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2019年12月

2019年12月31日 (火)

大晦日の浅草寺

毎年、大晦日の夜は家族で、浅草に出て蕎麦を食べ、浅草寺にお参りし、お汁粉を頂て帰り、除夜の鐘を生で聴きながら「ゆく年くる年」を見て、床につくのは元日の夜中であった。、、、、今年は、96歳となった母が歩くことが億劫となり、夜の御礼参りをやめることにした。 明るいうちに、浅草寺に行って、蕎麦は我が家で食することにした。、、、、我が散歩、一年の〆は浅草寺参り。




●今日は大晦日! ・・・・・・・・浅草寺へ行く前に、チョックラ買い物出た。 デパートのショウウインドウは既に新春モード。 デパート前では年末恒例の救世軍の社会鍋。 暮れの風物詩である。、、、、【チコちゃんに褒められる知識】 明治42年(1909)に、日本で始められた社会鍋のルーツは、遠くアメリカのサンフランシスコにある。 それはいわゆる「一八九三年恐慌」の翌年のこと、不況下で失業した船員が多くなり、その家族に温かいスープを提供しようと、救世軍の大尉が始めた、失業困窮者の救済活動である。 スープ鍋を三脚に吊るしてその中へ街頭募金の投入を依頼するというスタイルは、全世界の救世軍部隊に伝わった。 日本では、芋煮をする和風の鉄鍋を三脚に吊るして始められた。 明治の頃は集金鍋、大正時代は慈善鍋、戦後は社会鍋と呼ばれ、英語ではクリスマス・ケトル(Christmas kettle)と呼ばれている。、、、、俳句の季語にもなっている。  慈善鍋昼が夜となる人通り 中村汀女

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●大晦日の浅草寺! ・・・・・・・今日は、繁華街の飲食店は営業しているだろうが、チョイト場末の飲食店は閉まっている。 さらに、博物館・美術館などの施設は休館しているかも、外人観光客の皆様は行く処が無いのか、浅草は外人で超満員! どこを歩いていても、聞こえる会話は、中国語・韓国語・インドネシア語・ヒンズー語・英語・フランス語、すべて私にはチンプンカンプン、何語で何を喋っているのやら、『ここは日本だ、日本語で喋れ!』怒鳴りたくなるね。 でも、かわいい娘は許す!

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・・・・・・・・・・・・お土産をさがすカップル。 フランス人か、長い足が羨ましいカップル。 イスラムの若いカップル。 賽銭箱の前で記念撮影のカップル。 大金持ちか、栄養満点のカップル。  和服に和傘、日本に憧れたカップル。

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・・・・・・・・・・・・最後のカップルは、私の目の前で、写した自分が恥ずかしくなる、なんとも羨ましいカップル。 この二人は、きっとチュー国人だと思うよ! 

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・・・・・・・・・・・・本堂の東南、弁天山と呼ばれる小高い丘に、江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘がある。 鐘楼は昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失し、昭和25年(1950)に再建されたものであるが、元禄5年(1692)に鋳造された鐘は幸いにも無事に残り、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされている。 もちろん、今宵も撞かれる。、、、、昭和40年代頃までは、我が家で耳を澄ますと、早朝、ゴ~~ンと時の鐘の音が聞こえた。 鐘の音の前には、浅草橋駅に入ってくる蒸気機関車(貨物列車)の汽笛も聞こえた。 今思う、懐かしい音、もう一度聞いてみたい!

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2019年12月29日 (日)

初詣を待つ神社

令和元年も残すところあと三日、我が家の正月の準備は妻に任せて、「チョイト散歩してくる!」と家を出た。 さてさて、どっちへ行こうか? 考えながらも足は地下鉄浅草橋駅に向かい、久里浜行きに飛び乗った。 車中で「どこで降りようか?」、停車駅案内図を見て「穴守稲荷」が目に入る。 きょうは、神社の正月準備でも見てみるか! 穴守稲荷駅で下車することにした。 神社は静かで期待ハズレ、羽田の大鳥居を見て、糀谷駅まで、1万1千歩の散歩。




●寂しい駅! ・・・・・・・明治35年(1902)6月28日、穴守駅(あなもりえき)として開業。 大正2年(1913)に、穴守駅を東へ800m、現在の羽田空港敷地内に移設し、旧穴守駅の位置に羽田駅が開業。 その後、羽田駅を稲荷橋駅に改称。 昭和15年(1940)には、稲荷橋駅は西に約200m移設。 戦後、昭和20年(1945)連合軍による穴守線(現:空港線)接収により、稲荷橋駅より東の区間は営業休止となる。 昭和27年(1952)、稲荷橋駅はさらに約340m西に移設。 昭和31年(1956)に、やっと稲荷橋駅から東の空港に向かって線路は延伸され羽田空港駅が開業する。 同時に稲荷橋駅は穴守稲荷駅と改称する。 さらに、平成3年(1991)から平成5年まで、穴守稲荷駅から東の羽田空港駅までは、空港島に線路延伸するため、またまた営業休止。 駅の移設・駅名変更・線路の延伸・営業休止など、何かと騒がしい空港線(旧:穴守線)であり、穴守稲荷駅である。、、、、現在の穴守稲荷駅は、相対式ホーム2面2線の地上駅。 一日当たりの乗降客数も18,000人程で、空港線の中では最も少ない客数である。

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・・・・・・・・・・・・駅改札を出たところに、穴守稲荷神社を象徴する狐の石像:コンちゃんが鎮座している。 平成3年設置。 正月向けか、ピンクの花飾りに、赤い上着、そして松飾り。

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●コンちゃんの実家? ・・・・・・文化元年(1804)の羽田沖(現:羽田空港の敷地内)の新田開墾の折り、海が荒れて沿岸の堤防が決壊し、村々は海水による甚大な被害を受けた。 村民が堤防の上に祠を勧請し、稲荷大神を祀ると、海が静まって大きな実りをもたらした。 これが穴守稲荷神社の起こりとされている。穴守という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなむ。 元々は新田開拓を行った鈴木家の土地にある、小さな祠であった。 明治17年(1884)には暴風雨に襲われ崩壊してしまうが、翌年には再建の認可を取り付け、さらに2年後には「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へと改称を行った。 再建した穴守稲荷神社は境内も広くなり、さらに周辺で潮干狩りもできることや温泉が湧いたこともあり、門前には温泉旅館や芸者の置屋ができ、賑わいを見せていった。 この繁栄を見て、京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)は京浜蒲田から穴守稲荷神社へ向けて支線を伸ばし穴守駅が開業した。 交通の整備もあり、穴守稲荷神社の界隈はさらに賑わっていった。 然るに昭和20年(1945)8月の終戦では、米軍による羽田空港拡張のため、従来の鎮座地(東京国際空港内)より48時間以内の強制退去を命ぜられた。 同年9月、地元崇敬者有志による熱意により現在地が寄進され、仮社殿を復興再建した。、、、、神社は只今、境内整備と奥之宮改修工事を実施中、漸次昔日の面影を取り戻しつつある。 お稲荷さんのシンボル、朱塗りの鳥居も一か所に集められ退避中。 境内では、正月準備は終わっているようだ!

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●空港に残った大鳥居! ・・・・・・穴守稲荷神社の社殿や他の鳥居は、終戦直後、GHQによって取り壊されたが、門前の赤鳥居(大鳥居)だけは撤去されず、そのまま羽田空港の駐車場に残っていた。 平成の初め、羽田空港の沖合展開事業にあたり新B滑走路整備の障害になるため、鳥居を撤去する話が出たが、地域住民らから穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らのシンボルとして残したいと要望が上がった。 平成11年(1999)に、同じ空港島の弁天橋脇(現在地)に移設された。、、、、空港島の隅に鳥居だけがポツント、東京湾と多摩川の風に晒されながら、日々、飛行機の離発着を見守っている。 今日は鳥居の前に門松が置かれていた! 

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●勝手に思う! ・・・・・・・チョイト古そうな建物を見て、一人で何かを感じて歩く!

・・・・・・・・・・・・穴守稲荷神社の参道前にあったビジネスホテル。 「梅月」という名が旅館を連想させる、ひょっとしたら戦後、現在地に移った穴守稲荷神社の参拝客を当て込んで開業したのか? 近くには割烹料理の店もあった。

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・・・・・・・・・・・・環八通りを歩くと、「羽田民生アパート」(羽田1)が目にとまる。 公営住宅なので差別しているわけではないだろうが、“母子アパート”、“民生アパート”など、なんだか特定の入居者を対象とした名前が気になるね。

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・・・・・・・・・・・・西糀谷3丁目では、戦後の中小金属加工工場が当時の雰囲気を残していた。、、、、何となく、日活青春映画に出てきそうな工場だ!

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・・・・・・・・・・・・西糀谷1丁目で、雑草と木が茂るチョイト大きな空き地があった。 以前は釣り堀、今は猫の住まい? 今後はマンションでも建つのかな?、、、、腹のふくれた野良猫が堂々と塀の中に入って行く、釣り堀の魚を食べて肥満体か? 

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●便利で活気づいた駅! ・・・・・・・糀谷駅に到着、、、、平成24年(2012)に糀谷駅の上下線の高架化が完成し、現在の駅の構造となる。、、、 大きな一か所だけの改札の前には、高架下のスーパーなどがあり便利になった。 また、以前からある駅前の商店街も活気づき、明るい雰囲気の町となった。

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2019年12月27日 (金)

毛長川

日暮里・舎人ライナーの終点、見沼代親水公園駅から歩きはじめた。 東京都足立区と埼玉県草加市の境となる一級河川:毛長川沿いに草加市側をしばらく歩き、毛長橋からは足立区に入り竹ノ塚駅まで、1万1千歩の散歩です。




●空中で切れる軌道! ・・・・・・平成20年(2008)3月30日に開業した日暮里・舎人ライナーの軌道は、終点の見沼代親水公園駅の先で、空中に突き出したままで終わっている。 これより先は埼玉県草加市で、都交通局では『知らないよ、勝手にしたら!』で、無視・ムシ・ムシ!、、、、今年8月埼玉県知事選があり、野党系の新知事が誕生した。 新知事の公約に「あと数マイルプロジェクト」と称し、埼玉高速鉄道、日暮里・舎人ライナー、都営三田線&大江戸線、多摩都市モノレールの5つの鉄道路線を埼玉県内まで延伸して、県内の交通網をより便利にすると云う目玉公約がある。 実現性には、埼玉高速鉄道は別にして他の4路線は都の事業だから、都との合意を得ないとできない、小池知事がOKするかな? 難しいと思うね、果たしてどうなることやら?

