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2020年5月

2020年5月31日 (日)

行きも帰りもガラガラ!

三密を避け、ガラガラの電車に乗って、東京拘置所のある小菅駅から散歩を始める。 裏道を歩き、綾瀬駅前をとおり、お花茶屋駅まで、1万3千歩の散歩。 帰りの電車もガラガラ!




●電車も楽し! ・・・・・・浅草橋から都営浅草線で押上へ。 押上で東武電車の準急:久喜行きに乗り、北千住で普通に乗換え、隣り駅の小菅まで。 短い距離だが、久しぶりにのんびりと電車に乗り、楽しんだ気分がした。 

・・・・・・・・・・・・浅草橋から都営浅草線で押上へ、、、、羽田・成田の両空港を利用する観光客がいない! 電車も、ホームもガラガラだ!

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・・・・・・・・・・・・押上駅は、都営・京成の駅も、東武・東京メトロの駅も、スカイツリー見物の観光客がおらず、これまたガラガラ!

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・・・・・・・・・・・・東武押上駅から久喜行きの準急に乗る、、、、次は、隣り駅の曳舟、その次は北千住までノンストップ!

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・・・・・・・・・・・・北千住で普通に乗換える

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・・・・・・・・・・・・着いたところは、東京拘置所前の小菅駅。 降りる人、乗る人も少ない、哀愁おびた都心のローカル駅。 高架下の大空間に改札があり、風通しはバツグン! 冬は寒い! 今は換気充分、コロナは居ない!

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●3000名収容! ・・・・・・駅前の東京拘置所は、敷地の北と西に古隅田川とよばれる小川が流れ、東は綾瀬川が流れる、四角い広い城塞のような土地である。 その中央に、地上12階/地下2階建て、高さ50mの平成18年(2006)頃に完成した新舎房が堂々とたっている。 3010名収容できる立派な施設だが、私はまだ泊まったことがない、チョイト残念!、、、、新舎房を取り囲むように、官舎・公務員住宅が配され、素人の私には事前に脱走経路を調べるのは無理である。

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●謎の事件! ・・・・・・東京拘置所の北側にJR常磐線の高架橋がある、その高架橋脇(足立区西綾瀬1)に「下山国鉄総裁追憶碑 」がある。 昭和24年(1949)に起きた下山事件の記念碑だ!、、、、下山事件は昭和24年7月5日、初代国鉄総裁の下山貞則が、朝、公用車で出勤した。 途中、銀行等により日本橋三越で車を降りた後、消息が途絶えた。 翌日の午前0時30分頃、この碑がある北千住~綾瀬間において汽車に轢かれた下山総裁の遺体が発見された。 遺体からは生活反応が見られなかった事から、列車に轢かれた時に総裁が生きていたか、死んでいたかが問題となった。 警察からは公式の捜査結果が発表されないままに捜査が打ち切られた。 当時は高インフレにあえぐ経済の立て直しのために緊縮財政がとられ、6月には行政機関職員定員法が施行された。 これにより国鉄に対し10万人近い人員削減が求められていた時代の事件である。 いまだに、自殺か?他殺か?謎!、、、、その後も、7月15日には三鷹事件、8月17日には松川事件が発生している。

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●コロナに強い! ・・・・・・・綾瀬川を越えると常磐線の南側(足立区綾瀬1)に綾瀬神社がある。 元の氷川神社に胡録神社を合祀し、社名を綾瀬神社とした。、、、、本社はさいたま市大宮の氷川神社、武蔵野国の一ノ宮でその神徳を仰ぎ、明暦5年(1659)に勧請した。 また一方の胡録神社は氏子区域にもう一社あった神社で、宝暦5年鎮座との社伝がある。 こっちは疫病退散を祈願する神社で、ぜひともコロナを撲滅して欲しいものだ!

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●銀座だ! ・・・・・・・「TOKYO 2020」の旗がもの悲しくなびく「綾瀬中央銀座」の商店街を抜けると綾瀬駅にでた。、、、、喉が渇きお茶が欲しく、銀座でショッピングしたかったのだが、“銀座”にはコンビ二が見当たらない!

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●千葉から香取へ! ・・・・・・・・綾瀬駅から南東へ向かい、葛飾区堀切8丁目の上千葉香取神社に出た。 神社は旧上千葉村の鎮守。、、、、当地区は中世、千葉氏一族の領地であり、付近には古城址と思われる地名が残っているので、当社は葛西氏または千葉氏が下総国香取神宮を勧請したものと推測されている。 社号は明治5年社格制定の時、「千葉神社」と改めたが、昭和32年旧名に復して「香取神社」とした。

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●泥棒のように! ・・・・・・・・気の弱い泥棒のように人との接触を避け裏道を歩き、京成本線お花茶屋駅に向かう。 
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●帰りもガラガラ! ・・・・・・・・お花茶屋駅から青砥経由で我が家(浅草橋)へ帰る。 帰りもガラガラ!

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2020年5月29日 (金)

水戸街道

気も緩みっぱなしで、『いよいよ、規制解除が近づいた!』と自分で判断し、今日は散歩の足慣らし。 妻と我が家(浅草橋)から水戸街道を北上し京成立石駅まで歩いてきた。 8.5km、1万6千歩の散歩。




●浅草橋! ・・・・・・・浅草橋駅前から水戸街道(国道6号)を歩く、今日は晴天だ。 三密を避け、マスクをつけ、直射日光を浴びて歩きはじめる!

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・・・・・・・・・・・・街道に面して商売する老舗のつくだ煮屋さん鮒佐 文久2年(1862)の創業、浅草橋の地で5代、150年の歴史。、、、、江戸っ子の味は、チョイト濃いめかな? 文句なしに美味い!

