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2020年1月

2020年1月31日 (金)

戸田のオリンピック通り

埼玉県戸田市と東京都板橋区を結ぶ「戸田橋」に行くつもりで、JR京浜東北線の川口駅から歩きはじめた。 かなり強い風が吹きまくり、砂ぼこりで視界がボケる、頭もそろそろ惚ける頃。 戸田橋へ向かう途中であきらめ、埼京線の戸田公園駅までの散歩とした。 1万3千歩




●タワマンの街! ・・・・・・JR京浜東北線の「川口駅」は、これまで散歩で度々下車した駅だ。 いつも利用するのは、錫杖寺・川口神社などの名所がある東口であるが、今日は、戸田橋を渡るつもりで西口に出た。、、、、西口駅前には、緑豊かなロータリーがあり、駅出口はペデストリアンデッキの上へ出る。 眼前には、鋳物工場跡地が変身したのか高層マンションが立ち並び、「キューポラの街」のイメージはない。

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・・・・・・・・・・・・川口駅西口にはかつて通産省の公害資源研究所があった。 昭和55年(1980)に筑波に移転して跡地は高層住宅が立ち並んでいる。 その研究所があった証しとしてモニュメントが駅前の川口西公園の陸橋下に残されている。 駅へ急ぐサラリーマンが無関心にその前を通り過ぎる、チョイト寂しい光景!、、、、この地の元々は、大正9年(1920)に建てられた「燃料研究所」でモダンな建物だったそうだ。 日劇、銀座和光、東京国立博物館本館を設計した渡辺仁がデザインした建物。 戦後、研究所は「資源技術試験所」となり、昭和45年(1970)には「公害資源研究所」と改称し、さらにその後、筑波に移転した。、、、、モニュメントに描かれた建物をみると、残しておいて欲しかったね!

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●歴史の少ない、三寺! ・・・・・・駅前のバス通りを道なりに西へ向かう。 途中、道沿いの3寺にお立ち寄り、これが“本堂の瓦見えるが、山門見えず”で、チョイト脇道に入らないと行けないなど、余分な時間をとらされた!

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・・・・・・・・・・・・まずは妙仙寺(川口市川口6)、、、、日蓮宗寺院の遠光山妙仙寺は、日蓮上人に深く帰依していた伊藤仙太郎翁が、寺院建立を発願し当地造成を開始したものの半ばにして逝去、子息一同がその願いを継承して昭和13年(1938)に本堂竣工、昭和44年(1969)の伊藤仙太郎翁の命日に大本山本門寺貫主日慎大導師を迎えて開堂、新曽妙顕寺の山内にあった了源院を移す形で一寺としたそうだ。、、、、つまり、昭和に起こされた新しい寺院だった、一見、歴史ありそうな寺院だったが!  

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・・・・・・・・・・・・次は、真言宗智山派寺院で、珍珠山多門寺吉祥院(川口市南町2)、、、、吉祥院は、文明7年(1475)に開山した。 山門を入ると正面にそびえ立つ荘厳な本堂に圧倒される。 この二階建ての本堂は昭和46年(1971)の建立。 本堂2階には正面奥に本尊毘沙門天が安置されているそうだ。 1階は不動明王を祀った大広間などがあるらしい。 ちょいと、建築費がいくら掛かったのか知りたくなった。、、、、境内には板碑がほぼ完全なかたちで残されています。いちばん大きいものは、弘安9年(1286)につくられた阿弥陀如来の種字を刻んだものなど、貴重なものがある。

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・・・・・・・・・・・・次は、川口市宮町の日蓮宗寺院の本覚寺。 光輝山と号す。 本覚寺は、日現(大永6年(1526)寂)が開山。、、、、手を合わせてきたが、特筆すべき物なし。 風が強く、雲も吹っ飛び、青空が綺麗に写っている!

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●埼玉にオリンピック? ・・・・・・・・・・・・・菖蒲川を越えて、川口市から戸田市に入ると、「オリンピック通り」と記した標識が立っている。 『ありゃ?なんじゃこりゃ、早々とパクられたか』、、、、この「オリンピック通り」は 昭和39年(1964)の東京オリンピック漕艇競技場(現:戸田漕艇場)までの交通のために整備された道路であった。 ナント、50年前のオリンピック通り。、、、、この辺りで、強い風に負け、戸田橋はあきらめ、駅に向かうことにした。

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●35年前に開業! ・・・・・・・・昭和60年(1985)9月30日、まだ日本国有鉄道(国鉄)と称していた時代に開業した戸田公園駅。 JRとなるのは、2年後の昭和62年(1987)4月1日。、、、、島式ホーム1面2線とその外側に2線の通過線を有する高架駅である。 駅舎はモダンで、高架下店舗もオシャレで、キレイだ!

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2020年1月29日 (水)

田安門

循環器内科の定期検診日、クリニックに行くついでに、飯田橋駅から田安門・武道館・近代美術館工芸館と巡り、市ヶ谷駅までの散歩です。




●カーブがキツイ! ・・・・・・・飯田橋駅は、昭和3年(1928)の中央本線の複々線化に伴い、それまでの牛込駅(明治27年開業)と飯田町駅(明治28年開業)を統合するような形で新たに開業した駅。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。 飯田橋駅は東西に出入口はあるが、地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっている、西口側は橋上駅舎となっているが只今改良工事中につき、早稲田通り北側に仮駅舎がある。 工事は、ホームを新宿寄りに200m程移動しホームの急なカーブを解消することにある。 今年工事完了予定で一生懸命作業中。、、、、電車とホームの間の隙間が広いので、年寄りにはチョイト乗り降りが恐い、工事完了を待っている!、、、、今日は医者に行くので、東口に出た!

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●私の通勤路! ・・・・・・・・・飯田橋駅から「早稲田通り」を歩き、田安門へ向かう。 この道は私の通勤路の一部で、昭和40年代から60年代まで歩き通った道!

・・・・・・・・・・・・飯田橋駅西口に近い富士見1丁目の民家。 2階の3連の窓いいね!

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・・・・・・・・・・・・角川第3本社ビルの向かいに「共済ビル」(富士見1)がある。 昭和初期のビルか(?)渋いビルだ、昭和60年代までは、玄関周りにはタイルが張られていたと記憶している。 『取り壊されず、まだ残っていた!』と叫びたくなる建物だ。

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、「テツゲンの本社ビル」(富士見1)、、、、昭和40年代頃のモダンな建物。

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・・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校(旧都立九段高校)前のスペイン瓦のお屋敷。 大正14年(1925)に建てられた山口万吉邸(新潟県長岡出身の実業家)、、、、設計は、今井兼次、内藤多仲、木子七郎の三人。、、、、現在は、東急電鉄・竹中工務店・東邦レオの3社が共同で活用し、会員制ビジネスイノベーション拠点「kudan house」として利用されている。、、、、一度は中を覗かせてもらいたい建物だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国神社大鳥居前の追分角地にある大きな碑は「濠北方面戦没者慰霊碑」である。 “濠”は“豪”とも書き、オーストラリアのこと。 ボルネオ、セレべス、ジャバ、ハルアへラ、セラム、ニューギニア地区の戦没者慰霊碑で、昭和39年(1964)に建立された。 台座の大きさに比べ中央の自然石の碑がチョイト小さいね!、、、、【実はですね・・・】この碑の台座は本来シベリア出兵の際の「尼港遭難記念碑」として大正13年(1924)に武田五一の設計、明石作五郎の施工により建立されたものである。 当初は品川弥二郎銅像の西隣りに建立されたが、関東大震災後、九段坂の拡幅により現在の大鳥居前に移築された。 しかし敗戦後の昭和22年(1947)、尼港遭難記念碑の像などは撤去され、台座のみとなった。 その台座を、現在の碑に流用したものである。 “尼港事件”とは、大正9年(1920)、ロシアが率いる露中共産パルチザンによって黒竜江河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本守備隊及び日本人居留民約700名以上が虐殺された事件で、シベリア出兵が延長された要因の一つとも言われている。

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・・・・・・・・・・・・大鳥居前を抜け、明治4年(1871)に建てられた招魂社灯籠(常夜灯)見ながら田安門に到着。

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●側室の御門? ・・・・・・・大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれている処にある田安門は、寛永13年(1636)に建てられたそうだ。 北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。 門名の由来は、門内に田安大明神があったので門名にしたといわれている。 江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となる。 有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあった。

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・・・・・・・・・・・・・・外から来ると、最初に通過する高麗門に几号水準点(きごうすいじゅんてん、明治時代の水準測量の測量点。 “不”の字に似た図形)がある。 “不”の字の頭を誰か削ったようで、3本足の一部がかろうじて残されている。、、、、水準点設置時の標高は25.5786mで、mm単位以下まで測り、信じられない精度だ。

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・・・・・・・・・・・・田安門を入って渡櫓門 を通り、すぐに左に折れると、「弥生慰霊堂」と刻まれた石柱と、入口を守る狛犬が目に入る。 そこから階段(参道)を上ると田安門を見下げる高台に慰霊堂(弥生廟)がある。、、、、弥生廟は、明治18年(1885)当時本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町(東大構内)にあった警視総監の邸内に、警察官・消防官の殉職者を祀るため創建された弥生神社がその起源となっている。 その後、鎮座地は、芝公園、鍛冶橋の警視庁、青山墓地、麹町区隼町と転々としたが、昭和22年(1947)現在地に納まり、名を「弥生慰霊堂(弥生廟)」と改めた。 戦後、警視庁では神社の管理が出来なくなり、“神社”から“慰霊堂(廟)”に変えた。 つまり、軍人は靖国神社、警察官・消防官は弥生神社に祀る考え方である。、、、、弥生慰霊堂
は、弥生廟奉賛会(弥生奉賛会)によって管理され、実質的には警視庁と密接な関係を保っている。 慰霊祭の形式もより神道色を払拭した形式に変更された。、、、、北の丸公園・武道館に訪れる人は多くても、弥生慰霊堂に訪れる人は少ない。 参道前を歩く人は多いが、皆、慰霊堂の存在を知らないようだ! 機会あれば立ち寄って、手を合わせて欲しい!

