お玉ちゃんの池
いよいよ緊急事態宣言解除も秒読みに入った。 ここで気を緩めてはダメ、でも今日は日曜日、チョッピリ緩めて神田岩本町周辺の“お玉が池”の跡を、行ったり来たり、グルグル歩いてきた。 お玉が池は、我が家から直線で1km程の処にあった。
●人影なし! ・・・・・・・・・浅草橋駅西口(秋葉原寄りの駅の裏口)から100m程歩けば神田川、川に架かる左衛門橋を渡ると千代田区東神田。 東神田の町を南北(1丁目と2丁目)に分ける靖国通り(=都道302号)がとおっている。、、、、「東神田」の町の呼称は、大正12年(1923)の関東大震災後で、昭和9年(1934)、江戸時代から続いてきた、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併し東神田となり、昭和13年(1938)には東神田町会が成立した。 昭和40年(1965)には住居表示により東神田1丁目・2丁目となった。 また、神田川を挟み2丁目の北側に東神田3丁目がある。
・・・・・・・・・・・・浅草橋駅には人影はない!

・・・・・・・・・・・・神田川にも人影はない、あったら溺死だ!


・・・・・・・・・・・・靖国通りの車道にも人影はない、あったら轢き逃げだ!

●謎の校名? ・・・・・・・東神田1丁目に都立一橋高等学校がある。、、、、一橋高等学校は、昭和25年(1950)に東京都立今川高等学校と東京都立神田高等学校が統合し、現在地に開校した戦後の名門校(今は?)の一つである 。 今川高校は今川裁縫補修所(1908年創立)・神田女子実業補習学校(1913年創立)・麹町実科女学校(1924年創立)、神田高校は東京市立蒲田工業学校(1940年創立)を前身とする学校であった。、、、、さてさて、この一橋(ひとつばし)高校の校名の由来は?、、、、東神田のこの地は江戸時代に遡っても“一橋”の地名とは縁がない、また日本橋川に架かる「一ツ橋」からは遠い、徳川御三家の“一橋家”とは無関係、一橋大学とも縁遠い、学校の最寄り駅は、JRの浅草橋駅と馬喰町駅、都営の東日本橋駅と馬喰横山駅。 はたして、校名“一橋”の真実とは・・・・一橋高校の発足までには、明治時代より多くの学校が統合合併してきたため、戦後の発足においては、過去の校名に類似し偏った校名にすることは、合併後の職員生徒の感情の上で面白くない点が生じ、不平・不満をよぶおそれがあり簡単には決定できなかった。 そこで、知恵を絞り合併前の各校に共通したものを校名にすることにした。 神田女子実業補習学校の発祥の地は現在の一ツ橋中学校の地。 蒲田工業学校は昭和22年に都立一橋工業学校と名乗っていた。 今川高等学校、麹町実科女学校も一ツ橋の地とゆかりがあり、最終的に「一橋高等学校」という名称に決定したそうだ。 今の学生には納得しがたい校名かも、いっそ一橋大学の付属高校にしたら、判りやすいね!

●あっちもこっちも“お玉”! ・・・・・・・東神田の西隣の町、千代田区岩本町2丁目の角に、和風2階建ての鰻屋「ふな亀」があった。 平成20年2月に店は閉店し、今は「パステルコート神田岩本町」という11階建てのマンション。 この辺りに「桜が池」と呼ぶ池があった。 桜が池は奥州への街道の脇で、池の岸には多くの桜が咲いていた。 桜の木の下には“お玉”という名の美女が出て、往来の人に茶をすすめていた。 中には、私みたいな助平な旅人もいたようで、二人の男が恋をしたそうだ。 お玉は、二人のうち人品・容姿の勝るほうを選ぼうとしたが、二人の熱意には差が無く、また二人ともジャニーズ系で、いずれとも決めかね、迷い迷って池に身を投じてしまった。(里人は、助けられず、シマッタ!) 以来、「桜が池」は「お玉が池」となる。、、、、「ふな亀」は閉店したが、往時の表看板には、『 神田に名所があるという こゝに西北百米に千葉周作の道場 家並にお玉ヶ池種痘所 裏手に捕物の名人人形佐七のわび住居 こゝよりまさしくお玉ヶ池 万年のよわいかぞえる亀がすむ ふな亀 』と書いてあった。
・・・・・・・・・・・・・写真は「ふな亀」のあったマンション(岩本町三丁目交差点)、、、、現在、店は中華料理屋となっているが、1階・2階の瓦屋根は鰻屋当時の名残。