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・・・・・・・・・・・・・・ビル(浅草橋3)の前に「メタセコイア」の木が、青空に向かい高くまっすぐ伸びている。 このビルを建てた記念に植えられたものだそうだ。 ビルの階数から推定すると、木の高さは30mぐらいありそうだ、“都内最大級”らしい。

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●蔵前! ・・・・・・・・江戸通り(=水戸街道)と蔵前橋通りが交差する蔵前一丁目交差点の角(浅草橋3-20)、植え込み前に説明板がある。 説明板には『 天文台跡   台東区浅草橋三丁目   この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番の全域及び19・25・26番の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782)牛込藁店(わらだな 新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は2ヶ所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。・・・・・・・』と標されている。、、、、天文台は明治2年まであったそうだ、浅草橋は天文学拠点だった。 悲しいかな、今は望遠鏡で隣の家を覗く住人ばかりなり!

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●駒形! ・・・・・・・・厩橋交差点の「東京厚生信用組合 浅草支店」(台東区駒形1)は、昭和5年(1930)に竣工したチョイト歴史ある建物。

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・・・・・・・・・・・・浅草駒形の老舗駒形どぜう」(台東区駒形1)の創業は1801年。 徳川11代将軍、家斉公の時代。 水戸街道は今も昔も、浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、多くの参拝客が立ち寄った店である。 今は、コロナ対応で「柳川弁当」、「蒲焼き弁当」などを店頭販売している。 もちろん店内では通常の料理を食すこともできる。、、、、只今11時、チョイト昼食には早すぎる、又の機会にする。 

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・・・・・・・・・・・・駒形橋から望むスカイツリー、、、、青空に映える雄姿!

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●通過! ・・・・・・・・浅草駅・浅草寺・雷門周辺はこのブログでも毎度おなじみ、今日はスタコラサッサと通過する。

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●言問! ・・・・・・・・・・正面にスカイツリーを眺め言問橋を渡る。、、、、頭上、真上からの直射日光は私達夫婦の顔を一遍に日焼けさせ、赤ら顔となる。 暑い、暑い!

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・・・・・・・・・・・・言問橋の東詰めに牛嶋神社(墨田区向島1)がある。 前を素通りするわけにはいかず、チョックラお立ち寄り。、、、、昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の整備にて、桜橋近くの隅田川東岸にあった神社を公園の北側に移された。 昭和20年(1945)の東京大空襲により神楽殿は焼けたが、本堂はじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事で,昭和7年移転以来のものである。、、、、境内の撫牛は、江戸時代から知られているもので、自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおると言われている。 牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るそうだ。 私は白内障の目を撫で、手術後の心臓付近を撫で、妻はなぜか頭を真剣に撫でた?

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●向島! ・・・・・・水戸街道は向島の町を北上する。 向島五丁目交差点の近くに、秋葉神社(墨田区向島4)がある。 こちらにもお立ち寄り。 社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになったそうだ。 江戸時代以来の火伏せの信仰を今に伝える神社でもある。

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・・・・・・・・・・・・水戸街道を東武伊勢崎線が高架で越える。 その高架橋の下には「東武博物館」がある。、、、、今日は入館しないが、大人でも楽しい鉄道博物館だ。

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●四ツ木大橋! ・・・・・東向島を過ぎると墨田区と葛飾区の境:荒川四ツ木橋で越える。 全長:507.4mの橋で、昭和27年(1952)に竣工した。、、、、橋の上は、風は爽やか、気温は暑い! コロナは居そうにない! マスクなしで歩いても平気の平左衛門!

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・・・・・・・・・・・・四つ木橋を渡り、葛飾区に入り本田広小路交差点まで来た。 ここで我が妻はギブアップ! 水戸街道に別れ、京成立石駅へ向かうことにした。

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●立石! ・・・・・・・・京成立石駅周辺は押上線高架化工事と再開発がはじまり、数年後が楽しみだ!

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2020年5月27日 (水)

江戸最大の盛り場

今日は循環器内科の通院日(結果は“変わりなし”)、病院の帰り神田川を越えて中央区東日本橋の町をブラブラ。 「東日本橋」は、隅田川に架かる両国橋の西詰の町。 神田川に架かる浅草橋・柳橋の南詰の町でもある。 都営浅草線の東日本橋駅のある町。 チョイト高齢の方には、「やげんぼり 七色唐辛子」とか、薬研堀のお不動さまで有名な町。 チョイト遊んだ方には、柳橋と浜町、二つの花柳界の間の町。 町は浅草橋と清洲橋を結ぶ清杉通りが南北にとおり、その東側に東日本橋1丁目と2丁目、西側に3丁目がある。 東日本橋駅は清杉通りの地下にある。 隅田川沿いの東日本橋1丁目(旧地名:日本橋村松町・日本橋若松町・日本橋矢ノ倉町・日本橋薬研堀町・日本橋米沢町)と2丁目(旧地名:日本橋両国)はオフィスと店舗兼住宅が混在する町。 東日本橋3丁目(旧地名:日本橋橘町)は日本橋横山町などと隣り合わせの問屋街。、、、、江戸時代には旧地名として、下柳原同朋町、両国西広小路、吉川町などもあった。 “東日本橋”の地名は昭和46年(1971)の住居表示で突然現れた地名である。 “東日本橋”とは味気ない地名になってしまった、“日本橋七色町”とか、“薬研堀不動村”なんて町名にして欲しかったね!




