バカ殿の志村城?
東武東上線の上板橋駅から北へ向かい、途中で進路を東に変えて、都営三田線の志村坂上駅まで、1万2千歩の散歩です。
●京に近い駅! ・・・・・・・上板橋駅は大正3年(1914)5月6日、東上本線池袋~田面沢(現在の川越市駅の近くにあった駅)間が開業してから、約一ヶ月後の6月17日に開業した。 池袋から6駅目の上板橋駅は、島式ホーム2面4線の地上駅で、特急、快速、急行、準急が通過して行く、止まるのは普通列車のみ。 橋上駅舎の改札口をを出ると線路の両側、南口と北口に出ることができる。 南口はチョイトせせこましい通りに面し夜は楽しそうな出口、北口はバスも止まる駅前の広い出口、今日の散歩は北口から北に向かい歩くことにした。、、、、駅名の「上板橋」は、江戸時代初期に板橋村が上板橋村と下板橋村に分村したことに由来する地名である。 “上”は、当時の首都:京都に近い方を表している。




●北へ来た! ・・・・・・・駅前を北へ向かう
・・・・・・・・・・・・駅前のメインストリート「ときわ通り」を横断する。 この通りにはバスも走ってる!
・・・・・・・・・・・・表通りから裏通りに入る。 まだ歩く人も少ない。

・・・・・・・・・・・・おや、道の別れめ(板橋区若木1)に庚申塔が!、、、、「かみなか庚申塔」と呼ばれている庚申塔が1基、小祠に安置されている。 享和4年(1803)の建立。 庚申塔の側面には、「右 にしたい とくまる」、「左 ねりま 大山みち」と標されており、この地が、西台・徳丸方面と富士・大山道の分岐点であった。、、、、富士山、大山参りの人々が、ここを通って行ったのであろう。 富士山までは、長い道中が始まったばかりだ!
・・・・・・・・・・・・裏道を北へ向かうと、板橋区立の「にりんそう公園」がある。 ここに、川中美幸が歌う「二輪草」の歌碑がある。 なぜ、ここに????、、、、「二輪草」は平成10年にシングルで発売され、100万枚のヒットとなり、同年のレコード大賞で優秀作品賞を受賞した。 レコード会社は儲かったので、区の花がニリンソウである板橋区の当公園に建てたらしい。 単なる“ニリンソウ”つながりのようだ!、、、、まだ、ニリンソウが咲く時期には、チョイト早いようだ。

・・・・・・・・・・・・裏通りを歩いて北へ向かい「中台稲荷神社」に出た。、、、、神社は俗に中台稲荷とか若木稲荷と呼ばれているらしい。 かつての中台村の鎮守。 創建は不詳だが、当社の境内は稲荷大神が降臨したと伝えられ、「稲荷渡(とうかわたり)」と呼ばれていたという。 現社殿は昭和36年(1961)の造営。、、、、社殿脇のムクの木は樹齢不明の老大木。 高さ約25m、根回り約5.8m。 このムクは「稲荷越の大木」と呼びならわされて、中山道と川越街道を結ぶ間道の目標となっていたそうだ。 社殿に倒れてこなければいいが、気になる樹だ!


●谷底へ下る! ・・・・・・・・・駅から北へ来たが、稲荷神社で女狐に魅せられて、直角に折れ東へ向かうことにした。
・・・・・・・・・・・・稲荷神社から区立中台中学校の前に出る手前に二股がある。 そのお股(板橋区中台1)に、地蔵尊が祠に入り、庚申塔と馬頭観音が雨ざらしで祀られている。 どなたかが、篤く信仰しているのか、新しい生花が供えられていた。、、、、地蔵さんは子安地蔵だそうだ。 石の蓑笠が重たそうで、チョイト可愛そう。 天明4年(1784)の造立らしい。 地蔵の立つ台座には「左 下板橋道 右 練馬道 五町」と彫られている。、、、、地蔵の左に、これまた道標を兼ねた庚申塔と馬頭観音がある。 庚申塔は嘉永5年(1852)、馬頭観音は寛政12年(1800)の年代物。

・・・・・・・・・・・・中台二丁目公園という小さな公園の脇に、急で、長い階段坂があった。 地形的には谷底へ下るようだ。 下までおりて、見上げたら、戻る気にならず、気の弱い私は心肺も弱いので、そのまま歩くことにした。

・・・・・・・・・・・・坂をおりると、中台2丁目と前野町5丁目の境で、道なりに歩く。
・・・・・・・・・・・・首都高5号池袋線の志村料金所・PAの横を抜けて、志村2丁目の町に入る。
●バカ殿はいない志村城! ・・・・・・・・板橋区志村2丁目の中心は高台の「志村城」(バカ殿がいたのは東村山だ!)。 その「志村城」は、現在の熊野神社がある処にあった。 神社の境内に「志村城跡」の石柱が建ててある。、、、、志村城は、康正2年(1456)に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。 本丸は神社の隣り現:志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川を巡らせ〝守るに易く攻めるに難し〟といわれる堅城であったが、大永4年(1524)に北条氏綱に攻められて落城した。
・・・・・・・・・・・・・熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。 長久3年(1042)、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。 現在の社殿は昭和32年(1957)に改築されたもの。、、、、本殿横には絵馬堂がある、この堂は明治期以前の本殿と言われてる。 真偽は?


●中山道に到着! ・・・・・・・志村城から裏道を歩き志村坂上駅へ向かう途中(志村2-7)に、富士大山道道標・庚申塔がある。、、、、この道標も、富士登山、大山詣での人々が通った道(旧中山道)に残されている。 道標の先は下練馬宿のある川越街道に出て、石神井川に向かう富士街道になる。 道標は寛政4年(1792)の造立で正面には「是より大山道井ねりま川こへみち」と刻まれている。 右に立つ庚申塔は万延元年(1860)の造立で、正面には庚申塔と刻まれ、左側には、「是より富士山大山道 練馬江一里 柳沢江一里 府中江七里」とある。、、、、昔の人は、この道標程度の情報で富士山まで歩いて行ったとは、よくぞ道に迷わず行けたものだ、“おそれ入谷の鬼子母神”だ!
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