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●生まれ変わるか毛長川! ・・・・・・・見沼代親水公園駅の北側に一級河川の毛長川(けながかわ) が流れている。 毛長川は足立区と草加市の都県境を流れ、足立区花畑と埼玉県八潮市大曽根の県境付近で綾瀬川に合流し、さらに下流では中川となり東京湾に注ぐ。、、、、毛長川では、都県境となる足立区舎人4丁目付近から下流にかけて、河床掘削工事が行われている。 この工事は、洪水に備えると共に、川底の堆積物を取り除き、河川環境の改善を図るものである。 川底の泥・ヘドロはポンプで吸い上げ、川に浮かしたパイプで下流の処理施設に送っている。、、、、下流の工事を終えたところでは、川面は綺麗になり、魚も住めそうだ!
・・・・・・・・・・・・見沼代親水公園駅の北側、舎人二ツ橋付近の毛長川。 橋上には都道58号台東・川口線が通っている。、、、、ゴミの浮いていない毛長川、この光景はいつまで続く?

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・・・・・・・・・・・・ヘドロを送るパイプが浮いている。

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・・・・・・・・・・・・下流の毛長橋付近。、、、、綺麗な川!、、、、ココまで埼玉県側を歩いてきた。 ここより、毛長川から離れ、竹ノ塚駅に向かう。

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●神仏いろいろ! ・・・・・・・毛長川沿い、草加市新里町の一寺一社

・・・・・・・・・・・・真言宗智山派寺院の泉蔵院は、御幣山阿弥陀寺と号す。 泉蔵院は、宥阿上人(応長元年1311年寂)が開創、乗秀法印(永禄2年1559年寂)が中興開山したそうだ。 本尊は不動明王。、、、、本堂、山門は平成3年(1991)に完成。

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・・・・・・・・・・・・本堂の脇に閻魔堂がある。 こちらには、平成25年(2013)に修復された閻魔大王が安置されていた。、、、、小ぶりの像で、顔は酔いの回った赤ら顔にちかい。

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・・・・・・・・・・・・泉蔵院には、「泉蔵院十三仏石像」と呼ばれる十三体の仏像がある。 不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師、観音、勢至、弥陀、 阿閦 、大日、虚空蔵の十三仏で、享保6年(1721)に造立された。、、、、整然と13仏が並ぶ姿は「ありがたや!」
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・・・・・・・・・・・・もう一つ、「泉蔵院六地蔵」もある。 こちらは、釈迦如来の付託をうけて、六道界の衆性を化導するといわれている地蔵菩薩が並んでいる。 六地蔵は、元禄4年(1661)の造立。

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・・・・・・・・・・・・泉蔵院山門の前方に、泉蔵院が別当寺であったと言われている毛長神社がある。 毛長神社の創建年代は不詳だが、舎人諏訪神社(男神)と対になって当社が女神と称されていたらしい。 御神体は女性の髪の毛である。 髪は素盞嗚尊の妹姫のものとも、村の長者の娘のものとも云われている。 女の長い髪の毛を神体とする神社は全国的に珍しいいそうだ。(“毛長”の由来か?)、、、、“女の長い髪の毛”ならセクシー、“男の短い脛毛”ではグロテスク!

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●伊興最古の寺! ・・・・・・毛長橋を渡り足立区に入ると、伊興本町に時宗の西嶋山煎雲院應現寺がある。 應現寺の創建年代は不詳。 天台宗寺院として創建され、八幡太郎義家からの墨付及び寺領の朱印があったと伝えられ、伊興地区最古の寺院でもある。 現存する瓦葺破風の四脚門は、寛永14年(1637)の建設で江戸時代初期の山門様式を伝える珍しい遺構。 また、天文7年(1538)の逆修板碑2基、永禄4年(1561)のもの1基、承応3年(1654)の石燈籠2基等がある。 さらに、足利時代築造の経塚が、旧寺域から発掘され出土した兜・経筒・五鈷鈴・唐宋の古銭等は、東京国立博物館に保管されている。、、、、お宝の多い寺院だ!

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●西口は裏口? ・・・・・・・竹ノ塚駅西口に到着。 今日の散歩はココまで!

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2019年12月25日 (水)

板橋の閻魔さま

東武東上線中板橋駅で下車し、東へ向かい旧中山道仲宿の文殊院を訪ね閻魔大王に手を合わし、都営三田線板橋区役所前駅から帰宅。 1万歩の散歩です。 




●中板橋村なんて、なかった! ・・・・・東武東上線の前身、東上鉄道による池袋~田面沢間の開通は大正3年(1914)5月1日。 この時同寺開業した駅は、池袋、下板橋、成増、膝折、志木、鶴瀬、上福岡、川越町、田面沢の9駅である。 開通から一か月チョイト遅れて、上板橋と高階の2駅が追加開業した。 上板橋駅は上板橋村から、下板橋駅は下板橋村から命名された。 「中板橋駅」はこの時点では開業していない。 昭和初期、現在の中板橋駅周辺の子供たちは、近くの石神井川で遊んでいたが、鉄橋から飛び込んで遊ぶことが流行り、東武鉄道は地元(下板橋村字久保田)に「鉄橋は危険なので水遊び場を作るように」申し入れた。 地元では、さっそく石神井川に淡水浴場を作り、提供した。 これが評判となり、淡水浴場もプールに変わり、遠方からも電車で利用にやった来るほどとなった。しかし遠方の利用者は炎天下を下板橋駅か上板橋駅から歩かねばならなかった。 昭和8年(1933)東武鉄道は近くに常設駅を設置することにした、地元で決めた駅名は上板橋駅と下板橋駅の中間にあることであり単純に「中板橋」とした。 村名ではなかった!  これが、現在の中板橋駅である。、、、、島式ホーム2面4線を有する地上駅。 ホームは多くても、普通列車しか停まらない駅で、優等列車がスピードを落とさず、無情にも通過していく。 出入口は南口と北口の2か所。

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●喫煙スペース? ・・・・・・・駅前の踏切の脇に鎮座する小さな山中稲荷神社。 神社は小さいが、境内にはベンチと灰皿を置いた喫煙スペースが用意されている。 狐の御利益も煙に巻かれて、騙されて!

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●駅から東へ! ・・・・・・駅前の商店街を抜け、中根橋で石神井川を越える。 そして再び、商店街を歩く。

・・・・・・・・・・・・元気そうな「なかいた」商店街。 まだ、どの店も就寝中!、、、、寒い朝、立ち食いそば屋が一軒営業中。

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・・・・・・・・・・・・石神井川に架かる中根橋。 昭和48年(1973)完成。 川の両側に桜が咲く、春は見頃。、、、、石神井川も綺麗な川に戻ったが、チョイト川底の深いのが玉に瑕。

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・・・・・・・・・・・・中根橋を渡り、石神井川の北側の「双葉さくら通り」(旧愛染通り)という、チョイト疲れた感じの商店街を行く。

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・・・・・・・・・・・・双葉桜通りからチョイトそれ、板橋区に多い氷川神社の一社「根村氷川神社」(双葉町)に寄って行く。、、、、根村氷川神社は、創建年代は不明 、応永年間(1394~1427)に大宮氷川神社から勧請されたと伝えられている。 江戸期には下板橋宿上宿の鎮守として崇敬され、戦時中は村社に列格していた。、、、、境内は広く、緑も多く、雰囲気は悪くはないが、ペットの侵入防止か?盗難防止か?立ち入り禁止のイエローロープがアッチコッチに無造作に貼られ、印象を悪くしている。

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●愛染通りの2寺 ・・・・・・氷川神社の東南400m程、旧愛染通り沿いにある2寺を紹介。(板橋区大和町)

・・・・・・・・・・・・まずは、
真言宗霊雲寺派の光明山愛染院日曜寺。 本尊は愛染明王。 開山は、正徳の頃(1711~1716)に宥慶比丘が小堂を営んだのに始まる。 その後、田安宗武(八代将軍吉宗の第2子)の帰依をうけ、等身大の愛染明王像をはじめ多くの仏像や仏画、什器類が奉納され、寺として再興した。、、、、現本堂は昭和45年(1970)に落慶。、、、、【チョイトないしょで】 愛染明王(あいぜんみょうおう)とは、密教の明王の一つで、愛欲などの迷いがそのまま悟りにつながることを示し、外見は忿怒(ふんぬ)暴悪の形をとるが、内面は愛をもって衆生を解脱させる。三目六臂(ろっぴ)で、種々の武器を手にした姿に表す。(小学館:デジタル大辞泉の解説)、、、、【ついでにもう一つ】 愛染恭子とは、往年の名画「白日夢」の主演女優。 ヌードモデルを経て、ピンク映画、ストリップ劇場に出演した女優。 中高年の世代には、彼女にお世話になった方は多いはず!、、、、どちらの“愛染”も、愛と欲の迷いから救ってくれるかも?

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・・・・・・・・・・・・次なる寺は、浄土宗の龍光山恵照院と号す智清寺。 本尊は阿弥陀如来。 室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝える。 天正19年(1591)徳川家康により寺領5石を寄進された御朱印寺である。 山門・本堂・庫裏のいずれも最近新築された。 庫裏の外壁は大理石で豪華。(大失敗! 本堂の写真、撮り忘れた!)

