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2020年4月26日 (日)

明治の小学校が三校

皆さん御一緒に、“線路は続くよどこまでも”の曲に合わせて、♪♪ コロナは続くよ いつまでも 野を越え 山越え 海を越え 遥かな 国まで 僕たちの 楽しい 生活を 奪ってる  コロナはうつるよ いつまでも みんなの 姿を 追いかけて マスクを 突き抜け 僕たちの 大事な 命を 奪ってる ♪♪、、、、続いて牧伸二で、♪♪ あゝやんなっちゃった あゝ驚いた ♪♪

今日も体力維持の散歩で、我が家(浅草橋2)周辺の小学校跡を歩いてきた。、、、、我が家から北東へ約130mの処に「育英小学校」(浅草橋2)が、西へ約170mの処には「柳北小学校」(浅草橋5)が、南へ約170mの処には「福井小学校」(浅草橋1)があった。 いずれも過去形で、いずれも明治時代の創立、いずれも浅草橋地区の区立小学校、いずれも関東大震災の復興小学校、いずれの小学校も平成の時代に幕を下ろした。




●23区最古の公立小学校! ・・・・・・・まずは、我が家から最も近い「育英小学校」、、、、明治2年3月明治新政府は、幕府、藩による政治体制に代わる新しい日本の構築に当たって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に六つの小学校を設立することを発布。その一つが翌明治3年3月西福寺(蔵前4)境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の台東育英小学校の前身である。 開校日は明治3年6月23日で、現在の浅草橋・柳橋・蔵前・鳥越・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学した。 明治5年8月の学制発布に先立つ、東京で最も早い公立小学校の一つだ。 当校は、明治7年(1874)4月中旬に医学館跡地(現:浅草橋4)へ移転、明治10年8月、育英小学校と改称し、同18年10月に現在地(浅草橋2)に移った。 戦時中は「東京都育英国民学校」と改称。 戦後は「台東区立育英小学校」として、平成12年まで存続。 平成13年(2001)4月、少子化により台東区立柳北小学校と統合し「台東育英小学校」(現在)となり、「育英小学校」の歴史は終わる。、、、、明治21年頃の育英小学校は煉瓦造りで上層階は木造で建てられたらしい。 当時の児童数は500名程と言われている。


・・・・・・・・・・・・育英小学校が設立された西福寺は、現在の台東育英小学校から北東へ500m程行った蔵前4丁目に在る浄土宗寺院で、東光山松平良雲院と号す。 西福寺は、かつて駿河に創建し、慶長3年(1598)駿河台下に移り一寺となした。 江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていた。、、、、山門脇には「育英小学校発祥の地」が建っている。 

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・・・・・・・・・・・・現在の台東育英小学校校舎は、昭和56年(1981)に建て替えられた育英小学校の建物である。、、、、現在の台東育英小学校は、各学年で60名ぐらい、全校生徒は380名程である。、、、、昭和30年頃、私の柳北小学校は、一学年の生徒数が600名程で全校生徒は数えられないほど多かった! 生徒が多く、チョイト悪さしても先生の目が届かず、良き時代だった。 廊下に立たされたことも多かった!

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●明治初期の女学校! ・・・・・・次は、このブログで毎度お馴染みの私の母校「柳北小学校、、、、明治9年(1876)、育英小学校(当時は松前小学校と呼んでいた)から分離独立し、現在地に近い浅草橋4に在った医学館跡に「公立小学柳北女学校」として設立された。 明治20年(1887)「柳北女子尋常高等小学校」と改称。 明治41年(1908)になって、やっと「柳北尋常小学校」と改称し、男女共学となる。 大正15年(1926)、現存する鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工。 戦時中は、昭和16年(1941)に「東京府東京市柳北国民学校」と改称、昭和18年(1943)には「東京都柳北国民学校」と再び改称。 昭和22年(1947)に「台東区立柳北小学校」と改称し、以後、我が家では私と二人の娘も卒業する。 しかし残念ながら平成13年(2001)に育英小学校と統合し、柳北小学校は閉校。、、、、閉校後も建物は現存し、周辺の学校(リセ・コレージュ・フランコ・ジャポネというフランスの学校、蔵前小学校など)が建て替え工事をする間、仮校舎として利用している。

