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2020年3月

2020年3月31日 (火)

自宅軟禁!

『お年寄り コロナに感染 即コロリ! コロナうつせば 周囲(まわり)で コロリ!』 いずれにしても、世間・家族に迷惑かける。 行動に注意し、しばらくは自ら自宅軟禁!、、、、ストレス溜まるが、男は我慢、女は愛嬌

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2020年3月28日 (土)

外出自粛の散歩

外出自粛要請が出た東京都、私の散歩の多くは完全に「不要不急の散歩」である。 それ故ここ数日、家に籠もっていた。 『今日も我が家で寝てようか?』と思っていたら、昼に妻が『和泉公園のサクラが満開、見てきたら』と一言。 『そうだ!個人的な運動で我が家の近所を散歩するのはOKだ』と、自問自答する。 我が家から半径1km以内のご近所を一人で散歩してきた。 




●我が母校とサクラ・・・・・・・まずは、我が家から直線距離で約200m、関東大震災後に復興公園として大正15年(1940)に開園した柳北公園(台東区浅草橋5)に咲くサクラ。 満開だ!、、、、サクラの後ろの建物は、公園と同時の大正15年に竣工した我が母校:元柳北小学校の校舎。 小学校は平成13年(2001)に、少子化により廃校となり、現在は区で使用している。、、、、サクラは、来週には散ってしまうかも?

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●いつも行列! ・・・・・・・・柳北公園を抜けて、千代田区神田和泉町に行列のできる店がある。(我が家から直線で約400m)、、、、こちらは平日でも11時ごろから行列ができ、地元の私でも並ばないと入店が難しいラーメン屋さん「饗 くろ㐂」。 “知る人ぞ知る”有名店とのこと! 美味しいラーメンを求め、今日も並ぶお客さん。

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●感染拡大を止めて! ・・・・・・・神田和泉町2に、赤いのぼり旗と赤い鳥居が眩しい「日通金網稲荷神社」がある。(我が家から約450m)、、、、ここは日本通運の発祥地である。 現在、日本通運は神社の脇で新本社ビルを建設中。 日本通運の先祖は、江戸時代、この地で飛脚問屋を営業していた「京屋弥兵衛」と言う人で、大事な金銭や信書の輸送にあたり事故の起きないよう、正一位稲荷大明神を祀ったそうだ。 京屋は、その後、陸運元会社、内國通運、國際通運、とその名を変え、現在の日本通運となった。 時代が変わっても創業の志を大切に守っていく企業の姿勢が理解できる。、、、、“お稲荷さん”には、筋違いかもしれないが、“新型コロナ”の感染拡大をくい止めて欲しい、よろしく!

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●我が命の病院とサクラ! ・・・・・・・・・金網稲荷神社の隣りに千代田区立「和泉公園」(我が家から約490m)がある。 妻が言ったように、サクラは満開に近い状態であった。 大きなサクラが数本、さすがに今日は宴会する人はいない!、、、、写真、後ろの大きな建物は「三井記念病院」 6年前、私の大動脈を人工血管に置き換えてくれたアリガタイ病院。

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●橋の端を歩いて! ・・・・・・・・JR浅草橋駅の南側、JR総武線と並行して流れる神田川に架かる4橋を順に渡り、隅田川へ向かう。

・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から直線で約500m、今日渡る神田川4橋の中では最上流に架かる橋。 その名は「美倉橋」、、、、美倉橋は現在の千代田区神田佐久間町と同区東神田を結び、江戸時代に架けられた橋。 近くに三つの倉があったことから「三倉橋」、転じて「美倉橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の橋は昭和4年(1929)の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋。、、、、今日の神田川は、上流で咲くサクラの花びらを運んで流れ下る。

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・・・・・・・・・・・・次は、約360mの距離にある「左衛門橋」、、、、左衛門橋の、北詰は千代田区東神田3丁目と台東区浅草橋1丁目、南詰は千代田区東神田2丁目と中央区日本橋馬喰町2丁目で、三区を結ぶ橋である。 この橋の創架は、明治8年、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられた。 この時の許可条件は、有料期間7ヵ年、満期後東京府に上納となっていた。、、、、橋名は、北詰の台東区側にかつて鶴岡藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことから、この付近一帯を左衛門河岸と呼んだことに由来する。、、、、現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁で、橋長35.5m、幅員15.0mの鋼製橋で、昭和5年(1930)に架設。、、、、橋の際には、三区がそれぞれ独自に造った公衆便所・小公園などがある。 

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・・・・・・・・・・・・次は、約400mの処にある「浅草橋」、、、、北詰の台東区浅草橋・柳橋と南詰の中央区馬喰町・東日本橋を結ぶ橋。 江戸時代には、見附の一つで浅草橋御門があった。、、、、現在の橋は、関東大震災後の復興事業として、昭和5年(1930) に架設された鋼製の橋。

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・・・・・・・・・・・・最後の橋は、神田川最下流に架かる「柳橋」(我が家から約540m)、、、、この橋も復興橋のひとつで、北詰は台東区柳橋、南詰は中央区東日本橋。 昭和4年(1929)完成。 永代橋をモデルにしたと言われる、橋長37.9mの小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。 幕末、明治以降、柳橋は花柳界として名高かったが、私の若い頃である昭和40年代には、バブルの終焉と共に廃れた。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋にかけて、神田川には屋形船が並んでいる。 “新型コロナ”でダメージをくらい、チョイト、出番はないようだ! しばらくの辛抱か?

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・・・・・・・・・・・・柳橋の南詰(中央区側)に、昭和初期の建築と思われる「増田ビルがある。 窓の上下に丸み帯びた横線がある、優しい感じのビルで、元は医院だったそうだ。

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●コロナは居ない! ・・・・・・・・・我が家から約520m、隅田川をチョイト覗いてみた! 川縁には人影がチラホラ、ココなら“新型コロナ”の心配はいらないだろう! でも、チョイト曇って来たな!、、、、横に架かる総武線隅田川橋梁は昭和7年(1932)竣工。

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●また、自宅隔離をするか! ・・・・・・・・江戸通りに面したJR浅草橋駅東口前(我が家までは約250m)から帰宅。 外出自粛要請が効いたか、人通りは少ない。 特筆すべきは、『外人が消えた!』

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2020年3月25日 (水)

善光寺坂の寺院

「首都封鎖」、「ロックダウン」など、チョイトヤバイ言葉が出てくるようになった“新型コロナ”の東京、年寄りの私も不要不急の外出をしかえている。 今日は、飯田橋の循環器内科の定期検診日。 “不要不急の外出”ではないので、午後から行ってきた。 診察はスグ終わり、チョイト遠回りして帰ることにした。 飯田橋駅から、小石川善光寺坂周辺の諸寺を巡り、大江戸線春日駅までの散歩。




●とうがらし地蔵! ・・・・・・・最初に訪れた寺は、文京区小石川3、伝通院門前の浄土宗寺院の福聚院。 福聚院は、霊應山鎮護寺と号し、安永3年(1774)伝通院末として現在地に創建した。 本尊の大黒天像は、小石川七福神の一つ。、、、、本堂は木造の簡素な造り。 本堂前は付属幼稚園の運動場となっているため、チョイト参拝しずらい。

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・・・・・・・・・・・・“園庭”か、“境内”か、何と云うのか、幼稚園の門を入ってスグ脇に『とうがらし地蔵』がある。 『とうがらし地蔵』、正しく(?)は『せきどめ地蔵尊』という。 明治の中頃、とうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいて、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず、食するうちに亡くなってしまった。 そこで、近所の人があわれんで、地藏尊を祀りとうがらしを供えた。 その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治り、お礼にとうがらしを供えるようになったそうだ。 “新型コロナ”にも効きそうだ!、、、、首にさげているのは“とうがらし” こんなに大量にぶら下げたら、せき止めにならず、刺激が強くて、より以上にむせること間違いなし! 良い子はマネしないでください。 