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・・・・・・・・・・・・田安門の隣り、御存じ「武道館」 只今、オリンピックに向け改装工事中。 柔道・空手の会場として予定されている。

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●見納めになるかも? ・・・・・・・北の丸公園の南端に、「東京国立近代美術館工芸館」がある。 建物は明治43年(1910)近衛師団の衛戍地であった北の丸に司令部が建設された、これが現:工芸館である。 昭和38年(1963)戦後、皇宮警察の寮として使われていた旧近衛師団司令部が北の丸地区の公園化に伴い、取り壊しが決定するが、戦友会、文化庁、日本建築学会などの努力により、昭和47年(1972)には保存が決定する。 昭和48年(1973)、北の丸公園内の旧近衛師団司令部庁舎が重要文化財に指定された上、国立近代美術館分室として活用されることとなり、改修工事が行われ、昭和52年(1977)に工芸館として開館。、、、、工芸館は今夏、金沢に移転することになっている。 収蔵品は金沢に移動し、展示される。 すると、この建物はどうなるの? たぶん、収蔵品が空になるので、次の用途が決まるまでは閉館となるでしょう! と、言うことで今日の散歩で見納めとなるかも?


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●春の陽気、暑い! ・・・・・・・・・お帰りは、市ヶ谷駅から、、、、1月末で18℃の陽気、ひょっとすると梅と桜が来月当たり同時に咲くかも?

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2020年1月24日 (金)

バカ殿の志村城?

東武東上線の上板橋駅から北へ向かい、途中で進路を東に変えて、都営三田線の志村坂上駅まで、1万2千歩の散歩です。




●京に近い駅! ・・・・・・・上板橋駅は大正3年(1914)5月6日、東上本線池袋~田面沢(現在の川越市駅の近くにあった駅)間が開業してから、約一ヶ月後の6月17日に開業した。 池袋から6駅目の上板橋駅は、島式ホーム2面4線の地上駅で、特急、快速、急行、準急が通過して行く、止まるのは普通列車のみ。 橋上駅舎の改札口をを出ると線路の両側、南口と北口に出ることができる。 南口はチョイトせせこましい通りに面し夜は楽しそうな出口、北口はバスも止まる駅前の広い出口、今日の散歩は北口から北に向かい歩くことにした。、、、、駅名の「上板橋」は、江戸時代初期に板橋村が上板橋村と下板橋村に分村したことに由来する地名である。 “上”は、当時の首都:京都に近い方を表している。 

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●北へ来た! ・・・・・・・駅前を北へ向かう
・・・・・・・・・・・・駅前のメインストリート「ときわ通り」を横断する。 この通りにはバスも走ってる!

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・・・・・・・・・・・・表通りから裏通りに入る。 まだ歩く人も少ない。

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・・・・・・・・・・・・おや、道の別れめ(板橋区若木1)に庚申塔が!、、、、「かみなか庚申塔」と呼ばれている庚申塔が1基、小祠に安置されている。 享和4年(1803)の建立。 庚申塔の側面には、「右 にしたい とくまる」、「左 ねりま 大山みち」と標されており、この地が、西台・徳丸方面と富士・大山道の分岐点であった。、、、、富士山、大山参りの人々が、ここを通って行ったのであろう。 富士山までは、長い道中が始まったばかりだ!

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・・・・・・・・・・・・裏道を北へ向かうと、板橋区立の「にりんそう公園」がある。 ここに、川中美幸が歌う「二輪草」の歌碑がある。 なぜ、ここに????、、、、「二輪草」は平成10年にシングルで発売され、100万枚のヒットとなり、同年のレコード大賞で優秀作品賞を受賞した。 レコード会社は儲かったので、区の花がニリンソウである板橋区の当公園に建てたらしい。 単なる“ニリンソウ”つながりのようだ!、、、、まだ、ニリンソウが咲く時期には、チョイト早いようだ。

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・・・・・・・・・・・・裏通りを歩いて北へ向かい「中台稲荷神社」に出た。、、、、神社は俗に中台稲荷とか若木稲荷と呼ばれているらしい。 かつての中台村の鎮守。 創建は不詳だが、当社の境内は稲荷大神が降臨したと伝えられ、「稲荷渡(とうかわたり)」と呼ばれていたという。 現社殿は昭和36年(1961)の造営。、、、、社殿脇のムクの木は樹齢不明の老大木。 高さ約25m、根回り約5.8m。 このムクは「稲荷越の大木」と呼びならわされて、中山道と川越街道を結ぶ間道の目標となっていたそうだ。 社殿に倒れてこなければいいが、気になる樹だ!

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●谷底へ下る! ・・・・・・・・・駅から北へ来たが、稲荷神社で女狐に魅せられて、直角に折れ東へ向かうことにした。
・・・・・・・・・・・・稲荷神社から区立中台中学校の前に出る手前に二股がある。 そのお股(板橋区中台1)に、地蔵尊が祠に入り、庚申塔と馬頭観音が雨ざらしで祀られている。 どなたかが、篤く信仰しているのか、新しい生花が供えられていた。、、、、地蔵さんは子安地蔵だそうだ。 石の蓑笠が重たそうで、チョイト可愛そう。 天明4年(1784)の造立らしい。 地蔵の立つ台座には「左 下板橋道  右 練馬道 五町」と彫られている。、、、、地蔵の左に、これまた道標を兼ねた庚申塔と馬頭観音がある。 庚申塔は嘉永5年(1852)、馬頭観音は寛政12年(1800)の年代物。
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・・・・・・・・・・・・中台二丁目公園という小さな公園の脇に、急で、長い階段坂があった。 地形的には谷底へ下るようだ。 下までおりて、見上げたら、戻る気にならず、気の弱い私は心肺も弱いので、そのまま歩くことにした。

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・・・・・・・・・・・・坂をおりると、中台2丁目と前野町5丁目の境で、道なりに歩く。
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・・・・・・・・・・・・首都高5号池袋線の志村料金所・PAの横を抜けて、志村2丁目の町に入る。

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●バカ殿はいない志村城! ・・・・・・・・板橋区志村2丁目の中心は高台の「志村城」(バカ殿がいたのは東村山だ!)。 その「志村城」は、現在の熊野神社がある処にあった。 神社の境内に「志村城跡」の石柱が建ててある。、、、、志村城は、康正2年(1456)に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。 本丸は神社の隣り現:志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川を巡らせ〝守るに易く攻めるに難し〟といわれる堅城であったが、大永4年(1524)に北条氏綱に攻められて落城した。

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熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。 長久3年(1042)、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。 現在の社殿は昭和32年(1957)に改築されたもの。、、、、本殿横には絵馬堂がある、この堂は明治期以前の本殿と言われてる。 真偽は?

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●中山道に到着! ・・・・・・・志村城から裏道を歩き志村坂上駅へ向かう途中(志村2-7)に、富士大山道道標・庚申塔がある。、、、、この道標も、富士登山、大山詣での人々が通った道(旧中山道)に残されている。 道標の先は下練馬宿のある川越街道に出て、石神井川に向かう富士街道になる。 道標は寛政4年(1792)の造立で正面には「是より大山道井ねりま川こへみち」と刻まれている。 右に立つ庚申塔は万延元年(1860)の造立で、正面には庚申塔と刻まれ、左側には、「是より富士山大山道 練馬江一里 柳沢江一里 府中江七里」とある。、、、、昔の人は、この道標程度の情報で富士山まで歩いて行ったとは、よくぞ道に迷わず行けたものだ、“おそれ入谷の鬼子母神”だ!

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・・・・・・・・・・・・道標から約100m、国道17号(中山道)に出ると、そこは都営三田線の「志村坂上駅」。 昭和43年(1968)12月27日、都営6号線(現:三田線)の最初の区間である巣鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた駅。 ホームは相対式2面2線で、地下2階にある。 改札口は2ヵ所で、いずれも地下1階にある。 出口は4ヵ所で、いずれも地上にある、アタリ前田のクラッカー!

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2020年1月22日 (水)

緑の街「海軍村」

昨日、TVを見ていると、“自衛隊の中東派遣”と、“駐韓米国大使の髭”のニュースが流れた。 私の頭の中で、2つのニュースが化学反応を起こし“東郷元帥”が思い出され、“日本海軍”を思い、さらになぜか“海軍村”を思い出した。 『数年前に見た古い建物は取り壊されたか?』、気になり今日の散歩では「海軍村」に行ってきた。

東急目黒線の奥沢駅で下車し、「海軍村」の跡を求めて奥沢2丁目を歩き廻り、東急大井町線の緑が丘駅まで、8千歩の散歩。




●ここは世田谷だ! ・・・・・・・奥沢駅(おくさわえき)は東急目黒線で唯一世田谷区の駅である。 両隣の大岡山駅、田園調布駅は、それぞれ、目黒区、大田区にある。、、、、大正12年(1923)3月11日、目黒蒲田電鉄が目黒~丸子(現:沼部)間を開業させた時にできた。 ホームは下り用の単式ホーム1面1線と上り用の島式ホーム1面2線で構成される地上駅。 改札は上下ホームにそれぞれある。 駅の横には留置線があり、電車のお休み処。、、、、駅名の奥沢は元の地名「荏原郡玉川村字奥沢」から頂戴した。 その「奥沢」は、呑川支流の九品仏川の奥深い沢(九品仏浄真寺の北側の湿地帯)に由来するそうだ。、、、、駅を利用する、女学生・OL・パートのおばさん・病院通いのお婆さん、世田谷の駅では誰もが美人に見える、私の住む下町の浅草橋駅とは質が違うのか?
年をとり目もイカレテきたか?