・・・・・・・・・・・・・・ふな亀のあった玄関前(歩道)に東京大学医学部が建立した「お玉ヶ池種痘所記念」の碑がある。、、、、安政5年(1858)に設立されたこの種痘所こそ、我が国の医学界をリードする東京大学医学部発祥の地である。 そしてこの施設の創立には、岡山県津山出身の蘭方医、箕作阮甫が深くかかわっている。 「お玉ヶ池種痘所」は、天然痘予防の画期的手法として蘭学者を通じて導入された「種痘」を組織的に実施するための施設として江戸で初めて開設した。 蘭方医と漢方医の対立も激しかった当時、開設には非常な困難が伴ったが、箕作をはじめ、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけにより、私立の施設として、開設に漕ぎ付けるこぎつけることができたという。 その中でも箕作は、連名帳の筆頭に名を記しており主導的な役割を担った。 種痘所は僅か半年後に火事の類焼のため別の地に移った後、官立お玉ヶ池種痘所→西洋医学所→大学東校→東京医学校と改称されながら、種痘だけでなく西洋医学研究の場へと発展して行き、明治10年の東京大学創設時に医学部となり現在に至っている。

・・・・・・・・・・・・ふな亀前から南へ60m程歩くと、「繁栄於玉稲荷神社」(岩本町2-5)があり、神社の脇には千代田区教育委員会が建てた「お玉が池跡」の標柱もある。、、、、繁栄於玉稲荷神社は、秋葉原駅と小伝馬町駅を結ぶ地下鉄日比谷線がとおる水天宮通りからやや入ったところにある小祠。 身を投じたお玉の霊を安んずる神社だが、安政の大地震で焼失したため、本社を葛飾区新小岩に移した。 ここにあるのはその分祀である。

・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社から西へ20m程の、全宅連会館ビル(岩本町2-6)植え込みに『東京都指定史跡 お玉ヶ池跡 』と彫った石碑がある。、、、、説明文は無く、碑文は石の模様で判別しにくい。 点字を読むように手触りで読んできた!

・・・・・・・・・・・・水天宮通りをさらに南へ100m歩くと、ビルの壁に貼り付けるように、『お玉ヶ池種痘所跡』の石碑と説明板がある。 こちらは、お玉ヶ池史蹟保存会が建立したものであるが、東大医学部が建立したものと同主旨の石碑。、、、、説明では、『お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。 一時は池のほとりに、梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場 などがあった』とサ!


・・・・・・・・・・・・繁栄於玉稲荷神社の通りから一本南側の通りは、「お玉が池通り」と名付けられている。、、、、現代版の“お玉ちゃん”(超美人!)がいて、往来する人に「お兄さん、お茶飲んでいかない」と声をかけてくれると嬉しいね!

・・・・・・・・・・・・また、近くには銭湯「お玉湯」がある。、、、、こちらはオープン前、まだシャッターが下りてた。 番台にお玉ちゃんが座ってたら、夜、入浴に行くのだが?

・・・・・・・・・・・・昭和通りをこえて、岩本町3丁目の隣り神田東松下町のタワーマンションの前に「右文尚武」と刻まれた石碑がある。 この辺りも、かつて「お玉ヶ池」跡で、旗本屋敷や学者・詩人などの住宅があった場所だ。 ここには幕末の剣聖千葉周作の北辰一刀流道場「玄武館」と、それに隣合わせで東条一堂の漢学塾「瑶池館」があった。 玄武館は、幕末「技の千葉、力の斎藤、位の桃井」と称され、人気の高かった3道場の一つだ。 新選組の山南敬介、藤堂平助も玄武館で剣を磨いた。 清河八郎は、玄武館で目録を授けられると同時に瑶池館で塾頭を務めた。 ついでに、昭和30年代の漫画で少年剣士:赤胴鈴之助は千葉周作の弟子となったと、少年画報に描かれていたのを私は記憶している。、、、、現在は道場・塾など全て跡形もない。

・・・・・・・・・・・・【蛇足】 右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)とは、学問と武芸をともに尊ぶという意味で、この地にあった千葉周作の玄武館と、東條一堂の瑶池塾で文武両道が実践され、その精神を示した。
●・・・・・・・・・・・コロナで身体もナマリ、歳を感じた散歩となった!
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