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●徳川の菩提寺! ・・・・・・・・伝通院は、正式には無量山伝通院寿経寺。 小石川の高台にある浄土宗の寺で、徳川将軍家の菩提寺。、、、、慶長7年(1602)に徳川家康の生母:於大の方が京都伏見城で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び火葬した。 位牌は愛知県蒲郡市の安楽寺に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町、後に野田市へ移転)など各地に菩提寺を建立した。 慶長8年(1603)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇を整備し、母の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。 家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した上人の師が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師の言上を受けて、伝通院の建立を決めた。、、、、昭和20年(1945)、アメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。 かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。昭和24年(1949)に本堂を再建したが、昭和63年(1988)に戦後2度目となる本堂の再建が行われた。 平成24年(2012)には山門も再建された。 

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・・・・・・・・・・・・境内の墓地には多くの著名人の墓があるが、なんといっても家康の生母:於大(おだい)の方の墓から回る。、、、、於大の方(享禄元年~慶長7年(1528~1602)は、三河刈屋の城主水野忠政の娘、天文10年(1541)岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年家康を生む。 後に離婚して阿古屋城主久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。、、、、於大の嫁入りから死までは、山岡荘八の小説『徳川家康』を読むと、詳しく書かれている。 小説は全26巻、読むのに体力が必要である。 ちなみに私は5回以上全巻を読破した、好きな小説である。、、、、於大の法名:「伝通院殿容誉光岳智香大禅定尼」にちなみ、門前の通り名を「伝通院」とした。 また、春日通りには、昭和46年(1971)頃まで「伝通院」という都電の停留所があった。 

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・・・・・・・・・・・・徳川の菩提寺だから、生母於大の方以外にも、家康の側室:於奈津の方、家康の孫:千姫、家光の正室:孝子の方、その他徳川家の関係者多数の墓が並んでいる。

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●痛々しい老椋! ・・・・・・・伝通院門前を東西に伸びる道を東に150m程歩くと、道の中央に大きなムクノキが見える。 文京区教育委員会の説明板では、『樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤藏司稲荷の神木として現在に至っている。樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。』と、記されている。、、、、この老木があるのは善光寺坂の坂上で、「善光寺坂のムクノキ」と呼ばれているそうだ。

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●妖気漂う稲荷! ・・・・・・・・伝通院の学寮(栴檀林)に、僅か3年で浄土宗の奥義を極めた、沢蔵司(たくぞうす)という修行僧がいた。 元和6年(1620)五月の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に沢蔵司が立った。 「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが永く当山(伝通院)を守護して恩に報いよう」と告げて、暁の雲に隠れたという。 そこで伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。 江戸時代から参拝する人が多く繁栄した。、、、、沢蔵司は、伝通院門前のそば屋「萬盛」によくそばを食べに行った。 沢蔵司が帰ると売上金に必ず木の葉が混じっていて、店の主人は稲荷大明神だと驚き、毎朝最初のそばを稲荷に供え、稲荷蕎麦と称えたという。 これは現在も続いている。 その稲荷蕎麦「萬盛」は、春日2丁目、伝通院前交差点角のコンビニの隣にある。 「沢蔵司 てんぷらそばがお気に入り」と川柳に読まれたほど著名な僧だったらしい。(私は知らなかったね!) 

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・・・・・・・・・・・・本堂の東裏の崖下に窪地があり。 沢蔵司稲荷朱塗りの鳥居が数基見える。 ココが、狐のすむ洞穴である。 社には“霊窟”と記され、奥に洞穴があって稲荷が祀られている。、、、、チョイト、ジメジメして妖気を感じる、ひょっとしたら“新型コロナ”が近くに居るのか?

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●赤門の寺! ・・・・・・・・慈眼院の隣りには、浄土宗の善光寺がある。 善光寺は、慶長7年(1602)に伝通院の塔頭縁受院として創建、明治17年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になった。、、、、現本堂は明治40年(1907)に建てられたものである。 赤い山門は2か所にある。 

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●注意・注意・注意! ・・・・・・・・大きなムクノキがある坂上から、慈眼院・沢蔵司稲荷、善光寺前を下って行く坂が「善光寺坂」である。 この界隈には、寺院だけでなく、幸田露伴・徳田秋声や島木赤彦、古泉千樫ら文人、歌人が住んでいたそうだ。、、、、超急勾配ではないが、自転車ではかなりスピードが出るようだ、「車に轢かれて善光寺供養」とならぬように注意・注意・注意。

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●目薬より効くこんにゃく! ・・・・・・・善光寺坂を下り、小石川1丁目と2丁目と3丁目がぶつかる交差点に出る。 そこから南に約150m歩くと、小石川2丁目に浄土宗の源覚寺がある。 源覚寺は「こんにゃく閻魔」で知られる。、、、、現覚寺は、寛永元年(1624) に創建された。 本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。 特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。、、、、「こんにゃく閻魔」は、源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。 右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い 老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして ”こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えが ある。 このことから眼病治癒の「こんにゃく閻魔」として庶民の信仰を集めた。 像は、高さ1m程、ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。 優れたできば えを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作らしい。
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・・・・・・・・・・・・この山と積まれたお供えの“こんにゃく”、いらぬ心配だが、お下がりはどう処分するのだろうか?

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・・・・・・・・・・・・境内正面の閻魔堂の左手奥に「塩地蔵」がある。 長年、塩で埋まっていたようで、姿が見えない。 寺が開かれた寛永元年(1624)以前よりこの地にあったという。 地蔵の体に塩を盛ってお参りすることからその名があり、古来より塩は清めとして用いられ、参詣者が身体健康を祈願した。、、、、つまり源覚寺では、眼科はコンニャク持参で閻魔さまに診てもらい、その他の病気は塩を持参し総合内科の地蔵さまに診てもらう。 死んだら、御本尊の阿弥陀さまに弔ってもらう。 メニューはしっかり揃っています!、、、、“新型コロナ”感染防止はこちらに頼むか!

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●濃厚接触を避け! ・・・・・・・大江戸線春日駅から、満員電車を避け、空いている大江戸線で帰宅する。

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2020年3月22日 (日)

大丈夫。

我が家の仏は、生前に自分の墓をつくって大往生。 ある山好きの仏は、都心の西の郊外、山を切り開いたひな壇型の墓地の中程に墓を建てた。 都心から電車で1時間、バスに乗り換え30分(運行本数は、2時間に1本)、霊園の下にバスは停まる。 花・線香を寺務所で買って、霊園の中を登山する。 墓参りする自分は、墓の前に到着するころ、息はゼイゼイ、肺はパカパカ(大動脈を手術し肺活量が小さくなったため)、『チョイト、墓参りする身になってくれ!』  

別のしっかり者の仏は、都心から東隣の県に造成された都営霊園に墓を建てた。 都心から霊園前までは交通の便よし(片道約1時間)、ところがドッコイ、車を持たない私は広大な公営の霊園(1.5Km×1.0kmの矩形の霊園)の中を門から墓まで歩かねばならない。 これまた、墓の前に到着するころ、息はゼイゼイ、肺はパカパカ、『チョイト、墓参りする身になってくれ!』、、、、二つの霊園ともに、園内に循環バスやケーブルカーなどを整備してくれるとありがたいのだが、贅沢か?