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●大蛇がいた! ・・・・・・・・駅の北側150m程に奥澤神社はある。 奥澤神社の創建年代は不詳ですが、世田谷城吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請したと伝えられている。、、、、社殿は昭和45年(1970)に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。、、、、江戸中期、疫病が流行した時、名主の夢枕に八幡様が立たれ、藁で造った蛇を祀るとよいというところから「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、今も続いている。 今日、もう一匹の大蛇が、社殿の中で、とぐろを巻いてお休み中であった。

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・・・・・・・・・・・・鳥居をくぐって、スグ左にある如意輪観音の道標。 大音寺(奥沢1)近くの呑川脇の何処かにあったものらしい。 観音の下部に、「右品川ミち 左めぐろミち」と標されている。 なぜか裏を見ると出羽三山(出羽山・月山・湯殿山)の名が出てくる?

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・・・・・・・・・・・・そして、神社鳥居前から東に向かい緑が丘駅前に至るバス通りは「奥沢大蛇通り」と言う。 毎年9月の祭礼では、藁で造った長さ約9m、直径26cm、重さ150㎏の大蛇が、町を練り歩く(?)そうだ。 この大蛇通りを!

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●緑豊かな海軍村! ・・・・・・・世田谷区奥沢2丁目、奥沢大蛇通りと、東急大井町線で挟まれた一帯をかつて通称「海軍村」と云った。、、、、数年前、世田谷に「海軍村」があると聞いて、なぜ“海軍”が海のない世田谷に居るのか疑問であった。 大正12年(1923)の関東大震災後の郊外移転ラッシュ、同じ年の目蒲線開通による利便性向上、奥沢は虎ノ門の海軍省と横須賀鎮守府の間、セレブの住む“あこがれの田園調布”の隣町、などなどで、海軍士官がこの地に魅力を感じたらしい。 そこで、当時この地の地主であった原家が独力で区画整理を行い、海軍士官たちに借地として貸し与えた。 高いか安いか判らんが、賃借料は坪単価8銭だったそうだ。 昭和11年頃には30戸以上も集まり、主に主計関係の海軍士官が集住したので俗称「海軍村」と呼ばれたそうだ。(一部、陸軍軍人もいた)、、、、海軍村の建物は、特別な様式、材料、デザインなどで珍しいわけではない。ゴク普通の建物である。 現存する当時の建物は数棟で、殆どは建て替えられた。、、、、現在、奥沢2丁目の街全体を緑豊かな、季節感のある街にすべく、住民が街づくりに取り組んでいるようだ。

・・・・・・・・・・・・昭和初期頃の建築と思われる住宅、、、、現在、どの建物も住まわれており、覗き見はダメ!

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・・・・・・・・・・・・村の中心と思われる位置に建つ「海軍村跡」の碑、、、、電柱の陰で恥ずかし気に建っている
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・・・・・・・・・・・・建て替えられた家もおしゃれだ!

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●“ヶ”を“が”にした駅! ・・・・・・・東急大井町線の「緑が丘駅」は大岡山の東京工業大学のキャンパスに隣接する駅であるが、東工大の表門の駅が大岡山で、裏門の駅が緑が丘と云う感じ。 緑が丘駅は目黒区であるが、駅前の道路を横断すると世田谷区奥沢となる。、、、、昭和4年(1929)12月25日、中丸山駅として開業。 昭和8年(1933)に緑ヶ丘駅に改称。 昭和41年(1966)には“ヶ”を“が”に変えて緑が丘駅となる。、、、、相対式ホーム2面2線の高架駅で、出入口は高架下の1箇所のみ。、、、、一日の平均乗降客数は、10,000人程と少ない。

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2020年1月20日 (月)

足立区の下町

草加あたりで降りるつもりで、押上で久喜行きの準急に乗る。 電車は、乗客全員がチョウド座れる程度で、立っている人は一人・二人ぐらい。 次の曳舟から、私の右隣りに女子高生が大きなカバンを抱きしめて座った。 電車が走り始めると、私の隣りの左手でカバンを抱いて、あいている右手でカバンの中をゴソゴソ。 カバンの中の右手が私の腰のあたりに伸びて来てゴソゴソ、アリャ、女子高生の痴漢か?、被害者は私、70を超えた親爺か?。 大きなカバンの中、隅の方の何かを探しているようだ、痴漢ではなかった、チョッピリ残念! カバンから丸い手鏡を取り出した、再びゴソゴソ。 次に、カバンから手が出た瞬間、ピンクの丸いケースが床に落ち、コロコロ。 女子高生は慌てて立つが大きなカバンが邪魔で動作が鈍い。 電車はゴトゴト、ケースはコロコロ、空いてる電車の中を、ケースがアッチへ、コッチへ、女子高生は追っかける。 ドアの隅でやっと拾い上げた。 席へ戻った女子高生、今度はペンシルのようなものをだし、化粧を始める。 隣に座る親爺はイライラ、何処で降りるか集中して考えられず、頭にきて北千住で降りてしまった。 親爺は、普通電車に乗り換え、今日は“2”0日なので、北千住から“2”駅目の五反野駅で下車した。

東武伊勢崎線の五反野駅から、常磐線の綾瀬駅前をとおり、京成本線の堀切菖蒲園駅まで、今日は1万2千歩の散歩。




●テキトウに東へ! ・・・・・・・・テキトウに五反野駅で降りた! 『さて、東西南北、右左、いずれに行こうか?』 チョイト考え、これまであまり歩いていない、東へ向かうことにした。 “東”と言っても、テキトウで、大雑把に言えば綾瀬方面に向かうことにした。

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●戦後の下町! ・・・・・・・・駅の東側「西綾瀬」(足立区)の町は、戦後の下町という感じ、町は区画整理されておらず、道はクネクネ、トタン張りの建物がポツポツ残る、アパートが立ち並ぶ、ヨタヨタ歩いているのは爺さん婆さん、ママチャリで脇をすり抜けていくのは若いママ、狭い道に車が入ってくるゴミ収集車とデイサービスの送迎車。

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●屋根のカーブがいいね! ・・・・・・・西綾瀬3丁目に新義真言宗の長性寺がある。 真光山荘厳院と号し、寛永元年(1624)に創建した。 本尊は不動明王(立像)。、、、、本堂の素朴な感じがいいね! 境内は約1000坪あるそうだ。、、、、ご近所の方か(?)、境内の石仏に花を供えていた。 

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●長~い水路! ・・・・・・・長性寺の東側、綾瀬川に「五兵衛新橋」が架かっている。 五兵衛橋の名は、江戸時代の初め、武蔵国入間郡金子村(現:埼玉県入間市)からこの地に転入し、この付近を開拓した金子五兵衛に由来する。 付近一帯はその名をとって五兵衛新田村となった。 寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村は東西に分断されたので、代償として長さ12間、幅9尺の土橋が幕府によって設置された。これが初代の五兵衛橋。 その後、橋は何度か架け替えられた。 昭和に入ると綾瀬川の護岸も整備され、高さも高くなってきた。 平成10年(1998)、高くなった護岸をまたぐように、歩道橋のような形状の現在の橋に架け替えられた。

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・・・・・・・・・・・・橋上から南を見ると、小菅の東京拘置所の大きな建物が見える。 また、後ろにはスカイツリーもチョイト見える。

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●綾瀬の一寺一社! ・・・・・・・橋を渡ると、綾瀬の町である。 そこには綾瀬稲荷神社が鎮座する。、、、、綾瀬稲荷神社の創建年代は不詳だが、五兵衛新田の鎮守社であったと言われ、明治7年(1874)に五兵衛神社と、昭和42年(1967)年に綾瀬稲荷神社と改称した。

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・・・・・・・・・・・・綾瀬稲荷神社と隣り合わせに、真言宗豊山派の観音寺がある。 観音寺は稲荷山蓮華院と号す。 観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建した。 本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作らしい。、、、、慶応4年(1868)、江戸から流山へ退却する新撰組の一隊が金子家とこの寺院に宿泊したそうだ。

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●歩くぞ! ・・・・・・・綾瀬駅に着いたが、帰る時間にはまだ早い。 駅前の「綾瀬川通り」をまっすぐ歩けば、京成本線の堀切菖蒲園駅に行ける。 『よし、堀切菖蒲園まで歩こう!』自分に言い聞かせ歩くことにした。、、、、駅構内を素通りして行く。

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・・・・・・・・・・・・ひたすら歩いて堀切菖蒲園駅に向かう。、、、、ほぼ予定の時間内で到着、息はゼイゼイ、足はパンパン、腹はペコペコ、チョイト電車の中でひと休み。

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2020年1月19日 (日)

池上の山裾を行く

京急蒲田駅から、呑川沿いに歩き、池上本門寺の山裾を廻って西馬込駅まで、1万1千歩の散歩です。




●要塞のような駅! ・・・・・・・京急蒲田駅は京急本線と空港線の分岐駅であり、快速特急など優等列車の停車駅でもある。 私には、乗換でホームに立つことの多い駅であるが、改札の外に出ることは少ない駅である。 今日は、久しぶりに駅から出てみることにした。、、、、明治34年(1901)2月1日、まだJR蒲田駅の無い時、蒲田駅として開業した。 大正14年(1925)京浜蒲田駅に改称し、昭和62年(1987)京急蒲田駅に改称する。、、、、名は変わっても、駅は変わらず、特に空港線が横断する第一京浜(国道15号)の“開かずの踏切”では、慢性的な交通渋滞が発生していた。 そこで、平成12年(2000)に、京急蒲田駅周辺の高架化工事に着手し、平成24年(2012)10月21日の下り線高架化完成により、京急蒲田駅は全面高架化となる。、、、、駅は三層構造で最上層の3階は下りホーム、2階が上りホーム、1階が改札階となっている。しかし改札階は、外部とペデストリアンデッキでつながっており、実質2階にあるようだ。 また、駅の高さは24mで一般のビルの8階程、ホームの長さは389mでJR総武線浅草橋駅ホーム(260m、10両編成の電車が停車する)の約1.5倍ある。 