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●旧中山道をチョイト歩く! ・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・まずは、江戸時代から板橋宿の名所として名高い縁切榎。 もともとは大六天神の神木であった。 皇女和宮が降嫁の際、縁起が悪いと、この場所を迂回したという逸話が残っていますが、庶民の間では、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるというので信仰の対象となった。、、、、この祠の後ろに隠すように公衆便所がある。 こちらでは、水漏れ、ガス漏れを防いでくれる。 私もスッキリ、シャッキリした。 

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・・・・・・・・・・・・中華屋さんのサンプル陳列棚。 見てビックリ、食べて美味しい、クリスマスバージョンで飾り付け。 売上アップしたかな?

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・・・・・・・・・・・・板橋の板橋。 現存する板橋は、旧中山道と石神井川とが交差する地点に架かっている、昭和47年(1972)に完成したコンクリートの橋。、、、、江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)であった。

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●にこやかな閻魔大王! ・・・・・・・板橋の南側に位置する、真言宗豊山派寺院の文殊院にお立ち寄り。 文殊院は幡場山と号し、板橋宿本陣の飯田家の菩提寺として江戸時代初期に創建された。 開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝えられている。、、、、墓地の片隅には、宿場女郎の墓もある。

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・・・・・・・・・・・・山門横の閻魔堂には、閻魔大王奪衣婆懸衣翁の3像が安置されている。 懸衣翁が留まっている木は衣領樹と称する。 奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣をこの枝に懸けて生前の罪悪を計るのである。、、、、像は新しく作られたものだが、ユーモラスな表情でチョイト笑ってしまうかも? 

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●ゆとりのない駅! ・・・・・・・今日の最後は都営三田線板橋区役所前駅。 昭和43年(1968)12月27日に、都営地下鉄6号線(現:三田線)開業に伴い開業。 相対式ホーム2面2線の地下駅。  駅名のごとく、区役所とは地下通路で結ばれている。、、、、ホーム・通路・改札など、全体的に狭苦しい駅だ!

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2019年12月23日 (月)

夕暮れの四つ木

昨日は冬至、陽が落ちるのも早く、荒川の夕陽を見てきた。




●翼も見飽きた! ・・・・・・春頃からサッカー漫画「キャプテン翼」にラッピングされた四ツ木駅で下車。 まだ外は明るく、下車する人も少ない。

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●夕陽に映える! ・・・・・・荒川左岸の土手にのぼり、夕陽が落ちる荒川を背景に、橋梁を撮影。

・・・・・・・・・・・・まずは新四ツ木橋、、、、上流に架かる四ツ木橋が慢性的に渋滞したことから、曳舟川通りを延長する形で国道6号に平行して新四ツ木橋を建設。 昭和48年(1973)に竣工し、供用を開始。 橋の長さ472m。、、、、橋の先にはスカイツリーが見える。 富士山も見えるのだがビルの陰に隠れた。

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・・・・・・・・・・・・・・次は、上流側に架かる四ツ木橋(四ツ木大橋)、、、、大正11年(1922)に荒川放水路開削に伴い木製の四ツ木橋(旧橋)が架橋された。 この木製の橋とは別に現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画が早くから立てられ、昭和14年(1939)から、新橋の工事が行われたが、戦況悪化により昭和18年(1943)に中断された。 戦後、工事が再開され、昭和27年(1952)に現在の四ツ木橋が開通した。 橋の長さは507.4m。、、、、アーチ状のシルエットが印象的だ!

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・・・・・・・・・・・・・・次は、新四ツ木橋の下流に架かる京成荒川橋梁、、、、旧橋は桁下が低く荒川の増水時には危険であった。 そのため、国土交通省と京成電鉄の共同事業として橋梁の架け替えを行い、平成11年(1999)に現在の新橋の供用を開始した。、、、、荒川に映える橋梁だ!

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・・・・・・・・・・・・・・最後は、京成荒川橋梁の下流側に架かる木根川橋、、、、着工は昭和42年(1967)、完成は昭和44年(1969)。 橋の長さ466m。、、、、美しいトラス橋。

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●ジングルベルが聞こえない! ・・・・・・陽が落ち、東四つ木の商店街を駅に向かう。 人通りも少なく、シングルベルも聞こえない商店街。

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2019年12月21日 (土)

辰巳芸者はいない

東京メトロ有楽町線の辰巳駅で下車し、辰巳水門、辰巳団地を見て、JR京葉線の潮見駅まで、9千歩の散歩です。




●子牛いない辰巳駅! ・・・・・・辰巳駅(たつみえき)は東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線の駅。 昭和63年(1988)6月8日の新富町~新木場間延伸時に開業した駅。 地下3階にあるホームは島式1面2線、改札口は地下2階に1か所あるのみ、改札を出ると2か所の出口がある。、、、、一日当たりの乗降客数は3万人程で、チョイト寂しい。 ついでに、駅の周辺も寂しく、出口は団地の隅に位置し小学校と駐輪場があるのみ、コンビニ、喫茶店、ソバ屋など一切なし。 お金を使わずに自宅に帰れる、健全な町である。

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●お勉強! ・・・・・・・・ここで、チョックラ学習タイム。 辰巳駅があるのは、東京湾7号埋立地である。 この埋立地は大正15年(1926)に埋立許可が下り、戦前・戦後と埋め立てられた。 戦後の昭和43年(1968)に初めて住居表示が実施され、人が安心して住めるようになる。 7号埋立地は全て「辰巳」で1丁目から3丁目まで、1丁目は辰巳団地、2丁目は海浜公園、3丁目は倉庫・トラックターミナルなどで使用されている。 ちなみに、「辰巳」の人口と世帯数は11,265人・5,641世帯(2017年)、ほとんどが1丁目に住んでいる。、、、、辰巳の地名はお江戸の“辰巳”(東南)の方向にあるからネーミング。 “辰巳芸者”の辰巳は門前仲町で、江戸時代は“辰巳”と言えば深川のこと。



●スゲ~、タワマン! ・・・・・・・辰巳駅の前には、辰巳運河を挟み対岸の6号埋立地(東雲地区)と結ぶ「辰巳桜橋」がある。、、、、見ていると、対岸の東雲地区にあるキャナルコートのタワマンの住人が辰巳桜橋を渡り、辰巳駅に向かってくる。 東雲地区には、りんかい線の東雲駅があるのだが、橋を渡って有楽町線の辰巳駅の方が便が良いのかも?、、、、タワーマンションが立ち並ぶ景色、湾岸地区として壮観だ! 私の住む浅草橋では考えられない景色、残念ながら負けた!

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●水門と排水機場はセット! ・・・・・・辰巳桜橋から東京湾の方を見ると辰巳水門が見える。 東雲と辰巳の間にあるのが辰巳運河で、ここに昭和37年(1962)に設置された辰巳水門。 幅員11.4m×2連のローラーゲートで、運河沿いの街を高潮や津波の被害から守るのが役目。、、、、水門の左側に建設中は、新しい辰巳排水機場。 台風の襲来時、大気圧の低下により海面が上昇し高潮が発生することが多い、もし台風による高潮の侵入を防ぐために水門を閉鎖すると、内部河川が大雨で増水しても水の逃げ場がないことになり、洪水の危険が高まる。 そこで水門閉鎖時に内部の水をポンプで強制的に排水する施設が水門とセットで必要になるわけで、辰巳水門には辰巳排水機場が隣接している。 現在の排水機場(写真:左奥の赤い建物)は昭和39年(1964)完成。

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●静かすぎる団地! ・・・・・・・辰巳団地をチョイト拝見。、、、、辰巳団地は、東京23区内でも高島平団地や豊島五丁目団地に次ぐ、3番目の規模のマンモス団地である。 総戸数では3326戸(87棟)で、辰巳1丁目のほとんどを占めている。 間取りは2DK・3DK、面積は33㎡~38㎡と小さい、竣工は昭和42年(1967)~昭和44年(1969)。、、、、平成25年(2013)から建て替えに着手し、建物を14階建ての12棟に集約するそうだ。 空き地となった南側の辰巳駅周辺を再開発用地として開発する予定らしい。 まだ、建て替え完了するまで10年程は掛かるだろう!、、、、高島平団地・豊島五丁目団地に比べると、都心には凄く近く便利な処なのだが、生活の音が聞こえない団地だ。 活気がない原因は??? 

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●お客がいない? ・・・・・・・今日はJR京葉線の潮見駅から帰ることにした。、、、、平成2年(1990)3月10日の京葉線の新木場~東京間延伸時に開業。 駅開業を発端として、駅周辺は急速な集合住宅・ビジネスホテル開発が進行している。 それでも、乗降客は少ない駅だ。

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2019年12月20日 (金)

都心のローカル駅、十条

私には、埼京線(正式には赤羽線)十条駅はなじみが薄く私用・公用を問わず、当駅で下車することはまず皆無。 そこで、今日の散歩は十条駅で下車し、そこから歩いてみようと家(浅草橋)を出た。、、、、浅草橋から、中央・総武緩行線で新宿へ出て、埼京線で十条駅へ行くことにした。 電車が途中で動かなくなった、アレレ? 中央・総武線に乗り入れてる東西線で車両点検があり、さらに、別の駅で何かトラブルがあったようで、電車は亀の歩みで新宿に着いた。 新宿の乗り換えでは、チョウド埼京線が出るところ、いそいで飛び乗った、ラッキー・ミッキー・ポッキー・ついてるね! ところがギッチョン、新宿を出た直後の車内アナウンス『新宿駅での信号トラブルと、板橋・十条駅間で線路内に人が立ち入り安全確認のため、この電車は10分遅れで新宿を発車しました。 ご迷惑をおかけし申しわけ御座いません』 まあこの後順調に走ってくれればいいかと思った矢先、池袋の手前で、この電車も亀になった。 なんと、池袋駅で急病人が発生したそうだ。 さらに、川越方面からの電車がトラブって時間調整。 浅草橋から30分で着くはずの十条まで、今日は1時間、歩く前から疲れた!、、、、十条駅周辺を一周し、その後、赤羽駅まで歩いて、1万歩。




●都心のローカル駅? ・・・・・・赤羽線の全通は明治18年(1885)の品川~赤羽間の開業時である。 十条駅は、赤羽線の開業からはだいぶ遅れて、明治43年(1910)11月1日に追加開業した。 ホームは相対式2面2線構造で、両ホームは跨線橋で結ばれている。 2本のホームを結ぶだけの純粋な跨線橋がある駅は、都区内のJR駅では十条駅だけである。 改札口・出口は表玄関の北口と勝手口の南口の2ヶ所。

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・・・・・・・・・・・・駅の周辺には、帝京大学医学部、東京家政大学、東京成徳大学などの学生が多く下車する。 池袋・新宿方面行きは超満員、あきらめて次の電車に乗る人も!
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・・・・・・・・・・・・ホームの両端は踏切。 南側は都道でバスも通る、北側は商店街を結ぶ生活道路。、、、、今日は踏切付近で電車が停まり、遮断機が下りたまま。 線路の向こう側に私も行きたく待つこと10分、イライラする踏切だ!

