状態である。、、、、石の鳥居には寛政11年(1799)の銘。 また、嘉永7年(1854)に新吉原角町(現:台東区千束)の安房屋から奉納された手水鉢もある。

201911200945350

201911200943060

201911200944540



●なんで深いの? ・・・・・・お帰りは、平成17年(2005)開業のつくばエキスプレス六町駅から。 ホームは、都心の地下鉄並みに地下3階の深い位置にある!

201911200959080

201911201005190

201911201008250

201911201015070

2019年11月18日 (月)

観音さまに狸がいた!

日の入時間も早くなり3時過ぎると薄暗くなる時期となった。 今日は午後から買い物をかね、ぶらり、浅草を一回り。

明治時代まで浅草にはタヌキ(狸)がいたそうで、今日はその証を紹介する。



●狸がいた観音さま ・・・・・・まずは、浅草寺御本尊に手を合わせてから!

Dsc05089

Dsc05091

Dsc05093



●お狸さまの御乱行! ・・・・・・・雷門から浅草寺本堂向かい真っ直ぐ伸びる仲見世。 その仲見世は途中で新仲見世・伝法院通りと交差する。 伝法院通りを西(浅草六区)へ向かうと、浅草公会堂の斜め前に鎮護堂(ちんごどう)がある。 ここは広い浅草寺境内の一角で、伝法院(浅草寺の本坊)の庭園に続く敷地内である。、、、、この鎮護堂の由来については、浅草寺の案内に以下のように記されている。、、、、『 江戸市中に「狸阪」「狸穴」などという地名があったとおり、かつて江戸には狸が多く棲んでいた。上野の山や、浅草の奥山にも狸が棲んでいたが、官軍と彰義隊が戦った上野戦争や奥山の開拓などで逃げ出して、明治の初めには浅草寺の伝法院あたりに棲みつくようになった。一説には狸らは、草履を釜に投げ入れたり、座敷に砂をまいたりなどのいたずらをしたという。 浅草寺も狸らの乱行に困っていたが、時の住職、唯我韶舜大僧正の夢枕に狸が現れ、「われわれのために祠を建てて保護してくれれば、伝法院を火災から守り、永く繁栄させましょう」というお告げがあった。そこで、明治16年(1883)に鎮護大使者として祀ったのがこの鎮護堂である。その霊験あってか、伝法院、鎮護堂ともに関東大震災や東京大空襲での焼失を免れている。 火除け祈願のほか、この祠に祈ったところ失せものが見つかったという霊験から、盗難除けの祈願をするご信徒も多い。また、狸を「他を抜く」という語呂としてとらえて、特に落語家や歌舞伎役者など、芸能関係者の信仰が篤いことで知られている。』、、、、これにて鎮護堂が、狸の御乱行を鎮めるために明治時代に建立されたことが判る。  

Dsc05035

・・・・・・・・・・・・・・鎮護堂の門をくぐり左手奥に鎮護堂の拝殿・本殿がある。 拝殿には「鎮護大使者」の提灯がかかり、ここで燈明をあげる。 さらに、拝殿の奥には入母屋造りの本殿がある。 これらの建物は大正2年(1913)の建立。、、、、この御狸さんは、当初、伝法院の鎮守としてまつられたが、福徳を願う信者の参詣が多いので、一般にも開放され、火防・盗難除の守護神として知られている。

Dsc05037

Dsc05044

Dsc05041

・・・・・・・・・・・・・・拝殿わきには信楽焼の狸の置物が、まさがこれが御本尊ではないだろう!

201911181546490

・・・・・・・・・・・・・・・・鎮護堂の境内には数体の地蔵尊が願掛けのお客をお待ちしている。、、、、綺麗どころを順に紹介すると、、、、亡くなった子を救済してくれる水子地蔵尊、、、、破損した頭部をつないであるため加頭地蔵の名がある。 “首がつながる”と言われサラリーマンらの信奉を集めている。、、、、出世・子育にパワーを発揮する「おやす地蔵尊」、、、、開運の目白地蔵尊、、、、さらに加藤観世音菩薩もしかえている。、、、、これだけ揃うと、どんな願い事もいずれかの地蔵尊が叶えてくれそうだ!

201911181547030

201911181546180

201911181546220

201911181546100

・・・・・・・・・・・・・・境内には、もう一つ戦後昭和38年(1963)に建立された、“たいこもち”を供養した幇間塚碑がある。 碑には浅草生まれの作家:久保田万太郎の俳句がある。 「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」 、、、、芸妓も少なくなったが、いまの時代、“幇間”(男芸者)をする人は少なくなり、東京と岐阜で数名の人がいるだけらしい。 絶滅寸前!

201911181548560



●待ってました! 辰五郎たぬき! ・・・・・鎮護堂の南にある新仲見世(商店街)のさらに一本南側に、全長50m程の「浅草たぬき通り商店会」がある。 この商店会の案内には、『 明治の頃まで浅草一帯は、田圃に囲まれた薮野原でたくさんのたぬきが住んでいました。 戊辰戦争が勃発し、戦火を免れた上野の山のたぬき達は四方八方へ逃げのび、中にはたぬき横丁で安堵をとるものもいました。 しかし、ここには浅草の地たぬき達がいて、縄張りが荒らされるという思いから睨み合いがはじまり、合戦という雰囲気になってきました。 そこへ浅草たぬきの長老「辰五郎たぬき」が現れ、浅草の地たぬき達に、今までのいたずらを反省し、観音様の御慈悲とご加護で安穏に暮らせていることを悟り、平和を守ることや人の役に立つことの大切さを悟しました。たぬき達の荒れていた心に暖かい気持ちが生まれ、戦いもいたずらもなくなりました。 その中の使命感を持った十二匹のたぬきは人の役に立とうと一念発起し、人々の願い事が叶えられる力が持てる仙人修行を積み、それぞれが願かけたぬきとなってまちの人々からも慕われ、お参りされるようになりました。』と書かれている。、、、、辰五郎たぬきの登場で、急に話はウソッポクなってきたね! でも、観音さまの地元だから、信じよう!、、、、通りの街路灯には12体の「願かけたぬき」が祀られている。