・・・・・・・・・・・・3階の下りホームで電車から降りる、、、、長~いホームが伸びている

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・・・・・・・・・・・・エスカレーターで2階の上りホームへ

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・・・・・・・・・・・・1階の改札口を出る、、、、広~いコンコース

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・・・・・・・・・・・・駅の出入口はペデストリアンデッキにつながる、、、、駅の壁が要塞のように伸びている

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●この道はいつか来た道! ・・・・・・今日も改札を出て、『さて、何処へ行こうか? どっちに歩くか?』、、、、駅構内の地図を見て、呑川(のみかわ)沿いに上流に向かって歩くことにした。、、、、呑川は世田谷区・目黒区と流れ、大岡山の東工大付近で暗渠から顔を出し、大田区の雪谷・池上・蒲田・仲糀谷と下り、羽田空港で東京湾に注ぐ二級河川。、、、、このルートで池上までは、2年前に散歩をしていた、私としたことが“後で気がつくてんかん病み”であった、ゴメン!
・・・・・・・・・・・・ホーム下を流れる呑川。 上流側に柳橋が架かっている。、、、、我が家の近く、神田川最下流に架かる柳橋の方が風情があるね!(大人げないが、なぜか勝った気分だ) 

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・・・・・・・・・・・・柳橋付近の呑み屋街「柳通り」は、まだ熟睡中。

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・・・・・・・・・・・・呑川を越えるJR東海道線・京浜東北線が見える。、、、、その線路をくぐり抜けるアンダーパスを見て、『あっ! ここ、いつぞや(?)歩いたことがある』 気がついた!

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・・・・・・・・・・・・アンダーパスを抜けた線路脇に、何やら機械設備が入るような小屋を建設中。 私の長年の感で、『あやしい小屋だ!』、、、、当たり、この小屋は生物が居ないと言われていた呑川を浄化するために、高濃度酸素水を川底に供給する施設を収納する建物であった。 設備の稼働は来年(2021)2月頃らしい。 うまく稼働し、呑川の水質改善が実現することを期待!

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・・・・・・・・・・・・大田区西蒲田の付近を流れる呑川には昭和50年代に完成したPCコンクリート桁の橋が架かっている。、、、、馬引橋・山野橋・太平橋・若宮橋・日蓮橋・上堰橋・一本橋など、どの橋も昭和55年~昭和58年頃に完成した橋だ! 景気の良い時に架けたのかな。

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・・・・・・・・・・・・池上通り(都道421号)をとおす堤方橋(つつみかたはし)に出た!、、、、橋上からは正面に池上本門寺のある小高い山が見え、呑川は山裾を左に曲がって遡る。(ここまでは、2年前に歩いたルートと同じ)

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●住宅地を歩く! ・・・・・・・・堤方橋で呑川に別れ、本門寺の山裾を北に廻り込むようにして、大田区中央と大田区池上の町の境になる道を、西馬込駅を目指して歩く。、、、、朽ちかけた土蔵のある家、チョイとモダンな洋館風のアパート、静かな落ち着いた住宅、、、、いずれも、住みやすそうな街を創っている。

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・・・・・・・・・・・・歩く先には貴船坂(きぶねさか)がある、、、、池上1丁目と中央5丁目の境、長さ200m程のやや急な坂。 坂名は、本門寺公園の中にあった東之院の貴船明神にちなむと言われてる。 東之院は本門寺の子院の一つで、貴船明神はその鬼門よけとして置かれていたが、明治初年の神仏分離令により同寺院と分離され、明治45年(1912)になって近くの太田神社(中央六丁目3番)に合祀された。、、、、チョイト、肺活量の少ない私にはキツイ! 池上の町を坂から眺めながら、ゆっくり上る。

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・・・・・・・・・・・・貴船坂を上がると、スグ下り坂となり東京都交通局の車両基地前をとおり馬込駅に出る。

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●国道の地下だ! ・・・・・・・西馬込駅都営地下鉄浅草線の起点駅で、駅の先(南側)には浅草線の車両基地である馬込車両検修場がある。、、、、昭和43年(1968)11月15日、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業。 相対式ホーム2面2線の地下駅。 駅は国道1号(第二京浜)の地下にある。 
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2020年1月16日 (木)

皿沼不動の罰が当たる?

日暮里舎人ライナーの谷在家駅から、川口市の元郷五丁目バス停まで、1万1千歩の散歩です。




●嬉しい誤算? ・・・・・・・谷在家駅(やざいけえき)は尾久橋通りの頭上にある日暮里舎人ライナーの駅。 平成20年(2008)3月30日、日暮里~見沼代親水公園間の開業と同時にできた。 他の駅と似た造りで、ホームは島式1面2線で3階にある。 改札口は1ヶ所のみで2階にある。 出口は道路の両側に出られるように設置されている。、、、、開業の年(2008)の当駅の一日平均乗降客数は5,061人、10年後の平成30年(2018)には10,532人と、ほぼ倍となった。 通勤・通学客も増え、既に開通以前に予想した目標の乗降客数を達成し、輸送力増強に取り組まねばならない状況らしい。 東京都交通局にとっては嬉しい誤算かも?

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●罰当たり? ・・・・・・・谷在家駅で、駅構内の周面地図を見ると、“血沼不動”の文字が目に入る。、、、、血で赤く染まったドロドロの沼の脇で、邪鬼と戦う不動明王。 そのしぐさを天から見つめる美人の観音菩薩。 私の妄想が始まり、地図の前で一人ニヤニヤ。 これはぜひとも行って見よう、“血沼不動”へ!

・・・・・・・・・・・・途中の交差点で立ち止まり、何気なく交差点名を見ると、「皿沼二丁目 Saranuma 2」と表記されている。 ガァ~~ン! “血”と“皿”の見間違い。 一気に疲れた! 回転ずしで皿を積み上げ、ニコニコして寿司を口に入れる不動明王。 私の妄想は破壊する!

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・・・・・・・・・・・・「皿沼」の地は、雅万歩にとっては初めての地である。 恥ずかしながらのカン違い、苦笑いで済ます!、、、、ところで「皿沼」の謂れは不明だが、地名用語では「さら」は、「新しい・浅い、または崖」の意、とすると「さらぬま」は「浅い沼=湿地」ということになるそうだ。 現在の足立区皿沼と西隣の足立区加賀のあたりは、19世紀半ばに成立した加々皿沼村であった。 そのむかしは加々と皿沼は別々であった。 昭和50年、新住居表示により「足立区皿沼」が誕生したそうだ。

・・・・・・・・・・・・皿沼農協前の江北北部緑道公園にワシントンからの「里帰り桜」が植えられている。 昭和56年(1981)に植えられた。、、、、チョイ見ると、ピンクの花が咲いていた。 暖冬のせいかも?

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・・・・・・・・・・・・サクラを見て、スグありました、『血で染まった沼』のお不動さんの寺。、、、、関東三十六不動の第25番「皿沼不動」。 天台宗系単立の皿沼不動永昌院は、修験道中尾玉林院賢義の法弟明善が、慶応3年(1867)に創建した。 入口に風邪封じの観音が建ち、入って左手は墓地、都会の寺院なみに庭がなく庫裏も一緒で、チョイト手狭な鉄筋コンクリート2階建ての本堂である。 御本尊の御前立不動明王は、身丈は六尺三寸(約1.9m)、総高十二尺(約3.6m)で、日本最大欅(けやき)材の一本彫御前立不動尊である。、、、、9時ジャストに到着、寺のおばさんが扉を開けてくれて手を合わせる。 外の賽銭箱(100円投入)の位置からお不動さまを見ると、手前の天狗の面に隠れ顔が見えない。 アリャコリャ・モジモジしていると、『靴を脱いでお上がりください、前へどうぞ』の一言。 気の弱い私、只で厚意を受けるのは“男の恥”、あらためてローソクを200円で買い、灯をつけ手を合わせる。 なぜか、見られているようだ! ここで、カメラを取り出し仏の写真を撮ると罰当たりになるかも、今度は正座をしながらモジモジ・キョロキョロ。 仏壇前に暦が置いてある、手に取り中を見るふりをして、躰の位置を変えカメラを出してパチリ、撮ったー! おばさんが見てたかも? すかさず仏壇前の賽銭箱に500円硬貨を入れ、暦を手に『これ頂戴できますか?』 ニッコリ『いいですよ』 どうやらお咎めなし、こちらも笑顔で『もらって行きます』 迫力ある不動明王に別れを告げた。、、、、この記事を書いている今、まだ罰が当たっていないようだ!

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●見晴らしバツグン! ・・・・・・お不動さまの隣り町:足立区加賀にたつ、11階建ての都営住宅「足立加賀二丁目アパート」。 各戸の
面積は約60㎡(3DK)で、全485戸(7棟)の団地。 昭和53年(1978)~昭和59(1984)の建築。 スグ横に首都高川口線が走っている。、、、、新芝川、首都高川口線、舎人公園に近く、環境は良し!

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・・・・・・・・・・・・・・・チョイト首都高を上から見たくなり、10階の展望台(?)を拝借! 素晴らしい眺望である。 川口駅周辺のタワマンが見える、後ろには秩父の山も見える!