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・・・・・・・・・・・・十条駅の脇に建つ「十条駅開業70周年記念碑」、、、、十条駅は明治38年に、東京砲兵工廠の貨物を取り扱う日本鉄道の貨物駅として開業したが、翌年には廃止となった。 5年後、明治43年(1910)の開業は2代目の駅で、この時から旅客扱いすることになった。 この記念碑は1980に建てられたので、70年引くと1910年、この年は旅客扱いする駅として開業した年で、初代の貨物駅の開業はカウントされていない、チョイト悲しいね!

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・・・・・・・・・・・・【チョイト、ないしょの話】十条駅の前後、約1.5kmを高架化する計画があるそうだ! 計画では2033年完成らしいが、あと14年先のこと。(私は居ないかも?)、、、、高架化に反対する人もいるようだ! 地下化ならOK?

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●まだ睡眠中! ・・・・・十条駅から、「十条銀座」、「富士見銀座」を抜けて環七通りに出る。 2つの銀座も、まだ寝ているか、寝ぼけ状態で店は開いていない。、、、、十条銀座は昭和初期から商店街が結成された歴史ある商店街。 富士見銀座は十条銀座に続いて伸びる商店街だが、アーケードが無いのでチョイト残念。 途中には戦後間もない頃の店舗と思われる店が残っている。

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●憧れの洋風! ・・・・・・十条仲原4丁目で見つけた擬洋風の建物。 まずはT邸、どうやら元医院の建物のようだ。、、、、もう一軒は、木造の建物N邸で、玄関部分は塀で隠されてる。、、、、どちらも、庶民の洋風への憧れを感じさせる。

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●坂・坂・坂! ・・・・・・・游鯉園の坂」、「水車の坂」、「野間坂」の、3か所を紹介

・・・・・・・・・・・・まずは、十条仲原4丁目の「游鯉園の坂」、、、、案内によると『十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠)に下る坂です。大正時代から戦前まで、坂下の川下にあった川魚料亭が遊鯉園で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり、旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西、西が丘、赤羽南にあたります)の農家がよく利用していました。 』、、、、道幅の狭い、長さ50m程のかなり急な坂である。 

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・・・・・・・・・・・游鯉園の坂を下り、道なりにまっすぐ進むと「水車の坂」(西が丘2-27)がある。、、、、ここも案内に、『現在は石段となっていますが、昔はこの下に水車小屋があり、近くの農家が利用していました。水車に荷を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだこともあり、お稲荷さんと馬頭尊とが並んで立っていました。現在は稲付川も暗渠となってしまい、水車もありませんが、石段は西が丘から十条銀座を通って十条駅へ向かう通勤の人でにぎわっています 』、、、、長さ45m程の急な階段坂で、途中の踊り場でクランク状に曲がる。 この階段を上ると、稲付公園まで200m。

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・・・・・・・・・・・・「水車の坂」を上がり、西が丘の丘陵を東に200m程行くと稲付公園がある。 公園の前を赤羽駅の方に下る坂が「野間坂」である。、、、、この公園は昔、講談社の創立者である野間清治の旧別邸であった。 「野間坂」という名はそこに由来する。 現在、別邸跡は区立公園といて整備され、眺望はすこぶる良い。

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●浅草橋より大きな駅! ・・・・・・・赤羽駅の南口に到着。 南口は赤羽駅の裏口のようなもの! それでも、私が住む浅草橋駅の改札と同じ台数ぐらいの自動改札機がある、コリャ負けた!

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2019年12月18日 (水)

川口の文化財

京浜東北線赤羽駅で下車し、国道122号(北本通り、岩槻街道)沿いに歩いて南鳩ケ谷へ行くつもりで出たが、川口市に入ると、裏道に古い建物を見つけた。 今日の散歩は、この建物の発見に始まり、京浜東北線川口駅までとなる。 9千歩



●出社前からお疲れさん! ・・・・・・通勤・通学客で混雑する赤羽駅。 赤羽駅ホームは、平成10年(1998)に高架化工事が完成し、島式4面8線の大規模な高架駅となった。 東側から1・2番線の京浜東北線南行きと北行きホーム、3・4番線は宇都宮線・高崎線の上下線ホーム、5・6番線は湘南新宿ラインの南行きと北行きのホーム、7・8番線は埼京線の北行きと南行きホームで、各ホームとも緩行・快速・通勤快速の総てが停車する。 各ホームでは、乗換客であふれている。、、、、大宮方面から来る南行きの京浜東北線電車はすでに満員状態、赤羽から乗るのは難しそう。 向かいのホームの上野行きの宇都宮線・高崎線も満員のようだ!

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●国道122号(北本通り)に出る! ・・・・・・戦後、赤羽駅前の焼け跡に誕生した商店街:「一番街」も、多くの店はまだ休眠中、開いてる店も準備中。、、、、一番街を抜け、東京地下鉄南北線の赤羽岩淵駅に出る。 平成3年(1991)11月29日駒込~赤羽岩淵間開業と同時に設けられた。 この駅から北は、平成13年(2001)に埼玉高速鉄道が開業し、浦和美園駅まで直通運転されている。、、、、北本通りに面してたつ、シブい銅板建築の建物は吉安自転車店。 昭和初期の木造2階て、銅板葺きの典型的な看板建築である。 銅板の緑青がいい味を出している。

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●タワマンが消える! ・・・・・・国道122号(北本通り)を歩き、荒川の近くまで来ると濃霧が発生していた。 新河岸川(隅田川の上流)と荒川に架かる新荒川大橋の上から見ると、川口のタワマンの上層階が消えている。、、、、国道122号の愛称:北本通りはこの橋まで、ココから岩槻街道となる。

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●目的地の変更! ・・・・・・濃霧の新荒川大橋を渡り終えると、チョイト裏道が歩きたくなり国道からそれた。

・・・・・・・・・・・・川口市本町の路地を歩くと、チョイとした空き地の裏に煉瓦塀が見える。 よく見ると煉瓦塀の奥には蔵が見えた。 『煉瓦塀に蔵、コリャ御大尽様の屋敷かな?』 塀を頼りに表に回ってみると、木造の主屋を改装した浜田接骨院。、、、、地元の旦那に聞いてみると、蔵は明治40年(1907)の建てられたもの、母屋は大正期の建築であった。 

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・・・・・・・・・・・・地元の旦那の話では、この接骨院の裏には大砲がある。 またここからもう少し歩くと、鋳物問屋の邸宅が残っている、内部も見せてくれると、教えてくれた。 『一見の価値あり』だ、そうだ!、、、、これにて、南鳩ヶ谷へ向かう散歩は、急遽中止。

・・・・・・・・・・・・浜田接骨院の裏の方へ入って行くと、増幸産業という会社の一画に「18ポンド カノン砲」が展示されてる。、、、、案内文によると、『この大砲は幕末の嘉永5年 (1852)に津軽藩の依頼により、川口の鋳物師として名にあった増田安次郎(増幸産業の代表の増田家初代)が、後の砲術奉行となった高島秋帆と協力して作り上げたものの復元品で、当時は制作不可能とされていた大型砲です。 嘉永5年から安政5年の5年間に213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本を守るため全国各地に配備された。 全長3.5m  重量3トン  口径15cm  射程距離2500m 』、、、、せっかく復元したのだから、チョイト、試し撃ちしてみたら迫力あるだろう!

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●文化財のトイレ! ・・・・・・川口市金山町の「川口市母子・父子福祉センター」は、市内の母子・父子家庭の生活向上を図ることを目的とした施設。 これは、この建物を所有していた、旧鋳物問屋「鍋平」の4代目嶋崎平五郎氏が、昭和57年(1982)に建物を川口市に寄付する時の希望であったそうだ。、、、、建物は旧鋳物問屋の別邸として明治後期に建てられた和風建築。 鋳物商人の接待用施設だったためか、内装は、随所にこだわり、贅を尽くしている。 特にステンドグラスやタイルの装飾にこだわったトイレには思わず圧倒された。 現在は国の登録有形文化財。、、、、玄関のある主屋は明治末期の和風建築。 10畳の座敷に、床、棚、書院を備えた「離れ」は、昭和14年(1939)の建築。 「離れ」には、“ウン”で汚しずらい匠の技がピッカピカに光るトイレが配されている。 また、邸内には昭和2年(1927)に建てられた土蔵もある。、、、、訪れたのは私一人、じっくり内部を拝見できたが、文化財のトイレは汚したら処罰されるかもしれず、使用はひかえたよ!

・・・・・・・・・・・・・まずは、玄関のある母屋から。、、、、何処にでもありそうな和風建築。 

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・・・・・・・・・・・・・・次は離れ。 黒檀の床柱、色ガラスが嵌め込まれた窓、竹細工が組み込まれた廊下の壁、見るべきものは多い。

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・・・・・・・・・・・・・・次は必見!離れのトイレ。 トイレ入口の壁には帆掛け舟のモザイクがあり、帆の部分は鏡が嵌め込まれている。 入口からの正面には手洗いがある。 カタツムリの焼き物が組み込まれ、鉢も合わせたデザインだ。

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・・・・・・・・・・・・・・さてさて、男子用の個室。 床壁は大理石張り、小便器の上にはステンドグラスの窓がある、天井にもガラスが嵌め込まれている。 用をたしながら、キョロキョロ、窓・天井・床を見ていると、チョイト、脇に飛び散るかも?