201911181554290

201911181556550

201911181554490

201911181555440

201911181556380

201911181558420



●狸がトラに化ける! ・・・・・・・最後に、狸が毎夜通いコミュニケーションを良くする“場”が、浅草西参道の北側「初音小路飲食店街」に用意されていた。、、、、ここに集う、多くの狸は、トラに化けて帰るそうだ。

201911181610130

201911181610020



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治時代まで、浅草には狸がいたのは間違いない! 

2019年11月15日 (金)

まごまごせずに馬込を歩く

都営浅草線中延駅(なかのぶえき)から、裏通りを歩き途中で大田区立郷土博物館に寄り、二駅先の西馬込駅まで、9千歩の散歩です。




●乗れても座れない! ・・・・・・・朝8時過ぎ、私が乗ってきた西馬込行きはガラガラ状態で中延駅に到着。 逆に、都心に向かう電車は、始発駅(西馬込駅)から二駅目の当駅で既に満員状態。 通勤する皆さま、朝からお疲れさま。

201911150817110

201911150816170

・・・・・・・・・・・・・・改札は西馬込寄りに1か所、押上寄りの東急大井町線中延駅に近い1か所、計2か所。 今日は西馬込寄りの改札から地上に出てみた。 出入口は第二京浜(国道1号)に面している。、、、、国道を歩いても面白くないので、裏通りを歩くことにする。

201911150823020

201911150826300

201911150827470



●バス通りに出る! ・・・・・・・第二京浜沿いの裏通りを南へ歩く。 かつて源氏の陣屋前であったことに由来する地名「源氏前」。 その源氏前小学校裏を通り坂を上ると、品川区中延から大田区北馬込となる。

201911150830340

201911150835310

201911150841350

201911150847080
 
・・・・・・・・・・・・・・チョイト、右に折れて、左に折れると、第二京浜と並行するバス通りに出る。 

201911150850310

・・・・・・・・・・・・・・バス通りには、曹洞宗寺院の金光山宗福寺(北馬込)がある。 天正年間(1575年頃)の開山。、、、、この寺の名物(?)は、見守り地蔵の「登志子地蔵」である。 この地蔵は、昭和10年(1935)、近くの八幡様の祭礼の日に、10歳の女の子が乱暴され殺害されたことを不憫に思った人達が、建立しその霊を祀ったものである。 当時は、寺に捜査本部が設置され、犯人は24日目に逮捕された。 

201911150857040

201911150855210

201911150854540



●新馬込橋の変遷 ・・・・・・・バス通りは、環状7号線を跨ぐ新馬込橋を渡る。、、、、この新馬込橋は
昭和14年(1939)に竣工し、北馬込地区と中馬込地区を南北に結ぶ生活道路として架けられた。 しかし、架橋後70余年経過し劣化もあり、平成23年から架け替え工事が行われ、平成27年(2015)に現在の橋に架け替えられた。
・・・・・・・・・・・・・・今日撮影した新馬込橋。 橋際の説明板にあった昭和15年の新馬込橋。

201911150910090

201911150918330

201911150917260

・・・・・・・・・・・・・・・架け替え直前の平成24年に撮影した新馬込橋の旧橋。 コンクリート製の欄干が印象的。


2012_0711_083341

2012_0711_082654


●馬の背を行くバス通り! ・・・・・・馬込の台地上をバス通りは抜けていく。

・・・・・・・・・・・・・・ちょうど馬の背のようにバス通りの左右は下り坂だ!

201911150921030


201911150922090


201911150923480


・・・・・・・・・・・・・・バス通りは第二京浜を東海道新幹線が跨ぐ馬込架道橋の下に出る。、、、、馬込架道橋は昭和39年(1964)3月、大田区馬込で東海道新幹線の陸橋架設工事が夜を徹して行われ、当時話題となった。 地下には地下鉄浅草線、その上に貨物線、さらに国道の第二京浜、そしてさらに新幹線が重なる複雑な四重立体構造。 国道は1日の交通量が8万台もある工事の難所で、あらかじめ造った全長86.4m、重さ約580トンのアーチ橋を午前0時から夜明けまでにかけてしまう「引き出し式架設工法」が採用された。 当時私は高校生、工事を見たかったが、勉強に没頭して寝てしまった!



●有料でも見たくなる! ・・・・・湯殿神社の東に大田区立郷土博物館がある。 只今ココで、『嶺の御嶽山と一山行者』と題する特別展が開かれていた。 チョイト寄り道。、、、、木曽御嶽山の関東第一分社である御嶽神社(大田区北嶺町)について、社宝・文化財の扁額・絵馬などど多くの資料によって紹介されてる。 ナント無料、見ないと損する展示だ!

