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2020年4月

2020年4月26日 (日)

明治の小学校が三校

皆さん御一緒に、“線路は続くよどこまでも”の曲に合わせて、♪♪ コロナは続くよ いつまでも 野を越え 山越え 海を越え 遥かな 国まで 僕たちの 楽しい 生活を 奪ってる  コロナはうつるよ いつまでも みんなの 姿を 追いかけて マスクを 突き抜け 僕たちの 大事な 命を 奪ってる ♪♪、、、、続いて牧伸二で、♪♪ あゝやんなっちゃった あゝ驚いた ♪♪

今日も体力維持の散歩で、我が家(浅草橋2)周辺の小学校跡を歩いてきた。、、、、我が家から北東へ約130mの処に「育英小学校」(浅草橋2)が、西へ約170mの処には「柳北小学校」(浅草橋5)が、南へ約170mの処には「福井小学校」(浅草橋1)があった。 いずれも過去形で、いずれも明治時代の創立、いずれも浅草橋地区の区立小学校、いずれも関東大震災の復興小学校、いずれの小学校も平成の時代に幕を下ろした。




●23区最古の公立小学校! ・・・・・・・まずは、我が家から最も近い「育英小学校」、、、、明治2年3月明治新政府は、幕府、藩による政治体制に代わる新しい日本の構築に当たって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に六つの小学校を設立することを発布。その一つが翌明治3年3月西福寺(蔵前4)境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の台東育英小学校の前身である。 開校日は明治3年6月23日で、現在の浅草橋・柳橋・蔵前・鳥越・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学した。 明治5年8月の学制発布に先立つ、東京で最も早い公立小学校の一つだ。 当校は、明治7年(1874)4月中旬に医学館跡地(現:浅草橋4)へ移転、明治10年8月、育英小学校と改称し、同18年10月に現在地(浅草橋2)に移った。 戦時中は「東京都育英国民学校」と改称。 戦後は「台東区立育英小学校」として、平成12年まで存続。 平成13年(2001)4月、少子化により台東区立柳北小学校と統合し「台東育英小学校」(現在)となり、「育英小学校」の歴史は終わる。、、、、明治21年頃の育英小学校は煉瓦造りで上層階は木造で建てられたらしい。 当時の児童数は500名程と言われている。


・・・・・・・・・・・・育英小学校が設立された西福寺は、現在の台東育英小学校から北東へ500m程行った蔵前4丁目に在る浄土宗寺院で、東光山松平良雲院と号す。 西福寺は、かつて駿河に創建し、慶長3年(1598)駿河台下に移り一寺となした。 江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていた。、、、、山門脇には「育英小学校発祥の地」が建っている。 

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・・・・・・・・・・・・現在の台東育英小学校校舎は、昭和56年(1981)に建て替えられた育英小学校の建物である。、、、、現在の台東育英小学校は、各学年で60名ぐらい、全校生徒は380名程である。、、、、昭和30年頃、私の柳北小学校は、一学年の生徒数が600名程で全校生徒は数えられないほど多かった! 生徒が多く、チョイト悪さしても先生の目が届かず、良き時代だった。 廊下に立たされたことも多かった!

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●明治初期の女学校! ・・・・・・次は、このブログで毎度お馴染みの私の母校「柳北小学校、、、、明治9年(1876)、育英小学校(当時は松前小学校と呼んでいた)から分離独立し、現在地に近い浅草橋4に在った医学館跡に「公立小学柳北女学校」として設立された。 明治20年(1887)「柳北女子尋常高等小学校」と改称。 明治41年(1908)になって、やっと「柳北尋常小学校」と改称し、男女共学となる。 大正15年(1926)、現存する鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工。 戦時中は、昭和16年(1941)に「東京府東京市柳北国民学校」と改称、昭和18年(1943)には「東京都柳北国民学校」と再び改称。 昭和22年(1947)に「台東区立柳北小学校」と改称し、以後、我が家では私と二人の娘も卒業する。 しかし残念ながら平成13年(2001)に育英小学校と統合し、柳北小学校は閉校。、、、、閉校後も建物は現存し、周辺の学校(リセ・コレージュ・フランコ・ジャポネというフランスの学校、蔵前小学校など)が建て替え工事をする間、仮校舎として利用している。

