善光寺坂の寺院
「首都封鎖」、「ロックダウン」など、チョイトヤバイ言葉が出てくるようになった“新型コロナ”の東京、年寄りの私も不要不急の外出をしかえている。 今日は、飯田橋の循環器内科の定期検診日。 “不要不急の外出”ではないので、午後から行ってきた。 診察はスグ終わり、チョイト遠回りして帰ることにした。 飯田橋駅から、小石川善光寺坂周辺の諸寺を巡り、大江戸線春日駅までの散歩。
●とうがらし地蔵! ・・・・・・・最初に訪れた寺は、文京区小石川3、伝通院門前の浄土宗寺院の福聚院。 福聚院は、霊應山鎮護寺と号し、安永3年(1774)伝通院末として現在地に創建した。 本尊の大黒天像は、小石川七福神の一つ。、、、、本堂は木造の簡素な造り。 本堂前は付属幼稚園の運動場となっているため、チョイト参拝しずらい。

・・・・・・・・・・・・“園庭”か、“境内”か、何と云うのか、幼稚園の門を入ってスグ脇に『とうがらし地蔵』がある。 『とうがらし地蔵』、正しく(?)は『せきどめ地蔵尊』という。 明治の中頃、とうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいて、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず、食するうちに亡くなってしまった。 そこで、近所の人があわれんで、地藏尊を祀りとうがらしを供えた。 その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治り、お礼にとうがらしを供えるようになったそうだ。 “新型コロナ”にも効きそうだ!、、、、首にさげているのは“とうがらし” こんなに大量にぶら下げたら、せき止めにならず、刺激が強くて、より以上にむせること間違いなし! 良い子はマネしないでください。


●徳川の菩提寺! ・・・・・・・・伝通院は、正式には無量山伝通院寿経寺。 小石川の高台にある浄土宗の寺で、徳川将軍家の菩提寺。、、、、慶長7年(1602)に徳川家康の生母:於大の方が京都伏見城で亡くなると、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び火葬した。 位牌は愛知県蒲郡市の安楽寺に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町、後に野田市へ移転)など各地に菩提寺を建立した。 慶長8年(1603)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇を整備し、母の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。 家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した上人の師が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師の言上を受けて、伝通院の建立を決めた。、、、、昭和20年(1945)、アメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。 かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。昭和24年(1949)に本堂を再建したが、昭和63年(1988)に戦後2度目となる本堂の再建が行われた。 平成24年(2012)には山門も再建された。


・・・・・・・・・・・・境内の墓地には多くの著名人の墓があるが、なんといっても家康の生母:於大(おだい)の方の墓から回る。、、、、於大の方(享禄元年~慶長7年(1528~1602)は、三河刈屋の城主水野忠政の娘、天文10年(1541)岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年家康を生む。 後に離婚して阿古屋城主久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。、、、、於大の嫁入りから死までは、山岡荘八の小説『徳川家康』を読むと、詳しく書かれている。 小説は全26巻、読むのに体力が必要である。 ちなみに私は5回以上全巻を読破した、好きな小説である。、、、、於大の法名:「伝通院殿容誉光岳智香大禅定尼」にちなみ、門前の通り名を「伝通院」とした。 また、春日通りには、昭和46年(1971)頃まで「伝通院」という都電の停留所があった。

・・・・・・・・・・・・徳川の菩提寺だから、生母於大の方以外にも、家康の側室:於奈津の方、家康の孫:千姫、家光の正室:孝子の方、その他徳川家の関係者多数の墓が並んでいる。



●痛々しい老椋! ・・・・・・・伝通院門前を東西に伸びる道を東に150m程歩くと、道の中央に大きなムクノキが見える。 文京区教育委員会の説明板では、『樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤藏司稲荷の神木として現在に至っている。樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。』と、記されている。、、、、この老木があるのは善光寺坂の坂上で、「善光寺坂のムクノキ」と呼ばれているそうだ。