201911151012420

201911150948030

201911150950450

201911150950530

201911150953490

2019年11月13日 (水)

二十世紀梨の町

散歩に出たが、スッキリしない空模様。 浅草橋から浅草線に乗り、車中で『どこで降りようか?』下車駅を考えたが決まらないまま、押上・青砥・高砂と過ぎ、北総線に突入した。 天気も悪そうなので、『やけのやんぱち日焼けのなすび 色は黒くて食いつきたいが わたしゃ入れ歯で歯が立たない』と、寅さん気分で北国分駅で降りてみた。 駅を出たら『東西南北 どちらに行こう 駅前のバス通り マドンナ探しに 松戸へ向かう』 てなことで、今日は松戸駅まで、1万1千歩の散歩です。




●太陽が見える地下駅! ・・・・・・・・平成3年(1991)3月31日に開業した北総線北国分駅は、 掘割による半地下構造で、地表からホーム面までは11.7m程である。 地下1階は改札口・コンコースなどがあり、地下2階に相対式ホーム2面2線を有する。 ホームの両端からはトンネルが見える。、、、、一日の平均乗降客は8千人程で、通勤時間帯でも電車を待つ人はまばら。 

201911130824200
201911130826320

201911130827070

201911130836380

201911130832230

201911130833400



●二十世紀梨の発祥地! ・・・・・・・駅の近くの幹線道路:千葉県道180号松戸原木線。 松戸市松戸の国道6号との交点である「陣ケ前交差点」を起点とし、市川市、船橋市を経て、市川市原木の終点:インターチェンジまで伸びる一般県道。 平成12年(2000)までは市川松戸有料道路として運営されてきたが、現在は無料化されている。、、、、今日は北国分駅付近から陣ケ前交差点まで歩いた。 

・・・・・・・・・・・・・・北国分駅から県道につながるバス通り。 北国分駅の北側:駅前三叉路で県道にぶつかる。、、、、この付近までは市川市、これより先は松戸市となる。

201911130844030

201911130845090

・・・・・・・・・・・・・・県道180号は「二十世紀が丘」の町を貫いている。、、、、この町は昭和56年(1981)の町名地番整理にて、美野里町、丸山町などの7町が「二十世紀が丘」を冠する町名に改めたそうだ。 この「二十世紀が丘」 の名は、明治21年(1888)に当地で梨農家を営んでいた松戸覚之助が発見した「二十世紀梨」に由来し、さらに当地が高台にあるので“丘”を足して命名されたそうだ。、、、、私のようなよそ者が、名から想像するのは果物ではなく洒落た近代的イメージで、現実には、チョイト、ギャップがあるようだ!、、、、道路沿いに、いま流行の作業服を扱う店。 新鮮野菜を直売する店もある。 そして、多いのはファミレス等のチェーン店。 かわいらしい交番もあった。 そして最後は陣ヶ前交差点に出る。

201911130856100

201911130856490

201911130901280

201911130857270

201911130902380

201911130907060

201911130912370

201911130921500



●木製です! ・・・・・・・松戸にあった、私好みの木造家屋、、、、一つは、チョイト倒れかけている木造倉庫(?)、、、、もう一つは、下見板張りの外塀に、木製の塀。昭和チックな平屋住宅

201911130918080

201911130930530



●陸軍工兵学校跡! ・・・・・・松戸駅の東側のイトーヨーカドーに隣接する聖徳大学、松戸市立第一中学校、松戸中央公園は、全て陸軍工兵学校の跡地であった。、、、、陸軍工兵学校は大正8年(1919)に相模台(現在の松戸市岩瀬の高台)の松戸競馬場の跡地に開校した。(松戸競馬場は現在の中山競馬場に移転)、、、、その陸軍工兵学校の正門(大正9年完成)が現在は中央公園の正門として保存されている。 また、門の隣にはコンクリート造の歩哨哨舎(昭和10年頃完成)も残されている。、、、、(モノクロの写真は、松戸中央公園の説明板に載せられていた陸軍工兵学校正門の写真)

201911131000280


201911131001030

201911131000500

201911131002040

・・・・・・・・・・・・・・・陸軍解体後の昭和20年(1945)からは、跡地に千葉大学工学部があったが、同校は昭和39年(1964)に千葉市へ移転した。、、、、公園内に、平成13年(2001)に千葉大工学部によって碑が建てられた。

201911131008310

・・・・・・・・・・・・・・公園の近くに「陸軍」の境界石が残っていた。 付近には、いくつもの陸軍の境界石が残っているそうだ!

201911130943560



●30分で帰宅、速い! ・・・・・・・JR常磐線の松戸駅から帰宅する。 松戸から上野まで快速電車で約20分。 我が家(浅草橋)までは約30分、速いね!

201911131022130

201911131025220

2019年11月10日 (日)

厳重警戒を避け下町へ

「祝賀御列の儀」が執り行われる今日は、都内の警備は厳重と思われる。 警備も手薄でブラブラ歩いても怪しまれないよう下町へ。 京成押上線・都営浅草線の押上駅からJR総武線平井駅まで歩いてきた。 1万2千歩。




●チョイト、どいて! ・・・・・・・京成押上線と都営浅草線が乗り入れている押上駅から、散歩を始める。、、、、京成押上線の開業は大正元年(1912)11月3日。 昭和35年(1960)12月4日に都営地下鉄1号線(現:浅草線)が地下化した押上駅に開業し、京成押上線と相互直通運転を行う。、、、、現在の押上駅は島式ホーム2面4線で、それぞれのホームは上り下り別に使用。 地下ホームを造った昭和30年代にはスカイツリー建設の話は当然なく、今の賑わいは想定外だったようだ、日中の観光客が多くホームは日常的に手狭となっている。、、、、キャリーバッグを持った外人観光客が多く、『チョイト、どいてくれ!』と言いたくなるが、悲しいかな日本語しか喋れない、通じない。 ここは、ニッコリ笑って会釈して『お・も・て・な・し』

201911100812591

201911100813220

201911100814100

201911100808470

・・・・・・・・・・・・・・京成・都営の改札を出ると、スカイツリーへの入口、その先に東武・東京メトロの押上駅改札と続く。

201911100818520

201911100818310

・・・・・・・・・・・・・・地上に出れば、もちろんスカイツリーの足下だ!