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●綺麗な川! ・・・・・・・この辺りでは新芝川が足立区と川口市のほぼ境となっている。 新芝川橋(昭和59年完成)を渡り川口市に入る。、、、、新芝川橋はその名のごとく新芝川に架かる。 新芝川は埼玉県桶川市と上尾市に発する芝川が源流で、見沼田圃を流れ、川口オートレース場の北側で芝川と新芝川に分かれる。 新芝川は足立区との境を流れ下り、芝川水門で荒川に注ぐ。、、、、近頃、どこの川も不法投棄は少なく、水質も良く、川を見ること自体に癒し効果も期待できそうだ。

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●急がなくちゃ! ・・・・・・・・・チョイトお不動さま、展望台などで時間を使いすぎた、いそぎ川口駅へ向かう。 新芝川橋よりバス通りをスタコラ歩くが、途中でギブアップ。 「元郷五丁目」からバスで川口駅に向かう。

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2020年1月14日 (火)

粗忽者は堀の内

今日は夫婦で散歩。 東京メトロ丸ノ内線の終点「方南町」で下車し、落語『堀の内』の舞台、お祖師さまの妙法寺に参り、JR中央線の「高円寺」まで、1万歩の散歩です。




●失敗しないように! ・・・・・・・東京メトロ丸の内線の終着駅「方南町」。 昨年1月にホーム延伸工事が終わり、6両編成の電車が発着するようになった。、、、、今日は、商店街の間の狭い東口から地上出てみた。 ホーム端の東口は、通路・階段・改札口などのスペースは狭く、エスカレーター、エレベーター、トイレを設置する余裕がない出入口である。、、、、電車に乗ってるときにチョイト“行きたくなり”、方南町駅であわてて降りて東口に向かったら災難である。 私のような生意気な中高年は、過活動膀胱で一刻の猶予もなく、さらにボケる前はスタイルを気にし尿漏れパンツを穿かず、一触即発の状態でトイレを探し回る。 悲しいかな、東口にはありません! ホームの反対端の西口まで行かなければならない! ホームに戻り西口へ向かうが、神にも仏にも見放され、未曾有の大惨事となるかも? 濡れたズボンは目立つので、人生の最後と思いつめ、電車に飛び込もうとしても、ホームドアが設置され死ぬこともままならず! 生きるはずかしめ受けることとなる、アーメン!

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●お祖師さまへの道 ・・・・・・・昔の「堀之内」は現在の杉並区堀ノ内2丁目・3丁目一帯を指す。 町の中心は、“厄除けのお祖師さま”と言われている日蓮宗寺院の妙法寺である。(今日は妙法寺に参拝すべく家を出た!) ところで、「堀ノ内」の由来は不明である。 一般に「堀の内」と言えば、大きな城・館の堀内を指すが、室町時代には既にあった堀之内村では、誰の城・誰の館が何処にあったのか、“堀”はどれなのか、サッパリ判らんらしい。(それらしいという話はあるが未確定)


・・・・・・・・・・・・・方南町駅西口は「環七通り」と「方南通り」の方南町交差点の角にある。、、、、私は東口に出たので、交差点まで無駄な動きをした!

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・・・・・・・・・・・・・・方南町交差点から北西に100m程、区立泉南中学校がある。 この学校の正門前の道が、妙法寺へ向かう参道につながる。、、、、昔の、浅草寺参りは吉原通い、海晏寺(かいあんじ)参りは品川通い、ここ妙法寺参りは新宿通いと、いずれも信仰に名を借り近くの遊里通いが男の楽しみだった頃、この道にも助平が通ったことであろう。

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・・・・・・・・・・・・・・妙法寺への道は堀之内橋善福寺川を越える。 平成22年(2010)完成。、、、、普段は川底深くに水が流れている善福寺川も、大雨になると氾濫する川として有名だ。 最近は川沿いに調整池も造られ、氾濫の話を聞かなくなった!

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・・・・・・・・・・・・・・善福寺川を渡り堀ノ内2丁目に入ると「堀之内熊野神社」がある。 チョイト、お立ち寄り!、、、、旧堀之内村の鎮守で、社伝によれば、文永4年(1267)に紀州の熊野三山を勧請したことが始まりとされる。 室町時代に北条氏綱が江戸を攻略したとき社殿を修築し、その後寛永11年(1634)にさらに修繕が加えられたと伝えられている。 総欅造りの本殿は安政4年(1857)の建造、その精緻さと豪華さは区内随一といわれている。 文化5年(1808)の奉納の銘のある石鳥居は区内で最古。、、、、なにしろ古い神社で、別当は明治維新まで妙法寺が務めたそうだ。、、、、祭礼では、大正12年の関東大震災当日、浅草で買い求め猛火の中を無事帰着して納められた「火伏の神興」が、町内を渡御するそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・熊野神社の数十米先に庚申堂・地蔵堂がある。 内部には9体の石仏が祀られ、「于時元禄十三庚辰稔十月初日」(1700)、「于時万延元庚申歳世話人再建」(1860)、「享保元丙申天十月吉日」(1716)と刻まれた庚申塔もある。

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・・・・・・・・・・・・・・「参道商店会」と記された街路灯が道の両側に見えるようになったら、妙法寺は近い。、、、、商店街は寂れて賑わいは感じられない。、、、、道は妙法寺山門の正面に突き当たる。

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●佐和子が佐和子を思い出す! ・・・・・・・妙法寺の由来は、三百数十年前、元和(1615~1623)の頃、元真言宗の尼寺であった。 覚仙院日逕上人は老母妙仙院日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し、老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となっている。山号は開山日圓上人にちなみ日圓山とし、寺号を妙法寺と号した。 当初は目黒碑文谷の法華寺の末寺であったが、元禄12年(1699)、身延山久遠寺の直末となった。 この時、法華寺(現:円融寺)からやくよけ日蓮大聖人の霊像を迎えています。この像があらゆる災難除けに霊験あらたかなことから人々の信仰を集め、世に「堀ノ内 厄除けお祖師さま」と呼ばれ、江戸時代から現代に至るまで、霊験あらたかなことでひろく信仰を集めている。

・・・・・・・・・・・・まずは山門から、、、、境内の南正面に建つ「仁王門」(山門)は、天明7年(1787)の再建で二層造りのため桜門とも呼ばれ、上層に廻縁をめぐらし、獅子・龍・華などの彫刻が絢爛にほどこされている。、、、、重たそうな屋根が、力強い感じ! 

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・・・・・・・・・・・・次は鉄門、、、、山門をくぐり右奥に見えるこの鉄門は、明治11年(1878)、鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂などを設計し、日本の近代建築学会の恩人でもある英国人ジョサイア・コンドルの設計により作られた。 和洋折衷様式の鉄門として類の少ないもので、国の重要文化財である。 門柱左右の漢詩は当時の身延山第七十四世吉川法主の筆跡で「花は浄界に飛んで、香りは雨となる、金は祇園に布て福は田に有り」との意味。、、、、門上部中央の鳥は、コンドルにあらず、鳳凰なり。

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・・・・・・・・・・・・山門をくぐると正面に祖師堂、、、、正面の御簾の奥に「祖師御尊像」つまり「除厄け祖師像」つまり「日蓮像」が祀られている。 この祖師像は、「おそっさま」と呼ばれ、開帳されると御尊顔を拝することができる。 除厄け・家内安全・病気平癒の祈願は、この祖師堂で受けている。 堂内は、天井や壁が金箔で覆われており、仏教で極楽または雪山にいるという想像上の鳥の彫物がある、まさに絢爛豪華な内部だ。 境内では、最も大きな建物。、、、、内部は撮影禁止、コッソリ・パチリ・失敗だった!

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・・・・・・・・・・・・祖師堂の右手奥に本堂、、、、本堂は三軌堂」とも称され、主に檀家の方々の法要行事等が営まれるところ。「三軌」とは、如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表している。 正面に奉安されている「おそっさま」は、昔、出開帳といって多くの人々がお参りできるように他所に持ち出された祖師像。 文政5年(1819)に建立された本堂は、絢爛さが目を引く祖師堂と対照的に、落ち着いた佇まいである。、、、、まだ作った直後のように光輝いている(頭のことじゃない)、眩しい像だ!

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・・・・・・・・・・・・本堂と書院を結ぶ廊下、、、、バナナの皮を踏んだようにスベル廊下。 もちろん、スケートは禁止。

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・・・・・・・・・・・・本堂のさらに後ろにある日朝堂、、、、文政11年(1828)第20世日憲上人の代に創立され、身延山11世行学院日朝上人の尊像が祀られている。 室町時代に多くの学業を成し遂げた日朝上人は、眼病を患うほど勉学に精進された。 回復後自身と同じように眼病を患った人々を救いたいと大願をたてたところから、「学問と眼病の守護」としても崇められるようになった。 稀世の学匠として高名であったことから、学業増進・受験合格等、勉学の願いが叶えられることで有名になり、受験シーズンになると多くの人々が訪れるそうだ。、、、、お賽銭の額で、合格、補欠、不合格と決まるかも?

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・・・・・・・・・・・・日朝堂の横奥に、小さな堂の二十三夜堂がある、、、、二十三夜を祀っている堂。 二十三日の夜、月待をすれば願い事が叶うとされる「二十三夜信仰」は、妙法寺では第18世日観上人の頃から始まり、毎月23日には縁日も並び賑わいをみせている。 毎月23日には「二十三夜堂」も開かれ、財運・縁結びを願う人々が祈願に訪れている。白蛇が石になったとされる「なで石」に触れるとご利益があるとして評判となっている。 手で撫でるだけでなく、財布で石を擦るという人もいて、参詣者の人気を集めている。、、、、財布の中はカラだと御利益ないかも! 