●江戸最大の盛り場! ・・・・・・・明暦3年(1657)の大火で10万人の死傷者を出した江戸幕府は、江戸市民の避難路として両国橋を架けた。 橋の両詰めには、延焼を防ぐため広い空地「火除地」を設けた。 橋は本所(墨田区)・深川(江東区)方面への幹線道路となり、通行人も多く、両橋詰の火除地は“広小路”として整備された。 西側の広小路(中央区東日本橋2)は、いつしか、見世物小屋、茶店などがひしめきあう、江戸で最大の盛り場「両国広小路」(上野、浅草と共に江戸三大広小路)となった。 江戸時代の“歌舞伎町”だ! 両国広小路の賑わいは明治・大正時代にも続いたそうで、明治以降は卑猥な見世物小屋もあったそうだ、私もぜひ一目見てみたかったが残念。


・・・・・・・・・・・・写真は、現在の両国橋(江戸時代の両国橋はチョイト下流側に架かっていたらしい)、心なし道路幅が広く見える現在の西詰、両国橋西詰にある「両国広小路」の碑

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・・・・・・・・・・・・両国橋西詰(現:東日本橋2)が“盛り場”なら、裏通りにはお忍びで行ける処があるはず!、、、、あります、ご安心を! 両国広小路の南側には、日本橋矢ノ倉町、日本橋浜町など、料亭、待合などがあった。 今は、それらしき面影を残す建物が数軒あるのみ。

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・・・・・・・・・・・・“盛り場”なら、アダルトショップもあるはずだ! こちらも、ありました、過去形で!、、、、広小路の南側、米沢町2丁目(現:東日本橋1丁目)に、江戸時代のアダルトショップがあった。 店の名は四目屋(よつめや)で、強精剤の長命丸、女悦丸をはじめ、肥後ずいき、牛角などの淫具なども売っていた。  店頭の招燈には、佐々木氏の家紋である黒地に四目結(よつめゆい)の紋所を染め出したものをかけていた。 店は客に配慮して、店内を薄暗くしていたそうだ。 今も昔も、この手の店は入りにくいからね! 創業は寛永3年(1626)らしい。 この老舗は、ぜひとも営業を続けて欲しかったね!、、、、写真の、現:日本橋中学校の付近にあったと思われるが、それらしき店は現存しない。 中学校前の通りは「御幸通り

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●コロナで隔離された不動尊!・・・・・・両国広小路からチョイト南へ向かうと、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院(東日本橋2)の赤い旗が、“おいでおいで”と招いてる。、、、、狭い土地に建てられた鉄筋コンクリート造の舎利塔のような建物が不動院である。 階段下から見上げると、アレ?本堂のシャッターが下りてる! 貼り紙には『新型コロナウイルス感染拡大防止の為しばらくの間 本堂の閉扉時間が早くなります。ご理解の程よろしくお願いします。』と書かれていた。 お不動さまのコロナには弱いらしい、本堂に隔離されたのか?、、、、薬研堀不動院の始まりは、天正13年(1585)、豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、根来寺に安置していた不動尊像を守護して葛籠に納め、兵火を逃れてはるばる東国に下って来た。僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。これが現在の不動院の開創である。 その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至る。

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・・・・・・・・・・・・・この地は、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。 その後、天保14年(1843)に佐倉藩主に招かれ佐倉に「順天堂」を開いた。  順天堂大学・順天堂病院の聖地で、境内に「順天堂発祥之地」碑がある。

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・・・・・・・・・・・・・もう一つ発祥の地、「講談発祥記念之碑」が建つてる。、、、、元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附(現:浅草橋)辺の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。 これが後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親しまれ、安政年間「太平記場起原之碑」が建てられた。  この碑は、その後当不動院境内に移され、大正12年の関東大震災まで名物となっていた。

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●七色?、七味? ・・・・・・・江戸っ子は、「やなか」といえば「生姜」で「わせだ」といえば「茗荷」で、「やげんぼり」といえば「七色唐辛子」を連想するのだ! その「薬研堀」は、現在の東日本橋1丁目付近にあった米蔵に搬出入するための舟入堀である。 堀の断面がV字形になっているので漢方の調薬道具に見立ててその名がついた。、、、、薬研堀周辺には、不動尊の参詣客目当ての唐辛子屋が集まったのが始まりらしい。 七色唐辛子は、廻船業「えびや」が諸国の産物の中から、七種を選んで混合したのが最初と言われている。 それで薬研堀の唐辛子屋はみんな七色唐辛子を売ったので「やげんぼり」といえば「七色唐辛子」ということになった。 ちなみに、七色(七味)とは、焼き赤唐辛子、乾し赤唐辛子、生姜、紫蘇、罌粟(ケシ)、山椒、陳皮、黒胡麻、白胡麻、麻実、青海苔の内から7種を混ぜ合わせたもの。 「七色」と「七味」の違いは、七色が乾燥唐辛子の粉を使うのに対して、七味は焼き唐辛子、または焙り唐辛子の粉を加えるそうだ。 でも、今の時代その違いはあやふやだ。 ここ薬研堀に現在も営業している唯一の唐辛子屋さん、「えびや」の子孫「大木唐からし店」(東日本橋2)では、七色に固執しているそうだ。、、、、浅草の唐辛子屋さん「やげん堀」も、以前は薬研堀にあったそうだ。、、、、写真は、現在の大木唐からし店。

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●昔の名前で出ています! ・・・・・・・日本橋中学校の西南角に「矢ノ倉」跡の碑が建っている。 由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しみ地元住民が建てた碑である。、、、、江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建てこれを谷之御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。 昭和46年住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。、、、、この碑は、昭和50年(1975)に建てられた。、、、、世が変わると地名も変わり、あと50年もすると「東日本橋」も「イースト・ジャパン・ブリッジ」という地名になっているかも? その頃、私は彼の世で嘆いているか、笑っているか、どうでもいいか!

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●商売繁盛で油揚げ大好き! ・・・・・・・ここで、東日本橋の町に祀っられている稲荷を一挙大公開!、、、、江戸の商人は、商売繁盛を願い稲荷信仰に熱心だった。 その名残!、、、、全て、小社で説明は省略!