201911100826460

201911100823050



●地蔵さんの還暦? ・・・・・・押上駅から四ツ目通り(都道465号)を歩き、東武亀戸線の踏切を越えると木造家屋の密集する京島地区。 今日は裏道・路地に深入りせず、サラリと通り抜ける。、、、、踏切を抜ける2両編成の亀戸線、、、、遊園地のビックリハウスを思い出させる傾いた家屋、、、、玄関軒下の赤い電球と大きな看板がチョイト懐かしい医院、、、、木造の長屋はこの町ではまだ多い、、、、緊急車両も入れない路地、、、、徐々に区画は整理され、不燃建築で建て替えられた、、、、リヤカーは健在か?

201911100843310

201911100847150

201911100848370

201911100850530

201911100851220

201911100851450

201911100852190

201911100856170

201911100857030

・・・・・・・・・・・・・・京島地区南端に近い原公園の中央に、「財がたまる」・「幸のたまる」田丸稲荷神社がある。、、、、公園の隣りには、京島地区のメインストリートである下町風情溢れるキラキラ橘商店街がある、賑やかな公園だ。 しかし、この公園は、昭和20年(1945)3月10日のアメリカ軍の空襲で亡くなった364名の犠牲者を仮埋葬した場所である。 平成元年(1989)3月、原公園の改修では遺骨や毛髪が出土したそうだ。 警察の鑑識により、戦後改葬されたはずの戦没者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。、、、、戦後間もなく地元有志により田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。、、、、スカートはいて、赤いちゃんちゃんこを着て赤の大黒頭巾をかぶった、チョイト派手な地蔵尊。 ひょっとすると建立から60年の還暦かもね?

201911100901210

201911100901530

201911100902260



●アレ!お巡りさんがいない ・・・・・・・今日の祝賀御列の儀には、全国から26,000人の警察官が警備に動員されたそうだ。 ここ向島警察署からも大勢の警察官が警備に当たっていたのであろう。 普段は玄関前に立っているお巡りさんが今日はいない! 多分、動員され日曜出勤したのであろう、ご苦労様です。

201911100918230



●外廊下に弱いのだ! ・・・・・・旧中川に近い都営立花六丁目アパートに、チョイトおじゃましてみた。 昭和51年(1976)に建てられた、2棟(411戸)の都営住宅。、、、、上層階に上がってみたが、高所恐怖症の私は、エレベーターをおりるや、共用部分の外廊下に水勾配がついているのを足裏で感じ取り、チョイト、ゾク・ゾク~~としたら、もうダメ怖い~~! 早々と、階段で1階まで駆け降りた。

201911100942070

201911100956170


201911100949430

・・・・・・・・・・・・・・アパートから見る北の方向。 写真中央のはるか奥に葛飾区東四つ木で、綾瀬川に架かる首都高環状線の「かつしかハープ橋」が写っているのが判るかな? 手前の川は旧中川。

201911100951201_stitch



●お後は、こちら! ・・・・・・この後、北向地蔵尊平井橋平井諏訪神社燈明寺と巡り、最後は平井駅

201911100959490

201911101009370

201911101022480

201911101028170

201911101038420

2019年11月 8日 (金)

今年も、酉の市

今日は11月に入り、最初の酉の日。 夫婦で鷲神社(おおとりじんじゃ、台東区千束)の「一の酉」へ行く。 毎年参拝するので、酉の市はこのブログにも毎年アップしている。、、、、今年は手抜きで、写真だけアップ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昨年の「酉の市」はコチラ、、、、、、一昨年の「酉の市」はコチラ

 

 

201911081359210

201911081305580

201911081311470

201911081318030

201911081318400

201911081320130

201911081310040

201911081310250

201911081324350

201911081328120

201911081332560

201911081334030

201911081334540

201911081337480

201911081344160

2019年11月 7日 (木)

下練馬宿

自衛隊の哨所をぜひ見たく、東武東上線の東武練馬駅で下車し、陸上自衛隊練馬駐屯地へ行ってきた。 1万歩の散歩です。




●宿場の駅! ・・・・・・・・池袋から東武東上線に乗って7駅目、東武練馬駅で下車した。、、、、東武練馬駅は昭和6年(1931)12月29日に開業。 10両編成の電車が発着する相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。 駅舎・改札口は上りホーム側の北口と下りホーム側の南口の2か所があり、それぞれホーム西端に直結している。 上りホーム中央部には平日朝7時30分から8時30分までの1時間限定で供用される入場専用の臨時改札口がある。

201911070816280

201911070816540

201911070825050

201911070827330

・・・・・・・・・・・・・・下りホームにあった水道の蛇口。 これは、乗客の手洗い用か、スグ近くにトイレがあり、こちらにはきれいな洗面台もあるだが? または、飲料用か、上向いて蛇口に口開けて飲むの? 掃除用か、ホームの中央に置く必要はないね? 考えると謎は深まる! 