・・・・・・・・・・・柳北小学校発祥の地「医学館跡(旧躋寿館跡)」、、、、台東区浅草橋4丁目の千代田区との境(清洲橋通り)に、江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館があった。 明和2年(1765)幕府医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館(せいじゅかん)
から出発、寛政3年(1791)に幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。 文化3年(1806)3月大火に遭い焼失、同年4月に、前方の旧向柳原一丁目(現:浅草橋4)に移転、再建された。 敷地7000㎡、代々多紀家がその監督にあたり、天保14年(1843)には寄宿舎をを設け、全寮制とし広く一般からも入学を許可し、子弟養成を図るなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。 医学館は、明治以降の東京大学医学部の前身ともいうべき由緒を持つが、それを語る碑などはなく、去年までは区の説明板があった。 この医学館跡は、明治9年から大正2年まで柳北小学校の校地となった。、、、、写真は、医学館跡の区の説明板があったところ。 今年から駐車場となったため、区の説明板は取り払われたが、この一画が医学館跡と思われる! 

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・・・・・・・・・・・・現存する「柳北小学校」の建物は、東京市の設計により、藤本清次郎の施工で、大正15年(1926)11月10日に竣工した、鉄筋コンクリート造3階建て(32学級)の校舎である。、、、、大正12年の関東大震災後に建てられた復興小学校のひとつで、“大正15年の秋”竣工という、東京市内では被災後の比較的早い時期に建てられた校舎である。 また、32学級という数字は、当時の下町のマンモス校であったであろう。、、、、平成13年には、明治9年より100年以上続いた柳北小学校の歴史に幕を下ろした。 

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●日本一校庭の狭い校舎! ・・・・・・・三校目はJR浅草橋駅の北側にあった「福井小学校」、、、、明治36年(1903)「東京府東京市福井尋常小学校」として開校。 大正12年の関東大震災により焼失。 昭和4年(1929)復興校舎落成。 昭和16年(1941)には「東京府東京市福井国民学校」と改称。 昭和18年、「東京都福井国民学校」と改称。 昭和22年(1947)、学校教育法の施行に伴い、福井小学校は「福井中学校」として生まれ変わる。 ここで、福井小学校は廃校となる。 新しく誕生した「福井中学校」は、戦後、7,905名の卒業生を社会に送り出したが、平成3年(1991)少子化により蔵前中学校と統合し「浅草中学校」となり。 福井中学校は廃校となる。、、、、校名は旧町名「浅草福井町」によるが、その福井町は越前福井藩松平家の屋敷があったことに由来している。、、、、校舎は関東大震災後の復興小学校で、昭和4年建設、鉄筋コンクリート造3階建、設計は東京市、施工は松村組であった。 駅前の広くない敷地に建つ校舎は、校庭が狭く、「日本一校庭の狭い中学校」としてTVで放映された。 平成22年(2010)校舎は取り壊された。 

・・・・・・・・・・・・取り壊し直前の福井中学校(旧福井小学校)、、、、4階部分は後の増築。

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・・・・・・・・・・・・福井中学の跡地は、台東区と跡地活用事業者としてヒューリック株式会社により、跡地を約50年に亘って貸し出す定期借地権設定契約が締結された。 これによって、ヒューリックは地域活性化施設として、跡地(狭い校庭を含め、学校の敷地であった処、目一杯に!)に「ヒューリック浅草橋ビル」(12F・B2F)というオフィスビルを建てた。、、、、浅草橋は駅前に、悔しいけど、シンボルとなる超高層ビルがない。 ヒューリック浅草橋ビルは、浅草橋住民にとって、何かと話題・目印になるビルで重宝している。、、、、ビルの脇には『福井松平藩邸跡 昭和五十年五月建之 福井中学校』の石碑が残されている。

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●変わる下町! ・・・・・・浅草橋駅北側の三校、柳北小学校・育英小学校・福井小学校を線で結ぶと、我が家を中心に一辺が200~300m程の三角形となる。 明治・大正・昭和と時代を跨ぎ、この界隈では三校を必要とするほどの児童数の多さと賑わいがあった。 まさに江戸の下町であったことが想像される。、、、、時代は変わり今は少子高齢化。 小学校に変わって、デイサービス、老人ホームなど介護サービス施設が増えてきた! かっての子供は今の年寄り!