・・・・・・・・・・・・写真順に、矢ノ庫稲荷神社(東日本橋2)、川上稲荷神社(東日本橋2)、初音森神社(東日本橋2
)、両国稲荷神社(東日本橋2)、玉尾稲荷神社(東日本橋3)

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2020年5月24日 (日)

お玉ちゃんの池

いよいよ緊急事態宣言解除も秒読みに入った。 ここで気を緩めてはダメ、でも今日は日曜日、チョッピリ緩めて神田岩本町周辺の“お玉が池”の跡を、行ったり来たり、グルグル歩いてきた。 お玉が池は、我が家から直線で1km程の処にあった。


●人影なし! ・・・・・・・・・浅草橋駅西口(秋葉原寄りの駅の裏口)から100m程歩けば神田川、川に架かる左衛門橋を渡ると千代田区東神田。 東神田の町を南北(1丁目と2丁目)に分ける靖国通り(=都道302号)がとおっている。、、、、「東神田」の町の呼称は、大正12年(1923)の関東大震災後で、昭和9年(1934)、江戸時代から続いてきた、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併し東神田となり、昭和13年(1938)には東神田町会が成立した。 昭和40年(1965)には住居表示により東神田1丁目・2丁目となった。 また、神田川を挟み2丁目の北側に東神田3丁目がある。

・・・・・・・・・・・・浅草橋駅には人影はない!

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・・・・・・・・・・・・神田川にも人影はない、あったら溺死だ!

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・・・・・・・・・・・・靖国通りの車道にも人影はない、あったら轢き逃げだ!

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●謎の校名? ・・・・・・・東神田1丁目に都立一橋高等学校がある。、、、、一橋高等学校は、昭和25年(1950)に東京都立今川高等学校と東京都立神田高等学校が統合し、現在地に開校した戦後の名門校(今は?)の一つである 。 今川高校は今川裁縫補修所(1908年創立)・神田女子実業補習学校(1913年創立)・麹町実科女学校(1924年創立)、神田高校は東京市立蒲田工業学校(1940年創立)を前身とする学校であった。、、、、さてさて、この一橋(ひとつばし)高校の校名の由来は?、、、、東神田のこの地は江戸時代に遡っても“一橋”の地名とは縁がない、また日本橋川に架かる「一ツ橋」からは遠い、徳川御三家の“一橋家”とは無関係、一橋大学とも縁遠い、学校の最寄り駅は、JRの浅草橋駅と馬喰町駅、
都営の東日本橋駅と馬喰横山駅。 はたして、校名“一橋”の真実とは・・・・一橋高校の発足までには、明治時代より多くの学校が統合合併してきたため、戦後の発足においては、過去の校名に類似し偏った校名にすることは、合併後の職員生徒の感情の上で面白くない点が生じ、不平・不満をよぶおそれがあり簡単には決定できなかった。 そこで、知恵を絞り合併前の各校に共通したものを校名にすることにした。 神田女子実業補習学校の発祥の地は現在の一ツ橋中学校の地。 蒲田工業学校は昭和22年に都立一橋工業学校と名乗っていた。 今川高等学校、麹町実科女学校も一ツ橋の地とゆかりがあり、最終的に「一橋高等学校」という名称に決定したそうだ。 今の学生には納得しがたい校名かも、いっそ一橋大学の付属高校にしたら、判りやすいね!

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●あっちもこっちも“お玉”! ・・・・・・・東神田の西隣の町、千代田区岩本町2丁目の角に、和風2階建ての鰻屋「ふな亀」があった。 平成20年2月に店は閉店し、今は「パステルコート神田岩本町」という11階建てのマンション。 この辺りに「桜が池」と呼ぶ池があった。 桜が池は奥州への街道の脇で、池の岸には多くの桜が咲いていた。 桜の木の下には“お玉”という名の美女が出て、往来の人に茶をすすめていた。 中には、私みたいな助平な旅人もいたようで、二人の男が恋をしたそうだ。 お玉は、二人のうち人品・容姿の勝るほうを選ぼうとしたが、二人の熱意には差が無く、また二人ともジャニーズ系で、いずれとも決めかね、迷い迷って池に身を投じてしまった。(里人は、助けられず、シマッタ!) 以来、「桜が池」は「お玉が池」となる。、、、、「ふな亀」は閉店したが、往時の表看板には、『 神田に名所があるという こゝに西北百米に千葉周作の道場 家並にお玉ヶ池種痘所 裏手に捕物の名人人形佐七のわび住居 こゝよりまさしくお玉ヶ池 万年のよわいかぞえる亀がすむ  ふな亀 』と書いてあった。

・・・・・・・・・・・・・写真は「ふな亀」のあったマンション(岩本町三丁目交差点)、、、、現在、店は中華料理屋となっているが、1階・2階の瓦屋根は鰻屋当時の名残。

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・・・・・・・・・・・・・・ふな亀のあった玄関前(歩道)に東京大学医学部が建立した「お玉ヶ池種痘所記念」の碑がある。、、、、安政5年(1858)に設立されたこの種痘所こそ、我が国の医学界をリードする東京大学医学部発祥の地である。 そしてこの施設の創立には、岡山県津山出身の蘭方医、箕作阮甫が深くかかわっている。 「お玉ヶ池種痘所」は、天然痘予防の画期的手法として蘭学者を通じて導入された「種痘」を組織的に実施するための施設として江戸で初めて開設した。 蘭方医と漢方医の対立も激しかった当時、開設には非常な困難が伴ったが、箕作をはじめ、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけにより、私立の施設として、開設に漕ぎ付けるこぎつけることができたという。 その中でも箕作は、連名帳の筆頭に名を記しており主導的な役割を担った。 種痘所は僅か半年後に火事の類焼のため別の地に移った後、官立お玉ヶ池種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校と改称されながら、種痘だけでなく西洋医学研究の場へと発展して行き、明治10年の東京大学創設時に医学部となり現在に至っている。 

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・・・・・・・・・・・・ふな亀前から南へ60m程歩くと、「繁栄於玉稲荷神社」(岩本町2-5)があり、神社の脇には千代田区教育委員会が建てた「お玉が池跡」の標柱もある。、、、、繁栄於玉稲荷神社は、秋葉原駅と小伝馬町駅を結ぶ地下鉄日比谷線がとおる水天宮通りからやや入ったところにある小祠。 身を投じたお玉の霊を安んずる神社だが、安政の大地震で焼失したため、本社を葛飾区新小岩に移した。 ここにあるのはその分祀である。

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社から西へ20m程の、全宅連会館ビル(岩本町2-6)植え込みに『東京都指定史跡 お玉ヶ池跡 』と彫った石碑がある。、、、、説明文は無く、碑文は石の模様で判別しにくい。 点字を読むように手触りで読んできた!

