子之神社は展望台
京成本線鬼越駅から、北の北方(きたかた)を廻って法華経寺の境内を抜け京成中山駅まで、1万歩の散歩です。
●鬼が居た処! ・・・・・・・京成本線の鬼越駅(おにごええき)は、昭和10年(1935)8月3日、中山鬼越駅として開業した。 島式ホーム1面2線の地上駅。 駅舎は京成八幡寄りの踏切脇にあり、駅舎と島式ホームの間には構内踏切がある。 一日当たりの平均乗降客は5,696人(2018年度実績)と少なく、もちろん特急も快速もビュンビュン通過する。 乗客の少ないホームに立つと、チョッピリ、ローカル駅の懐かしい雰囲気を感じることができる。、、、、地名の「鬼越」は、かつて、このあたりに恐しい鬼が住んでいたといわれ「鬼子居」と呼ばれていたが、その後、鬼子居が「鬼越」となったそうだ。 明治2年(1869)の地名は、葛飾県葛飾郡鬼越村であった。





●いろいろな神様が居ます! ・・・・・・・・鬼越の鎮守さまである神明社。 鬼越神明社は、元和2年(1616)伊勢の皇太神宮を勧請して創建、大正年間に村内にあった道祖神、天神社、諏訪社、与力・与直社、浅間神社を当地に遷座し、境内社とする。 境内社が増えたことで、耳の道祖神(耳の神様)、大神様(学問の神様)、お諏訪様(商売の神様)、与力様(鎮世の神)、浅間神社(富士信仰)いろいろな神様が揃っている。 お好みの神様を、チョイスできます!、、、、現在の社殿は明治年間の造営であるが、昨年の台風でヤラレタか、ブルーシートをかぶり痛々しい姿となった。 また、社殿前の「大クスノキ」は樹齢400年以上、幹回りは4mを越える大木。、、、、鳥居の前には、京成電車が通過する踏切があり、チョイト絵になる。



●絶景かな、絶景かな! ・・・・・鬼越の北に離接する「北方(きたかた)」の町を歩く。 北方は、住居表示実施以前は北方町(ぼっけまち)と称していた。 明治2年(1869)には葛飾県葛飾郡北方(ぼっけ)村と呼んでいたそうだ。、、、、「北方」の由来は、●崖の意味である「ほき」が訛って「ぼっけ」となった。 ●当地に住んだ閑院家の呼び名が北家(ほっけ)であったから。 ●中山領主の北の方が住んでいたことから北方と呼ばれていたから。 ●近くの法華経寺の法華から。 諸説イロイロ、お好きな説を!
・・・・・・・・・・・・「鬼越駅前通り商店会」の通りを少し北へ、「アーデル通り」と交差する。 アーデル通りに沿って右折し、東へ向かう。、、、、『ところで、“アーデル”て何?』 ナント、企業名であった。 市川市が命名権を売り、「アーデルフィットネスリーゾト」という企業と契約したそうだ。 市の税収アップに貢献したらしいが、私のようなよそ者には馴染みがないし、覚えにくいし、企業が変わったら道路名も変わるでは、困ったもんだ。 「恵方巻通り」の方が、親しみがあり、覚えやすいね!



・・・・・・・・・・・・アーデル通りの終点と思われる北方3丁目付近で、赤い華奢な鳥居があった。 「子之神社 参道」と書かれている。 素通りするにはチョイト気になるので、ネズミに騙されたつもりで参道を奥へ進むと、チャンとした石の鳥居が見え一安心!、、、、公民館のような建物がある。 神社は? 建物の後ろ(北方3)に、チャンとあった。 どうやら、神社の横にでてきたらしい拝殿と本殿がみえる。


・・・・・・・・・・・・さっそく拝殿へ、、、、ワォ~~、スゲェ~~、山頂展望台だ、国府台の台地を一望する崖上の展望台、これが子之神社(ねのじんじゃ)か、感動した!、、、、拝殿は崖上ギリギリの処に造られていた。 手を合わせるのは後まわし、まずは景色を堪能する。


・・・・・・・・・驚きも一段落し、サテ・サテ、神社を拝見!、、、、子之神社は、閑静な住宅街の中にあり、拝殿前に表参道らしき急な階段がある。 心肺の弱い我が身にはキツイ階段だが、一度下りてみた。、、、、神社は、大己貴命を祭神とし、亀山天皇の御代文永年間(1270年代)に建立されたそうだ。
●南妙法蓮華経! ・・・・・・・東山魁夷記念館からは、裏道を歩いて法華経寺の境内に出てきた。 境内を通り抜けるように、祖師堂で手を合わせ京成中山駅へ向かう。
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