2020年4月19日 (日)

ガラガラ・空き空き

緊急事態宣言が全国に拡大され最初の日曜日。 チョイト、体力維持の散歩に出た。 “三密”を避け、他の人とは2m程離れて、嫌いなマスクして、国際通りを歩き、浅草橋の我が家から直線でほぼ2kmの浅草寺まで歩いてきた。 午前中の早い時間の散歩で、町も、電車もガラガラ・空き空き。




●鳥居に彫られた几号!・・・・・・・まずは、我が家から徒歩5分程の処にある鳥越神社に立ち寄って行く。、、、、白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと言われてる。 祭神の日本武尊に“コロナ撲滅”を祈願し、また、“10万円一律給付”は確実に受け取れるように、手を合わせた。

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・・・・・・・・・・・・チョイト、境内末社の志志岐神社(ししきじんじゃ)にも手を合わせる。、、、、こちらは、鳥越神社の近くに在った、対馬藩上屋敷の屋敷社で、祭神は豊玉姫命。 昔から安産を守る神として崇められていたらしい。 平成13年(2001)に鳥越神社の末社として祀られた。、、、、豊玉姫は浦島太郎が行った竜宮城の乙姫のモデルとなった神様と云う説があるそうだ。 私の頭の中では、菜々緒の乙姫をイメージし、ついつい御賽銭もはずんでしまった!

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・・・・・・・・・・・・神社西側参道の鳥居には、長年私が探し歩いてる几号水準点(きごうすいじゅんてん)の一つがある。、、、、几号水準点とは、明治政府が明治9年(1876)頃から高低測量(水準測量)を行うために設けた基準となる測量点。 イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物(石垣・鳥居など恒久的に残るであろうもの)に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点とした。 “几号”の“几”の字は、「几帳面」の“き”である。 辞書では“几”は机の意味があり。 この水準点に彫られた記号が三脚のついた机に似ており、こう呼ぶそうだ。 「不」の刻印はいずれも不の字横棒が7~8cm、縦棒が8~9cm程の大きさである。 不の字の横棒の位置が標高を示す位置で、水準測量の実務では不の字の横棒の切り込みに物差し(標尺)を立てて使うようになっている。、、、、几号水準点を使用する測量は内務省がはじめたが、明治17年(1884)に陸軍が測量を担当し、ドイツ式の測量法を導入したため、几号水準点は使用されず、現行の水準点に移行した。 几号水準点は内務省により、東京に300箇所設置されたが、都心に現存するのは40箇所ほどである。 また、東京以外でも奥州街道沿いを中心に100箇所以上が現存しているそうだ。 今は使用されず、鳥居・狛犬・石垣などに几号水準点が残されている。 几号オタクにとっては、各地を歩き、宝探しのように几号を見つけることに喜びを感じている、、、、私も、その一人、、、、東京では、江戸城天守閣、日比谷公園靖国神社千住氷川神社南千住円通寺素盞雄神社湯島天神、ニコライ堂など、各所に現存する。 

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●8割減達成! ・・・・・・・・車も、人も、コロナも少ない国際通り、、、、皆さん、不要不急の外出は避け、ジッと我慢!

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●8割減の浅草寺! ・・・・・・雷門通りすしや通り六区新仲見世五重塔通り西参道の順に歩いて観音さまに向かうが、歩く人は少なく、ここでも8割削減は達成しただろう!

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・・・・・・・・・・・・観光客の姿が見えない浅草寺。 ジョギングで立ち寄った人、犬の散歩で立ち寄った人、今まで見たこともない光景を見に来た人、いずれも地元の人だ! 中国・韓国の言葉が聞こえない静かな本堂にはチョイト戸惑う。 浅草寺を一変させたコロナの威力に、あらためて恐怖を感じた。(普段の浅草寺

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・・・・・・・・・・・・久しぶりに、御御籤を引いてみた。 「第九十四 半吉」だって! 裏面の説明では、【願望:思い通りにはならないでしょう】、【病気:長引くものの、命に支障はないでしょう】、【待ち人:現れるでしょう】 良いのだか、悪いのだか、サッパリ判らん! コロナに感染しても、死なないようだから、良しとするか!

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・・・・・・・・・・・・仲見世・雷門を抜ける。 午前10時だというのに、店は開いてない。 観光人力車の車夫の姿もない!