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・・・・・・・・・・・・水天宮通りをさらに南へ100m歩くと、ビルの壁に貼り付けるように、『お玉ヶ池種痘所跡』の石碑と説明板がある。 こちらは、お玉ヶ池史蹟保存会が建立したものであるが、東大医学部が建立したものと同主旨の石碑。、、、、説明では、『お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。 一時は池のほとりに、梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場 などがあった』とサ!    

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・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社の通りから一本南側の通りは、「お玉が池通り」と名付けられている。、、、、現代版の“お玉ちゃん”(超美人!)がいて、往来する人に「お兄さん、お茶飲んでいかない」と声をかけてくれると嬉しいね!

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・・・・・・・・・・・・また、近くには銭湯「お玉湯」がある。、、、、こちらはオープン前、まだシャッターが下りてた。 番台にお玉ちゃんが座ってたら、夜、入浴に行くのだが?

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・・・・・・・・・・・・昭和通りをこえて、岩本町3丁目の隣り神田東松下町のタワーマンションの前に
右文尚武」と刻まれた石碑がある。 この辺りも、かつて「お玉ヶ池」跡で、旗本屋敷や学者・詩人などの住宅があった場所だ。 ここには幕末の剣聖千葉周作の北辰一刀流道場「玄武館」と、それに隣合わせで東条一堂の漢学塾「瑶池館」があった。 玄武館は、幕末「技の千葉、力の斎藤、位の桃井」と称され、人気の高かった3道場の一つだ。 新選組の山南敬介、藤堂平助も玄武館で剣を磨いた。 清河八郎は、玄武館で目録を授けられると同時に瑶池館で塾頭を務めた。 ついでに、昭和30年代の漫画で少年剣士:赤胴鈴之助は千葉周作の弟子となったと、少年画報に描かれていたのを私は記憶している。、、、、現在は道場・塾など全て跡形もない。 

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・・・・・・・・・・・・【蛇足】 右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)とは、学問と武芸をともに尊ぶという意味で、この地にあった千葉周作の玄武館と、東條一堂の瑶池塾で文武両道が実践され、その精神を示した。



●・・・・・・・・・・・コロナで身体もナマリ、歳を感じた散歩となった!

2020年5月20日 (水)

異様な浅草寺

関西は緊急事態宣言解除と言われている、関東一都三県は見送られるようだ。 もうしばらく“我慢”を続けなければならないか。 個人的には我慢疲れしてきた。 午後、妻に『ちょっと歩いてきたら、ゴロゴロしてると、肥って糖尿病になるよ!』と言われ、雨が降りそうな空模様の下、夕刻前に浅草寺まで歩いてきた。 雷門・仲見世・浅草寺いずれもガラガラ。 外人観光客だけでなく日本人もいない異様な浅草寺まで歩いてきた。




●提灯も店員もブラブラ! ・・・・・・・人出の少ない雷門。 先月、新調された大きな提灯は、空しそうに吊るされ、ブラブラしている。、、、、隣りの「常盤堂雷おこし本舗」の店員さんも手持ち無沙汰のようだ! 常盤堂雷おこし本舗の創業は約250年前の江戸時代末期。 昭和28年(1953)に建てられた、和風の雷門本店の建物は現在でも雷門に並ぶシンボル的な存在である。

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●観光客いませ~~ん ・・・・・・・仲見世は数軒の店が開いているが、大半はシャッターが下りている。 仲見世の裏は哀愁を感じる静けさ。 土産物屋は閉まっていても、青い眼の二人は楽しそう!

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●人影なし! ・・・・・・・・浅草寺本堂は人影まばら。 お守り・お札を売る処は1か所だけ開いてる。 本堂は風通し良く、コロナの姿は見えない! お賽銭を投げ入れると、チャリンという音が心地よく響く。

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●貴重な建物! ・・・・・・・本堂の右手に二天門随身門)がある。 この二天門は、慶安2年(1649)頃に浅草寺の東門として建立された。 江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。 その浅草寺の東照宮は元和4年(1618)に建立されたが、寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。 明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。、、、、浅草寺にあっては、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。 二天門は重要文化財である。

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・・・・・・・・・・・・二天門から出る頃、雨粒が落ちてきた。 急いで我が家へ帰る!