・・・・・・・・・・・何だかんだ言いながら、この春も東の霊園に、西の霊園に、我が家の墓参りは今日で全て無事終了。

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・・・・・・・・・・・・霊園近くのお寺、門前の案内板に『大丈夫。』の貼り紙!、、、、これは、“新型コロナ”の不安解消か、真意は不明(?)だが、なんとなく一息つける文字の力、最後の『。』がイイネ!
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2020年3月18日 (水)

盗賊のボスに期待!

新型コロナに負けるわけにはいかず、“溺れる者は藁をも掴む”で、ここ数日、感染症・病気に強そうな寺社巡りを行っている。 訪れた寺社は多くても頼りになりそうな神様・仏様は少なく、確実に効果が期待できる神仏は今だ見つからない。 でも“下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる”で、いずれどこぞの神様・仏様がコロナを撲滅してくれるだろうと思う。、、、、今日は、“灯台下暗し”で、我が家の近くに、強力で物騒な神様が居ることに気がついた!

台東区浅草橋の我が家から、約140m、徒歩2分、同じ町の小さな神社に物騒な神様がいた!、、、、近すぎて散歩にならない!



●神様は強盗のボス! ・・・・・・台東区浅草橋3丁目の裏通りにある「甚内神社」は、以前にも雅万歩で紹介したが、武田家の家臣高坂弾正の子で、江戸時代初期に盗賊のボスとなった人物:高坂甚内を祀っている。 高坂甚内(こうさか じんない、“こうさか”は向坂・勾坂などと書くこともある)は甲斐国:武田家の家臣:高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて、10年間弟子として剣を学び奥義を極めた。 その後、開府早々の江戸市中において治安回復の責任者として、家康から命じられ任につく。 しかし、北条氏が滅亡すると、甚内は取り締まる役から、反対の取り締まられる強盗となる。 対立する強盗の風魔小太郎の隠れ家を密告したり、江戸市中に散らばる強盗を寄せ集め、巨大な強盗集団を作り上げた。 幕府は甚内に追討の手を向けた。 それからの甚内は逃亡を続け、10年後の慶長18年(1613)に瘧(おこり、=マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。 死に際に「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」ということを言い残したという。 以後、甚内神社では瘧に御利益のある神として祀っている。、、、、瘧は熱帯・亜熱帯で広く分布し、高熱や頭痛を伴う感染症で、“新型コロナ”と似ているね! 「新型コロナさえなければ不安がることはなかったのに、新型コロナに苦しむ者は甚内神社に詣でれば癒してやろう」と実体験した甚内さんのお告げ! 「アビガン」、「ナファモスタット」より効くかも?、、、、8月12日が甚内の命日である。

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・・・・・・・・・・・・かつて甚内神社の北側を流れていた鳥越川に架かる橋の一つに「甚内橋」があった。 鳥越川は、今は暗渠となり橋もなくなったが、その名は小さな「甚内橋遺跡」(浅草橋3-13)の碑に残されている。

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・・・・・・・・・・・・鳥越川は、鳥越神社(台東区鳥越2)に近い台東区浅草橋3丁目を流れ、蔵前で隅田川に流れ込んでいた。 また、鳥越刑場については、“ココだ”と場所を特定する情報もなく、名から察するに鳥越神社の周辺にあったのか?

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●村娘を救った天王! ・・・・・念のため調べてみたら、これまた、私の住む浅草橋2丁目にある「須賀神社」は疫病から村娘を救った話があり、病気平癒に効くと云うことが判った。 神社の創建は推古天皇の御代(西暦600年)、祭神は素盞鳴尊。、、、、須賀神社は江戸時代には牛頭天王社、蔵前天皇社、祇園社、笹団子天王社などと呼ばれていた。 御縁起書によると、昔この辺りの農家の娘が12歳になった夏、大変暑く、疫病が大流行して、その娘も病にかかってしまった。 両親は何とかして病を治そうと、この天王様に願をかけ、21日を経て、病が全快した。 両親は大変喜び、早速笹に娘の年の数と、1年の月の数を合わせた数だけ、団子を刺して御礼のしるしにと6月8日例大祭の日に天王様の神前に供えた。 それ以来、心願成就とくに病気平癒の参拝が大変多くなった。、、、、この神社も、新型コロナに効きそうだ! 浅草橋に新型コロナに強い神社が二社あった、頼もしいかぎり!

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2020年3月17日 (火)

眼病の薬師

今日は夫婦で中野の新井薬師に行ってきた。 新型コロナに勝つため、そしてついでに夫婦とも眼病予防、さらに“ぼけ封じ“もお願いしたが、こちらは産婦人科で前立腺癌の検査をしてもらうようなもので、結果は期待薄である。、、、、西武新宿線新井薬師前駅から、新井薬師に参り、中央線中野駅までの散歩。 7千歩




●完成はいつ? ・・・・・・・JR山手線高田馬場駅で西武新宿線の普通電車に乗り換えて3駅目「新井薬師前」駅で下車する。 駅は現在、中井~野方間の連続立体交差事業で地下駅化(島式1面2線)の工事中。  西武鉄道新宿線   歴史:1927年(昭和2年)4月16日 - 開業。1981年(昭和56年)10月30日 - 新駅舎使用開始。、、、、西武新宿線は、明治27年(1894)に川越鉄道川越線として国分寺~米川間が開業し、以後、都心に向かい順次開業していった。昭和2年(1927)には、村山線として高田馬場~東村山間が開業し、同時に新井薬師前駅も開業した。、、、、まだ地下駅の掘削は始まってないようだ。 地下駅の完成はいつだろう?

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●目には効く、コロナには? ・・・・・・・中野区新井にある「新井薬師」は、正式には「新井山梅照院薬王寺」と称し、真言宗豊山派の寺院。 中野区最大の寺院で、駅名にもなる著名な寺院。 昨日訪れた西新井大師と同じ真言宗豊山派の寺院で、天正4年(1586)に開山。、、、、寺伝では、鎌倉末期、相模国から行春という僧が新井の里を訪れた。 清水の湧き出るこの地こそ、真言密教の修行道場にふさわしいと感じて草庵を結んだ。 この草庵は、徳川初期頃になると廃寺同然に荒れ果てた。 あるとき、庭に植わる梅の古木が夜毎に光るという現象(ライトアップか?)が起こり、天正14年3月21日、梅の木を調べると薬師如来が現れた。 中野郷新井の郷士であり、元新田義興の臣:窪寺某が太田金山城に祀られていた尊像であることを確認し、薬師堂を建立したのが梅照院の始まり。 本尊は、弘法大師が彫ったと言われている薬師如来と如意輪観音像。 秘仏とされており、寅年のみに御開帳される。 また堂宇は、元禄、明和、明治の各期に度々焼失し、昭和20年(1945)の空襲でも本堂・太子堂・庫裏などすべて焼失した。 しかし本尊は、火災のたびに無事救出されている。 現在は本堂・庫裏などが復興・整備されている。

・・・・・・・・・・・・新井薬師前駅から駅前商店街・参道をチョイト歩くと、簡素な山門が見える。

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・・・・・・・・・・・・山門の手前には、綺麗に咲いた桜の木が迎えてくれた。、、、、この桜は現天皇の御成婚を記念して、「プリンセス・雅」と命名登録された新種の桜。 

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・・・・・・・・・・・・山門をくぐると、正面に本堂が見える。

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・・・・・・・・・・・・本堂には、空海作と伝わる御本尊の薬師如来如意輪観音があるはず。 御本尊は二仏一体の黄金仏で、鎌倉時代に活躍した武将、新田家ゆかりの守護仏であったと伝えられている。 12年毎の寅年に開帳される、次回は再来年の2022年。 御本尊が隠れている間は御前立が代行。、、、、新型コロナが猛威をふるっている今、特別の御開帳でチラリとお出ましすると嬉しいのだが、無理かな!