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●コロナは居なそうだ! ・・・・・・浅草から、都営浅草線に乗ってみた。 浅草駅も、電車もガラガラだ!、、、、都営浅草線の浅草駅は大きくカーブする相対式ホーム2面2線を有する地下駅。 駒形橋西詰直下に位置しているため、雷門、東武浅草駅、東京メトロ浅草駅からは、チョッピリ歩くことになる。 昭和35年(1960)12月4日の開業。、、、、普段は改札口周辺に観光客がごった返すコンコースも今日は寂しそう!

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・・・・・・・・・・・・浅草から二つ目の駅が浅草橋。、、、、駅は島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 ホーム階は地下2階で、地下1階は改札階となっている。 駅の開業は、浅草駅と同時の昭和35年(1960)12月4日である。 駅の壁に工事竣工プレートが埋め込まれている。 「地下鉄浅草橋停車場」と標され、9年後に私が入社したゼネコン名も記されている。
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2020年4月16日 (木)

全国で外出自粛!

全国に拡大された「緊急事態宣言」、ますます不要不急の外出は避けねばならない。 そうは判っても、一週間外に出ないとヤッパリ気が滅入る。 夕刻、買い物ついでに浅草橋駅周辺をチョイト歩いてきた。、、、、ヤッパリ、表通りを歩く人は少ない! ガード下の呑み屋は灯りが消えた! 銭湯は営業中だが人影が見えない!、、、、どこもかしこも商売にならず、コリャダメだ!、、、、明日も、明後日も、引き続く、外出自粛! 

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2020年4月 8日 (水)

市村座の跡

とうとう“緊急事態宣言”が出た! 愛する人(?)を不幸にしないため不要不急の外出はせずに家でグダグダ、ゴロゴロ。 昼寝も飽きた! 昼過ぎ、自身の体力維持で、“3密”を避けながら、今日も我が家の近所をチョッピリ散歩した。




●艶っぽいサクラ! ・・・・・・我が家に近い柳北公園では、10日程前に見たソメイヨシノは散り、緑の小さな葉が出てきた。 コロナで、今年は花見もなくサクラも静かに散り、また来年!、、、、ところがドッコイ、ソメイヨシノは散っても、公園の片隅でピンクの艶っぽいサクラ(名は?)は今が満開だ!

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●処刑された殉教者! ・・・・・・・公園の近く、浅草橋5丁目に在って「カトリック浅草教会」とは? できれば“浅草橋教会”と言って欲しいね! このカトリック浅草教会は、明治10年(1877)12月に、都内の2番目の教会(最初の教会は、1874年に建築された築地教会)として、現在地に立てられた。、、、、教会の裏のオープンスペースに「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」がある。 この碑は、江戸における最初の宣教について語っている。 徳川家康の貿易政策に協力することを条件に、江戸での宣教をゆるされたフランシスコ会の神父達は、江戸府内に聖堂・修道院を建て、宣教・司牧にあたった。 その活動は東北、幾内方面にもおよび、江戸では3,000人を超す信徒が数えられた。 しかし慶長18年(1613)、将軍秀忠は江戸城の敷地拡張を口実に、突然この聖堂と修道院を取り壊した。 信徒の有志・神父らは、礼拝堂を建てることを幕府に願い出たが許されず、府内から4キロばかり離れた浅草のハンセン病院の近くの寄せ場に密かにわらぶきの小さな礼拝堂を建てた。 だが、これはすぐ幕府に知るところとなって、建設を指導した信徒たちは捕らえられ、 伝馬町の牢屋に送られた。 同年8月16日から、今のカトリック浅草教会から東へ約500m行った当時の鳥越刑場で27人が処刑され殉教した。 処刑された27人と伝馬町で獄死した1名の計28名を忘れぬよう記念碑は建立された。

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●お世話になります! ・・・・・・台東区浅草橋の隣町、千代田区和泉町に「三井記念病院」がある。 この病院は、三井財閥系の企業により支援されている総合病院。 現建物は平成23年(2011)9月に建て替えられた地上19階建ての病院。、、、、、我が家では、家族全員がこの病院に昔から世話になっており、私の幼き頃(終戦直後)は小児科、妻は我が娘二人の出産、我が両親も癌・眼病の手術・治療など、毎度毎度お世話になってます。 直近では、私の大動脈の手術(2014年)とその後の治療もここの病院である。