・・・・・・・・・・・柳北小学校発祥の地「医学館跡(旧躋寿館跡)」、、、、台東区浅草橋4丁目の千代田区との境(清洲橋通り)に、江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館があった。 明和2年(1765)幕府医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館(せいじゅかん)
から出発、寛政3年(1791)に幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。 文化3年(1806)3月大火に遭い焼失、同年4月に、前方の旧向柳原一丁目(現:浅草橋4)に移転、再建された。 敷地7000㎡、代々多紀家がその監督にあたり、天保14年(1843)には寄宿舎をを設け、全寮制とし広く一般からも入学を許可し、子弟養成を図るなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。 医学館は、明治以降の東京大学医学部の前身ともいうべき由緒を持つが、それを語る碑などはなく、去年までは区の説明板があった。 この医学館跡は、明治9年から大正2年まで柳北小学校の校地となった。、、、、写真は、医学館跡の区の説明板があったところ。 今年から駐車場となったため、区の説明板は取り払われたが、この一画が医学館跡と思われる! 

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・・・・・・・・・・・・現存する「柳北小学校」の建物は、東京市の設計により、藤本清次郎の施工で、大正15年(1926)11月10日に竣工した、鉄筋コンクリート造3階建て(32学級)の校舎である。、、、、大正12年の関東大震災後に建てられた復興小学校のひとつで、“大正15年の秋”竣工という、東京市内では被災後の比較的早い時期に建てられた校舎である。 また、32学級という数字は、当時の下町のマンモス校であったであろう。、、、、平成13年には、明治9年より100年以上続いた柳北小学校の歴史に幕を下ろした。 

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●日本一校庭の狭い校舎! ・・・・・・・三校目はJR浅草橋駅の北側にあった「福井小学校」、、、、明治36年(1903)「東京府東京市福井尋常小学校」として開校。 大正12年の関東大震災により焼失。 昭和4年(1929)復興校舎落成。 昭和16年(1941)には「東京府東京市福井国民学校」と改称。 昭和18年、「東京都福井国民学校」と改称。 昭和22年(1947)、学校教育法の施行に伴い、福井小学校は「福井中学校」として生まれ変わる。 ここで、福井小学校は廃校となる。 新しく誕生した「福井中学校」は、戦後、7,905名の卒業生を社会に送り出したが、平成3年(1991)少子化により蔵前中学校と統合し「浅草中学校」となり。 福井中学校は廃校となる。、、、、校名は旧町名「浅草福井町」によるが、その福井町は越前福井藩松平家の屋敷があったことに由来している。、、、、校舎は関東大震災後の復興小学校で、昭和4年建設、鉄筋コンクリート造3階建、設計は東京市、施工は松村組であった。 駅前の広くない敷地に建つ校舎は、校庭が狭く、「日本一校庭の狭い中学校」としてTVで放映された。 平成22年(2010)校舎は取り壊された。 

・・・・・・・・・・・・取り壊し直前の福井中学校(旧福井小学校)、、、、4階部分は後の増築。

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・・・・・・・・・・・・福井中学の跡地は、台東区と跡地活用事業者としてヒューリック株式会社により、跡地を約50年に亘って貸し出す定期借地権設定契約が締結された。 これによって、ヒューリックは地域活性化施設として、跡地(狭い校庭を含め、学校の敷地であった処、目一杯に!)に「ヒューリック浅草橋ビル」(12F・B2F)というオフィスビルを建てた。、、、、浅草橋は駅前に、悔しいけど、シンボルとなる超高層ビルがない。 ヒューリック浅草橋ビルは、浅草橋住民にとって、何かと話題・目印になるビルで重宝している。、、、、ビルの脇には『福井松平藩邸跡 昭和五十年五月建之 福井中学校』の石碑が残されている。

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●変わる下町! ・・・・・・浅草橋駅北側の三校、柳北小学校・育英小学校・福井小学校を線で結ぶと、我が家を中心に一辺が200~300m程の三角形となる。 明治・大正・昭和と時代を跨ぎ、この界隈では三校を必要とするほどの児童数の多さと賑わいがあった。 まさに江戸の下町であったことが想像される。、、、、時代は変わり今は少子高齢化。 小学校に変わって、デイサービス、老人ホームなど介護サービス施設が増えてきた! かっての子供は今の年寄り!

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