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・・・・・・・・・・・・薬師如来という仏様は、人々を苦しみから救い出したいと「十二大願」 を立てて、 苦行に励まれた。 その苦行によって、全ての衆生を無明の病疾から救い出すことができる仏である。 病や苦悩を癒すことにすぐれている薬師如来は「医王」とも呼ばれ、阿弥陀如来の西方極楽浄土と対をなす東方浄瑠璃という浄土に住み、現世での肉体的な病苦のみならず、来世にまで福徳・利楽を与えてくれる仏。 この「十二大願」が成就してしまうと困る者もいるそうで、人々を惑わし苦しめる多くの魔障たちは、薬師如来の願いが成就せぬように多くの妨害を企てている。 この時、薬師如来を守護するため、魔障たちと戦った十二体の善神を、「十二神將」という。 チョイト薄暗い本堂で見ずらいけれど、その像を本堂の左右に見ることができる。

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・・・・・・・・・・・・新井薬師は、二代将軍秀忠公の第五子和子の方(東福門院)が患った悪質な眼病が、祈願して快癒したことなどから「目の薬師」と呼ばれている。 また、第五世玄鏡が元和3年(1617)に如来の啓示によって、 秀れた小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれている。、、、、眼下通いをしている私も「めめ絵馬鈴守」を貰ってきた。 以前にも買ったが、眼は悪くなるばかり、効き目は???? まして、新型コロナには効きそうにないね!

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・・・・・・・・・・・・山門を入り右には、不動堂と水掛けのねがい地蔵がある。

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・・・・・・・・・・・・山門を入り左には、鉄筋コンクリート造の薬師霊堂がある。

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●夫婦で散歩は痩せないね! ・・・・・・・新井薬師をあとにして、中野駅に向かう。 遅めのランチは、イタリアンで腹一杯、ダイエットにならないね!

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2020年3月16日 (月)

護摩でコロナをコロリ!

新型コロナ撲滅を祈願して各処の寺社に参っている。 今日は、「病気平癒」に絶大な御利益が期待できることで知られている西新井大師に行ってきた。 大師の帰りは、日暮里・舎人ライナーの舎人公園駅まで散歩。




●護摩で新型コロナをコロリと! ・・・・・・・新型コロナの撲滅祈願に、はるばる遠く浅草橋の男一匹、やって来ました西新井!

・・・・・・・・・・・・東武鉄道大師線の「大師前」駅から、早朝の人通りの少ない参道を歩く。、、、、マスク嫌いで、マスクはカバンに入れて持ち歩いている私には、人とのすれ違いも少なく安心して歩ける参道だ。 これならコロナはうつらんだろう!

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・・・・・・・・・・・・西新井大師は、真言宗豊山派の寺で、山号を五智山と称し、寺名は詳しくは五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)と称する。 「西新井大師」は通称。 空海(弘法大師)が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を彫り天長3年(826)に寺院を建立したことに始まる。 江戸時代の本堂は昭和41年(1966)の火災により焼亡したが本尊は難を逃れた。 現本堂は昭和46年(1971)に、大関徹建築設計事務所の設計、清水建設の施工で再建された。、、、、川崎大師、観福寺大師堂と共に「関東厄除け三大師」の一つに数えられ、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わう。

・・・・・・・・・・・・山門、、、、江戸後期の建立。 両脇に金剛力士像を祀る。 新型コロナに勝てそうな面構えだが、山門に隔離され腹が出ている姿は動きが鈍そうだ! 

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・・・・・・・・・・・・本堂、、、、鉄筋コンクリート造、2階建て、延床面積は約2,330m2、昭和46年(1971)5月竣工。、、、、早朝なので人影もまばら。

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・・・・・・・・・・・・内陣、、、、御本尊の十一面観音・弘法大師像は共に秘仏、姿は見えず仏壇の扉越しにゆっくり手を合わせる。 天長年間(824~834)に、弘法大師が流行り病や災厄に苦しむ人々を救うために、自らの手で十一面観世音尊像をつくり、二十一日間もの間祈りをささげ続けたのです。その後、この地から泉が湧き出て、人々を病や災厄から救ったといわれている。 これ以降、西新井大師では、家内安全、無病息災、病気平癒を祈願する参拝者が絶えず、篤い信仰を集めているそうだ。 護摩をガンガン焚いて新型コロナを焼き尽くして欲しいものだ!、、、、ここは中野の「新井薬師」ではないので、薬師如来は不在、間違えないで!

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・・・・・・・・・・・・不動堂、、、、関東三十六不動の第26番札所。 建物は歴史あるものではなさそうだ。

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・・・・・・・・・・・・三匝堂(さんそうどう)、、、、明治17年(1884)建立。 都内に残る唯一の栄螺堂(さざえどう)である。古くは登ることができたが現在は内部非公開。 一匝に八十八体大師像(隙間から覗くと小さな仏像が並んでいる)、二匝に十三佛、三匝に五智如来と二十五菩薩をまつっています。

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・・・・・・・・・・・・・・山門脇に塩地蔵、、、、江戸時代からいぼ取りなどに霊験あるお地蔵さん。 功徳あれば塩を倍返しする。 もし、ご利益無ければ、砂糖の倍返し。(嘘だよ~~ん)

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●普通の団地! ・・・・・・・西新井大師をあとにして、西側の裏通りを北に歩く。、、、、少し行くと、都営住宅「西新井六丁目アパート」があった。 特に変わった建物でもなく、歴史あるものでもなく、何処にでもある団地。 昭和48年~昭和49年に建てられた、広さ約40㎡の2DK~3DKの間取り、全193戸(7棟)の団地。

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●送電線に沿う! ・・・・・・裏道を北の方角に歩く、町の風景には特筆すべきものはない! 上空を這う、送電線と鉄塔を見ながら歩く。 鉄塔の形を見て楽しんでいる、写真を撮っている、変な親爺は私のことか?

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●公園抜けたら駅! ・・・・・・・上を見ながら、着いた所は舎人公園。 舎人公園を抜けたら舎人公園駅

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・・・・・・・・・・・・・・日暮里・舎人ライナー舎人公園駅から帰宅。

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2020年3月14日 (土)

ゲートが開いた!

朝から冷たい雨が降る土曜日。 まだ日も明けぬ午前4時、歳で近くなったため目が覚めた。 厠でチョイト用を足しながら、今日は山手線・京浜東北線の高輪ゲートウェイ駅の開業日、常磐線富岡~浪江間の運行再開日、東京モノレールと京浜急行の羽田空港内の駅名変更日、京都嵐電北野線の等持院駅が日本一長い駅名「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」に改名する日、など鉄道関連行事の多い日だと思いめぐらす。 まだ4時、今から出れば山手線の始発に間に合う、『高輪ゲートウェイ駅に行くか?』と迷うが、窓に雨粒が見え心は萎えた、『寒いから もう一眠りしよう』と再びベッドにもぐる。 7時のNHK(私は石橋亜紗アナのファン)で、高輪ゲートウェイ駅開業のニュースを見てると、ムズムズしてきた。 『チョイト高輪へ行って来る!』と、小雨ぱらつく中、家を飛び出す。、、、、と云うことで、高輪ゲートウェイ駅を見に行ってきた。 なお駅へ行く前に、「感染症防止」の御利益はあまり期待できそうにない、高輪神社にもお立ち寄り。




●JRへの乗換駅となった! ・・・・・・・高輪ゲートウェイ駅へ行くのに、JRで行っては面白くないので、都営浅草線泉岳寺駅から歩くことにした。、、、、泉岳寺駅昭和43年(1968)6月21日に開業。 同時に京浜急行電鉄の品川~泉岳寺間も開業し、京急と相互乗り入れを開始。 島式ホーム2面4線の地下駅。、、、、泉岳寺駅は、今日からJRへの乗換駅となる。 高輪ゲートウェイ駅の方向を示す案内が掲げられている。 地下への出入口もリニューアルするのか(?)工事中。

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・・・・・・・・・・・・地下から出ると雨粒もチョッピリ大きくなり、肌寒い!

