生麦・生米・生卵
秋葉原で京浜東北線鶴見行きの電車に乗ったので、今日は終点:鶴見で降りることにした。 鶴見駅からは、旧東海道を歩いて京急新子安駅まで、1万1千歩の散歩です。
●歴史ある駅! ・・・・・・明治5年、日本初の鉄道として新橋~横浜間が開業した。 この時(1872年10月14日)同時に開業したのが鶴見駅である。 駅の古刹であるが、現在、鶴見駅に停車するのは京浜東北線と鶴見線の電車のみである。、、、、駅構内の跨線橋から眺めると線路は多い。 西側に鶴見線の高架ホームがあり、隣りから地上に移り東に向かい順に、横須賀線(湘南新宿ライン)の線路、そして京浜東北線の島式ホーム、東海道線(上野東京ライン)、東海道貨物線(高島線・南武線)などの線路がある。、、、、出口は総持寺に近い西口と、京急鶴見駅のある東口の2か所。 一日当たりの乗車人員はJR東日本内で57位で81,000人程、ちなみに私の住む浅草橋駅は55,000人程で90位、負けた!



●旧東海道を歩く! ・・・・・・・京急鶴見駅前から京急新子安まで。旧東海道を歩いてみた。
・・・・・・・・・・・・・・JR鶴見駅前のロータリーを挟み東側に京急鶴見駅がある。 京急鶴見駅東口の前の通りが旧東海道で、駅前商店街「ベルロード」と名付けられている。 ベルロードは、加盟店舗数約80店舗で構成されている、チョイトおしゃれな商店街。、、、、この商店街の正式名称は「鶴見銀座商店街」というそうだ。 時代も変わり、“銀座”から今風の“ベルロード”としたのかも?、、、、ついでに、この商店街の東側に並行して第一京浜国道が通っている。 商店街と国道の間は、かって「鶴見三業地」があったそうだ。 現在は、飲み屋、パチンコ屋などが並ぶ普通の繁華街である。 いずれ再訪する機会があれば、この繁華街を歩いてみたいものだ!(今日は早朝で、店もまだ寝ているいるのでパス!)


・・・・・・・・・・・・・・商店街の先は、普通の裏道のような雰囲気で第一京浜国道を斜めに横切り、鶴見線の国道駅へ向かう。、、、、歩きながら、チョイト心配になる。 駅からここまで、どこにも『旧東海道』の文字が見えない! 品川宿の旧東海道を歩くと、五月蠅ほど『旧東海道』の文字が目に入り、街道を歩いている実感が沸いてくるのだが、ここ鶴見では全くなし、『もしかして、旧東海道とは別の道を歩いているのか、心配だ!』



・・・・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)に鶴見臨港鉄道の駅として開業した、鶴見線国道駅の裏側(?)を通る。 旧東海道側には駅名の表示はない、第一京浜国道側には駅名が表示されている。 チョイト、高架ホーム下のかつてのアーケードの店舗跡を覗いて行く。 昭和の人間には、嬉し泣きしたくなるほど“昭和”の香りが漂う駅。、、、、現状のまま、世界遺産にしてほしいね!




・・・・・・・・・・・・・・国道駅を過ぎると、鶴見川に沿って「生麦魚河岸通り」(鶴見区生麦5)となる。(ここでも、『旧東海道』の文字は見えない)、、、、通りには鮮魚を扱う店が、300m程の間に40店舗程軒を連ねている。 そのほとんどが生鮮魚貝類または関連の商品を店頭に並べていた。 客は、寿司屋の大将、料理屋の板前らしきプロの料理人が多いみたいだ、軽自動車を店の前につけ品物を買っていく。、、、、海鮮丼が食べられる店もあるが営業は昼から、残念!




・・・・・・・・・・・・・・漁師町(生麦4・5丁目)の寺社を紹介(写真順に)、、、、浄土宗寺院の慶岸寺は天正9年(1582)頃創建、、、、真言宗智山派寺院の正泉寺は寛永元年(1624)の創建、、、、水神宮は正泉寺の院内社であったが昭和2年(1927)に分離された、、、、道念稲荷神社は江戸時代末期の創建



・・・・・・・・・・・・・・旧東海道沿いの住宅の塀に取り付けられた一枚の案内板、ここが生麦事件の現場(鶴見区生麦4-25)である。、、、、生麦事件は、文久2年(1862)9月14日、薩摩藩の島津久光の一行が江戸からの帰路、東海道の生麦村で騎馬の英国人4人と遭遇。 英国人が馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、薩摩藩士が1人を惨殺し、2人に負傷させた。 薩摩藩は賠償請求と藩士の引き渡しを拒んだため、その後薩英戦争に発展した。 戦争に敗北した薩摩藩は近代化の必要性を痛感し、攘夷論から開国論に転じ、これを機に開国、明治維新へと時代の流れができたと言われている。、、、、この重要な事件現場として、立て看板一枚の史跡では、チト寂しいものである。 殺人事件現場なので、住民に配慮したのかも?

・・・・・・・・・・・・・・事件現場から旧東海道を800m程横浜方に行った、第一京浜と交差する首都高の高架下に生麦事件の碑がある。 斬られた英国人が深傷を負ったまま逃げてきたが、トドメを刺され絶命した地点だとか。