201911070824200

・・・・・・・・・・・・・・『板橋区に在って東武“練馬”駅とは是如何に』『品川区に在って目黒駅と云うが如し』 東武練馬駅が開業した昭和6年(1931)の時点では、駅の北側は北豊島郡赤塚村(駅の所在地)、南側は北豊島郡練馬町であった。(まだ区にはなっていない) 駅名として、駅南側を通る旧川越街道の下練馬宿にちなみ、「練馬」を使うことにしたが、当時すでに武蔵野鉄道(現:西武池袋線)に「練馬駅」があったことから「東武練馬」と命名した。 翌昭和7年(1932)には、北豊島郡は板橋区となる。 戦後、昭和22年(1947)広大な広さであった旧板橋区が、新たな板橋区と練馬区に分割され、現在の23区となる。 この時、駅のある赤塚村、駅の南側の練馬町がそれぞれ新板橋区、練馬区に属し、駅南口に面する道路が区境となった。 東武練馬駅は板橋区に残ることとなった。



●宿場の一画! ・・・・・・東武練馬駅南口前の通りから一本南側の通りに出ると、そこは旧川越街道で商店街となっている。 その出たところに、仁王、聖観音、馬頭観音がそれぞれ門と堂に納まっている、北町観音堂がある。 江戸周辺を探訪した小石川の僧が著した紀行文『遊歴雑記』にも、文化12年(1815)にここを訪れた記述があるそうだ。 往来の人々の信仰や、赤塚村への分岐道の目印だったらしい。

201911070836340

・・・・・・・・・・・・・・まずは、仁王門の阿形像・吽形像。 両像とも天和3年(1683)の銘がある。

201911070839370

201911070837390

201911070837280

・・・・・・・・・・・・・・仁王門の奥、観音堂には高さ270cmの聖観音像。天和2年(1682)の銘。  小さい堂には、高さ138cmの馬頭観音像。 製作年代不詳だが、江戸時代の作らしい。、、、、どちらも、小さい像であるが重そうだ、盗まないで!

201911070838490

201911070837580

201911070838190

・・・・・・・・・・・・・・・北町観音堂の横に、昭和の純喫茶「喫茶 ボタン」があった! モーニングにおにぎりセットもあるらしい。
201911070840530



●宿場は下練馬宿! ・・・・・・・・・・・・・・・・・北町観音堂のある東武練馬駅周辺(練馬区北町2)はかつて下練馬宿であった。 今は立派な駅前商店街。 街では宿場町として売り出し中!

201911070841590

201911070845240

・・・・・・・・・・・・・・街の中の街、北町観音堂から40m程の「北町楽天地」。 素敵な、昭和の歓楽街、会社帰りに寄ってみては!

201911070844160

・・・・・・・・・・・・・・こちらも、昭和で時間が止まったディープスポット、北町楽天地からすぐの「北町アーケード・ショッピングセンター 」。 アーケードの色あせ焼け焦げたネオンがに誘われそう!

201911070847080

201911070900180



●宿場の富士山! ・・・・・・北町アーケード・ショッピングセンターの斜め前に北町浅間神社の鳥居が見える。、、、、北町浅間神社は、下練馬宿の中程に位置する神社であるが、創建は明治期前後と比較的新しい。、、、、鳥居は、明治5年(1872)建立の明神鳥居(一の鳥居)と社殿前の大正4年(1915)建立(二の鳥居)があり、社殿は珍しい石造。、、、、社殿の左側には、傾斜面を利用した立派な「下練馬の冨士塚」がある。 登山道は、つづら折り道、直登道、下山道、お中道など、複数のコースが用意されている。 標高37.76mのここなら、遭難の心配はないと思う!

201911070850400


201911070851480



●宿場の小さな堂! ・・・・・・旧川越街道の家並みの裏手に回ると、参道の両側にたくさんの石仏が並ぶ阿弥陀堂(練馬区北町2)がある。 一見すると普通の住宅と間違えるような、小さな堂である。、、、、阿弥陀堂の墓地には、千川上水開設の功労者である千川家の累代の墓があります。 千川上水は元禄9年(1696)江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たる。 私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は江戸幕府から苗字帯刀を許され、千川家の姓を賜る。 開通から10年後の宝永4年(1707)、上水は附近の20ヶ村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになった。 両人の子孫は代々下練馬村(現:北町)に住み、千川上水の取締役として維持管理に努めた。

201911070904280

201911070908400

201911070907040



●宿場近くの駐屯地! ・・・・・・・・本日の散歩の目的地、陸上自衛隊練馬駐屯地に来た!、、、、ココ練馬の駐屯地は、昭和5年(1930)東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫として始まった。 戦後は、昭和26年(1951)に警察予備隊が久里浜から移転。この時、敷地面積を8万坪に拡張。 昭和29年(1954)には保安隊を経て、陸上自衛隊へ移管。 平成14年(2002)に、第1師団が政経中枢師団へ改編。、、、、この駐屯地の中に自衛隊の資料館があると道すがら聞いていたので、門の前に立つ隊員に尋ねると、『資料館はありますが、イベントがある日に公開しますので、その時おこしください』 ヤッパリ、見学できなかった。 今日の今日は無理だね!

201911070920380

201911070921370

201911070928500

・・・・・・・・・・・・・・浅草橋(我が家)から遠路はるばる散歩にやってきたのは、資料館を観たかったのではなく、西門の側にある連隊門哨所を見るためだ。 こちらは、門の外にあるので365日24時間見学可能。、、、、この連隊門哨所について、『第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第1連隊」は、昭和26年9月28日に、久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。 この哨所は、移駐から約2か月後の昭和26年(1951)11月15日に竣工し、以来、昭和46年(1971)11月にこの連隊門(西門)閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。』と説明されている。、、、、歴史を感じるコンクリート製の哨所、今日の散歩は、これが見たかった! 