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●メニュー豊富な神社! ・・・・・・・・泉岳寺駅から第一京浜(国道15号)を南へ350m程に高輪神社はある。 高輪神社の創建年代は不詳だが、明応年間(1492~1501)の創建と云われてる。 高輪一円の総鎮守社である。 元は宇賀御魂命(お稲荷さん)を祀る稲荷社であったが、誉田別命(八幡様)と猿田彦神を合祀し、昭和4年(1929)に高輪神社と改称した。 お稲荷さん、八幡様、猿田彦様の三神を祀る強力な神社で、ご利益は、商売繁盛、家内安全、学業成就、縁結び、病気平癒、諸願成、交通安全、方災解除、開運招福など、豊富なメニューが揃えられている。 新型コロナにも効くかも?、、、、現社殿は昭和55年(1980)に造営された。 社殿隣には、別当寺であったが廃寺となった旭曜山常照寺の太子宮もある。

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・・・・・・・・・・・・かつては、聖徳太子を祀る「太子堂」と称されていた仏堂。 いまは「太子宮」と称す。 “安政四年”の文字を見ることができる外塀の裏には、見事な彫刻も施されている。

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・・・・・・・・・・・・境内の「力石」、、、、愛らしい形がいいね! “力”が入る!
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●本日開店! ・・・・・・・・JR品川駅と田町駅の間に、本日開業した「高輪ゲートウェイ駅」、、、、チョイト長ったらしい駅名だ、私としては「高輪駅」が良いと思っていたのだが!、、、、第一京浜の地下を走る浅草線の泉岳寺駅から南へ100m程にできた新駅。 駅前は白い仮囲いで隠され工事中。 仮囲いを抜けると、鉄骨造で地上3階、地下1階、橋上駅舎を有する高さは約30m程の駅舎が見える。 折り紙を模した大屋根(約110m×35m)が特徴。 1階がホーム、2階が改札、2・3階に店舗が入る予定。 駅舎の設計は国立競技場の実績ある隈研吾、施工はJRの工事に強い大林組と鉄建建設のJV。 が担当し、折り紙を模した大屋根(約110m×35m)が特徴。 また、QRコードを使った自動改札、人工知能の案内ロボット、無人コンビニなど、新技術を随所に導入しているそうだ、今日は人でも多く、見ることはなかった。、、、、とりあえず、新築記念に建物をかってに見せて貰ってきた。

・・・・・・・・・・・・仮囲いの中を歩き駅に向かう。

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・・・・・・・・・・・・駅正面から2階の改札へ、自動改札が並ぶ。

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・・・・・・・・・・・・開業日の日付が入った切符を記念に買おうと思ったが、なんと!120分待ち!、、、、ここは、断腸の思いであきらめた。(やっぱり4時に起きて、出てくればよかった!)

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・・・・・・・・・・・・改札をとおり、自慢の大屋根の下へ

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・・・・・・・・・・・・トイレも拝見!、、、、使用中の場面は撮影できず、チョイト残念。 明るく綺麗だが、いつまで続くかこの清潔感。

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・・・・・・・・・・・・1階ホームにおりる、、、、鉄道ファンが、あっちにも・こっちにも、“小鉄”もいる!

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・・・・・・・・・・・・入って来た山手線で帰宅、、、、電車に乗っても後悔する『切符買いたかった!』

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2020年3月12日 (木)

パンデミック解消?

とうとう“新型コロナ”は“パンデミック(=世界的な大流行)”となった。 11日のダウ平均株価は1464ドルの下落、そして今日(3/12)の日経平均も1000円超の下落。 株価の下落も“パンデミック”である。 このままだと、我が家の少ない資産にも影響が出て、食事は“パンガミッツ(パンが3つ)”となりかねない。、、、、『新型コロナの早期終息』を祈願し今日は、台東区の南端の浅草橋から、同区の北端にある橋場不動尊へ行ってきた。




●玉を秘めたる神社! ・・・・・・・・浅草橋駅前から都バスに乗って「清川二丁目」で下車する。 ここは、かつてのドヤ街“山谷”の中心。 “ドヤ”とは“宿”の逆さ言葉で、山谷には日雇労働者に向けの簡易宿泊所が立ち並んでいた。 いまでも周辺には、“ビジネスホテル”として宿泊所が多く残っている。

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・・・・・・・・・・・・この町の一画に「玉姫稲荷神社」がある。 玉姫神稲荷神社は、天平宝字4年(760)伏見稲荷大社より分霊を勧請して創建された。 正慶2年(1333)新田義貞が鎌倉の北条高時を追討するに際して当社で戦勝を祈願し、弘法大師直筆という稲荷大神の像を瑠璃の宝塔に納めたことから「玉秘め(たまひめ)」の名がついたという。 “稲荷神社”と云うことから、「商売繁盛」、「諸芸上達」、「五穀豊穣」などの御利益は期待できそうだが、「病気平癒」、「感染防止」などは期待薄!

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・・・・・・・・・・・・玉姫稲荷神社の境内摂社として「口入稲荷神社」が祀られている。 当社は新吉原の高田屋という口入宿(仕事紹介所)の邸内に鎮座していた。 
安永年間(1772~1781)高田屋の主人が、夢枕に「玉姫稲荷の境内に遷し祭りなさい」というお告げを聞き、この玉姫稲荷神社に移されたそうだ。 商売繁昌の願掛稲荷の中でも、この稲荷は古参である。 願掛けする人は、先ず神社で売っている今戸焼の狐を神社へ納め、その代りに納めてある古い狐を一体持って帰る。 願掛けが成就すると、雌雄二体の狐を奉納するするそうだ。、、、、今戸焼の狐がドンドン売れるビジネスモデルとなっている。

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●橋場のお化け! ・・・・・・台東区の北の端、隅田川沿いに、橋場(はしば)の町がある。 隅田川の対岸には、墨田区向島の町が広がる。

・・・・・・・・・・・・橋場の町に点在する木造の長屋建築。、、、、表はモルタル塗りであったりトタン張り、銅板張りが多い!

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・・・・・・・・・・・・表通りから木造住宅の軒下の狭い路地を入って行くと奥にも数軒の木造住宅が出現。、、、、似た建物は下町に多いね!

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・・・・・・・・・・・・橋場の町中に、「お化け地蔵」(台東区橋場2)がある。 お化け地蔵の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が知らぬ間に向きをかえたから、あるいは高さ3m余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承があるが不明。 この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刺総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ケ原といい、明治四十年刊『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。 お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保6年(1721)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられた。 総泉寺は、昭和4年板橋区へ移転し、お化け地蔵は置いて行かれた。 忘れ物だ!