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・・・・・・・・・・・・三井記念病院は、安政5年(1858)に江戸お玉が池に開設された種痘所を前身として、東京帝国大学附属病院の跡地(現在地)に、明治39年(1906)に三井家総代三井八郎右衞門により、「三井慈善病院」として設立された。 以後、昔も今も、東京大学医学部の協力の下に診療している。

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●芝居小屋の跡! ・・・・・・・三井記念病院の斜め前に、世界最大規模の印刷会社「凸版印刷」の本社(台東区台東)がある。 現在あるこの地は創業地である。 社名の「凸版」は創業当時(明治33年、1900)、最新鋭であった銅凸版印刷技術を前面に出すために名付けられたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・凸版印刷本社敷地内の一画に「市村座跡」の碑がある。、、、、市村座は寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、歌舞伎の芝居小屋で、江戸三座と呼ばれた。 市村座は、天保13年(1842)浅草猿若町に移り、 明治25年(1892)に下谷二長町といった現在の台東区台東に移り開場した。 二長町時代の市村座は、明治26年に焼失。 翌明治27年(1894)に再建して東京市村座と称した。 大正12年(1923)の関東大震災で再び焼けたが再興、昭和7年(1932)5月に、またも、自火焼失し消滅した。 この“二長町”が現在の凸版印刷本社がある処。

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・・・・・・・・・・・・凸版印刷本社に隣接し、「千代田稲荷神社」という小祠がある。 明治25年(1892)下谷二長町に市村座が開場し、尾上菊五郎・中村吉右衛門が信仰した千代田稲荷神社分社を勧請して繁栄を祈願することになり、芝居小屋の正面表口に祀られた。 以後市村座と共にあったが、昭和7年、座は自火焼失したが、奇しくも神社は焼失を免れたため、その後は千田区有志により市村座跡に再建された。

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●ガマンしろ! ・・・・・・・・また明日も、家でゴロゴロ。 ストレス溜まるが、我慢・ガマン!

2020年4月 3日 (金)

体力維持の散歩

私が世話になっていた病院がクラスターとなり、とうとう100人以上の感染者が出た。 “不幸中の幸い”で、私は前回は2月に受診し、3月は予約なしで、4月は来週が予約日であった。(ちなみに、来週の予約は病院からの電話で6月に変更され、それまでの間の薬は処方箋が郵送されて来た) ちょうど、感染が発生した3月は病院へ行くこともなく過ぎた。 これは、薬師如来か、弁天さまか、それとも異国のマリアさまか、“長く生きよ”との思し召しと受けとめた。 家に籠もって六日目、そろそろストレスも溜まり、飽きた。 肺炎に負けぬ体力維持のため、我が家から1km以内のご近所をチョッピリ散歩。




●閻魔の故郷! ・・・・・・・我が家のある台東区浅草橋2、江戸通り(国道6号)裏の「玩具会館」、この建物の植え込みに、「閻魔堂跡」の石碑がある。(我が家から、直線で約250m) 、、、、江戸時代この付近には、閻魔王を本尊とする華徳院と云う寺があった。 閻魔像は運慶の作で1丈6尺(5m弱)といわれている。 華徳院の閻魔は、巣鴨の善養寺、内藤新宿の太宗寺と共に江戸三大閻魔のひとつに数えられ、閻魔詣が盛んだった当時、特に縁日が立つ日には参詣客で賑わったそうだ。 華徳院は関東大震災でお堂も焼け、昭和4年(1929)に現在地の杉並区松ノ木に移転した。、、、、江戸時代の古地図を見ると、華徳院は現在の江戸通りに面した大きな寺であった。 南隣には「大日寺天王社」と記されている、これは現在の須賀神社で牛頭天王のこと。、、、、華徳院が移転せず、この地にとどまっておれば、江戸通りは、日本橋・浅草橋(華徳院)・浅草(浅草寺)と、観光名所が途切れることなく続く今以上の観光スポットになっていたかも?