201911070924550

201911070925110-2

・・・・・・・・・・・・・・ついでに、駐屯地前に立ち並ぶ官舎。 “イザ鎌倉”の際は、この官舎から大勢の自衛官が出動するのだろね!


201911070926330



●宿場から遠くはずれ! ・・・・・哨所を見たら、駐屯地前の川越街道を西へ歩き、東京メトロの地下鉄赤塚駅から帰宅。、、、、地下鉄赤塚駅は有楽町線と副都心線が乗り入れる駅。 昭和58年(1983)6月24日に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)有楽町線の営団赤塚駅として開業。 平成16年(2004)4月1日には、交通営団の民営化に伴い、駅名を「地下鉄赤塚駅」に改称。 平成20年(2008)6月14日、副都心線開業により、当駅は有楽町線と副都心線の共用駅となる。 島式ホーム1面2線の地下駅で、川越街道(国道254号)の直下にある。

201911071019460

201911071022420

201911071024520

2019年11月 6日 (水)

只の饅頭を祀る神社

京王線笹塚駅から東京メトロ丸ノ内線方南町駅まで、1万歩の散歩です。




●お勤め御苦労さま! ・・・・・・笹塚駅渋谷区笹塚にある京王線・京王新線の高架駅。 大正2年(1913)4月15日、当時の京王電気軌道最初の営業区間である笹塚~調布間開業時に設置された駅。 昭和53年(1978)7月21日に高架化され、同年10月には都営地下鉄新宿線直通の新宿までの複々線別線である京王新線が開業している。 ホームは島式2面4線で、外側の1・4番線を従来の京王線、内側の2・3番線を京王新線が使用しているようだ。、、、、朝の上りホームは新宿線の始発電車を待つ人で超満員。 『並んで待って 乗って座れば あとは寝るだけ 痛筋客』 

201911060823390

201911060825390

201911060825411

201911060831500

201911060833330



●笹塚は一里塚! ・・・・・・・駅の北側、甲州街道(国道4号)沿いに、一里塚であった笹塚の跡を記す案内板がある。、、、、案内板には、『笹塚跡  笹塚2丁目12番  昔、この辺りの甲州街道の南北両側に、直径1mほどの塚(盛土)がありました。その上に笹(または竹)が生い茂っていたことから、笹塚と呼ばれていたようです。 その塚が、慶長九年(1604)に設置された塚かどうかははっきりしませんが、この塚一里塚の印を記載している古図もあります。 また、江戸時代の文書にも笹塚のことが簡単に述べられています。大正5年に発刊された『豊多摩郡誌』には「甲州街道の北側に石塚があったが、今は見られない」と書いてあります。この塚があったことからこの地域一帯を昔から「笹塚」と呼び、今もそれが町名として残っています。  渋谷区教育委員会』、、、、甲州街道の起点:お江戸日本橋から三里目の一里塚がここ笹塚であった。 ちなみに、一里目は最高裁判所のある千代田区隼町、二里目は「追分だんご」の新宿区新宿三丁目(追分)。 

201911060837410

201911060841180



●一列横隊! ・・・・・・甲州街道の笹塚跡から裏道を200m程北に歩くと水道道路に出る。 水道道路は玉川上水を淀橋浄水場(現:新宿副都心)まで導いた水路跡に造られた道路。 水路は盛土して造られていたため、水道道路に変わった現在でも、道路面は周辺の地盤より高い位置にある。、、、、水道道路の南側には昭和40年代に建てられた都営アパートがズラリと横一列に並んでいる。 遠くまで並ぶ団地は“お見事”である。

201911060855530

201911060854460

・・・・・・・・・・・・・・笹塚二丁目交差点で水道道路とは別れ裏道に入る。、、、、水道道路からチョイト下ったところに、和泉川(神田川笹塚支流)に掛かっていた「堺橋」の跡(欄干)がある。 特に意識して見ていないと、車止めのようで見逃すしてしまう。 川は暗渠化された。、、、、堺橋の先60m程で、杉並区方南の町となる。

201911060901160


201911060902580



●ド派手な神社! ・・・・・・・方南の町に入ると、赤い旗が境内を囲むようにビッシリ立ち並ぶ谷中稲荷神社があった。 坂の上の小さな神社。 京王井の頭線西永福駅の近くに在る大宮八幡宮(杉並区)の境外摂社。、、、、チョイト派手すぎる神社だ!

201911060910450

・・・・・・・・・・・・・・神社は坂の上にあり、方南町駅の方からは上り、チョイトきつそうだ。

201911060913030



●祭神は“只の饅頭” ・・・・・・・・・・・坂を下り道なりに北へ向かうと、いつの間にか杉並区方南から中野区南台に入った。 東京メトロの中野車両基地の南側である。、、、、チョイとした高台に多田神社がある。 多田神社は寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮)に参詣のおり、当地に先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると云われている。、、、、多田満仲とは、お供えの饅頭を摘み食いしたので、「ただの まんじゅう」と読むそうだ。(ゴメン、摘み食いは私のウソ。読みはホントウ) 源満仲(みなもとのみつなか)の別称である。 平安中期の武将で、多田源氏の祖と云われている。(勉強不足で、私は知らなかった人物)、、、、当地(旧雑色村)の鎮守。、、、、社殿は昭和35年(1960)に再建された。

201911060933220

201911060935220

201911060936270

・・・・・・・・・・・・・・多田神社の社殿北隣に、真言宗豊山派寺院の宝福寺がある。 山号は如意山。 寺の創建年代は不詳だが、江戸三十三観音霊場17番。、、、、平成21年(2009)の火災で焼失した観音堂はただいま再建中。