2020年5月15日 (金)

川柳の発祥地

東京都の新たな感染者数は、3月下旬以来一ヵ月半ぶりに一桁の“9人”となった。 『いよいよ緊急事態宣言の解除が近づいてきた』と思い、気も緩むが、ここが我慢のしどころ。、、、、どちらさまも、『男は我慢 女も我慢 床に入って 夫婦円満』

夕飯前に、体力維持の散歩で、我が家(台東区浅草橋)から北の方向、台東区三筋・蔵前の町をブラついてきた。




●商売繁盛を期待して! ・・・・・・・我が家から鳥越神社に立ち寄り、鳥越神社からほぼ真北に250m程歩くと、裏通りの角に小さな祠の梅森稲荷神社(台東区三筋1)がある。、、、、由緒不明、おそらく、江戸時代、この辺りの商家に祀られていた屋敷社が前身と思われる。

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●B29で被災! ・・・・・・・梅森神社の斜向かい角に「焼け残った電柱」が立っている。、、、、説明板には、『第二次大戦下の1945(昭和20)年3月10日米軍機B29による東京大空襲で、10万以上の貴重な人命が失われ、三筋町も一面に火の海と成りました。辛うじて焼け残ったこの電柱には当時の惨状が刻み込まれています。私達はこの悲惨な歴史の生き証人としての電柱を保存することにより、あのような悲劇をひき起した戦争を二度とくり返さないことを神に誓い、恒久の世界平和を宣言するものであります。   Mar.10.1988 焼け残った電柱を保存する会』と記されていた。、、、、東京大空襲の爪跡、慰霊碑などは、台東区・墨田区・江東区の下町の各所に残されている。 新型コロナも怖いが、戦争による被害も怖い!

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●茂吉の第二の故郷! ・・・・・・・三筋2丁目(大江戸線蔵前駅と新御徒町駅の中間)の「区立みすじ保育園」の園庭にある歌人:斎藤茂吉の歌碑。 斎藤茂吉は15歳で山形から上京してこの付近で寄宿生活送ったという。 その思い出を詠んだ歌、『 浅草の三筋町なる おもひでもうたかたの如くや 過ぎ行くかげの如くや  茂吉 』が刻んである。、、、、斎藤茂吉は、明治・大正・昭和に亘り、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。 山形県に生れ、明治29年(1896)、15歳の時に上京、浅草区東三筋町54番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和26年文化勲章を授与され、昭和28年(1953)に70余年の生涯を終えた。 この三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。、、、、我が家の近くに、こんな偉い人が住んでいたなんて、ビックリ・シャックリ・ポッコリ・誇り!

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●川柳で町おこし? ・・・・・・・・「三筋2丁目交差点」の角(蔵前4)に、茶色い石の箱のように見える「川柳発祥の地」の碑が建っている。 碑は平成19年(2007)に除幕式が行われた。 川柳は五七五の十七文字の定型で成り立つ短詩で、江戸時代、柄井川柳が選んだ句から呉陵軒可有という人物が『誹風柳多留』にまとめて刊行したことにより盛んになった。このことから「川柳」という名前で呼ばれるようになった。この時代は前句付が非常に盛んで、川柳はその選者として活躍し、その選句の数は33年間に260万句という驚異的な数にのぼるという。柄井川柳の墓は、碑の近くの龍宝寺にある。、、、、「川柳」といえば、今は「サラリーマン川柳」を思い出す。 世相を反映した句は、チョッピリ、ユーモラスで、チョッピリ痛快であり、よく考えると悲しいいものもある。 毎年、発表が楽しみだ!

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・・・・・・・・・・・・碑の建つ表通りから一本裏の通りに入ると、その道は「川柳横丁」と命名され、道の中程に天台宗寺院の龍宝寺がある。、、、、龍宝寺は、金剛山薬王院と号し、比叡山正覚院豪海大僧正が慶長4年(1599)神田駿河台観音坂に創建し、その後寛永12年(1635)に現在地へ移転した。 寺には初代柄井川柳の墓があり、寺は通称「川柳寺」とも呼ばれている。、、、、今日はコロナの影響か、門は閉まり入れない!  『コロナ禍で あとで門あけ 川柳寺  雅万歩』

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●相撲の神社! ・・・・・・・・「厩橋交差点」に出る手前(蔵前3)に蔵前神社がある。、、、、元禄6年(1694)、徳川綱吉が山城国男山の石清水八幡宮を勧請した。 以来、社領200石を寄進され、江戸城鬼門除け、徳川将軍家の祈願所として崇敬を受けた。 宝暦7年(1757)以来たびたび勧進相撲が行われ、回向院・富岡八幡宮とともに相撲の三大拠点の一つであった。 社号標や玉垣は大日本相撲協会からの寄進と思われる、千代の山、鏡里、東富士、吉葉山など、懐かしい力士の四股名が読める。 念のため、白鵬、鶴竜、貴景勝の名は無い。 

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●年寄りは我慢できない! ・・・・・・・・・蔵前神社に参拝を済ませると、犬のように尿意に襲われ、粗相をしないよう下半身を押さえたくなる。 一刻の猶予も無い、早く始末しないと! 急ぎ、厩橋際の厠へ飛び込み、一件落着!、、、、交番の隣りに、人の顔が並ぶ斬新なデザインで造られた公衆便所は、平成4年度台東区の「まちかど賞」受賞作品。(もちろん、写真は用を足してから撮影)

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2020年5月14日 (木)

中野から高円寺

新型コロナのクラスターとなり4月25日から診療制限が行われていた東京警察病院、今週11日から外来診療が再開された。 3月初旬に定期検診の予約をしておいたのが、ちょうど今日である。 朝一で、家を出て中野の病院まで行ってきた。、、、、病院は診療再開後4日目で、玄関先で体温チェック、院内のマスク着用、手の消毒など、感染防止措置が徹底されていた。 しかし、患者数は少なく平常時の3割程度、ガラガラ。、、、、医師・看護師など病院関係の皆様は、恐ろしい見えぬ敵と戦いながら、私達患者を診てくれる、これには『感謝』の一言。

朝8時にJR中野駅で下車し、今日はブラブラ歩いて警察病院へ、診察の後は隣の高円寺駅まで歩いてきた。、、、、今日は、久しぶりの遠出。 改札でSUIKAを取り出すのに戸惑い、カメラの操作を忘れ、マスク着用で呼吸に苦しみ、オタオタ。




●通勤ラッシュが無い! ・・・・・・・窓のあいた開いた電車で中野駅到着。 上りホームの乗客は少ない、改札もスムーズ、普段の30%程か?、、、、普段がこの程度なら通勤も楽なのだが、コロナはいつまで続くのか、このままだと通勤ラッシュが懐かしくなるね!