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・・・・・・・・・・・・・・つぎは、男女兼用の個室。 こちらは、松に帆掛け舟の丸いステンドグラス、天井は臭気抜きか?細工が施された板張り。 洋式に慣れた方は、小さな便器の脇に落とさないように注意・注意! くれぐれも、文化財であることをお忘れなきように!

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・・・・・・・・・・・・・・トイレ部分の外観、そして最後にを拝見。

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●アッ、帰えろう! ・・・・・・川口市母子・父子福祉センターで、タップリ時間を掛け、拝見したので、そろそろお帰りの時間。 帰りは、川口神社に寄り、川口駅から帰宅。

2019年12月16日 (月)

排水機場は只今工事中

中川は、荒川(旧荒川放水路、昭和5年(1930)完成)の開削によって、JR総武線、京成押上線それぞれの荒川橋梁に挟まれた中間地点で流路が分断された。 荒川の西側に分断された中川(右岸は墨田区・江東区、左岸は江戸川区)は旧中川と名を変えた。 その旧中川の上流端、荒川に分断された位置に、木下川排水機場がある。、、、、今日の散歩は、『なぜ、旧中川の最上流部に排水機場があるのか?』と疑問がわき、答えを探しに行った。、、、、京成押上線八広駅から、総武線平井駅まで、1万1千歩の散歩です。




●墨田区の荒川駅? ・・・・・・荒川橋梁を挟み、葛飾区側の四ツ木駅と結ぶ、墨田区側の八広駅。 荒川の土手に至近で、ホームからは荒川橋梁も見える。、、、、駅名は大正12年(1923)の開業時から荒川駅と名乗っていた。 荒川放水路開削工事は、大正13年(1924)の岩淵水門完成によって上流から下流までが繋がり、通水が行われた。 さらにその後、関連する工事が進められ、昭和5年(1930)に荒川放水路は完成した。 つまり、駅は荒川放水路が完成する以前から「荒川駅」を名乗っていたのである。 昭和7年、荒川区が誕生した時には、“墨田区にあって荒川とは”何ぞや! チョイトもめたようだ。 その後、平成6年(1994)に地元の地名を採用し「八広駅」に変えた。

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●神社を見下ろす土手! ・・・・・・八広駅から荒川土手沿いに下流方向へ歩くと、日枝神社がある。 慶長19年(1614)に鎮座し、この辺りを開墾した元木之下村の氏神様である。 境内には摂社として木下稲荷神社が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・境内に、この地が0メートル地帯であることを示す表示があった。 神社の前は荒川土手、チョイト上ってみたら、3階建ての家を見下げるほどの高さ、高~~い! 自分は高所恐怖症、チョイト足がすくむ高さだ!

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・・・・・・・・・・・・・・対岸の葛飾区東四つ木を結ぶ木根川橋。 両端とも主要道と接続していない木根川橋は地元密着型の橋で、大型車両は通らず、都心に在って他と違う雰囲気がある。

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●只今工事中! ・・・・・・・荒川右岸の土手上から見える木下川排水機場(きねがわはいすいきじよう )。 毎度のことだが、木下川排水機場の下調べもせずに飛び出してきたので、排水機場は只今、耐震工事の真っ最中で立ち入り禁止。 工事関係者以外は誰も居らず、排水機場の機能・能力などを説明は河川事務所(江東区大島)に行って聞いてくれとの返事。 どうやら、自分の知りたかった『なぜ、旧中川の上流部に排水機場があるのか?』の疑問に応えてくれる人はいないようだ!、、、、帰宅後、自分の調べでは、、、、旧中川は墨田区・江東区の0メートル地帯にあり、この地は戦後急激に地盤沈下し、現在では海水面より低くなっている。 そのため、周囲を流れる荒川・隅田川の水位に比べると、一番低い処にあるのが旧中川だ。 0メートル地帯に降った雨は旧中川に流れ込む、しかし旧中川の水は外に流れる出ることがないため、強制的に24時間ポンプで排水を行い、東京湾の干潮位より1m低い水位を保っているらしい。 また、旧中川とそれに繋がる、小名木川・横十間川などの運河は、勾配がなく巨大な池のようでもある。 つまり、旧中川には上流も下流もないから、荒川に近いこの位置(旧中川の上流端)で排水を行っている。 下流端には荒川ロックゲートと云う大きな閘門がある。
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・・・・・・・・・・・・・・木下川排水機場前の荒川土手には木下川排水樋門がある。 木下川排水機場から荒川に排水する出口である。、、、、対岸には、中川が荒川開削事業で分断された位置付近に、中川水門が見える。、、、、【蛇足】「木下川」は“川”の名ではなく、昔の村名である。

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●川の中に建つ住宅! ・・・・・・木下川排水機場の南側、分断された旧中川の跡地に建てられた平井住宅。 昭和58~59年(1983~1984)に建てられた、7棟(210戸)の公務員用集合住宅である。 川の蛇行に合わせ、建物も緩やかにカーブしている。 ちなみに、建物の標高は海抜0m。

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●癒されるね! ・・・・・・・穏やかに流れているのか? それとも、流れは止まっているのか? 静かな水面に水鳥が遊ぶ旧中川。 川の両岸は公園として下流へ続く。、、、、今日の天気の下で、両岸とも心地よく歩ける遊歩道となっている。 私も、平井橋まで川沿いを歩いてきた。

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●お帰りは平井から! ・・・・・・旧中川の平井橋からは総武線平井駅はスグソコ!、、、、電車に乗ってしまえば、我が家までは15分。

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2019年12月13日 (金)

スタコラ、京葉道路

台東区浅草橋の我が家から中央区の浅草橋交差点に出て、京葉道路をひたすら東へ墨田区、江東区を抜け、江戸川区の中央二丁目交差点で曲がり、近くの大杉小学校前バス停まで、1万5千歩、約10kmの散歩です。




●何処も彼処も“浅草橋”  ・・・・・・我が家から徒歩45秒、浅草橋一二丁目交差点に台東区のコミュニティバス乗り場「浅草橋駅北」がある。、、、、ここから徒歩2分で江戸通りの下を走る都営地下鉄浅草線の「浅草橋駅」、そこから徒歩40秒JR総武線の「浅草橋駅」東口。、、、、さらに徒歩1分で神田川に架かり台東区浅草橋と中央区日本橋馬喰町を結ぶ橋「浅草橋」がある。 「浅草橋」は、江戸通り(=水戸街道)が神田川を渡る橋で、橋の全長と同じくらいの幅員を持つ幅広の橋梁である。 江戸時代初期この場所は、奥州方面から江戸中心部への入口となるため、江戸城の見附「浅草橋御門」が設置され、同時に見附橋としての木橋「浅草橋」が架けられた。 最初の橋は寛永13年(1636)頃の架橋と伝えられている。(私が誕生する以前の話で、本当かどうか知らない!) 現在の橋は大正12年(1923)の架橋で、私の母と同年で、今年で96年目(橋も母も、いまだ健在!)、、、、中央区に側に、京葉道路、靖国通り、江戸通り、清杉通りが交差する「浅草橋交差点」がある。

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●京葉道路をスタコラサッサ! ・・・・・・・・今日は10時半までの間、京葉道路をひたすら歩区ことにした。 “10時半”とは、我が家を出てから約3時間、私に疲れが出る頃だ! そして、あまり長く歩くと、靴底の減りも早く、また高価な靴を買うことになるので!

・・・・・・・・・・・・中央区の浅草橋交差点は、新宿から伸びてきた靖国通りの終点で、その延長上を東に向かう京葉道路の始点である。

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・・・・・・・・・・・・両国橋で隅田川を越える。 橋の東詰(墨田区側)には、明日(12月14日)に義士祭が行われる赤穂浪士の一人:大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句碑がある。 この句は、討ち入りの夜、向島に住む俳句の師匠宝井其角と両国橋で出会い詠んだものといわれている。 句碑は昭和3年(1928)に建立されたもの。

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・・・・・・・・・・・・・・・両国3丁目の京葉道路の歩道上に建っている「本所松坂町跡」の碑。 もともとこの周辺は、吉良邸のあった本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が消えた。 この碑は「松坂町」を偲んで、昭和7年(1932)に住民によって建立された。、、、近くには、明日の義士祭・吉良祭のポスターもある。 チョイトついでに、吉良邸跡の本所松坂町公園にお立ち寄り!

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・・・・・・・・・・・・清澄通り三ツ目通り江東橋と通り過ぎ、錦糸町駅前は我が家を出てから1時間後に通過。

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・・・・・・・・・・・・・・錦糸町と亀戸の間を流れる運河:横十間川を昭和44年(1969)に完成した松代橋で越えて、墨田区から江東区に入る。 亀戸駅の手前で越中島支線(JR貨物)のガードをくぐり、亀戸駅前では歩道橋で交差点を横断し、亀戸七丁目交差点で丸八通りと交差する。

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・・・・・・・・・・・・・中川新橋(平成15年完成)で旧中川を越える。 この橋を渡ると江東区亀戸から、江戸川区平井・小松川に入る。、、、、中川新橋では、大勢のユリカモメが私を歓迎してくれた。

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・・・・・・・・・・・・・・旧中川の次は、荒川越えだ! 小松川橋で荒川と中川を一挙に越える。 全長約500mの小松川橋を渡りきるのに15分を要した、長い橋だ! 歩く先には首都高が、振り返ればスカイツリーが見える。、、、、渡り終わると時計の針は10時を回っていた!

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・・・・・・・・・・・・・・署員数480名の大きな小松川警察署の前を通り、境川橋を渡る。 境川橋はその名のごとく境川に架かる橋で、昭和15年(1940)に完成した。 只今、橋の下の親水公園と共に修復中。 東小松川交差点の角には、宝くじが良く当たると評判の宝くじセンターがある。 年末ジャンボの時期である、10億円ゲットするには何処で買うか迷うね?