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●パンデミックに効果あり? ・・・・・・今日の散歩の目的地「松尾山橋場寺不動院(橋場不動尊)」は、天平宝字4年(760)、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟:寂昇上人によって創建された。 当初は法相宗であったが、長寛元年(1163)に天台宗に改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となった。 現在は比叡山延暦寺の末寺と変わった。 江戸時代には、周辺の武家の尊信をも集めた。 明治末年の大火、関東大震災、そして昭和の東京大空襲にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれた。 このようなことから、霊験あらたかな橋場不動尊として、広く庶民に尊信されています。 現在の本堂は、弘化2年(1845)の建立、小さい簡素な堂は江戸時代の建築様式を保っている。、、、、不動明王は、羂索(けんさく)というロープを使って人々を正しい道へ引っ張ってくれる力強い仏様。 心願成就、健康祈願、病気平癒、悪霊退散などの御利益が期待できる。 お不動さまのご真言『ナーマーサーマン・ダーバーサラナン・センダーマーカロ・シャーナー・ソワタヤウンタラ・ターカンマン』と唱える、これでパンデミックは解消?  

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●猫好きの神社! ・・・・・・今日の散歩の目的達成、気を良くして“縁結びの神様”「今戸神社」に立ち寄って行く。 祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神様を祀っている事から、縁結びにゆかりがある神社で、若いカップル、独り者の娘さんに人気。 私もおこぼれに与るか!、、、、今戸神社は、康平6年(1063)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。、、、、猫ブームにあやかり、招き猫でも有名になった神社。 

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●念には念を入れ! ・・・・・・・今日の最後は、浅草にある聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである、待乳山聖天本龍院で、『念には念を入れて』新型コロナの撲滅を祈願して帰る。、、、、本尊は歓喜天(聖天)と十一面観音で、二体の仏様のタッグで心強い!

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2020年3月11日 (水)

綿のおばば

新型コロナの撲滅を願い、咳止めに効くと言われている新宿の「綿のおばば」に会ってきた。 JR信濃町駅から、四谷大木戸交差点に出て、新宿2丁目の太宗寺、正受院に参り、靖国通りを東に都営新宿線の曙橋駅まで、1万1千歩の散歩です。




●学会の聖地! ・・・・・・・信濃町駅は、明治27年(1894)10月9日に、甲武鉄道の新宿駅~牛込駅間開通と同時に開業した古い駅。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。 ホームの上に駅ビルの「JR信濃町ビル」があり、駅ビルの1階部分が改札口である。 平成5年(1993)に完成した駅ビルは、岡田新一の設計によるモダンな造りである。、、、、駅周辺は創価学会の聖地で、本部機能・聖教新聞・民音・公明党本部などがある。

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●稲荷もある慶應大! ・・・・・・・・・信濃町駅前に、慶應義塾大学医学部附属病院がある。 慶応義塾は、明治6年(1873)に医学教育に着手したが、同13年に中止した。 そして、明治23年(1890)には大学部を設立し、理財・法律・文学・政治の教育を開始した。 医学については、巨額の費用としかるべき指導者が必要で、設立の機会が来るまで見送りとした。 大正初期、指導者として世界的な細菌学者:北里柴三郎を立て医学科の設置が決まった。 当時、陸軍省は西信濃町の輜重兵第一大隊の敷地を払い下げて2個師団増設の費用を捻出したいと考えていた。 このことを知った慶応義塾は、土地の払い下げを受けることになり、ここに約13,000坪の土地を確保した。 大正6年(1917)、北里柴三郎を学部長に迎え、慶應義塾医学科が発足した。、、、、敷地内の附属病院は、石原裕次郎、夏目雅子、岡本太郎、遠藤周作、沢尻エリカなどが利用している。

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・・・・・・・・・・・・附属病院の西側に、昭和12年(1937)竣工の風格のある「慶應義塾大学北里記念医学図書館」がある。 医学部の設立に尽力した北里柴三郎の功績を称えた記念館としての図書館。 貴重で膨大な医学専門書が揃えられてるそうだ。 慶應の関係者なら学部を問わず利用できるらしい。 入院患者は利用できるのか? マンガは置いていないと思うよ!

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・・・・・・・・・・・・図書館の隣りには、信濃町キャンパスでは一番古い建物である「慶応義塾大学 予防医学教室」がある。 鉄筋コンクリート造4階建ての建物で、設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組(現:清水建設)によって昭和4年(1929)に竣工した。 この建物の総工費の大部分は、ロックフェラー財団の寄付により支出された。、、、、この建物には伝統ある寄生虫学教室が入って、4名の教授を中心に、マラリア・熱帯病・住血吸虫症・アニサキス症・肺炎球菌感染症とワクチンなどの研究が行われているらしい。 研究メニューに新型コロナも入るかな?

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・・・・・・・・・・・・大学の東校舎の北側には「慶應稲荷大明神」がある。、、、、この地に陸軍がいた以前から神社はあったそうだ。 つまり、この地が武家屋敷であった頃からの稲荷で、現在の社は昭和38年の建立である。、、、、受験シーズンには慶應に限らず他大学も含め、医・歯・薬学部系の受験生が合格祈願に来るそうだ。 御朱印・お守りは無いらしい、どうしても欲しい人は診察券を貰ったら!

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●三菱鉛筆発祥の地! ・・・・・・・慶應病院の西側にある外苑西通りを横断し、新宿御苑東際の新宿区内藤町に多武峰内藤神社(とうのみねないとうじんじや)がある。 多武峯内藤神社は、高遠藩初代:内藤清成が当地に土地を拝領、慶長7年(1602)屋敷内の地(新宿御苑)に家祖である藤原鎌足公を祀り草創、多武峯神社として祀った。新宿御苑が官有地となり、明治16年(1883)当地へ遷座し、昭和42年(1967)に多武峯内藤神社と改名した。、、、、神社に隣接して、元
眞崎鉛筆製造所という現在の三菱鉛筆の工場があった、創業の地として「鉛筆の碑」(2015年撮影)が建てられている。

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昔、花園 今、歌舞伎! ・・・・・・・「四谷四丁目交差点」(新宿大木戸)から新宿1丁目の町に入る。 新宿1丁目の中央にある花園公園の南側に接する道路から北側はかつての“花園町”。 ここは元の赤線地帯で、現在もその手の店がチラチラ・ホラホラあるそうだ、しかし素人さんは新宿2丁目の歌舞伎町の方に足が向いているらしい。 『昔、花園 今、歌舞伎』でも、“昔”は遠くない昔で、戦後のことである。 昭和40年頃までは、店の前で客引きをするおばさんがいたのを、私も見て知っている。、、、、新宿区立公園、小学校、幼稚園に、花園公園・花園小学校・花園幼稚園などと、その名が留められている。 “花園”の名は新宿5丁目の花園神社に由来する。

・・・・・・・・・・・・早朝の“花園町”を歩いても、面白くもおかしくもない。

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・・・・・・・・・・・・花園公園にある「三遊亭圓朝旧居跡 」には、かつて次のように説明されていた。 『この辺りは、明治落語界を代表する落語家三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んでいたところである。円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳の時、小円太の名で初高座を踏み、9歳で2代目円生の門下に入門した。話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。屋敷地は約1000㎡で、周囲を四ツ目垣で囲み、孟宗竹の藪、広い畑、桧・杉・柿の植え込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。新宿在住時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、専ら襌や茶道に心を寄せていたという。 平成3年11月  東京都新宿区教育委員会』、、、、写真は花園公園(公園の後ろには花園小学校)、圓朝旧居跡の碑  

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・・・・・・・・・・・・まだ赤線時代の雰囲気が残る、昭和39年(1964)に都営住宅「花園町アパート」(2棟48戸)が、“花園町”の一画に建てられた。、、、、男性には何かと便利が良い処にあり、きっと、入居希望者が殺到して抽選倍率は高かったと思うね。

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●近くに来たのでご挨拶を! ・・・・・・新宿1丁目の隣り2丁目に、私が度々訪れる浄土宗の寺院の太宗寺がある。 太宗寺の創建は慶長元年(1596)頃までさかのぼると伝えられている。 徳川家の家臣:内藤正勝が開基となり、内藤大和守重頼より寺地の寄進を受けて大寺となったと言われている。 江戸六地蔵の一つ、江戸三閻魔の一つが安置されている。、、、、今日も、チョイトお立ち寄り!

