綿のおばば
新型コロナの撲滅を願い、咳止めに効くと言われている新宿の「綿のおばば」に会ってきた。 JR信濃町駅から、四谷大木戸交差点に出て、新宿2丁目の太宗寺、正受院に参り、靖国通りを東に都営新宿線の曙橋駅まで、1万1千歩の散歩です。
●学会の聖地! ・・・・・・・信濃町駅は、明治27年(1894)10月9日に、甲武鉄道の新宿駅~牛込駅間開通と同時に開業した古い駅。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。 ホームの上に駅ビルの「JR信濃町ビル」があり、駅ビルの1階部分が改札口である。 平成5年(1993)に完成した駅ビルは、岡田新一の設計によるモダンな造りである。、、、、駅周辺は創価学会の聖地で、本部機能・聖教新聞・民音・公明党本部などがある。
●稲荷もある慶應大! ・・・・・・・・・信濃町駅前に、慶應義塾大学医学部と附属病院がある。 慶応義塾は、明治6年(1873)に医学教育に着手したが、同13年に中止した。 そして、明治23年(1890)には大学部を設立し、理財・法律・文学・政治の教育を開始した。 医学については、巨額の費用としかるべき指導者が必要で、設立の機会が来るまで見送りとした。 大正初期、指導者として世界的な細菌学者:北里柴三郎を立て医学科の設置が決まった。 当時、陸軍省は西信濃町の輜重兵第一大隊の敷地を払い下げて2個師団増設の費用を捻出したいと考えていた。 このことを知った慶応義塾は、土地の払い下げを受けることになり、ここに約13,000坪の土地を確保した。 大正6年(1917)、北里柴三郎を学部長に迎え、慶應義塾医学科が発足した。、、、、敷地内の附属病院は、石原裕次郎、夏目雅子、岡本太郎、遠藤周作、沢尻エリカなどが利用している。
・・・・・・・・・・・・附属病院の西側に、昭和12年(1937)竣工の風格のある「慶應義塾大学北里記念医学図書館」がある。 医学部の設立に尽力した北里柴三郎の功績を称えた記念館としての図書館。 貴重で膨大な医学専門書が揃えられてるそうだ。 慶應の関係者なら学部を問わず利用できるらしい。 入院患者は利用できるのか? マンガは置いていないと思うよ!
・・・・・・・・・・・・図書館の隣りには、信濃町キャンパスでは一番古い建物である「慶応義塾大学 予防医学教室」がある。 鉄筋コンクリート造4階建ての建物で、設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組(現:清水建設)によって昭和4年(1929)に竣工した。 この建物の総工費の大部分は、ロックフェラー財団の寄付により支出された。、、、、この建物には伝統ある寄生虫学教室が入って、4名の教授を中心に、マラリア・熱帯病・住血吸虫症・アニサキス症・肺炎球菌感染症とワクチンなどの研究が行われているらしい。 研究メニューに新型コロナも入るかな?
・・・・・・・・・・・・大学の東校舎の北側には「慶應稲荷大明神」がある。、、、、この地に陸軍がいた以前から神社はあったそうだ。 つまり、この地が武家屋敷であった頃からの稲荷で、現在の社は昭和38年の建立である。、、、、受験シーズンには慶應に限らず他大学も含め、医・歯・薬学部系の受験生が合格祈願に来るそうだ。 御朱印・お守りは無いらしい、どうしても欲しい人は診察券を貰ったら!
