田安門
循環器内科の定期検診日、クリニックに行くついでに、飯田橋駅から田安門・武道館・近代美術館工芸館と巡り、市ヶ谷駅までの散歩です。
●カーブがキツイ! ・・・・・・・飯田橋駅は、昭和3年(1928)の中央本線の複々線化に伴い、それまでの牛込駅(明治27年開業)と飯田町駅(明治28年開業)を統合するような形で新たに開業した駅。、、、、島式ホーム1面2線の高架駅。 飯田橋駅は東西に出入口はあるが、地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっている、西口側は橋上駅舎となっているが只今改良工事中につき、早稲田通り北側に仮駅舎がある。 工事は、ホームを新宿寄りに200m程移動しホームの急なカーブを解消することにある。 今年工事完了予定で一生懸命作業中。、、、、電車とホームの間の隙間が広いので、年寄りにはチョイト乗り降りが恐い、工事完了を待っている!、、、、今日は医者に行くので、東口に出た!



●私の通勤路! ・・・・・・・・・飯田橋駅から「早稲田通り」を歩き、田安門へ向かう。 この道は私の通勤路の一部で、昭和40年代から60年代まで歩き通った道!
・・・・・・・・・・・・飯田橋駅西口に近い富士見1丁目の民家。 2階の3連の窓いいね!
・・・・・・・・・・・・角川第3本社ビルの向かいに「共済ビル」(富士見1)がある。 昭和初期のビルか(?)渋いビルだ、昭和60年代までは、玄関周りにはタイルが張られていたと記憶している。 『取り壊されず、まだ残っていた!』と叫びたくなる建物だ。
・・・・・・・・・・・・・こちらは、「テツゲンの本社ビル」(富士見1)、、、、昭和40年代頃のモダンな建物。
・・・・・・・・・・・・千代田区立九段中等教育学校(旧都立九段高校)前のスペイン瓦のお屋敷。 大正14年(1925)に建てられた山口万吉邸(新潟県長岡出身の実業家)、、、、設計は、今井兼次、内藤多仲、木子七郎の三人。、、、、現在は、東急電鉄・竹中工務店・東邦レオの3社が共同で活用し、会員制ビジネスイノベーション拠点「kudan house」として利用されている。、、、、一度は中を覗かせてもらいたい建物だ!

・・・・・・・・・・・・靖国神社大鳥居前の追分角地にある大きな碑は「濠北方面戦没者慰霊碑」である。 “濠”は“豪”とも書き、オーストラリアのこと。 ボルネオ、セレべス、ジャバ、ハルアへラ、セラム、ニューギニア地区の戦没者慰霊碑で、昭和39年(1964)に建立された。 台座の大きさに比べ中央の自然石の碑がチョイト小さいね!、、、、【実はですね・・・】この碑の台座は本来シベリア出兵の際の「尼港遭難記念碑」として大正13年(1924)に武田五一の設計、明石作五郎の施工により建立されたものである。 当初は品川弥二郎銅像の西隣りに建立されたが、関東大震災後、九段坂の拡幅により現在の大鳥居前に移築された。 しかし敗戦後の昭和22年(1947)、尼港遭難記念碑の像などは撤去され、台座のみとなった。 その台座を、現在の碑に流用したものである。 “尼港事件”とは、大正9年(1920)、ロシアが率いる露中共産パルチザンによって黒竜江河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本守備隊及び日本人居留民約700名以上が虐殺された事件で、シベリア出兵が延長された要因の一つとも言われている。
・・・・・・・・・・・・大鳥居前を抜け、明治4年(1871)に建てられた招魂社灯籠(常夜灯)見ながら田安門に到着。

●側室の御門? ・・・・・・・大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれている処にある田安門は、寛永13年(1636)に建てられたそうだ。 北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。 門名の由来は、門内に田安大明神があったので門名にしたといわれている。 江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となる。 有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあった。


・・・・・・・・・・・・・・外から来ると、最初に通過する高麗門に几号水準点(きごうすいじゅんてん、明治時代の水準測量の測量点。 “不”の字に似た図形)がある。 “不”の字の頭を誰か削ったようで、3本足の一部がかろうじて残されている。、、、、水準点設置時の標高は25.5786mで、mm単位以下まで測り、信じられない精度だ。

・・・・・・・・・・・・田安門を入って渡櫓門 を通り、すぐに左に折れると、「弥生慰霊堂」と刻まれた石柱と、入口を守る狛犬が目に入る。 そこから階段(参道)を上ると田安門を見下げる高台に慰霊堂(弥生廟)がある。、、、、弥生廟は、明治18年(1885)当時本郷区(現文京区)向ヶ岡弥生町(東大構内)にあった警視総監の邸内に、警察官・消防官の殉職者を祀るため創建された弥生神社がその起源となっている。 その後、鎮座地は、芝公園、鍛冶橋の警視庁、青山墓地、麹町区隼町と転々としたが、昭和22年(1947)現在地に納まり、名を「弥生慰霊堂(弥生廟)」と改めた。 戦後、警視庁では神社の管理が出来なくなり、“神社”から“慰霊堂(廟)”に変えた。 つまり、軍人は靖国神社、警察官・消防官は弥生神社に祀る考え方である。、、、、弥生慰霊堂は、弥生廟奉賛会(弥生奉賛会)によって管理され、実質的には警視庁と密接な関係を保っている。 慰霊祭の形式もより神道色を払拭した形式に変更された。、、、、北の丸公園・武道館に訪れる人は多くても、弥生慰霊堂に訪れる人は少ない。 参道前を歩く人は多いが、皆、慰霊堂の存在を知らないようだ! 機会あれば立ち寄って、手を合わせて欲しい!
●見納めになるかも? ・・・・・・・北の丸公園の南端に、「東京国立近代美術館工芸館」がある。 建物は明治43年(1910)近衛師団の衛戍地であった北の丸に司令部が建設された、これが現:工芸館である。 昭和38年(1963)戦後、皇宮警察の寮として使われていた旧近衛師団司令部が北の丸地区の公園化に伴い、取り壊しが決定するが、戦友会、文化庁、日本建築学会などの努力により、昭和47年(1972)には保存が決定する。 昭和48年(1973)、北の丸公園内の旧近衛師団司令部庁舎が重要文化財に指定された上、国立近代美術館分室として活用されることとなり、改修工事が行われ、昭和52年(1977)に工芸館として開館。、、、、工芸館は今夏、金沢に移転することになっている。 収蔵品は金沢に移動し、展示される。 すると、この建物はどうなるの? たぶん、収蔵品が空になるので、次の用途が決まるまでは閉館となるでしょう! と、言うことで今日の散歩で見納めとなるかも?