●妖気漂う稲荷! ・・・・・・・・伝通院の学寮(栴檀林)に、僅か3年で浄土宗の奥義を極めた、沢蔵司(たくぞうす)という修行僧がいた。 元和6年(1620)五月の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に沢蔵司が立った。 「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが永く当山(伝通院)を守護して恩に報いよう」と告げて、暁の雲に隠れたという。 そこで伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。 江戸時代から参拝する人が多く繁栄した。、、、、沢蔵司は、伝通院門前のそば屋「萬盛」によくそばを食べに行った。 沢蔵司が帰ると売上金に必ず木の葉が混じっていて、店の主人は稲荷大明神だと驚き、毎朝最初のそばを稲荷に供え、稲荷蕎麦と称えたという。 これは現在も続いている。 その稲荷蕎麦「萬盛」は、春日2丁目、伝通院前交差点角のコンビニの隣にある。 「沢蔵司 てんぷらそばがお気に入り」と川柳に読まれたほど著名な僧だったらしい。(私は知らなかったね!)


・・・・・・・・・・・・本堂の東裏の崖下に窪地があり。 沢蔵司稲荷の朱塗りの鳥居が数基見える。 ココが、狐のすむ洞穴である。 社には“霊窟”と記され、奥に洞穴があって稲荷が祀られている。、、、、チョイト、ジメジメして妖気を感じる、ひょっとしたら“新型コロナ”が近くに居るのか?


●赤門の寺! ・・・・・・・・慈眼院の隣りには、浄土宗の善光寺がある。 善光寺は、慶長7年(1602)に伝通院の塔頭縁受院として創建、明治17年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になった。、、、、現本堂は明治40年(1907)に建てられたものである。 赤い山門は2か所にある。


●注意・注意・注意! ・・・・・・・・大きなムクノキがある坂上から、慈眼院・沢蔵司稲荷、善光寺前を下って行く坂が「善光寺坂」である。 この界隈には、寺院だけでなく、幸田露伴・徳田秋声や島木赤彦、古泉千樫ら文人、歌人が住んでいたそうだ。、、、、超急勾配ではないが、自転車ではかなりスピードが出るようだ、「車に轢かれて善光寺供養」とならぬように注意・注意・注意。

●目薬より効くこんにゃく! ・・・・・・・善光寺坂を下り、小石川1丁目と2丁目と3丁目がぶつかる交差点に出る。 そこから南に約150m歩くと、小石川2丁目に浄土宗の源覚寺がある。 源覚寺は「こんにゃく閻魔」で知られる。、、、、現覚寺は、寛永元年(1624) に創建された。 本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。 特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。、、、、「こんにゃく閻魔」は、源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。 右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い 老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして ”こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えが ある。 このことから眼病治癒の「こんにゃく閻魔」として庶民の信仰を集めた。 像は、高さ1m程、ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。 優れたできば えを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作らしい。


・・・・・・・・・・・・この山と積まれたお供えの“こんにゃく”、いらぬ心配だが、お下がりはどう処分するのだろうか?

・・・・・・・・・・・・境内正面の閻魔堂の左手奥に「塩地蔵」がある。 長年、塩で埋まっていたようで、姿が見えない。 寺が開かれた寛永元年(1624)以前よりこの地にあったという。 地蔵の体に塩を盛ってお参りすることからその名があり、古来より塩は清めとして用いられ、参詣者が身体健康を祈願した。、、、、つまり源覚寺では、眼科はコンニャク持参で閻魔さまに診てもらい、その他の病気は塩を持参し総合内科の地蔵さまに診てもらう。 死んだら、御本尊の阿弥陀さまに弔ってもらう。 メニューはしっかり揃っています!、、、、“新型コロナ”感染防止はこちらに頼むか!

●濃厚接触を避け! ・・・・・・・大江戸線春日駅から、満員電車を避け、空いている大江戸線で帰宅する。