●三菱鉛筆発祥の地! ・・・・・・・慶應病院の西側にある外苑西通りを横断し、新宿御苑東際の新宿区内藤町に多武峰内藤神社(とうのみねないとうじんじや)がある。 多武峯内藤神社は、高遠藩初代:内藤清成が当地に土地を拝領、慶長7年(1602)屋敷内の地(新宿御苑)に家祖である藤原鎌足公を祀り草創、多武峯神社として祀った。新宿御苑が官有地となり、明治16年(1883)当地へ遷座し、昭和42年(1967)に多武峯内藤神社と改名した。、、、、神社に隣接して、元眞崎鉛筆製造所という現在の三菱鉛筆の工場があった、創業の地として「鉛筆の碑」(2015年撮影)が建てられている。
●昔、花園 今、歌舞伎! ・・・・・・・「四谷四丁目交差点」(新宿大木戸)から新宿1丁目の町に入る。 新宿1丁目の中央にある花園公園の南側に接する道路から北側はかつての“花園町”。 ここは元の赤線地帯で、現在もその手の店がチラチラ・ホラホラあるそうだ、しかし素人さんは新宿2丁目の歌舞伎町の方に足が向いているらしい。 『昔、花園 今、歌舞伎』でも、“昔”は遠くない昔で、戦後のことである。 昭和40年頃までは、店の前で客引きをするおばさんがいたのを、私も見て知っている。、、、、新宿区立公園、小学校、幼稚園に、花園公園・花園小学校・花園幼稚園などと、その名が留められている。 “花園”の名は新宿5丁目の花園神社に由来する。
・・・・・・・・・・・・早朝の“花園町”を歩いても、面白くもおかしくもない。
・・・・・・・・・・・・花園公園にある「三遊亭圓朝旧居跡 」には、かつて次のように説明されていた。 『この辺りは、明治落語界を代表する落語家三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んでいたところである。円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳の時、小円太の名で初高座を踏み、9歳で2代目円生の門下に入門した。話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。屋敷地は約1000㎡で、周囲を四ツ目垣で囲み、孟宗竹の藪、広い畑、桧・杉・柿の植え込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。新宿在住時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、専ら襌や茶道に心を寄せていたという。 平成3年11月 東京都新宿区教育委員会』、、、、写真は花園公園(公園の後ろには花園小学校)、圓朝旧居跡の碑
・・・・・・・・・・・・まだ赤線時代の雰囲気が残る、昭和39年(1964)に都営住宅「花園町アパート」(2棟48戸)が、“花園町”の一画に建てられた。、、、、男性には何かと便利が良い処にあり、きっと、入居希望者が殺到して抽選倍率は高かったと思うね。
●近くに来たのでご挨拶を! ・・・・・・新宿1丁目の隣り2丁目に、私が度々訪れる浄土宗の寺院の太宗寺がある。 太宗寺の創建は慶長元年(1596)頃までさかのぼると伝えられている。 徳川家の家臣:内藤正勝が開基となり、内藤大和守重頼より寺地の寄進を受けて大寺となったと言われている。 江戸六地蔵の一つ、江戸三閻魔の一つが安置されている。、、、、今日も、チョイトお立ち寄り!
・・・・・・・・・・・・境内の入口近くで迎えてくれる六地蔵。 銅造で像高は2m67cm、正徳2年(1712)に「江戸六地蔵」のひとつとして甲州街道沿いに造立されたもの。 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。
・・・・・・・・・・・・六地蔵の脇の「閻王殿」では、閻魔大王と奪衣婆に、お立ち寄りのご挨拶を!
・・・・・・・・・・・・・境内の奥、“疣取り地蔵 ”として名が知れた「塩かけ地蔵」にもご挨拶!
●綿のおばばとご対面! ・・・・・・・太宗寺の北側、靖国通りに面して浄土宗の寺院、明了山正受院願光寺がある 。 文禄3年(1594)に当地に創建された。
・・・・・・・・・・・・・・正受院名物の奪衣婆像は、咳止めに効くそうで多くの崇敬を集めた、今日は私も“コロナ止め”に期待して、遠路わざわざ浅草橋からやって来た。、、、、像で、現在は奪衣婆専用の「奪衣婆尊堂」に安置されている。 高さ75cmで、顔は笑みを帯びて優しい。 片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆得意のポーズで、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。 この奪衣婆像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。 当時、綿は咳止めのお礼参りに奉納したと伝えられる。 また、この像は小野篁の作であるとの伝承があり、田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。 像底のはめ込み板には「元禄十四辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことが判る。、、、、ぜひ、咳止めだけでなく、新型コロナウィルスを撲滅して欲しい! 期待する!
●広い、ゆとりある駅! ・・・・・・帰りはコロナを避けて、人混みを避け、靖国通りを東に歩き曙橋駅から帰宅する。、、、、曙橋駅は都営地下鉄新宿線の駅で、昭和55年(1980)3月16日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地下駅。 広いホーム、広いコンコースだが、平成9年(1997)にフジテレビが台場に移転したためか乗降客も少なくなったようだ!