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・・・・・・・・・・・・日朝堂の横に有吉佐和子の碑、、、、『複合汚染』『恍惚の人』などのベストセラーで知られる作家:有吉佐和子は、妙法寺のすぐ近くに住んでいた。 本人は、キリスト教信者であったが、妙法寺が好きで、境内を通って帰宅することも多かったと言われてる。 彼女を偲んで建てられた。、、、、私の妻と同名で、妻、曰く『若い時、秋葉原で佐和子どうしで会ったことがある』 『本当か?』 相手は、有吉佐和子か、阿川佐和子(サワコの朝)か、渡邊佐和子(NHKのアナウンサー)か、秦佐和子(SKE48の元メンバー)か、はたまた北原佐和子(女優)か、アツ、コーラスグループ・フォレスタにソプラノ歌手:白石佐和子さんもいる。 『もちろん、有吉佐和子さんです』 『へーー、スゲェー』、、、、ついでに私の頭は、白石佐和子を思い出したら、白石麻衣(乃木坂46を卒業予定)も、ソロで活躍に期待!

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●何で行ったの妙法寺? ・・・・・・・妙法寺をあとにして、高円寺駅に向かう。

・・・・・・・・・・・・丸ノ内線が地下を走る青梅街道を横断する。 パトカーが走っていると信号無視できない!
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・・・・・・・・・・・・高円寺の商店街をウィンド・ショッピング。 買う物なし! 70代のジジイには20代の服は合わない!

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・・・・・・・・・・・・高円寺駅に到着、ここで気がついた、『アッ、厄除け祈願を忘れた、大失敗!』 今度は、『呆け封じだ!』、、、、落語の「堀の内」を地でいく粗忽物かも!

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2020年1月12日 (日)

観音の観音

今朝も出がけに、『今日は何処へ行くの?』と妻が聞いてきた。 『決めていない』と応えると、『今日は日曜だから京急方面の電車空いてるよ!』 これで決まり、浅草橋で三崎口行きの電車に乗る。 ラクラク座れ、ipadを取り出し地図を見る。 『さて、何処で降りようか?』 京急沿線を見ていると、川崎大師の南側に「観音」という地名が目に飛び込む。 決めた!今日の散歩は、何となくありがたい名前の「観音」に行こう!、、、、川崎大師駅で下車し、観音の町を探索し、バスで川崎に戻り帰る。 1万歩の散歩です。




●大師は、ほっとけ! ・・・・・・・川崎大師駅で下車する。 まだ朝の早いせいか、川崎大師に参拝する人も少ないようだ。、、、、今日は、初詣で賑わう川崎大師、女性が喜ぶ金山神社のある若宮八幡宮、どちらも無視して「観音」へ行くことにした。

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●ごりやくは咳止め? ・・・・・・・・駅前に立ち、左手(東側)に川崎大師の表参道、右手(南西側)に若宮八幡宮に向かう道路、その中間、駅の正面(南側)に「観音」の町に向かう「ごりやく通り」がある。、、、、「ごりやく通り」とは、何処の御利益を言うのか? 川崎大師か、若宮八幡宮か、それとも「ごりやく通り」に面する神明神社か。 商店街入口のアーチをよく見ると、イラスト入りで「川崎大師 ごりやく通り」と書いてある。 この通りは、川崎大師解脱門(民家に例えれば裏口)に通じる通りであった。 くず餅屋、あめ屋、だるま屋など、参拝のみやげ物を売る店が一軒も無いゴク普通の寂れた商店街、“参道”とは言いずらい!

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・・・・・・・・・・・・サックスブルーと呼ばれる水色の川崎フロンターレの旛がなびく商店街。 人通りが少なく寂しいかぎり。

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・・・・・・・・・・・・道なりに進み、町名が「川中島」に変わると、商店街の名も変わり。フロンターレの旗も小ぶりになった。

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・・・・・・・・・・・・川中島1丁目、「ごりやく通り」に面し神明神社がある。 神明神社は、建武2年(1334)に創建、江戸時代には、平間寺(川崎大師)が管理していたそうだ。、、、、境内社の一つに「せきの神様」と赤字で大書された旗がなびく社がある。 風邪・インフルエンザに効きそうだ、御神体らしい石仏(元は道祖神らしい)にしっかり手を合わせてきた。 でも、私には「せき止め飴」の方が効きそうだ!

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・・・・・・・・・・・・「ごりやく通り」は、JR川崎駅前からほぼ東に向かい東京湾へ伸びる「富士見通り」にぶつかり終わる。

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●観音の観音! ・・・・・・・・「富士見通り」を越えると「観音」の町である。 観音1丁目と観音2丁目の2区画で構成する町。 昭和の香り漂う建物は少なくなり、新しい住宅に建て替えが進んでいる町だった!
・・・・・・・・・・・・バス停の名は「観音一丁目」、、、、周りを見回しても普通の町だ! 観音さまの後光は何処にも見えないが、何かを期待したい。 
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・・・・・・・・・・・・路地に、何だか手招きしているような鳥居が見える。 早速、招かれたか? ワクワクして奥に進むと、三の鳥居の後ろに赤い社がポツントあった。 社の中には神棚があるだけ、ガックリ、期待ハズレ! ちなみに、社名は中瀬大師稲荷神社・日枝大神社であった。

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・・・・・・・・・・・・周辺には、チョイト懐かしい感じがする戦後の住宅もある。

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・・・・・・・・・・・・長さ100m程(?)の商店街「観音一丁目商店会」、、、、開いてる店は無い、今日は休みか、廃業したのか、まだ時間が早いのか、サッパリ判らん?

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・・・・・・・・・・・・川崎市営住宅「観音町住宅」は114戸の団地、、、、昭和50年代の施工か?、、、、ここでも、公園で遊ぶ子供がいない!

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・・・・・・・・・・・・「観音」の町で観音を見つけた!、、、、観音2丁目に、曹洞宗寺院の石観音堂がある、潮音殿と号す。 石観音堂は寛文5年(1665)天台宗明長寺の僧弁融が創建、近郷近在の人々の信仰を集めたと言われている。 本尊は石造如意輪観世音菩薩。、、、、江戸時代には信仰を集めて賑わったとそうで、地元の人々だけでなく江戸にも信者が多かった。 大師参拝の際の立ち寄りコースとして定着していた。 さほど広くはないが境内には、霊亀石伝 説、六句俳句碑、独吟万句詠草塚など当時を語る石造物が文化財として残されている。、、、、堂の内部を覗いてみたが、主の石造如意輪観音菩薩は拝めず残念至極!     

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・・・・・・・・・・・・石観音堂と向かい合わせに、弁天神社・八海山神社がある。 一つの社に二つの鳥居が並んでいる珍しい神社。向かって左側の赤い鳥居が弁天神社で海苔養殖の守護神。 右側の白い鳥居が八海山神社で製塩業の守護神である。 神社は東京湾に近く、海苔養殖が盛んであった頃は、船祭りなども行われていたそうだ。 、、、、 よく見ると、鳥居の形もチョイト違うね! 社殿の内部を覗いてみたかった、2社の仕切りがあるのかな?

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・・・・・・・・・・・・観音2丁目には、石観音堂と富士見通りを結ぶ「観音通り」がある。 この通りにも、小さい、寂しい商店街「観音通り商店会」がある。 10時になっても、シャッターは上がらない!?!?

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・・・・・・・・・・・・「観音」はアパートの町?、、、、新旧いろいろなアパートが並んでいる。 マンションは少ない!

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・・・・・・・・・・・・再び、「富士見通り」に戻り、バスで川崎駅へ、、、、今日はココまで!

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2020年1月10日 (金)

多摩川で若き頃を思い出す

出がけの夫婦の会話、『散歩してくる』 『何処へ?』 『まだ決めてない、駅まで歩きながら決める』 『それなら、京成か東武方面ね(浅草線押上方面)』 『なぜ?』 『京急方面(浅草線泉岳寺方面)は、銀座・新橋を通るから混んで座れないでしょ。押上へ行く電車はガラガラ』、、、、そうなんです、都営浅草線の浅草橋駅では泉岳寺方面行きは通勤客で満員、押上方面行きはスカスカのスカパーで、ホームに立つと、つい空いている押上方面行きの電車に乗ってしまうのです。、、、、ところがドッコイ、天の邪鬼の私、今日は満員の三崎口行きに乗ってしまった。 品川まで座れず、『何処で降りようか?』考えても、私の前に立つ女性がスマホを激しくいじり、『何してるんだ?』女性の手の動きが気にかかりイライラ、とうとう品川まで来てしまった。 車内は空いたので座り、女性はどこかにいなくなった。 これで、やっと心安らかに、自分が下車する駅を決められる。 車内アナウンス『次は京急蒲田、雑色、六郷土手はお乗り換え下さい』を聞いて、久しぶりに雑色で下車してみることにした。

雑色駅で下車してみたが、行く先は定まらず。 気の向くままに歩き、行った先は多摩川。 JR蒲田駅方面に方向転換し、再び気の向くままに歩き、着いた所はナント雑色駅。、、、、結局、雑色駅と多摩川土手の間を往復した、1万歩の散歩です。




●宮中の役人が居たのか? ・・・・・・・雑色駅明治34年(1901)2月1日に京浜電気鉄道の駅として六郷橋~官設大森間の開通と同時に開業した。 開通時は道路上の停留所であったが、その後、大正12年(1923)に新設軌道に変わり位置も変わった。 昭和54年(1979)には、ホームが延長され4両編成から6両編成用に改良された。 そして、平成22年(2010)~平成24年(2012)にかけ、駅の高架化が進められ現在の駅が完成した。、、、、駅名の「雑色(ぞうしき)」は鎌倉時代、宮中の雑役の役目をしていた職業のこと。 また、身分が低い者という意味もあるそうだ。 駅のある周辺はかつての地名:雑色村であった。 この地名は明治末期に六郷村(現在の仲六郷)に編入されたため、駅名に残るのみである。

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・・・・・・・・・・・・駅周辺は再開発事業が予定されていたためか、駅前は広く大きな空間が創られている。 ただ、再開発事業は現在中断されているようだ。

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・・・・・・・・・・・・駅前で、『どっちに歩くか?』思案橋。 駅前のアーケード街を見て、賑やかそうな方向(西側)に歩くことにした。

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●西六郷に入る! ・・・・・・・雑色駅から西へ歩き、JR東海道線の宮前踏切に出てきた。 踏切を越え、西六郷2丁目の町に入る。、、、、中高年の方は「西六郷少年少女合唱団」を思い出す人もいるでしょう。 NHKの「みんなのうた」で活躍した児童合唱団の地元。 合唱団は指導者の死去に伴い平成11年(1999)に解団した。 現在は、新しい合唱団が立ち上がり活躍されているそうだ! 