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・・・・・・・・・・・・境内の入口近くで迎えてくれる六地蔵。 銅造で像高は2m67cm、正徳2年(1712)に「江戸六地蔵」のひとつとして甲州街道沿いに造立されたもの。 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。

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・・・・・・・・・・・・六地蔵の脇の「閻王殿」では、閻魔大王と奪衣婆に、お立ち寄りのご挨拶を!

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・・・・・・・・・・・・・境内の奥、“疣取り地蔵 ”として名が知れた「塩かけ地蔵」にもご挨拶!

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●綿のおばばとご対面! ・・・・・・・太宗寺の北側、靖国通りに面して浄土宗の寺院、明了山正受院願光寺がある 。 文禄3年(1594)に当地に創建された。

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・・・・・・・・・・・・・・正受院名物奪衣婆像は、咳止めに効くそうで多くの崇敬を集めた、今日は私も“コロナ止め”に期待して、遠路わざわざ浅草橋からやって来た。、、、、像で、現在は奪衣婆専用の「奪衣婆尊堂」に安置されている。 高さ75cmで、顔は笑みを帯びて優しい。 片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆得意のポーズで、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。 この奪衣婆像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。 当時、綿は咳止めのお礼参りに奉納したと伝えられる。 また、この像は小野篁の作であるとの伝承があり、田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。 像底のはめ込み板には「元禄十四辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことが判る。、、、、ぜひ、咳止めだけでなく、新型コロナウィルスを撲滅して欲しい! 期待する!

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●広い、ゆとりある駅! ・・・・・・帰りはコロナを避けて、人混みを避け、靖国通りを東に歩き曙橋駅から帰宅する。、、、、曙橋駅は都営地下鉄新宿線の駅で、昭和55年(1980)3月16日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地下駅。 広いホーム、広いコンコースだが、平成9年(1997)にフジテレビが台場に移転したためか乗降客も少なくなったようだ!

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2020年3月 9日 (月)

コロナ退治に素盞雄命

“新型コロナ”は感染拡大するばかり、一刻も早く終息することを願い、今日はスサノオノミコトに神頼みすべく、南千住に行ってきた。




●地獄の臭い漂う刑場跡! ・・・・・・・・まずは、東京メトロ日比谷線南千住駅南口前には、常磐線のガードを挟み、南側に延命寺、北側に回向院の二寺がある。 この二寺は、江戸時代から明治初期まであった小塚原刑場(荒川区南千住2)の跡にある。 小塚原刑場は江戸への入口に存在した、大和田刑場(八王子市大和田)、鈴ヶ森刑場(品川区南大井)とともに三大刑場といわれた。、、、、小塚原刑場の広さは60間(108m)×30間(54m)程で、現:延命寺がある辺りらしい。 ここで延べ20万人の罪人が処刑されたそうだ。 遺体はそのまま野ざらしにされ、一帯は異臭漂う地獄のような地であったらしい。


・・・・・・・・・・・・刑場跡の延命寺境内中央には刑死者の菩提を弔うため、寛保元年(1741)に造立された「
首切り地蔵」がある。 27個の花崗岩を組み合わせ、全体の高さが4m程の坐像。

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・・・・・・・・・・・・刑場での刑死者を弔うため、寛文7年(1667)に本所回向院の住職が隣接する場所に常行堂を創建した。これが現在の南千住回向院である。 現在でも、ここで処刑された、橋本左内・吉田松陰・鼠小僧・高橋お伝・相馬大作などの墓・供養碑がある。、、、、また明和8年(1771)に、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢・桂川甫周らが、刑死者の腑分け(解剖)い立ち会った場所でもある。 マグロの解体ショーとは違い、立ち会うには勇気がいると思うね。 私は血を見るとダメなので、病院の採血の時は目を瞑っているのだ!

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●“コロナ”退治に、乞う御期待! ・・・・・・・“新型コロナ”に勝つため、南千住6丁目、日光街道沿いの素盞雄神社(すさのおじんじゃ)に参拝。 素盞雄神社は、当地に牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩を祀り、延暦14年(795)創建した。 創建以来、二柱を別々の社殿に奉斎していたが、享保3年(1718)焼失し、同12年に瑞光殿を建築して合祀した。 古くから疫病除けで知られ、安政5年(1858年)江戸にコレラが流行した際は疫除守を求めて参詣者が群れ集まった。明治初期の廃仏毀釈により祭神名を、牛頭天王改め素盞雄大神(すさのおおおかみ) ・飛鳥権現改め飛鳥大神(あすかおおかみ) とした。 同時に、社名も素盞雄神社へ改称した。、、、、素盞雄大神は「素嗚尊(日本書紀)」とか「建速須佐之男命(古事記)」と表記され。 いずれも、スサノオノミコトである。 スサノオノミコトは、妻となる櫛稲田姫(くしいなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)の餌食となるところを救っただけでなく、熱病に罹ってしまったとき、脇の下に風通りを良くするため身八つ口(みやつくち)を開けたことで熱を冷ました。 クシイナダヒメはスサノオノミコトによって治癒したということで、スサノオノミコトには「疫病退散」の御神徳が身についていたそうだ。、、、、“新型コロナ”も退散するパワーに期待して、賽銭は200円にした。 
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素盞雄神社では、チョウド「桃まつり」が行われていた。 拝殿・神楽殿・社務所・境内などに、もの凄い数の“ひな人形”が飾られている。 全体を遠目で見ていると壮観だが、至近距離で一体毎に見ていると“チョイト気持ち悪い翁”、“顔に刀傷のあるヤクザな囃子”、“現代風美人の色っぽい官女”、“毛が抜けツルッパゲ頭の囃子”、“自分に似た色男の内裏”、“チョイ悪な童”など、いろいろな人形が居ます。 

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・・・・・・・・・・・・素盞雄神社の鳥居に、“不”の字に似た記号(写真赤〇)がついている。 これは、几号水準点(きごうすいじゅんてん)という。 “几”の字は“き”と読み、机の意味がある。 几号水準点とは、明治時代初期に水準測量(高低を測る)の基準点として設定された。 3本足の机のような、“不”の字に似た記号の横棒が標高を示す位置となる。 当時の内務省では、明治9年(1876)、東京・塩釜間の水準測量から、この記号を用いた。 測量が参謀本部に引き継がれると、几号水準点は使用されなくなったが、都内には、約30か所程(上野東照宮、江戸城本丸跡など)に現存している。 ここ素盞雄神社 の鳥居に刻まれたのもその一つである。、、、、几号水準点を探し訪ね歩くのも、私の楽しみの一つ。

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●歯痛に清兵衛! ・・・・・・“新型コロナ”感染拡大防止を願い素盞雄神社に来たついで、医療がらみで“歯痛の神様”に寄って帰ることにした。 南千住駅からほぼ真北の方角(南千住7)、隅田川の近くに「山王清兵衛(日枝神社)」がある。 境内の説明板には次のように書かれている、、、、『日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316)に建てられたと伝える。この社の入口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。』、、、、現在は痛いとスグに歯医者へ行くので、祈願する人も少ないであろう。

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2020年3月 7日 (土)

医薬の神:五條神社

日本全土が“新型コロナ”の猛威に曝され、“不要不急の外出は控えるように”、お上のお達し。 私も、じ~っと家に籠もっていたが、そろそろストレスが溜まってきた。 私の心の中で、“至急必要な散歩に行くべし”と、お神のお告げ。 『よし、チョックラ行くか!』、感染症・伝染病に効きそうな神社に、日本国民を代表して参ることにした。、、、、我が家からも歩いて行ける上野公園の五條天神社に行ってきた。



●いよいよ花見の季節! ・・・・・・・まずは上野の山へ向かう。 上野公園はボンボリも吊るされ、お花見の準備はOK! でも、今年は“場所取りは禁止!”で、おとなしい花見になりそうだ。 既に開花した木もある、この分では月末には散ってしまうかも、4月まではモタナイネ!  