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・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は、京葉道路の「中央二丁目交差点」(江戸川区)までとする。 時刻は10時半を過ぎ、お帰りの時刻となった。、、、、交差点角のチョイト裏側(江戸川区松江3-31)に、昭和初期に建てられたと思われる同潤会の木造住宅が、朽ちて残っている。 おそおらく、いずれ取り壊されると思うね!

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●ラッキー! ・・・・・・お帰りは、何処から乗るか? 新小岩方面に歩くと、「大杉小学校前」バス停にバスが来た。 ラッキー、これで新小岩駅に出ることにした。

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2019年12月11日 (水)

日暮里から千駄木へ

日暮里駅で下車し、荒川区西日暮里3丁目の道灌山側を歩き、台東区谷中を横切り、文京区千駄木に入る。 千駄木の裏道をさまよい、行き止まりに出くわすこと度々、迷路を歩き廻り気付けば通ってきた道。 千駄木三丁目バス停でギブアップ。 1万2千歩の散歩。




●崖っぷちの駅 ・・・・・・JR日暮里駅は、明治38年(1905)4月1日に日本鉄道の駅として開業した、歴史ある駅。 駅は崖地(傾斜地)にあるため出入口は、西側は崖上に出ることにになり、東側は線路面と同じ高さにある。、、、、JRの改札は北口と南口の2カ所で、いずれも橋上にある。 北口改札のある北口駅舎は跨線橋の下御隠殿橋に接続してる。 今日の散歩は、北口から西に向かって歩くことにした。

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●戦国時代の物見櫓! ・・・・・・日暮里駅を出ると御隠殿坂があり、坂に面して日蓮宗の本行寺(荒川区西日暮里3)がある。 本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、そのご神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。 景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれ、多くの俳人たちが本行寺に訪れた、その中には小林一茶もいたそうだ。 「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいる。 また、儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。、、、、戦国時代に太田道灌がここに斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったそうだが、現在は寛延3年(1750)に建てられた碑文も読みにくくなった道灌丘碑が残されている。 本堂裏の墓地からは、日暮里駅前のタワーマンションも一望できる。

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●・・・・・・・・・本行寺の西側に私の好きな細い裏道がある。 今日もこの裏道を通り抜けて、崖上を西日暮里駅の方向に伸びる諏訪台通りに出た。

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・・・・・・・・・・・・・・・裏道の奥に、LIGHT&PLACE 湿板写真館」なる店があった。 “湿版写真”とは、有名な坂本龍馬の写真など、古い写真がガラス板に像を写し取っている、あの写真である。 スマホ、ミラーレスの時代の今、明治時代に盛んであった撮影技術で写真を撮ってくれる処である。、、、、今風の繊細で鮮やかなカラー写真とは違って、モノクロの古びた味のある写真で、自分を撮ってもらうのも良い記念になると思うね。

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●諏訪台通りの1社2寺 ・・・・・・一車線一方通行の諏訪台通りに並ぶ、養福寺、浄光寺、諏方神社にお立ち寄り。

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・・・・・・・・・・・・・・朱塗りの仁王門がある養福寺(西日暮里3)は真言宗豊山派の寺院。 補陀落山観音院と号す。 開創の確かな年代は判らないが、初代住職が寛永3年(1626)に没したと伝えられているので、この頃か?、、、、寺の本堂や観音堂などの建造物は戦災で失われたが、宝永年問(1704~1711)建立といわれている、江戸時代のこの仁王門は焼失を免れた。 門の表側には一対の仁王像ある。 チョイト仁王門自体の造りが華奢で弱々しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・諏訪台通りを西日暮里駅の方に歩くと真言宗豊山派の浄光寺がある。 法輪山法幢院と号す。 もとは隣の諏方神社(すわじんじゃ)の別当寺で、境内からの雪見が有名となって雪見寺と呼ばれたそうだ。、、、、山門の左手に、東都六地蔵の三番目として知られるこの大きな地蔵菩薩が立っています。  東都六地蔵とは、銅造泥塑の仏像造りに秀でた下谷心行寺二世空無上人の権化によって元禄4年(1691)に開眼したもので、一番は駒込の瑞泰寺、二番は千駄木の専念寺、三番は浄光寺、四番は下谷の心行寺、五番は上野大仏堂のうち、六番は浅草寺の正智院に安置された。 しかし、現存するのは専念寺と浄光寺だけである。

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・・・・・・・・・・・・・・浄光寺の隣りに諏方神社がある。 元久2年(1206)の創立。 文安年間(1444~1499)に太田道灌が神領を寄進し、徳川時代に神領を賜わり、寛永12年(1635)社殿を現在の地に遷座した。 社名は「諏訪」とせず、「諏方」を使っているのは古来の表記である。 神社は明治時代になり、日暮里・谷中の総鎮守として地元の人々に敬われている。、、、、神社境内から西日暮里駅へ下る階段坂の「地蔵坂」がある。 坂の名は別当寺であった浄光寺の地蔵尊に因んでいる。

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●富士の見えない坂! ・・・・・・・・浄光寺の前から西へ下る富士見坂。 富士山が見えた坂も、数年前から見えなくなり名だけが残った!、、、、今は、街路灯にデザインされた富士山のシルエットだけ。

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●夜、営業する商店街! ・・・・・・・荒川区西日暮里から、台東区谷中の町を少々横断し、文京区千駄木に入った。 千駄木3丁目の「すずらん通り」を抜け、「不忍通り」を横断する。 すずらん通りは、狭い短い通りの左右に小さな飲み屋さんが15軒程ある。、、、、しかし只今午前9時過ぎ、この時間から開けている店はない。 ぜひ夜来て、覗いてみたい通りだ!

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●千駄木の文化財! ・・・・・・・・文京区千駄木の貴重なお屋敷

・・・・・・・・・・・・・・まずは、国登録有形文化財の島薗邸。  木造2階建て、瓦葺の住宅は昭和7年(1932)の建築。 設計は銀行建築などで知られる矢部又吉。、、、、よそ様の家には入れないので、外から覗くだけ!

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・・・・・・・・・・・・・・千駄木5丁目の旧安田邸。  この建物の上棟は大正7年(1918)で、建築主は藤田好三郎、施工は清水組であった。 建築主の藤田好三郎は、練馬区にある豊島園を作った人物で、園芸好きであった。 この家が手狭であったのか、大正12年(1923)の夏には、中野桃園町に邸宅を建て引っ越した。 その直後、安田善次郎(安田財閥の祖)の娘婿善四郎(三十六銀行の頭取)が、関東大震災により日本橋小網町で罹災し、この家を借り受け、翌月には土地建物を購入した。 平成7年(1995)まで、善四郎の長男楠雄が住み続けたが、その後は法人に寄贈された。

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2019年12月 8日 (日)

足立の薬師寺

今日は、無数の古墳が点在し悠久の歴史を物語る、かつての武蔵国足立郡竹塚村の古刹「薬師寺」に紅葉狩りに行ってきた。 東武伊勢崎線竹ノ塚駅から、日暮里・舎人ライナー舎人公園駅まで、1万歩の散歩です。




●まだ工事は続く! ・・・・・・竹ノ塚駅は、明治33年(1900)3月21日に、当時の伊興村に開業した。 駅名は伊興村より音の響きが良い東隣:竹塚村の名を拝借。、、、、竹ノ塚駅周辺では連続立体交差事業がすすめられ、竹ノ塚駅も改良工事が行われ高架駅となる予定。 完成までにはまだまだ!

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●立派な松のある寺 ・・・・・・・薬師寺へ行く前にチョイトお立ち寄り、駅から西へ都営伊興三丁目アパートを抜けると、万治2年(1659)創建の日蓮宗寺院:寿福山長勝寺がある。、、、、本堂は瓦葺き総檜造り、境内は樹木が生い茂り、樹齢400年以上の巨松がある。 境内はさほど広くはないが綺麗な寺だ!、、、、境内には下総の国を領した豪族:千葉勝胤の墓もある。

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●本堂が見えない! ・・・・・・・もう一軒、近くの寺にお立ち寄り、伊興5丁目の日蓮宗寺院の真国寺。 真国寺は蓮栄山と号し、創建は建武2年(1335)といわれている。、、、、こちらも境内は広くないが、山門から真っ直ぐ正面にある本堂、その全景が見えないほど、松、楓など樹木に覆われている。 ちなみに、墓地にも回ってみたが、本堂の全景は拝めず、アレレ・コリャダメだ!

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・・・・・・・・・・・・・・2年前の春の真国寺

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●今が見頃、ブラボー! ・・・・・今日の散歩のハイライト、足立区伊興5の小さな寺院、曹洞宗の医王山薬師寺。 薬師寺は、肅州巌和尚が開山となり万治2年(1659)の創建。 元浅草橋場総泉寺(板橋区に移転)の末寺。開山は万治2年(1659)。 本尊の薬師如来は、眼病に効験があるそうだ。 、、、、ここは、地元の人には有名な “もみじ寺” 。 今日も、数名の夫婦が紅葉見物、二人のカップルは紅葉の前で撮影会、数名の独り者は寂しく三脚かついで紅葉撮影。 てなことで、境内はチョイトした賑わい。 住職もお出ましし、いろいろとお話をしてくれました。、、、、境内には95種の紅葉があるそうで、色も赤あり、黄あり、ミックスありとまさに彩とりどり。 住職は20年・30年かけ小さな苗木から育てているそうだ。、、、、門前に“もみじ饅頭”の売店でもあれば文句ないのだが、チョイト残念!

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●中学校に長屋門! ・・・・・・・・薬師寺の西に、足立区立伊興中学校の一画に、生徒が彰風園と名付けた屋敷林がある。、、、、中学校の校地の地主であった横山氏の屋敷林で、明治30年(1897)建造の長屋門がそのまま残されていた。 学校の中の屋敷林、ベンチで語らう二人、青春の思い出が創れそうだね!