201911060941020

201911060944300



●稼ぎに出て居ない! ・・・・・・東京メトロ中野車両基地の前に出たが、基地は背の高い塀で目隠しされ、中は見えずらくなっている。 それでも、マニアはしつこく内部が見える隙間を探し、写真を撮る。 私もその一人!、、、、隙間発見、アレ!電車の多くは稼ぎに出ている。

201911060956300

201911060957070

201911060958230

201911061000330

201911061001500



●リニューアルした駅! ・・・・・・車両基地から西へ歩くと、再び杉並区に入り丸ノ内線方南町駅である。、、、、方南町駅の改良工事が終わり、今年(2019)7月5日から6両編成で運行されるようになった。 電車も方南町から池袋行が運転され、途中中野坂上での乗り換えは不要。 

201911061024010

201911061025270

201911061033120

201911061033490

2019年11月 2日 (土)

念には念を、荒川橋梁の確認

荒川の治水上の弱点として、京成本線荒川橋梁の桁下の高さが低く、早急なる架け替えの必要性が言われている。 その話は以前から聞いて知っていたが、台風19号の脅威にさらされ再確認したくなった。 今日の散歩は東武伊勢崎線堀切駅(足立区)で下車し、荒川橋梁を見て、京成本線堀切菖蒲園駅(葛飾区)までの、9千歩。

1




●気持ちいい秋晴れ! ・・・・・・・東武伊勢崎線の堀切駅(足立区千住曙町)で下車。 普段は哀愁ただよう寂しい駅。 駅前には旧綾瀬川が流れ、対岸は墨田区。、、、、私が恐れるのは、京成本線荒川橋梁付近で氾濫し、その水が近くの旧綾瀬川に流れ込むと、その先は隅田川に合流し、荒川区、台東区、中央区と浸水する可能性があることだ! この想定は国交省でも考えているシナリオと思われる。

201911020826560

201911020829360

201911020830290



●グランドはまだ使用できず! ・・・・・・堀切駅前の堤防に立つと、荒川が穏やかに流れている。 でも、河川敷のグランドは足下グチャグチャ。 北側(上流側)に堀切橋が見える。 京成本線の荒川橋梁は堀切橋の後ろに在り、トラス部分がみえる。 写真左端の堤防頂部の道路面と堀切橋の路面の高さはほぼ同じ。

2019110208341710_stitch



●堤防は崩壊するか? ・・・・・・・昭和6年12月19日の京成本線:青砥~日暮里間開業に合わせ、同年に架けられた荒川橋梁綾瀬川橋梁。 荒川橋梁は全長446.99m、両端が6スパンの単線上路式プレートガーター橋、中間が3スパンの複線下路式曲弦ワーレントラス橋。 綾瀬川橋梁も単線上路式プレートガーター橋、中間が複線下路式曲弦ワーレントラス橋。 両橋とも、東京石川島造船所製、下部工事は大林組の施工。、、、、いまの京成本線は上野~成田空港の結び一日当たり約14万人が利用する大動脈である。、、、、橋が出来て今年で88年、米寿だ。 この間、高度成長期には地盤沈下し、その後堤防のかさ上げを行ったが、橋が架かっている部分は手つかずでかさ上げが出来ていない。 そのため、荒川橋梁の桁下が周辺堤防に比べ約3.7m程低く、増水時にはこの低い部分から水が溢れ堤防が決壊する恐れがある。 治水上の弱点となってしまった。 そこで、隣りに新しい橋を架けるべく、平成16年(2004)度から設計等が進められているが、今だ工事には至っていない。 どうしたことだ!  都民の命が係っている工事だが、どうやら、工事用地の確保が出来ていないらしい。

201911020945431

201911020956460
・・・・・・・・・・・・・・両側の取り付け部分を見ると3.7m低いのは一目瞭然。、、、、『蟻の穴ならぬ電車の鉄橋から 堤も崩れる』とならぬように祈りたい。

201911020841040

201911020853110

201911020854450

201911020950251

・・・・・・・・・・・・・・荒川右岸(足立区側)の堤防から眺めると、高架橋に沿って民家がビッシリ。 どこも人が住んでいるようだ、まだ工事できそうにないね!

201911020900310

201911020907040

201911020939060

・・・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線(下)と京成本線(上)が交差する地点付近は、チョイト広いスペースが確保されているのか?
201911020910210

201911020924070

・・・・・・・・・・・・・・堀切橋と荒川橋梁の間、堤防上の狭いスペースで高低測量が行われていた。 アレ、ひょっとするといよいよ工事が始まるのか? 何となく、嬉しくなるね!
201911020940350



●早く終わらして! ・・・・・・・一刻も早く荒川橋梁の架け替えが終わることを願いつつ、堀切橋を渡り堀切菖蒲園駅から帰宅。

201911021011070

201911021013340

2019年11月 1日 (金)

我が家は浸水するか?

赤羽駅の北東、荒川の岩淵水門の近くに在る「荒川治水資料館」(北区志茂)に行ってきた。 一昨日、電車が動いておらず、行けなかったので、今日となった。 JR赤羽駅から脇目も振らずに歩けば20分程で行けるが、神社・地蔵様・美女に脇見しながら歩いて40分程である。




●キョロキョロ、脇見しながら歩く! ・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・今日は『どこで降りようか?』と迷うこともなく赤羽駅で下車。 これから出社する通勤客で駅は人・人・人の流れ、その流れに逆らい駅前に出る。、、、、これより、岩淵町を通り志茂、脇見しながら向かう。

201911010813220

201911010826570

・・・・・・・・・・・・・・駅近くで、気になった築50年のビル。 駅前の雑居ビル「赤羽パレスビル」は昭和45年(1970)の建物。 なぜか、キャバレーを思い出す名前に引かれた!、、、、もう一つは、昭和44年(1969)築、ツタの絡まるマンション。 間取り“2k”で家賃は6万円前後らしい、安いね!