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●大人用/子供用? ・・・・・・・・中野駅前に中野区役所庁舎がある。 この庁舎は、徳川5代将軍綱吉が「生類憐みの令」を出して元禄8年(1670)に「犬小屋」(=かこい)を設け、多数の犬を飼育した地である。 また、明治以降、中野電信隊、鉄道隊、気球大隊があり、次いで陸軍中野学校が設置された場所でもある。、、、、庁舎玄関前にはその歴史を刻んだ、大人でも読みにくい「史跡」がある。 また、庁舎前のバス停のそばには、お子様用(?)か数匹の犬の像と簡単な説明「かこい」がある。、、、、両方を足して2で割った説明文が欲しいね!

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●病院の北側? ・・・・・・・私が、眼科で診てもらう「東京警察病院」、、、、チョイト、コロナでお休みしましたが、今週から営業再開、、、、救急入口の脇にはテントがあった、コロナ対応か?

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・・・・・・・・・・・・病院の北側、野方警察署の前(早稲田通り)に、角柱に浮き彫りした地蔵尊が建っている。 このお地蔵は、子育地蔵として付近の人々が花を供えているそうだ。 寛保元年(1741)の建立で願主は浄念(?)とある。 地蔵尊の脇には小さな角柱の道標もある。コチラには「此方中野宝仙寺」、「此方上高田」と彫ってある。、、、、どちらも、交通の要所に建つ必須アイテム!

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・・・・・・・・・・・・警察病院北側、早稲田通りを挟んだ向かい側に鎮座するのは妻戀神社。、、、、明治の初めまでこの土地に住んでいた「矢島源左衛門家」によって祀られていた。 そのため、別名を「源左稲荷」ともいう。 現在は土地の旧家の人たちが年番交代で管理しており、矢島源左衛門の一族で、信心の深かった者がこの土地を去る際、周辺の土地を人に貸し、その地代で稲荷社を管理してほしいとお願いしていったとか。 俗には源左衛門が亡くなった妻を偲んで妻恋稲荷を祀ったといわれている。、、、、祭神は、日本古代史の英雄である日本武尊(やまとたけるのみこと)、その妃である弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)、穀物・食物の神様である倉稲魂命(うかのみたまのかみ)。 文京区湯島の「妻恋神社」から分霊を勧請したそうだ。

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●ポッント建ってる! ・・・・・・・・東京警察病院の西側は杉並区高円寺北1丁目。 高級住宅街ではないが、この町は静かな落ち着いた庶民の住宅街である。

・・・・・・・・・・・・まずは、「高円寺北一丁目アパート 8号棟」がポッント1棟のみ! 、、、、昭和53年(1978)に建てられた、総戸数:12戸、3階建ての都営住宅1棟のみ。 周囲を見ても、この1棟以外には都営住宅は無い、なぜ「8号棟」なのか? 周囲には、法務局庁舎、教育センター、特別養護老人ホーム、公園などの公共施設があるので、いずれかに建て替えられたのかも?

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・・・・・・・・・・・・住宅街の中に、ポッント洋風の一軒家!、、、、戦前建てられた木造2階建ての洋館風の建物(M邸)がある。 切妻からせり出した玄関部分は特徴的で、“可愛らしさ”を強調している。 窓廻りのデザインもお見事!

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・・・・・・・・・・・・樹木の中に、ポツント一軒屋!、、、、緑深い樹々に囲まれたアトリエ風の建物(S邸)がある。 玄関をチョイト見ると、昭和初期の建物か?

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●マスク着用は疲れる! ・・・・・・高円寺北2丁目と3丁目の境となる、「庚申通り商店街」、「純情商店街」を歩き高円寺駅に向かう。

・・・・・・・・・・・・高円寺北2丁目の裏道を歩くと、玄関先に大きな招き猫がいた! 首の鈴には「FUJICOLOR」と記してある。 フイルムカメラ全盛時代の“客寄せ猫”か? 今はデジタルの時代、撮った瞬間に写真が見れる。 20年ぐらい前までは、フイルムカメラで写真を撮って、フイルムをDPEに出し、一週間後に焼いた写真をカメラ屋さんに貰いに行った、あの時のワクワク・ドキドキ感が懐かしく思える。

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・・・・・・・・・・・・「庚申通り商店街」に出た、その名のごとく商店街の中程に庚申塔がある。、、、、この庚申塔は正徳6年(1716)高円寺村の講中10人が、悪病退散、村民安全祈願のため建立したもの。 はじめ現在の所で真南に向って鎮座していたこの塔は、大正 12年の関東大震災で横転し、その後西向きに建立した。 また、昭和20年(1945)の東京大空襲の際、戦火をかぶり塔の一部が破損したので、昭和37年現状の如く修復され今に至る。 私好みの形をした庚申塔、いいね!

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・・・・・・・・・・・・庚申通り商店街は、「純情商店街」に続く。 商店街を抜けると高円寺駅に出る。、、、、コロナの感染を予防し、マスクを着用して歩いてきたが、初夏に近い暑さとマスクの息苦しさで、もう~疲れた~~!

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2020年5月 8日 (金)

江戸の味:連雀町

緊急事態宣言が4月6日に発令され1ヵ月が過ぎた。 この間、自由気ままに散歩もできず、ひたすら“我慢・我慢・ガマン”の日々。 ゴールデンウィークも終わり、そろそろ我慢の限界、朝食時に私が発した独り言『散歩したいな~~』 それを聞いた妻『神田へ行って来たら』 私『神田? ・・・?』 『なんで神田へ?』 妻『お昼は稲荷ずしにしようか!』 私、ナルホド・納得、『神田淡路町の「神田志乃多寿司」へ行って「稲荷ずし」を買ってきて』と云うことだ。 これで、“不要不急”ではない“必要火急”の外出をすることにした。 70超えた爺の、宣言発令後『はじめてのおつかい』となった。 浅草橋の我が家から、神田志乃多寿司までは、徒歩30分、往復1時間程の道のりである。 さすが、50年連れ添った女房だ!




