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2020年1月10日 (金)

多摩川で若き頃を思い出す

出がけの夫婦の会話、『散歩してくる』 『何処へ?』 『まだ決めてない、駅まで歩きながら決める』 『それなら、京成か東武方面ね(浅草線押上方面)』 『なぜ?』 『京急方面(浅草線泉岳寺方面)は、銀座・新橋を通るから混んで座れないでしょ。押上へ行く電車はガラガラ』、、、、そうなんです、都営浅草線の浅草橋駅では泉岳寺方面行きは通勤客で満員、押上方面行きはスカスカのスカパーで、ホームに立つと、つい空いている押上方面行きの電車に乗ってしまうのです。、、、、ところがドッコイ、天の邪鬼の私、今日は満員の三崎口行きに乗ってしまった。 品川まで座れず、『何処で降りようか?』考えても、私の前に立つ女性がスマホを激しくいじり、『何してるんだ?』女性の手の動きが気にかかりイライラ、とうとう品川まで来てしまった。 車内は空いたので座り、女性はどこかにいなくなった。 これで、やっと心安らかに、自分が下車する駅を決められる。 車内アナウンス『次は京急蒲田、雑色、六郷土手はお乗り換え下さい』を聞いて、久しぶりに雑色で下車してみることにした。

雑色駅で下車してみたが、行く先は定まらず。 気の向くままに歩き、行った先は多摩川。 JR蒲田駅方面に方向転換し、再び気の向くままに歩き、着いた所はナント雑色駅。、、、、結局、雑色駅と多摩川土手の間を往復した、1万歩の散歩です。




●宮中の役人が居たのか? ・・・・・・・雑色駅明治34年(1901)2月1日に京浜電気鉄道の駅として六郷橋~官設大森間の開通と同時に開業した。 開通時は道路上の停留所であったが、その後、大正12年(1923)に新設軌道に変わり位置も変わった。 昭和54年(1979)には、ホームが延長され4両編成から6両編成用に改良された。 そして、平成22年(2010)~平成24年(2012)にかけ、駅の高架化が進められ現在の駅が完成した。、、、、駅名の「雑色(ぞうしき)」は鎌倉時代、宮中の雑役の役目をしていた職業のこと。 また、身分が低い者という意味もあるそうだ。 駅のある周辺はかつての地名:雑色村であった。 この地名は明治末期に六郷村(現在の仲六郷)に編入されたため、駅名に残るのみである。

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・・・・・・・・・・・・駅周辺は再開発事業が予定されていたためか、駅前は広く大きな空間が創られている。 ただ、再開発事業は現在中断されているようだ。

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・・・・・・・・・・・・駅前で、『どっちに歩くか?』思案橋。 駅前のアーケード街を見て、賑やかそうな方向(西側)に歩くことにした。

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●西六郷に入る! ・・・・・・・雑色駅から西へ歩き、JR東海道線の宮前踏切に出てきた。 踏切を越え、西六郷2丁目の町に入る。、、、、中高年の方は「西六郷少年少女合唱団」を思い出す人もいるでしょう。 NHKの「みんなのうた」で活躍した児童合唱団の地元。 合唱団は指導者の死去に伴い平成11年(1999)に解団した。 現在は、新しい合唱団が立ち上がり活躍されているそうだ! 

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●双子の寺と神社! ・・・・・・・・西六郷の裏道を歩くと、隣り合わせで「白山神社」と「薬王寺」があった。(西六郷2)

・・・・・・・・・・・・白山神社の創建年代は不詳。 正徳甲午年(1707)銘の手水石が残されていることや、隣りの別当寺:薬王寺が宥範法印(延宝5年1677年寂)により創建されていることから、薬王寺と共に創建されたものらしい。、、、、境内のウメは、近頃の陽気のせいか開花していた。

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・・・・・・・・・・・・白山神社の隣り、薬王寺は宝幢院末東輝山といい、開山は宥範で、延宝5年(1677)に寂しているから、その近年に創建されたものと思われる。 寺伝によると古川薬師安養寺の隠居寺といわれている。 昭和20年(1945)の戦災で本堂・庫裡焼失、昭和35年(1960)現本堂を完成した。、、、、境内には馬頭観音が祀られている。、、、、境内は綺麗に手入れされ、気持ち良い寺だ。  

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●街道のロマン! ・・・・・・西六郷の裏道をぶらつき、多摩川の土手が見えた。 土手の手前に、真言宗智山派寺院の医王山安養寺がある。 永禄11年(1568)頃、永伝法印が創建。 境内の薬師堂は行基(667~749)の創建と伝えられ、安養寺は、薬師堂(古川薬師)の別当寺を務めていた。 安養寺は江戸名所図絵にも画かれており、江戸時代当時は平間寺(川崎大師)、新田神社と共に江戸名所巡りの散策コースとして賑わったそうだ。  現在の安養寺本堂は、正徳5年(1715)の建築。 明冶末から大正の初めにかけて行われた多摩川の河川改修の結果、元の河川敷から現在地の西六郷に移転した。 また、それにともなって堂宇も移築された。、、、、大正の震災や、昭和の戦災による被害は少なく、火災による全焼はまぬがれた。

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・・・・・・・・・・・・安養寺の門前にある「古川薬師道 道標」、、、、延宝2年(1674)東海道筋の雑色から、多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、のち区画整理のため現在の安養寺(古川薬師)の門前に移された。 正面と両側面に、古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。 道標正面には、上部に梵字のマークと「古川 藥師如來江之道 六郷之内古川村・別当安養寺」 右側面には「是よりふる川屋くし江のみち」、左の側面には「これより里ふ類かわやくしへ乃ミち」と彫られている。、、、、江戸時代の道筋にロマン感じさせる道標だ!
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●ゴルフの難しさを知った! ・・・・・・・安養寺から多摩川土手に上ってみた。 今から50年前、ピカピカの若い頃を思い出した!、、、、写真右端のマンションが建つ以前、そこは私が約半年間、ゼネコンの新人監督として現場で寝泊まりしていた懐かしい処である。 写真左端には、当時河川敷のゴルフ場があった。 毎朝、起きては朝食前に通ったが、サッパリ上達しないので、ゴルフはあきらめた! 川向こうは川崎市、ゴルフをあきらめボーリングに目覚め、川崎へ通った思い出の地。
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●戻ってきた! ・・・・・・・・多摩川土手に別れを告げてJR蒲田駅へ向かうつもりで歩いたが、どこかで足がもつれたか、蒲田駅に向かわず、雑色駅方向に歩いていた。、、、、西六郷小学校前を通り、都営西六郷一丁目アパートの横に出て、東海道線の踏切を越え、再び雑色の商店街を歩き、雑色駅に到着。

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