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●双子の寺と神社! ・・・・・・・・西六郷の裏道を歩くと、隣り合わせで「白山神社」と「薬王寺」があった。(西六郷2)

・・・・・・・・・・・・白山神社の創建年代は不詳。 正徳甲午年(1707)銘の手水石が残されていることや、隣りの別当寺:薬王寺が宥範法印(延宝5年1677年寂)により創建されていることから、薬王寺と共に創建されたものらしい。、、、、境内のウメは、近頃の陽気のせいか開花していた。

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・・・・・・・・・・・・白山神社の隣り、薬王寺は宝幢院末東輝山といい、開山は宥範で、延宝5年(1677)に寂しているから、その近年に創建されたものと思われる。 寺伝によると古川薬師安養寺の隠居寺といわれている。 昭和20年(1945)の戦災で本堂・庫裡焼失、昭和35年(1960)現本堂を完成した。、、、、境内には馬頭観音が祀られている。、、、、境内は綺麗に手入れされ、気持ち良い寺だ。  

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●街道のロマン! ・・・・・・西六郷の裏道をぶらつき、多摩川の土手が見えた。 土手の手前に、真言宗智山派寺院の医王山安養寺がある。 永禄11年(1568)頃、永伝法印が創建。 境内の薬師堂は行基(667~749)の創建と伝えられ、安養寺は、薬師堂(古川薬師)の別当寺を務めていた。 安養寺は江戸名所図絵にも画かれており、江戸時代当時は平間寺(川崎大師)、新田神社と共に江戸名所巡りの散策コースとして賑わったそうだ。  現在の安養寺本堂は、正徳5年(1715)の建築。 明冶末から大正の初めにかけて行われた多摩川の河川改修の結果、元の河川敷から現在地の西六郷に移転した。 また、それにともなって堂宇も移築された。、、、、大正の震災や、昭和の戦災による被害は少なく、火災による全焼はまぬがれた。

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・・・・・・・・・・・・安養寺の門前にある「古川薬師道 道標」、、、、延宝2年(1674)東海道筋の雑色から、多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、のち区画整理のため現在の安養寺(古川薬師)の門前に移された。 正面と両側面に、古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。 道標正面には、上部に梵字のマークと「古川 藥師如來江之道 六郷之内古川村・別当安養寺」 右側面には「是よりふる川屋くし江のみち」、左の側面には「これより里ふ類かわやくしへ乃ミち」と彫られている。、、、、江戸時代の道筋にロマン感じさせる道標だ!
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●ゴルフの難しさを知った! ・・・・・・・安養寺から多摩川土手に上ってみた。 今から50年前、ピカピカの若い頃を思い出した!、、、、写真右端のマンションが建つ以前、そこは私が約半年間、ゼネコンの新人監督として現場で寝泊まりしていた懐かしい処である。 写真左端には、当時河川敷のゴルフ場があった。 毎朝、起きては朝食前に通ったが、サッパリ上達しないので、ゴルフはあきらめた! 川向こうは川崎市、ゴルフをあきらめボーリングに目覚め、川崎へ通った思い出の地。
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●戻ってきた! ・・・・・・・・多摩川土手に別れを告げてJR蒲田駅へ向かうつもりで歩いたが、どこかで足がもつれたか、蒲田駅に向かわず、雑色駅方向に歩いていた。、、、、西六郷小学校前を通り、都営西六郷一丁目アパートの横に出て、東海道線の踏切を越え、再び雑色の商店街を歩き、雑色駅に到着。

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2020年1月 9日 (木)

小松菜の里

困ったもので、顔は良いのだが眼が悪く、最近メガネの度が合わず新調することにした。 私のメガネは二十年程前から同じ眼鏡屋さんから購入してる。 同じ眼鏡屋さんだと、検眼、購入履歴などの情報を保存しており、客側としても何かと相談しやすく便利である。 その眼鏡屋さんは秋葉原にあり、浅草橋の我が家から歩いても20分程で行けた。 しかし2年前に店舗を整理統合し、秋葉原の店は新小岩の店に統合された。 仕様がない、“生姜は八百屋で売ってるよ”、新小岩の店に行って買うことにした。、、、、今日は、その新調したメガネを受け取りに新小岩に行ってきた。 眼鏡屋へ行く前に香取神社へチョイト寄ってきた。




●小松が消えた! ・・・・・・現在、新小岩駅のある位置には大正15年(1926)に設置された新小岩信号所があった。 昭和3年(1928)7月10日、信号所が駅に昇格し新小岩駅が開業した。、、、、新小岩駅周辺は元々「小松」という地名であった。 駅の開業にあったっては、駅名を地名に由来して「下総小松」とか「小松」とする予定だった。 ところが、周辺住民の要望によって信号所の名前のままの新小岩駅となった。 さらに、昭和40年代の住居表示実施の際、周辺の地名も駅名に合わせて新小岩・東新小岩・西新小岩となり、「小松」の地名は消え去った。

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・・・・・・・・・・・・ホームから見る駅前ロータリー。 手前は旧駅舎を撤去中。
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●小松菜の里 ・・・・・・・眼鏡屋へ行く前に、駅ホーム下を抜けるバス通り「平和橋通り」南下し、江戸川区中央4丁目の新小岩香取神社に寄ってみた。、、、、新小岩香取神社の創建年代は不詳だが、昔この辺一帯が芦原で船が自由に往来できた頃、その中に浮かぶ道ヶ島(堂ヶ島)という小高い島に、下総の香取大神宮より経津主命の分霊を祀ったのが、香取神社勧請の由緒と言われている。 元和3年(1617)に再建、西小松川村の鎮守であった。 当時国府台間々の入江から、武蔵国上野の台地に向かう船は、この神社の森を船路の目安としたので、間々井宮と称したと伝えられている。、、、、この社は元和5年(1619)の棟札を所蔵する古社で、亀井和泉守源永好以来代々亀井家が宮司をつとめている。、、、、明治時代以降、近隣の神社を当社に合祀、また数多くの神社の兼務を行っている。 まさに、神社のM&Aと、出先店舗の増設だ!

・・・・・・・・・・・・平和橋通りを南に歩き、新小岩親水公園の手前をチョイト東に入ると、住宅地の中に神社がある。
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・・・・・・・・・・・・現在の本殿は総欅造りで、氏子大工牧野八郎次が十年の歳月を費やし、天保4年(1833)に竣工した建物。

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・・・・・・・・・・・・境内社としては、稲荷神社水神社道祖神鷲神社大雷神などが祀られている。

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・・・・・・・・・・・・境内には、すき焼きに入れる小松菜に因む石碑がある。、、、、「小松菜」は、享保4年(1719)、八代将軍吉宗が鷹狩をする時の食事をする場所として、当香取神社が選ばれ、時の神主亀井和泉守永範がそのお役を受けました。 しかしこれといって差し上げるものもなかったので、餅のすまし汁に青菜を少々、彩りとしてあしらって差し出すと、吉宗は大変喜ばれ、この菜をこの地にちなんで「小松菜」と命名されたと伝えられています。、、、、と、説明板に書かれている。 写真は「小松菜ゆかりの里」、「小松菜産土神」の石碑。

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・・・・・・・・・・・・神社の隣りには、小松菜の発祥の地といわれている屋敷「小松菜屋敷」がある。 将軍が鷹狩りに訪れた際、御膳所として小松菜の入った餅の澄まし汁を出した神主亀井和泉守の屋敷跡。 現在も子孫である地域歴史研究家亀井千歩子の住居となっている。

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・・・・・・・・・・・・神社前の道を西へ100m程歩くと「亀井家墳墓」がある。 香取神社を代々祀ってきた亀井家の墓所。

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●元気な商店街! ・・・・・・・JR新小岩駅の駅前ロータリーの真ん前にルミエール商店街がある。 全長420m、約140店舗が軒を連ねる下町の元気な商店街。 昭和34年(1959)に設置した長いアーケードが駅前から続き、雨でも安心して買い物ができるようだ。、、、、商店街の中に眼鏡屋さんが5軒もあった。 もちろんスーパー、コンビニも、パチンコ屋も、生活に必要なものは全てあるようだ。

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●メガネ新調! ・・・・・・・私は若く見えるようで、これまで70代の自分が、世間さまには60代に見られていた。 今日、新調したメガネではもっと若く50代に見えるらしい。 店員さんが嬉しいこと言ってくれる!、、、、早速、新しいメガネをかけて電車に乗ったが、誰もふりむいてくれない! やっぱり!!!

2020年1月 5日 (日)

三つめの行徳橋

総武本線の本八幡駅から、行徳橋を渡り、江戸川水門・閘門を見て、篠崎ポニーランド前バス停からバスで小岩駅に戻る。 1万1千歩の散歩です。




●南口は裏口? ・・・・・・・JR総武本線の本八幡駅は昭和10年(1935)9月1日に開業した。 駅は緩行線の島式ホーム1面2線と特急・快速がダッシュで通過する快速通過線2線の高架駅。 高架下に改札口があり、出入口は 北口と南口の2か所と駅ビルShapo口がある。 都営地下鉄新宿線の本八幡駅とは駅ビル内の連絡通路で結ばれている。、、、、みずほ、三井住友、三菱UFJ、りそな、千葉、千葉興業、三菱UFJ信託、各銀行の支店は全て北口側にある。 南口側には、駅前からチョイト外れた所に京葉銀行の支店があった!、、、、まだ松の内の日曜日、駅はガラガラ、人影の少ないい南口から散歩をスタートする!