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●舎人公園から帰る! ・・・・・・・・・薬師寺の帰りは、舎人公園駅から日暮里・舎人ライナーに乗ることにした。、、、、舎人公園(とねりこうえん)は、足立区の北西に広がる都立の総合公園。 舎人公園は昭和15年(1940)に防空緑地として、内務省の設置した都市計画にて決定した。 戦時においては都市空襲による戦災被害を軽減し、平時においては地域住民の保健・衛生に利用して体位の向上を図るために、都心から20km圏内に総面積20万-50万坪の防災緑地として東京府知事の責任の下、複数の防災緑地が設置され、その一つであった。、、、、戦後は、昭和56年の開園から順次開放された、514,000㎡の緑地公園。 最終的に695,000㎡になるが、葛飾区にある水元公園の3分の2程度の広さである。、、、、テニス、野球などのコート、グランドはもちろんあるが、広い森、大きな池などもあり、釣り、バードウォッチングなどを楽しむ人もいる。 

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・・・・・・・・・・・・・・公園の前に舎人公園駅がある、便利だね。、、、、今日の散歩は、足立区の紅葉巡りとなった!

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2019年12月 6日 (金)

狐狸に化かされ篠崎公園へ

都営地下鉄新宿線の瑞江駅から、柴又街道(都道307号)に沿って歩きはじめたが、数ヵ月前に散歩した時と同じ処に出てきた。 同じ処を再度歩いても面白くないので、途中から篠崎公園に回り、南小岩2丁目よりバスで帰宅。 1万2千歩




●とうとう呆けたか? ・・・・・・瑞江駅から谷河内日枝神社までは、今年の4月に歩いていた。(その時の記事はコチラ!)

・・・・・・・・・・・・・・数ヵ月前に下車したことも忘れ、新宿線瑞江駅で降りてみた。 駅で地図を見て、東西南北どっちに向かう? 近くに柴又街道が通っているので、街道沿いの裏通りを歩いてJR総武線の小岩駅を目指すことにした。

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・・・・・・・・・・・・・・瑞江駅周辺はアパート、マンションが並ぶ新興住宅街。 歩きながら『この辺は、新しい建物ばかりで面白くないな!』と、一人愚痴る。

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・・・・・・・・・・・・・・瑞江1丁目で、首都高速7号小松川線の下を抜け、京葉道路を横断すると、東京都住宅供給公社の春江町住宅が見える。 ここで気がつく、『アッ、数ヵ月前に来た団地だ! とうとう、自分も呆けが始まったな、同じ処に来るなんて!』 『脇道に入り、知らない処を歩くぞ!』と、裏道に入り込んでいく。

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・・・・・・・・・・・・・・『数か月前と同じ処を歩く自分に、チョイトがっかり!』しながら、裏道を曲がりくねり谷河内日枝神社に出てきた。 『どこか見たことある神社だ?』と、手持ちの地図を取り出し確認すると、間違いなくこの神社も来たことがある。、、、、なんだか、狐狸に化かされているようだ!

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●一人撮影会! ・・・・・・・今日は、どうもおかしい? また裏道を歩くと、どこか知っている処に出るような気がする。、、、、今日は、新しい発見を求めて歩くのは諦めた。 近くの篠崎公園に行って気分転換することにした。、、、、篠崎公園の起源は昭和15年(1940)に紀元2600年の事業の一つとして計画された防空大緑地である。 戦時中は高射砲陣地などか置かれた。 当初は面積約154haの大緑地帯であったが、当時は公園ではなく、多くは農地などに転用し利用されていた。 戦後、公園化の計画があがったが、付近の都市化・宅地化の流れが進んでいたこともあって計画面積は86.8haに見直され、都立公園として昭和42年(1967)に開園した。 現在では運動場や多目的広場なども完成しているが、公園自体は複数個所に点在している。、、、、人影の少ない公園で、狐狸に化かされることもなく、のんびり秋の一人撮影会。

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●駅までは遠い! ・・・・・・公園を後にして、柴又街道を歩き南小岩二丁目からバスに乗り帰る。

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2019年12月 5日 (木)

生麦・生米・生卵

秋葉原で京浜東北線鶴見行きの電車に乗ったので、今日は終点:鶴見で降りることにした。 鶴見駅からは、旧東海道を歩いて京急新子安駅まで、1万1千歩の散歩です。



●歴史ある駅! ・・・・・・明治5年、日本初の鉄道として新橋~横浜間が開業した。 この時(1872年10月14日)同時に開業したのが鶴見駅である。 駅の古刹であるが、現在、鶴見駅に停車するのは京浜東北線と鶴見線の電車のみである。、、、、駅構内の跨線橋から眺めると線路は多い。 西側に鶴見線の高架ホームがあり、隣りから地上に移り東に向かい順に、横須賀線(湘南新宿ライン)の線路、そして京浜東北線の島式ホーム、東海道線(上野東京ライン)、東海道貨物線(高島線・南武線)などの線路がある。、、、、出口は総持寺に近い西口と、京急鶴見駅のある東口の2か所。 一日当たりの乗車人員はJR東日本内で57位で81,000人程、ちなみに私の住む浅草橋駅は55,000人程で90位、負けた!

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●旧東海道を歩く! ・・・・・・・京急鶴見駅前から京急新子安まで。旧東海道を歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・・・JR鶴見駅前のロータリーを挟み東側に京急鶴見駅がある。 京急鶴見駅東口の前の通りが旧東海道で、駅前商店街「ベルロード」と名付けられている。 ベルロードは、加盟店舗数約80店舗で構成されている、チョイトおしゃれな商店街。、、、、この商店街の正式名称は「鶴見銀座商店街」というそうだ。 時代も変わり、“銀座”から今風の“ベルロード”としたのかも?、、、、ついでに、この商店街の東側に並行して第一京浜国道が通っている。 商店街と国道の間は、かって「鶴見三業地」があったそうだ。 現在は、飲み屋、パチンコ屋などが並ぶ普通の繁華街である。 いずれ再訪する機会があれば、この繁華街を歩いてみたいものだ!(今日は早朝で、店もまだ寝ているいるのでパス!)

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の先は、普通の裏道のような雰囲気で第一京浜国道を斜めに横切り、鶴見線の国道駅へ向かう。、、、、歩きながら、チョイト心配になる。 駅からここまで、どこにも『旧東海道』の文字が見えない! 品川宿の旧東海道を歩くと、五月蠅ほど『旧東海道』の文字が目に入り、街道を歩いている実感が沸いてくるのだが、ここ鶴見では全くなし、『もしかして、旧東海道とは別の道を歩いているのか、心配だ!』

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・・・・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)に鶴見臨港鉄道の駅として開業した、鶴見線国道駅の裏側(?)を通る。 旧東海道側には駅名の表示はない、第一京浜国道側には駅名が表示されている。 チョイト、高架ホーム下のかつてのアーケードの店舗跡を覗いて行く。 昭和の人間には、嬉し泣きしたくなるほど“昭和”の香りが漂う駅。、、、、現状のまま、世界遺産にしてほしいね!

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・・・・・・・・・・・・・・国道駅を過ぎると、鶴見川に沿って「生麦魚河岸通り」(鶴見区生麦5)となる。(ここでも、『旧東海道』の文字は見えない)、、、、通りには鮮魚を扱う店が、300m程の間に40店舗程軒を連ねている。 そのほとんどが生鮮魚貝類または関連の商品を店頭に並べていた。 客は、寿司屋の大将、料理屋の板前らしきプロの料理人が多いみたいだ、軽自動車を店の前につけ品物を買っていく。、、、、海鮮丼が食べられる店もあるが営業は昼から、残念!

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・・・・・・・・・・・・・・漁師町(生麦4・5丁目)の寺社を紹介(写真順に)、、、、浄土宗寺院の慶岸寺は天正9年(1582)頃創建、、、、真言宗智山派寺院の正泉寺は寛永元年(1624)の創建、、、、水神宮は正泉寺の院内社であったが昭和2年(1927)に分離された、、、、道念稲荷神社は江戸時代末期の創建

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・・・・・・・・・・・・・・旧東海道沿いの住宅の塀に取り付けられた一枚の案内板、ここが生麦事件の現場(鶴見区生麦4-25)である。、、、、生麦事件は、文久2年(1862)9月14日、薩摩藩の島津久光の一行が江戸からの帰路、東海道の生麦村で騎馬の英国人4人と遭遇。 英国人が馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、薩摩藩士が1人を惨殺し、2人に負傷させた。 薩摩藩は賠償請求と藩士の引き渡しを拒んだため、その後薩英戦争に発展した。 戦争に敗北した薩摩藩は近代化の必要性を痛感し、攘夷論から開国論に転じ、これを機に開国、明治維新へと時代の流れができたと言われている。、、、、この重要な事件現場として、立て看板一枚の史跡では、チト寂しいものである。 殺人事件現場なので、住民に配慮したのかも?

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・・・・・・・・・・・・・・事件現場から旧東海道を800m程横浜方に行った、第一京浜と交差する首都高の高架下に生麦事件の碑がある。 斬られた英国人が深傷を負ったまま逃げてきたが、トドメを刺され絶命した地点だとか。

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●バンバン通過する駅! ・・・・・・旧東海道は第一京浜と重なり、新子安駅方面に向かう。 私の散歩もここまで、京急新子安駅から帰ることにする。、、、、京急新子安駅は明治43年(1910)3月27日に、新子安駅として開業するが、昭和18年(1943)に国有鉄道に新子安駅が開業したため、“京浜”を冠して京浜新子安駅に改称、さらに昭和62年(1987)には京急新子安駅に改称した。 駅は相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、ホーム上に橋上駅舎がある。 当駅の乗降客は京急全72駅中61位と少なく、1日平均乗降人員は8,596人。 当然のことで、特急他優等列車は全て通過する、止まるのは普通だけ!

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●最後の最後! ・・・・・・今日の散歩では、とうとう『旧東海道』の文字を見ることはなかった。 この辺りでは、『旧東海道』は客寄せの単語にならないのか、それとも旧街道らしい歴史遺産が少ないことが要因かも?