●大きなアーチの高架橋! ・・・・・・・浅草橋駅から隣の秋葉原駅までは、JR総武線両国~御茶ノ水間が開通した昭和7年(1932)に完成した、鉄筋コンクリート造の高架橋が伸びている。 関東大震災後に造られた高架橋であるが、約90年経過し、鉄筋が露出し、ひび割れも多く老朽化も目立つ。 東日本大震災後、耐震補強工事が進められ、現在も工事中。 大きなアーチが連なる高架橋のデザインはモダンなデザインだ!、、、、昭和通り上の首都高の上を行き、秋葉原駅の3階部分に線路は入る。 かなり高い高架橋である。、、、、予想される次の大地震に耐える高架橋に、補修して欲しいね! 

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●かつサンドの橋! ・・・・・・・昭和5年(1930)に竣工した、長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋。 関東大震災の復興橋の一つ。、、、、万世橋の歴史は古く、延宝4年(1676)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。 この橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の万世橋の上流側にあった。 明治5年(1872)には、筋違見附が取り壊され、翌明治6年に見附の石を再利用した、石造の橋が完成した。 この橋は当時の東京府知事により萬世橋(よろずよばし)と命名された。 ところが、橋名は次第に「まんせいばし」という読みが一般化した。 その後も、万世橋は数度架け替えられ、関東大震災では被災した。 昭和5年に現橋に架け替えられた。、、、、橋の南詰にある肉屋の「肉の万世」は、戦後の昭和24年(1949)9月9日が創業日。 ここの「万かつサンド」は美味い! 完全に東京名物として定着してるね!
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●老舗が並ぶ町! ・・・・・・・万世橋を渡り、かつての交通博物館跡、昌平橋際の神田郵便局、東京メトロ丸ノ内線淡路町駅の3点で囲まれるかつての連雀町(れんじゃくちょう)一帯は今も残る老舗グルメの町である。 どこの店も江戸の味を美味しく頂ける処である。、、、、残念ながら、私はもっぱら料理を食すのみで、“味”を文章で表現する能力が無いので、食べ物の紹介はグルメ本を見て! 【注:多くの店は、只今、コロナで休業中】

‣・・・・・・・・・・・“連雀町”とは、、、、神田川に架かる筋違橋(旧万世橋の前身)は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていた。 門の内側、のちに八ツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられた。 連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになる。 明暦3年(1657)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野に代地(だいち)を与えられ移住させられた。 現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来する。 


・・・・・・・・・・・・東京で唯一のあんこう料理専門店「あんこう鍋 いせ源」、、、、天保元年(1830)の創業。 秋(9月)から春(4月)まで下北半島から仕入れた「あんこう料理」を提供している。 夏場はウナギ、ドジョウなど川魚料理で、一年中江戸の味を味わえる。、、、、建物は昭和5年(1930)築で、東京都選定歴史的建造物。

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・・・・・・・・・・・・次は甘味の「竹邑(たけむら)」、、、、いせ源の向かいにたつ、都が初めて和風建築を「歴史的建造物」に選定した昭和5年創業の甘味処。 戦火にも耐えた風情ある二階建て木造建築の中で、昔ながらの伝統の甘味に舌鼓、大正ロマンの香りが残る昭和初期にタイムスリップ!、、、、人気メニユーは「あんみつ」や「揚げまんじゅう」。

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・・・・・・・・・・・・次は、鳥すき焼きの老舗「ぼたん」、、、明治30年(1897)頃の創業。 由緒ある建物は昭和初期の建築。

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・・・・・・・・・・・・明治の味を今に伝える蕎麦屋「神田まつや」、、、、明治17年(1884)創業。 江戸の蕎麦が味わえる蕎麦屋の中の蕎麦屋。

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・・・・・・・・・・・・江戸三大蕎麦の一つ、「神田藪蕎麦」、、、、明治13年(1880)創業の老舗蕎麦屋。 数年前までの建物は、大正12年(1923)建築の木造2階建て数寄屋造りであった。 しかし、平成25年(2013)失火で焼失し、現在は鉄筋コンクリート造の和風建築。、、、、蕎麦の老舗としては、藪に、砂場・更科とあわせて3系列が「江戸三大蕎麦」と称されているが、元祖は不明?

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・・・・・・・・・・・・洋食の老舗「松栄亭(しょうえいてい)」、、、、こちらは明治40年(1907)創業の老舗洋食屋さん。 ポークソテーが美味しいそうだ。

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・・・・・・・・・・・・次は喫茶店の老舗「ショパン」、、、、創業昭和8年(1933)で、なかなかの古いお店。

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・・・・・・・・・・・・紹介の最後は、稲荷寿司とのり巻きの老舗「神田志乃多寿司」、、、、創業は明治35年(1902)。 油揚げのまろやかな甘味とコクのある稲荷寿司が私は大好きだ! じっくりと煮込まれたかんぴょうを使ったのり巻も、コレマタ絶品! 『一度食べたら忘れられない味。 嘘だと思ったら、自分で買って食べてみて!!』(ちなみに私は御幼少の頃から食し70年)

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・・・・・・・・・・・・我が夫婦と97歳の母、三人分の稲荷寿司とのり巻きを買って、来た道を我が家まで戻る。 この時の気分は、TV番組『はじめてのおつかい』で、幼児が買い物をすませ無事家にたどり着いた時と同じ気持ちのようだ。 ヤッタ~~!

・・・・・・・・・・・・コロナよ、早く終息して欲しいね。 そろそろ、本格的に散歩したくなったが、もうしばらくの我慢かな?

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