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●上野の清水寺? ・・・・・・・通り道なので、清水観音堂(きよみずかんのんどう)に寄って行く。 清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りの堂で、寛永8年(1631)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建された。  天海大僧正は寛永2年(1625)に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に江戸城の鬼門の守りとして東叡山寛永寺を開いた。、、、、清水観音堂の御本尊は、京都清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏として祀られている。、、、、これまでは連日、舞台には大勢の中国・韓国の観光客がウロウロ・ガヤガヤしていた。 今日は静かだ! 欧米系の観光客がのんびりと訪れている。 私も、静かに手を合わせた。

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●新型コロナに効くか? ・・・・・・・清水観音堂の北側、こちらも上野の山に建てられている五條天神社・花園稲荷神社。 二社が並んでいる。

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・・・・・・・・・・・・五條天神社(ごじょうてんじんじゃ) は、景行天皇の御代(110)日本武尊が東征のおりに大己貴命と少彦名命を上野忍が岡に祀ったものとされ、天神山(現摺鉢山)や神職の瀬川屋敷(現アメ横入口)など、幾度か社地を転々とした。 関東大震災後の、昭和3年(1928)に創祀の地に最も近い現在地に遷座された。 平成22年(2010)に鎮座1900年を迎えたそうだ。 本当なら相当古い神社である。、、、、祭神の「大己貴命」(おおなむじのみこと)と「少彦名命」 (すくなひこなのみこと)は「医薬の神」 とか「薬祖神」と言われている。 この二神はペアを組んで全国を巡って病気直しなどを行った。 天然痘の神を祀った「疱瘡神社」の祭神として祀られていることもある。 元祖“富山の薬売り”かもね?、、、、五條天神社は、医薬の大学を目指す受験生にも人気があるらしい。 神社では、二神の他に、相殿として“天神様”(菅原道真公)を、江戸時代、寛永18年(1641)に合祀している。 ここに参れば、“全てOK”、神社も抜け目がないね!、、、、私は、日本国民の代表として、『新型コロナの蔓延阻止』を願い手を合わせてきた。 賽銭は奮発し120円也。

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・・・・・・・・・・・・五條天神社の隣り、一段高いところに花園稲荷神社(忍岡稲荷神社、穴稲荷)がある。 祭神は倉稲魂命。 花園稲荷神社の創建年代は不詳。 本覚院の僧晃海が霊夢に感じ廃絶していた社を承応3年(1654)に再建し、上野の山の守護神としたらしい。 五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。、、、、こちらの神社は“新型コロナ”には効きそうにない普通の“お稲荷さん”。

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●人出は少ない! ・・・・・・・神社の次は、上野公園をチョイト散策。

・・・・・・・・・・・・・・博物館・美術館・動物園、皆休館。 人出は少なく、ここでも少数の欧米観光客が目立つ!

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●開かずの門! ・・・・・・・現在の上野動物園正門の右奥(北側、東京都美術館の裏側)に動物園の旧正門がある。 上野動物園は明治15年(1882)に開園した日本最古の動物園。 現在残る旧正門は、明治44年(1911)に新家孝正工学博士の設計で建てられた。 正面の4本の柱のデザインは、トスカーナ様式であり鉄扉のデザインも他の柵と比較すると古典的で、重厚な構えである。 門の両脇に儀仗兵がいるとナイス!、、、、昭和6年(1931)まで、門は北向きに設置されていたが、昭和8年(1933)に京成電車が公園の地下を通り上野まで開通するに伴い、現在の東向きに変更した。 また、その変更時に切符売り場と門番小屋が増設された。、、、、現在は、開かずの門となっている。

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●御前会議で決めた駅! ・・・・・・上野動物園旧正門の北側と、国立博物館の西端に、京成電鉄「旧博物館動物園駅跡」がある。 駅は昭和8年(1933)に開業し、平成9年(1997)に営業停止した。 建設時には、上野恩賜公園内に建てるという事で、そのデザインは御前会議にかけられて決定したそうだ。 駅出入口は名前の通り、博物館側と動物園側にあった。 相対式ホーム2面2線を有し、同一位置ではなく、上下線で互い違いにホームが設置されていた。 改札口は上りホーム側に設置されていた。 地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館(現:東京国立博物館)の敷地内に建設されたものと、上野動物園旧正門へ続く出入口の2か所があった。
・・・・・・・・・・・・東京帝室博物館側の出入口は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、有名な廃駅となっている。 昭和11年(1936)完成の国会議事堂よりも建築時期(昭和8年)は古い。 この出入口は、平成9年の営業休止時まで供用されていた。

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・・・・・・・・・・・・上野動物園旧正門側の出入口は、昭和40年代に現在の動物園正門が開設されたことで駅出入口より遠くなり、人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。 閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されているらしい。、、、、デザインとしてはあまり特徴もなく、地下鉄の駅らしい造りだ!

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2020年3月 1日 (日)

浅草橋で、東京マラソン

“新型コロナウィルス”の拡散防止のため、不要不急の外出をひかえることになった。 私の散歩も、チョイトひかえることにした。、、、、今日は、浅草橋駅前の江戸通りがコースの一部となっている「東京マラソン」の日だ。 マラソンの結果にはあまり興味はないが、“巷の話題”であり、地元のレースであり、“一日中暇な人間”であり、“やじ馬根性”と“ひやかし気分”で、沿道の応援に行ってきた。



●・・・・・・・・・・・テレビで、マラソンがスタートしたのを見て、家を出た。 家の周囲は静かだが、江戸通りに出る処には、警察車両が配されて一般車両は進入禁止。 

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●・・・・・・・・・・・江戸通り、浅草橋駅前での応援は『まだ、お席空いてます』 『お好きな処で、応援を!』

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●・・・・・・・・・・・『お~~、来ました!』 まずは、車椅子マラソンの選手が、やって来た。 頭と車体のゼッケンは小さくて見えずらい、顔は下向いて判らない、スピードは速すぎる、選手の数は少ない、アッと言う間に私の前を通過した。、、、、あまりの速さと素っ気なさに、『沿道で見るには、つまらない競技だ!』と思った。

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●・・・・・・・・・・・男子マラソンがやって来た! 先導する白バイには婦人警官。 こちらは、顔もはっきり見えて応援したくなる。 大きな声で『白バイ、ガンバレ!』、、、、続いて男子の有力選手。 小さな声で『適当にガンバレ!』 集団が途切れたところに、男性警官の白バイ。 ダミ声で『ご苦労さん!』
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●・・・・・・・・・・・真剣に力走する後続選手。 大きな声で『ガンバレ!』

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●・・・・・・・・・・・続いて女子選手。 先頭に黄色のシャツのPACE(ペースメーカー)が走る。 PACEは男性で、一瞬『アレ? まだ男子の集団が残っていた』と躊躇すると、後ろの女子選手が目に入る。 PACEに隠れ選手が見えないのだ!、、、、皆まとめて『ガンバレ!』

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●・・・・・・・・・・・・応援終わって、『結果は家でテレビを観るか!』、、、、帰ったら忘れずに、♪♪  手洗い うがい ヤクルト ♪♪

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