2019年12月 4日 (水)

北国分トンネル

北総線秋山駅から北西に歩き常磐線松戸駅まで、1万2千歩の散歩です。




●チョイト寂しい秋山駅! ・・・・・・朝の秋山駅は、都心から来る電車からは降りる人は数えるほど、都心へ向かう電車に乗る人もさほど多くはない。 一日当たりの乗降客数は7,300人程で、北総線内の駅で下位から6番目だ。 一ヵ所しかない出入口も利用する人はまばらで寂しい駅。

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●たかが門柱されど門柱! ・・・・・・駅の北側、住宅地の裏道を松戸駅方向に歩く。 小高い所に松戸市立東部小学校(松戸市高塚新田)があった。 門は閉まっていたが、石の門柱に学校の古さを感じパチリ!、写真を撮ってきた。 調べてみると、明治6年(1873)の創立で、約150年続く歴史ある小学校である。 現在地には大正13年(1924)に移転したそうだ。 石の門柱も、この時期の物であれば、約100年の歴史が沁みこんでいる。、、、、もう一つおまけの話題で、小学校の近くに在る松戸市立第五中学校と統合し、小中一貫校「東部学園」を創る構想が松戸市教育委員会にあるそうだ。 実現すると、生徒数:東部小学校700名+第五中学校1,300名=合計2,000名の超マンモス校が誕生するらしい。 2000名にもなると、運動会・学芸会で生徒の出番が少なくなり、個人演技はなしで、全て集団演技になるのか、どうするの?

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●遺跡を踏んで台地を歩く! ・・・・・・・のどかに青空の下、北総台地(松戸市紙敷)を歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・オヤ? こんな処に遺跡が?、、、、ネギ畑の脇に「新田前遺跡」の表示がある。 松戸市は縄文遺跡の宝庫で、市内には140か所の縄文遺跡があるそうだ。 ネギの下に国宝級の土偶が埋まっているかも? ネギを引き抜くときは“お宝”探しで、注意深く行動すると良いかも?

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●仲間を失ったトンネル! ・・・・・・・松戸市和名ヶ谷に入ると、北東の八柱駅方向から国分川が北総台地を流れ下り、この地で流れは曲がり南の市川方面に向かう。 総武線本八幡駅の南で、国分川は真間川に合流し東京湾に注いでいる。 ここ和名ヶ谷に国分川上流の洪水を江戸川に放流するバイパス「国分川分水路」の地下トンネル坑口がある。
・・・・・・・・・・・・・・八柱方面から国分川が流れ下る。 ここ和名ヶ谷で国分川(写真奥から中央手前に流れる)の越流提(写真中央の仕切り状の壁)を越えた水は国分川分水路(写真左へ流れる)に流れる。

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・・・・・・・・・・・・・・分流した分水路は和名ヶ谷水門を抜けその奥にあるトンネルに流れ下る。、、、、水門は清水建設の施工で平成6年(1994)完成。

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・・・・・・・・・・・・・・水門に続いて国分川分水路トンネルがある。 トンネルは長さ2555mで、松戸市二十世紀が丘のとちの木通りの下を抜けて、松戸市中矢切で坂川に合流する。 その後、坂川は江戸川に注ぐ。、、、、平成5年(1993)7月にトンネル工事が完了、平成6年(1994)3月22日に通水開始。 飛島建設施工。 

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・・・・・・・・・・・・・・トンネルの坑口の上部に国分川分水路竣工記念碑トンネル水没事故の犠牲者慰霊碑がある。 記念碑の後ろの高台には展望台がつくられており、ここからは国分川分水路と水門が直下に見える。 

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・・・・・・・・・・・・・・この分水路トンネルの工事では、平成3年(1991)9月19日、台風による豪雨の影響で作業中の作業員4名と係員3名の計7名を水死させてしまった。 台風であふれた水が坑口に設置した仮締切を決壊させ坑内に流れ込んだ。 坑口から約1600m離れた場所で作業をしていた7名を、濁流が襲ったのである。 この事故では、台風時の危険を予知し作業を中断すべく指示を出す発注者側の責任者の過失責任を問われた。、、、、事故の慰霊碑には7名の名が刻まれている。 この中に、私が勤務していた会社の仲間の名もある。 慰霊碑に小さな野花をひとつ添えて、手を合わせてきた。 治水対策として造った分水路も、その工事に尊い命がかかっていたのだ。



●スタコラ・サッサ! ・・・・・・・・・・・松戸市和名ヶ谷クリーンセンター野菊野団地聖徳大学と、歩き松戸駅に向かう。 
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●住宅の下に倉庫! ・・・・・・・・聖徳大学の西隣に、閉鎖された公務員住宅(相模台住宅)がある。 この住宅の一号棟近くの階段を少し下ると、斜面に口を開けるように旧陸軍工兵学校の倉庫跡がある。 倉庫は軽油保管庫だったらしい。 錆びた鉄扉が時間の経過を物語っている。、、、、上り階段が分岐する角には「陸軍用地」と書かれた境界杭が残っていた。

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●帰るぞ! ・・・・・・・・・松戸駅に到着。

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2019年12月 3日 (火)

疲れた大嘗宮

やっと晴れた! 10時半、夫婦で東京駅到着、駅構内のトイレは超満員、『なんじゃこりゃ?』と驚いた。 構内アナウンスで『大嘗宮(だいじょうきゅう)へ行かれる方は・・・・・(うんじゃら・かんじゃら)』と叫んでる。 我が夫婦の考えは『今日は久々の秋空、しかも平日、皇居大嘗宮と乾通りの見学には絶好の日』、ところがドッコイ、誰しも考えは同じだった。 “絶好の日”が“最悪の日”となったようだ。 東京駅から長蛇の列に引き込まれ、見学が終わり皇居から出るまで3時間強、人並みに揉まれ、足はパンパン、腰はイテテ、気持ちはイライラ、腹はペコペコ。、、、、見学終えて市ヶ谷まで歩き、遅めの昼食の中華料理は、大嘗宮のおかげで美味しく食べることができた。 




●中高年がゾロゾロ! ・・・・・・・東京駅前の「行幸通り」はイチョウが色づき、『Oh! Beautiful!  Wonderful! インフルにはタミフル!』、、、、行幸通りは東京駅中央口から皇居前の和田倉門までまっすぐに伸びる全長約200メートル、幅約74メートルの道路。 皇室の行事などに使われてきたため、この名で呼ばれている。 道路は関東大震災の復興事業として、大正13年(1924)に着工し大正15年(1927)に完成した。 工事費は約62万円(当時)、設計は復興局技師:川地陽一、河野通靖、施工は橋本組工業合資会社。、、、、歩道には、毎日が日曜日の中高年がゾロゾロ。 道路中央の分離帯には若い娘がキャッキャ。

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●気持ちはイライラ! ・・・・・・皇居前広場に幾重にも蛇行する長い行列。 私も仲間入りしたが、『コリャ、皇居の中に入るまで1、2時間かかるかも?』心配になってきた。 後から、おばさんが私の前に出てくる、コンチクショウ! 『女は度胸、男はやせ我慢!』、、、、予想に反し、行列は止まることなく進み、30分ぐらいで皇居の入口:坂下門から入場できた。、、、、坂下門の先には宮内庁庁舎があるため、皇居に出入りするのに一番使用されている門である。 江戸時代には枡形城門であったが、明治21年(1888)に第一門は撤去されて、現存する門は移設された第二門。 一見小さな門のように見えるが、左右に見附がある大きかった第一門が無くなったためである。 

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●一刻は仮宮殿! ・・・・・・坂下門を入ると正面に宮内庁庁舎がある。、、、、設計は宮内省内匠寮、施工は清水組・大林組、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。 この宮内庁庁舎は、昭和10年(1935)に建てられた建物。 昭和27年(1952)庁舎3階が改装され昭和43年(1968)の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。、、、、庁舎玄関には立派な車寄せを張り出し外壁は全面石張りで、格調高い仕上げである。

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●屋台なしの紅葉狩り! ・・・・・平成に続き、令和初! 皇居「乾通り」秋の一般公開に参加。 宮内庁庁舎前から乾門に至る乾濠及び蓮池濠沿いの約750mの通り「乾通り」が紅葉に染まっている。、、、、町中の公園とか城址だと、歩く道沿いに、“焼きそば”、“イカ焼き”、“ビール”など屋台が出てるのだが、ここはただただ歩くだけ。 ソースの臭いがなく、気持ちよく歩けていいね!

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●大赤字(?)の大嘗宮 ・・・・・ゾロゾロ人の後について大嘗宮(だいじょうきゅう)に向かう。 江戸城本丸跡付近で、ポリスのアナウンス『ここから大嘗宮の正面までは、あと1時間ぐらいかかります。 すこしでも急いで前に歩いてください!』 たしかに、大嘗宮は見えているのだが、本丸跡をぐるりと人の列が囲み、『近くて 遠い 大嘗宮』、、、、大嘗宮は、今回の即位に伴う儀式のためだけに造営された、この一般公開後は取り壊される。 宮内庁は平成の時と比べて敷地面積を縮小したり、屋根は簡素な板ぶきを採用し、経費削減を図ったそうだ。 大嘗宮は約6,500㎡で、私には用途がよく判らないが、悠紀殿(ゆきでん)や主基殿(すきでん)など大小30近くの建物で構成されてる。、、、、建物の撤去費用などを含めた建設関係費は約24億4千万円程かかるそうだ。 清水建設が施工した大嘗宮の造営は、9億5700万円で落札したらしい。 予定価格の6割の値段だって、大赤字! 太っ腹!、、、、解体した大嘗宮は、その大部分の木材を再利用する方向で調整が進められているそうだ。 出来れば、我が家をリホームして欲しいね。

・・・・・・・・・・・・・・1時間待ちの行列。 芝生の先に全景がみえる大嘗宮。、、、、行列に並ぶことに意義がありそうだ。 私も大人になったね!

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・・・・・・・・・・・・・・やっと大嘗宮の正面に到着。 しかし、ポリスの声『立ち止まらないでください』、『先へ進んでください』、、、、30程の建物、何処に、どの建物が、サッパリ判らず。 ただただ人の流れに乗って、ドンブラコ!

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・・・・・・・・・・・・・・グッタリ疲れ、皇居を後にする。
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