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・・・・・・・・・・・・明治・大正時代には、華徳院の縁日では、境内から須賀橋付近(江戸通りの須賀橋交番がある処)まで露天が並んだそうだ。、、、、“須賀橋”は現存しない。 交番脇の道路には、かつて鳥越川が流れていいた。 そこに架かる、江戸通りの橋の名が“須賀橋”であった。、、、、話は逸れるが、私の記憶では、須賀橋交番は建て替えられてから20年くらい経過したがモダンなデザインの交番である。 この交番にはいつも女性警察官がいる、気になる交番でもある。 

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●名を名乗り参拝! ・・・・・・・須賀橋交番の脇を東(隅田川)へ30歩程歩くと「
第六天榊神社」(台東区蔵前1)がある。(我が家から約450m) 第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110)に創建したといわれてる。 かつて第六天神社と称し、森田町(現:蔵前3)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(台東区柳橋1)へ遷座した。 明治維新の廃仏毀釈により社号を榊神社へ改称、昭和3年(1928)、浅草文庫の跡地であり、現東京工業大学の跡地でもある、現在地へ移転した。、、、、第六天というのは、仏の世界で欲界という天上にいる天魔王のこと。、、、、今日は“新型コロナ”撲滅を祈願するが、当神社の得意技は“健康長寿”と“諸業繁栄”だ、果たしてコロナに効くのかな??? 

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・・・・・・・・・・・【ついでの話】 榊神社の境内にあった「参拝の作法」を読んでみたら、参拝では“住所・氏名”を言うのだ、知らなかったね! 個人情報が知られてしまう、チョイトやばいね!、、、、その次にお賽銭を奉納するのだが、小銭を持っていないときは、万札でお釣りくれるのか! 無一文のときは、ご利益なしか? 何だか、お賽銭が必須要件の参拝作法で、チョイトいやだね!

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●蔵前の御蔵! ・・・・・・・・蔵前橋西詰(台東区側)に「浅草御蔵跡」の碑がある。(我が家から約750m)、、、、浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。 元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋2丁目、蔵前1・2丁目にかけての地域(現榊神社、元蔵前国技館、などがあった処)を埋め立てて造営した。 このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保年間(1716~1736)頃までに浅草御蔵に吸収された。 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が誕生したのは、昭和9年(1934)のことである。、、、、サクラが散りはじめた! 

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●コロナよ、来るな! ・・・・・・・・隅田川の両岸に整備された「隅田川テラス(我が家から約600m) を、蔵前橋の脇からおりて、両国橋の手前、JR総武線隅田川橋梁の脇まで歩く。、、、、人は少なく、川風が吹き、コロナを寄せ付けず、安全な散歩道。

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●芸術家の住む浅草橋! ・・・・・・・隅田川テラスから浅草橋駅へ向かう途中、高架橋下の一画に「速水御舟生誕地」(柳橋1-19)の説明板(写真矢印)が立っている。(我が家から約300m)、、、、それには、『当地と想定される、浅草区茅町二丁目十六番地で、速水御舟は明治二十七年(1894)八月二日に生まれた。良三郎、いとの次男として出生し、本名を蒔田栄一といった。 御舟は早くから絵に志し、明治四十一年十四歳の時、松本楓湖の安雅堂画塾に入門。同画塾は浅草茅町二丁目三十一番地にあった。入門の翌年、師から禾湖の号を授かる。そして母方祖母の速水キクの養子となる。大正三年(1914)号を御舟と改め、このころから速水姓を称するようになったという。 明治四十三年、十六歳で作品を初めて展覧会に出品。翌年出品の「室寿の宴」は一等褒状を受け、宮内省買上げとなる。大正六年第四回院展に「洛外六題」を出品し、横山大観・下村観山に激賞された。 昭和十年(1935)将来を嘱望されながら四十歳で没した。作品には、昭和五十二年国の重要文化財指定の「炎舞」「名樹散椿」などがある。』と記されている。 、、、、大正から昭和初期の偉大な日本画家が、柳橋の高架下で生まれたとはと思いきや、御舟の生まれた明治には、JR総武線の高架橋はまだ無い。 JR総武線両国~お茶の水間は関東大震災後の昭和7年(1932)の開通である。 御舟は生家は質屋だったそうだ! また、すぐ近く(柳橋1-10)には、島崎藤村が住んでいた。 浅草橋にも有名人が住んでいた、嬉しいね!

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●歩く人も少ない! ・・・・・・・・・・“新型コロナ”に感染しないよう3密を避け、1時間半ほどの散歩も終わり。

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