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●県道は旧街道? ・・・・・・・・駅から
県道6号(市川浦安線)沿いに歩き、行徳橋を目指す。、、、、人も、車も少なく、歩きやすい道を行く! 

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・・・・・・・・・・・・市川市立大和田小学校近くの交差点角に『未来(みき)ちゃん』の像があった。、、、、渡辺成良:作で、平成17年(2005)に設置された。 「アメリカ・ソビエトに桜の苗木をおくる会」が、アメリカ合衆国カリフォルニア州ガーデナ市(1983)、ソビエト社会主義共和国連邦ナホトカ沿海地区(1984)、市川市立大和田小学校(1985)と桜植樹を行い、その20周年記念碑として設置したそうだ。、、、、会が、なぜ桜の木を贈るのか? 経緯は不明だが、街角の癒しの像としていいね!

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・・・・・・・・・・・・県道に沿って歩いて行くと、市川市文化会館が見える。 昭和60年(1985)に総事業費約92億円で建てられた、約2000人収容の大ホールなどを備えた芸術文化の拠点である。、、、、チョイト見たかったが、時間が早すぎ開館前なので残念であったのが、「井上ひさし記念室」だ! 井上ひさしは「ひょっこりひょうたん島」の原作者で、劇団「こまつ座」の創設者で、小説「浅草鳥越あずま床」の作家。 昭和42年(1967)から昭和62年(1987)まで、市川で暮らした。 その資料が展示されているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・埼玉県の人を一挙にディズニーランドに引き寄せる東京外環自動車道を、市川市大和町1丁目で横切る。、、、、歩道橋の上に立つと、何か物を投げたくなる気持ち、なんとなく判るね!

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・・・・・・・・・・・・大和田2丁目の甲大神社(かぶとだいじんじゃ)に立ち寄る。、、、、甲大神社の祭神は応神天皇と言われているが、大神の兜を祭るとも伝えられている。 創建は永延2年(988)当地に鎮座、葛飾八幡宮の摂社で「注連下」と称し、大和田村の鎮守社であった。 一の鳥居、二の鳥居とも、太い柱で重量感がある。

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・・・・・・・・・・・・京葉道路の下を抜けたところに、延命地蔵尊が祀られている。、、、、稲荷木 一本松」と記された案内板には、地名「稲荷木」のふりがなが「とうかき」と標されていた。 これまで「稲荷木」を“いなりぎ”と読んでいた、“とうかき”とは難読地名だ!、、、、さらにその案内板によると、かつて、行徳から市川に向かうには、今の行徳橋あたりから稲荷木の雙林寺(そうりんじ)の前を通り、稲荷神社からこの地に出て、江戸川沿いに大和田→大洲→市川南を経て国道14号線(上総道・佐倉道・千葉街道)に出て市川に至ったと記されている。 そして、この地には「一本松」が植えられていた。 しかし、一本松は京葉道路などの車の排気ガスの影響から、昭和48年(1973)に伐採され、現在は根元の部分が残されている。、、、、一本松の前には、「馬頭観世音菩薩」が立ち、そして左隣に「延命地蔵尊」、さらにその右手前の石には、「これより右やわたみち 正徳三癸巳歳」「これより左市川国分寺みち(?)」と刻まれている。 つまりここは、行徳橋方面から来ると市川方面と八幡方面の分岐点である。、、、、なんと、この県道は旧街道の一部だったようだ!

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・・・・・・・・・・・・建物は新しくとも、道幅もチョイト狭くなり、なんとなく旧街道らしい雰囲気が出てきた!

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・・・・・・・・・・・・市川市稲荷木(とうかぎ)3丁目に、稲荷木稲荷神社がある。 稲荷木稲荷神社は、稲荷木村の鎮守社として寛永12年(1635)創建した。、、、、社殿は昭和41年(1966)に改築され、拝殿は鉄筋コンクリート造、本殿は木造で覆堂の中にある。 本殿の彫刻はなかなかのできばいで見ごたえ有り!、、、、地名「稲荷木」とは、“稲を干す木”、稲木に由来するそうだ。

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・・・・・・・・・・・・稲荷木稲荷神社から200m程歩くと、享保6年(1721)の創建、新義真言宗の雙輪寺がある。 
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●どの橋が行徳橋となるか? ・・・・・・・行徳橋は、市川市の行徳地区と八幡地区を結ぶ県道6号市川浦安線が走る行徳橋。 全長は約422m、幅7mの道路橋で、国が管理する可動堰(ぜき)との一体構造となっている。 昭和31年(1956)3月完成後、昭和51年(1976)に歩道拡張工事を行っただけで、改修工事は行っておらず、老朽化が著しく進んでいる。 現在可動堰の上流側に新しい橋を架け替え中(工事は遅れているが今年中に供用開始となるか?)、、、、【チョイトややっこしい話】 現在の行徳橋の下流側にバイパスとして昭和47年(1972)に開通した新行徳橋が架かっている。 そこで現在は昭和31年の行徳橋を「旧行徳橋」と呼んでいるのだが・・・新しい橋ができると“新”の字を冠して「新旧行徳橋」と呼ぶのか? チョイト名の整理をしてほしいね。

・・・・・・・・・・・・現在の行徳橋(別名:旧行徳橋)は、バスがヤットコサすれ違うことのできる幅7m、歩道は可動堰側に1.2mの幅である。 歩道上で自転車に乗ったまま、両方がすれ違うことは不可能。

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・・・・・・・・・・・・上流側に新しい行徳橋(?)を建設中。、、、、新しい橋と可動堰はタラップで結ばれている。 新しい橋が供用されると古い行徳橋は可動堰と切り離され、撤去されるかもね?

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・・・・・・・・・・・・現在の行徳橋(写真手前)から下流側約150mに架かる新行徳橋(写真奥)。 “新”を冠した名が残るのか?
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●海水を阻止する水門! ・・・・・・・行徳橋を渡り江戸川水閘門に出る。、、、、江戸川と旧江戸川の分流点の直下流側に位置し、旧江戸川をとおり東京湾の海水が遡ることを阻止する水門+閘門。 昭和18年(1943)、戦時真っ最中の中で竣工し、東京市民のため、金町の浄水場で安定的な取水を可能とした。、、、、空襲で破壊されず、よかった!

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●お帰りです! ・・・・・・・・江戸川土手を遡り、京葉道路:江戸川大橋の際にある「ポニーランド」バス停から小岩駅行きのバスに乗る。

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2020年1月 3日 (金)

どこの神社も長蛇の列

穏やかな正月三が日、我が家もこの一年何事も無く穏やかに正月を迎えた。

今年は、二組の娘夫婦と孫が元日より我が家に集まり賑やかな幕開けとなった。 おとそ気分、おせち腹をスッキリさせようと、家族全員で昼過ぎに近くへ初詣することにした。 浅草寺は行かなくても超満員と判り、パスする。 近くで、比較的すいていそうな神田明神へ行くことにした。 来て・見て・ビックリ、神田明神の鳥居前の湯島坂に大行列、延々と坂下の明神下交差点まで続いている。 社殿まで2時間待ちの大行列。 「アリャ・コリャ・ダメだ! ヨシ、近くの湯島天神へ行こう!」、、、、神田明神から、湯島天神正面に向かう清水坂を上り、三組坂の上まで来ると。 再び、来て・見て・ビックリ、こちらも物凄い大行列、行列の最後は三組坂坂下交差点まで続いている。 2時間並んでも拝めるか? 結局、元日の参拝はあきらめ、我が家へ戻り夕食となる。

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正月二日目、前日の疲れを癒すため、“一日寝てよう日”

本日、正月三日目、夫婦でとりあえず浅草橋駅裏の我が家の氏神さま:銀杏岡八幡神社へ詣でる。 その足で、チョイト柴又帝釈天に行ってきた。




●我が家の氏神さま ・・・・・・【まずは前置】 「氏神」とは、本来は氏名(うじな)の神であり、一族一統の神であった。 しかし現在では、鎮守や産土神(うぶすなかみ)と区別せず、神社周辺の土地に住む地域の人々を守ってくれる神を氏神という。 氏神の周辺に住み祭礼などに参加する人々を氏子と呼んでいる。 祭礼は町内会で単位で参加するので、ある処に住めば、どの町会属し、どの神社の氏子となるか一意的に定まる。 つまりは、“神社が小さくて気に入らない”、“宮司と仲が悪く顔も見たくない”、“巫女さんに美人がいないからいやだ”など、あーでもない、こーでもないと言って氏神さまを勝手に決めることはできない。 また、自分の気に入った神社の周辺には住んではいないが、その神を信仰する人を崇敬者(すうけいしゃ)と称する。

・・・・・・・・・浅草橋1丁目に鎮座する銀杏岡八幡神社の創建年代は不詳だが、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。 江戸時代に入り、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となった。 明治維新後には村社に列格していました。、、、、我が家の家族は、全員この神社で罪穢(つみけがれ)を祓ってもらっている。 私の穢れはどうもしっこくこびりついているようだ! いつまでたっても穢れたまま。 いまだに、宝くじ一等が当たらない!、、、、今日はお賽銭も奮発したので、今年こそ一等が当たるようにお願いした。

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●何処も同じ、人・人・人! ・・・・・・・・氏神さまに詣でた後は、チョイト甘味を味わいたくなって、夫婦で柴又の帝釈天に参詣。、、、、ここも、行ってビックリ・見てビックリ・婆さん餅がつまってシャックリ・爺さん餅がつまってポックリ! 参道は超満員、でも行列で並ぶこともなく、ヨチヨチ歩いて本堂まで。、、、、参道の店は飛ぶように売れ、食事処・甘味処はこれまた超満員。 ここでも、食べるのはあきらめ、お土産の草だんごを買って帰る。 
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