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2020年4月 3日 (金)

体力維持の散歩

私が世話になっていた病院がクラスターとなり、とうとう100人以上の感染者が出た。 “不幸中の幸い”で、私は前回は2月に受診し、3月は予約なしで、4月は来週が予約日であった。(ちなみに、来週の予約は病院からの電話で6月に変更され、それまでの間の薬は処方箋が郵送されて来た) ちょうど、感染が発生した3月は病院へ行くこともなく過ぎた。 これは、薬師如来か、弁天さまか、それとも異国のマリアさまか、“長く生きよ”との思し召しと受けとめた。 家に籠もって六日目、そろそろストレスも溜まり、飽きた。 肺炎に負けぬ体力維持のため、我が家から1km以内のご近所をチョッピリ散歩。




●閻魔の故郷! ・・・・・・・我が家のある台東区浅草橋2、江戸通り(国道6号)裏の「玩具会館」、この建物の植え込みに、「閻魔堂跡」の石碑がある。(我が家から、直線で約250m) 、、、、江戸時代この付近には、閻魔王を本尊とする華徳院と云う寺があった。 閻魔像は運慶の作で1丈6尺(5m弱)といわれている。 華徳院の閻魔は、巣鴨の善養寺、内藤新宿の太宗寺と共に江戸三大閻魔のひとつに数えられ、閻魔詣が盛んだった当時、特に縁日が立つ日には参詣客で賑わったそうだ。 華徳院は関東大震災でお堂も焼け、昭和4年(1929)に現在地の杉並区松ノ木に移転した。、、、、江戸時代の古地図を見ると、華徳院は現在の江戸通りに面した大きな寺であった。 南隣には「大日寺天王社」と記されている、これは現在の須賀神社で牛頭天王のこと。、、、、華徳院が移転せず、この地にとどまっておれば、江戸通りは、日本橋・浅草橋(華徳院)・浅草(浅草寺)と、観光名所が途切れることなく続く今以上の観光スポットになっていたかも?

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・・・・・・・・・・・・明治・大正時代には、華徳院の縁日では、境内から須賀橋付近(江戸通りの須賀橋交番がある処)まで露天が並んだそうだ。、、、、“須賀橋”は現存しない。 交番脇の道路には、かつて鳥越川が流れていいた。 そこに架かる、江戸通りの橋の名が“須賀橋”であった。、、、、話は逸れるが、私の記憶では、須賀橋交番は建て替えられてから20年くらい経過したがモダンなデザインの交番である。 この交番にはいつも女性警察官がいる、気になる交番でもある。 

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●名を名乗り参拝! ・・・・・・・須賀橋交番の脇を東(隅田川)へ30歩程歩くと「
第六天榊神社」(台東区蔵前1)がある。(我が家から約450m) 第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110)に創建したといわれてる。 かつて第六天神社と称し、森田町(現:蔵前3)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(台東区柳橋1)へ遷座した。 明治維新の廃仏毀釈により社号を榊神社へ改称、昭和3年(1928)、浅草文庫の跡地であり、現東京工業大学の跡地でもある、現在地へ移転した。、、、、第六天というのは、仏の世界で欲界という天上にいる天魔王のこと。、、、、今日は“新型コロナ”撲滅を祈願するが、当神社の得意技は“健康長寿”と“諸業繁栄”だ、果たしてコロナに効くのかな??? 

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・・・・・・・・・・・【ついでの話】 榊神社の境内にあった「参拝の作法」を読んでみたら、参拝では“住所・氏名”を言うのだ、知らなかったね! 個人情報が知られてしまう、チョイトやばいね!、、、、その次にお賽銭を奉納するのだが、小銭を持っていないときは、万札でお釣りくれるのか! 無一文のときは、ご利益なしか? 何だか、お賽銭が必須要件の参拝作法で、チョイトいやだね!

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●蔵前の御蔵! ・・・・・・・・蔵前橋西詰(台東区側)に「浅草御蔵跡」の碑がある。(我が家から約750m)、、、、浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。 元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋2丁目、蔵前1・2丁目にかけての地域(現榊神社、元蔵前国技館、などがあった処)を埋め立てて造営した。 このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保年間(1716~1736)頃までに浅草御蔵に吸収された。 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が誕生したのは、昭和9年(1934)のことである。、、、、サクラが散りはじめた! 

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●コロナよ、来るな! ・・・・・・・・隅田川の両岸に整備された「隅田川テラス(我が家から約600m) を、蔵前橋の脇からおりて、両国橋の手前、JR総武線隅田川橋梁の脇まで歩く。、、、、人は少なく、川風が吹き、コロナを寄せ付けず、安全な散歩道。

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●芸術家の住む浅草橋! ・・・・・・・隅田川テラスから浅草橋駅へ向かう途中、高架橋下の一画に「速水御舟生誕地」(柳橋1-19)の説明板(写真矢印)が立っている。(我が家から約300m)、、、、それには、『当地と想定される、浅草区茅町二丁目十六番地で、速水御舟は明治二十七年(1894)八月二日に生まれた。良三郎、いとの次男として出生し、本名を蒔田栄一といった。 御舟は早くから絵に志し、明治四十一年十四歳の時、松本楓湖の安雅堂画塾に入門。同画塾は浅草茅町二丁目三十一番地にあった。入門の翌年、師から禾湖の号を授かる。そして母方祖母の速水キクの養子となる。大正三年(1914)号を御舟と改め、このころから速水姓を称するようになったという。 明治四十三年、十六歳で作品を初めて展覧会に出品。翌年出品の「室寿の宴」は一等褒状を受け、宮内省買上げとなる。大正六年第四回院展に「洛外六題」を出品し、横山大観・下村観山に激賞された。 昭和十年(1935)将来を嘱望されながら四十歳で没した。作品には、昭和五十二年国の重要文化財指定の「炎舞」「名樹散椿」などがある。』と記されている。 、、、、大正から昭和初期の偉大な日本画家が、柳橋の高架下で生まれたとはと思いきや、御舟の生まれた明治には、JR総武線の高架橋はまだ無い。 JR総武線両国~お茶の水間は関東大震災後の昭和7年(1932)の開通である。 御舟は生家は質屋だったそうだ! また、すぐ近く(柳橋1-10)には、島崎藤村が住んでいた。 浅草橋にも有名人が住んでいた、嬉しいね!

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●歩く人も少ない! ・・・・・・・・・・“新型コロナ”に感染しないよう3密を避け、1時間半ほどの散歩も終わり。

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