北国分トンネル
北総線秋山駅から北西に歩き常磐線松戸駅まで、1万2千歩の散歩です。
●チョイト寂しい秋山駅! ・・・・・・朝の秋山駅は、都心から来る電車からは降りる人は数えるほど、都心へ向かう電車に乗る人もさほど多くはない。 一日当たりの乗降客数は7,300人程で、北総線内の駅で下位から6番目だ。 一ヵ所しかない出入口も利用する人はまばらで寂しい駅。


●たかが門柱されど門柱! ・・・・・・駅の北側、住宅地の裏道を松戸駅方向に歩く。 小高い所に松戸市立東部小学校(松戸市高塚新田)があった。 門は閉まっていたが、石の門柱に学校の古さを感じパチリ!、写真を撮ってきた。 調べてみると、明治6年(1873)の創立で、約150年続く歴史ある小学校である。 現在地には大正13年(1924)に移転したそうだ。 石の門柱も、この時期の物であれば、約100年の歴史が沁みこんでいる。、、、、もう一つおまけの話題で、小学校の近くに在る松戸市立第五中学校と統合し、小中一貫校「東部学園」を創る構想が松戸市教育委員会にあるそうだ。 実現すると、生徒数:東部小学校700名+第五中学校1,300名=合計2,000名の超マンモス校が誕生するらしい。 2000名にもなると、運動会・学芸会で生徒の出番が少なくなり、個人演技はなしで、全て集団演技になるのか、どうするの?



・・・・・・・・・・・・・・オヤ? こんな処に遺跡が?、、、、ネギ畑の脇に「新田前遺跡」の表示がある。 松戸市は縄文遺跡の宝庫で、市内には140か所の縄文遺跡があるそうだ。 ネギの下に国宝級の土偶が埋まっているかも? ネギを引き抜くときは“お宝”探しで、注意深く行動すると良いかも?
●仲間を失ったトンネル! ・・・・・・・松戸市和名ヶ谷に入ると、北東の八柱駅方向から国分川が北総台地を流れ下り、この地で流れは曲がり南の市川方面に向かう。 総武線本八幡駅の南で、国分川は真間川に合流し東京湾に注いでいる。 ここ和名ヶ谷に国分川上流の洪水を江戸川に放流するバイパス「国分川分水路」の地下トンネル坑口がある。
・・・・・・・・・・・・・・八柱方面から国分川が流れ下る。 ここ和名ヶ谷で国分川(写真奥から中央手前に流れる)の越流提(写真中央の仕切り状の壁)を越えた水は国分川分水路(写真左へ流れる)に流れる。
・・・・・・・・・・・・・・分流した分水路は和名ヶ谷水門を抜けその奥にあるトンネルに流れ下る。、、、、水門は清水建設の施工で平成6年(1994)完成。
・・・・・・・・・・・・・・水門に続いて国分川分水路トンネルがある。 トンネルは長さ2555mで、松戸市二十世紀が丘のとちの木通りの下を抜けて、松戸市中矢切で坂川に合流する。 その後、坂川は江戸川に注ぐ。、、、、平成5年(1993)7月にトンネル工事が完了、平成6年(1994)3月22日に通水開始。 飛島建設施工。
・・・・・・・・・・・・・・トンネルの坑口の上部に国分川分水路竣工記念碑とトンネル水没事故の犠牲者慰霊碑がある。 記念碑の後ろの高台には展望台がつくられており、ここからは国分川分水路と水門が直下に見える。

・・・・・・・・・・・・・・この分水路トンネルの工事では、平成3年(1991)9月19日、台風による豪雨の影響で作業中の作業員4名と係員3名の計7名を水死させてしまった。 台風であふれた水が坑口に設置した仮締切を決壊させ坑内に流れ込んだ。 坑口から約1600m離れた場所で作業をしていた7名を、濁流が襲ったのである。 この事故では、台風時の危険を予知し作業を中断すべく指示を出す発注者側の責任者の過失責任を問われた。、、、、事故の慰霊碑には7名の名が刻まれている。 この中に、私が勤務していた会社の仲間の名もある。 慰霊碑に小さな野花をひとつ添えて、手を合わせてきた。 治水対策として造った分水路も、その工事に尊い命がかかっていたのだ。
●スタコラ・サッサ! ・・・・・・・・・・・松戸市和名ヶ谷クリーンセンター、野菊野団地、聖徳大学と、歩き松戸駅に向かう。
« 疲れた大嘗宮 | トップページ | 生麦・生米・生卵 »