201911010835240

201911011029070

・・・・・・・・・・・・・・八雲神社の南側(北区岩淵町22)、住宅の塀の前に、チョイト風化した三基の石塔が並んでいる。 きれいな花が供えられている。、、、、右側に、寛保3年(1743)の庚申塔、「奉造立庚申供養塔」と彫られ、下部に三猿がいる。 中央は、元禄6年(1693)の庚申塔で、「奉待庚申供養二世安楽処」と彫られ、下部に三猿がいる。 左側は、 天保15年(1844)の巡禮供養塔である。

201911010857010

・・・・・・・・・・・・・・岩淵町の八雲神社にも手を合わせて行く。 八雲神社は、荒川堤防の南側近くに鎮座する。 この神社は、江戸時代、日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社であった。 祭神には須佐之男尊が祀られている。 創建年代は不詳。、、、、今日は、拝殿前の黒塗りの賽銭箱(昭和2年製)、天水桶(明治37年製)の古さに感動!、、、、ついでに、境内社の水神社。 こちらは、石造りの小さな社であるが、正面扉部分には「水神宮」「岩渕本宿」と彫られ、横には寛政12年(1800)とある。 凝った造り、古い社である。

201911010912380

201911010910430

201911010903400

201911010907540

・・・・・・・・・・・・・・新河岸川に架かる新志茂橋の際、護岸の前に、シュールな地蔵尊が立っている。 由来には『この地蔵は 昔水難事故が多く供養のため 地元有志により建てられました』と書かれているが、“昔”ていつ? “水難事故”て何?、、、、固有の名もないこの地蔵、身体は石で、顔は木製のこけし。 チョイト、気持ち悪いね!

201911011018460

201911011018570

・・・・・・・・・・・・・・地蔵尊の前には、昭和10年(1935)に建てられた、木造2階建ての洋館がある。 黒田機器株式会社の事務所棟である。

201911011021470



●19号の爪跡残る荒川 ・・・・・・・・・・・・・荒川と新河岸川を隔てる土手上に荒川治水資料館がある。 近くには、隅田川が荒川から分岐する岩淵水門もある。 赤い水門は旧岩淵水門で、水門の機能なし。 青い水門は、現在の岩淵水門

201911010933121


201911010931090

201911011000430

・・・・・・・・・・・・・・まずは、荒川治水資料館で掲示されていたこの写真をご覧あれ、平常時と先の台風19号時(2019年10月)の岩淵水門付近の航空写真。 台風時には、荒川の川幅いっぱいに水が流れ下っている。、、、、しかし、新河岸川と隅田川の水位は大きく変化していない。水門を閉じた効果が出ているようだ!

201911011006170
201911011006060

・・・・・・・・・・・・・・今日、荒川土手の河川敷は、流木、泥で公園としての機能は停止。 車が通ると土埃が舞い上がる。 河川敷の泥は水で流し、流木は撤去。

201911010926210

201911010931200

201911010930110

201911010922290

201911010922020

201911010920350

201911010924340

・・・・・・・・・・・・・・土手を歩いた後は、荒川治水資料館に行き。 我が家が洪水で水没しないか? パネル・写真をジックリ見ながら学習してきた。、、、、老いて学ぶは呆け防止!

201911011015570

201911010943240

201911011009070

201911011008240

・・・・・・・・・・・・・・学習効果その1、、、、普段、荒川と隅田川の水位はほぼ同じであるが、19号の時は荒川の水が隅田川に流れ込まないように岩淵水門を閉めたそうだ。 その結果、ピーク時には荒川の水位は7m以上に上昇したが、同時刻の隅田川の水位は1m以下で水位差が5.5m以上あった。 水門を閉めると、荒川の水が隅田川に流れ込まないことを確認できた。、、、、イザと云う時に、閉め忘れしないでね!
・・・・・・・・・・・・・・学習効果その2、、、、我が家のある浅草橋付近は、資料館のパネルでは標高3m程で、満潮時には高潮の脅威にさらされる可能性がありそうだ。 ちなみに、散歩の帰り浅草橋駅付近の標高を確認したら3.7m。 これくらいなら、まあ床下浸水程度かな!

201911011109590

201911011109450

・・・・・・・・・・・・・・学習効果その3、、、、もし、ここ岩淵水門で荒川の堤防が決壊したら、北区、荒川区、台東区、中央区は浸水が想定されている。 我が家の付近は0.5~3.0m程の浸水となりそうだ。、、、、3mなら我が家の3階に逃げればOK! 『油断大敵、今夜はビフテキ!』
・・・・・・・・・・・・・・学習効果その4、、、、もし、荒川が氾濫するとしたら、京成本線の荒川橋梁(京成関屋~堀切菖蒲園間)の付近はヤバそうだ! この付近の“現況堤防高”は、本来防災上必要と想定される“必要堤防高”より、地盤沈下のため3.7m程低い位置にあるそうだ。 同様なケースは四ツ木橋、西新井橋などであるも生じている。 この辺は、大雨の時に要注意!、、、、早いとこ、橋を架け替えてもらいたいね!




●安心した気分! ・・・・・・・今日の散歩で、台風への心構え、洪水の基礎知識はOK? 安心した気分になってしまった! 自分に言い聞かせる、『油断してはダメだ!』、、、、1万1千歩の散歩でした。

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »