江戸最大の盛り場
今日は循環器内科の通院日(結果は“変わりなし”)、病院の帰り神田川を越えて中央区東日本橋の町をブラブラ。 「東日本橋」は、隅田川に架かる両国橋の西詰の町。 神田川に架かる浅草橋・柳橋の南詰の町でもある。 都営浅草線の東日本橋駅のある町。 チョイト高齢の方には、「やげんぼり 七色唐辛子」とか、薬研堀のお不動さまで有名な町。 チョイト遊んだ方には、柳橋と浜町、二つの花柳界の間の町。 町は浅草橋と清洲橋を結ぶ清杉通りが南北にとおり、その東側に東日本橋1丁目と2丁目、西側に3丁目がある。 東日本橋駅は清杉通りの地下にある。 隅田川沿いの東日本橋1丁目(旧地名:日本橋村松町・日本橋若松町・日本橋矢ノ倉町・日本橋薬研堀町・日本橋米沢町)と2丁目(旧地名:日本橋両国)はオフィスと店舗兼住宅が混在する町。 東日本橋3丁目(旧地名:日本橋橘町)は日本橋横山町などと隣り合わせの問屋街。、、、、江戸時代には旧地名として、下柳原同朋町、両国西広小路、吉川町などもあった。 “東日本橋”の地名は昭和46年(1971)の住居表示で突然現れた地名である。 “東日本橋”とは味気ない地名になってしまった、“日本橋七色町”とか、“薬研堀不動村”なんて町名にして欲しかったね!
●江戸最大の盛り場! ・・・・・・・明暦3年(1657)の大火で10万人の死傷者を出した江戸幕府は、江戸市民の避難路として両国橋を架けた。 橋の両詰めには、延焼を防ぐため広い空地「火除地」を設けた。 橋は本所(墨田区)・深川(江東区)方面への幹線道路となり、通行人も多く、両橋詰の火除地は“広小路”として整備された。 西側の広小路(中央区東日本橋2)は、いつしか、見世物小屋、茶店などがひしめきあう、江戸で最大の盛り場「両国広小路」(上野、浅草と共に江戸三大広小路)となった。 江戸時代の“歌舞伎町”だ! 両国広小路の賑わいは明治・大正時代にも続いたそうで、明治以降は卑猥な見世物小屋もあったそうだ、私もぜひ一目見てみたかったが残念。
・・・・・・・・・・・・写真は、現在の両国橋(江戸時代の両国橋はチョイト下流側に架かっていたらしい)、心なし道路幅が広く見える現在の西詰、両国橋西詰にある「両国広小路」の碑



・・・・・・・・・・・・両国橋西詰(現:東日本橋2)が“盛り場”なら、裏通りにはお忍びで行ける処があるはず!、、、、あります、ご安心を! 両国広小路の南側には、日本橋矢ノ倉町、日本橋浜町など、料亭、待合などがあった。 今は、それらしき面影を残す建物が数軒あるのみ。


・・・・・・・・・・・・“盛り場”なら、アダルトショップもあるはずだ! こちらも、ありました、過去形で!、、、、広小路の南側、米沢町2丁目(現:東日本橋1丁目)に、江戸時代のアダルトショップがあった。 店の名は四目屋(よつめや)で、強精剤の長命丸、女悦丸をはじめ、肥後ずいき、牛角などの淫具なども売っていた。 店頭の招燈には、佐々木氏の家紋である黒地に四目結(よつめゆい)の紋所を染め出したものをかけていた。 店は客に配慮して、店内を薄暗くしていたそうだ。 今も昔も、この手の店は入りにくいからね! 創業は寛永3年(1626)らしい。 この老舗は、ぜひとも営業を続けて欲しかったね!、、、、写真の、現:日本橋中学校の付近にあったと思われるが、それらしき店は現存しない。 中学校前の通りは「御幸通り」


●コロナで隔離された不動尊! ・・・・・・・両国広小路からチョイト南へ向かうと、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院(東日本橋2)の赤い旗が、“おいでおいで”と招いてる。、、、、狭い土地に建てられた鉄筋コンクリート造の舎利塔のような建物が不動院である。 階段下から見上げると、アレ?本堂のシャッターが下りてる! 貼り紙には『新型コロナウイルス感染拡大防止の為しばらくの間 本堂の閉扉時間が早くなります。ご理解の程よろしくお願いします。』と書かれていた。 お不動さまのコロナには弱いらしい、本堂に隔離されたのか?、、、、薬研堀不動院の始まりは、天正13年(1585)、豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、根来寺に安置していた不動尊像を守護して葛籠に納め、兵火を逃れてはるばる東国に下って来た。僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。これが現在の不動院の開創である。 その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至る。


・・・・・・・・・・・・・この地は、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。 その後、天保14年(1843)に佐倉藩主に招かれ佐倉に「順天堂」を開いた。 順天堂大学・順天堂病院の聖地で、境内に「順天堂発祥之地」碑がある。

・・・・・・・・・・・・・もう一つ発祥の地、「講談発祥記念之碑」が建つてる。、、、、元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附(現:浅草橋)辺の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。 これが後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親しまれ、安政年間「太平記場起原之碑」が建てられた。 この碑は、その後当不動院境内に移され、大正12年の関東大震災まで名物となっていた。

●七色?、七味? ・・・・・・・江戸っ子は、「やなか」といえば「生姜」で「わせだ」といえば「茗荷」で、「やげんぼり」といえば「七色唐辛子」を連想するのだ! その「薬研堀」は、現在の東日本橋1丁目付近にあった米蔵に搬出入するための舟入堀である。 堀の断面がV字形になっているので漢方の調薬道具に見立ててその名がついた。、、、、薬研堀周辺には、不動尊の参詣客目当ての唐辛子屋が集まったのが始まりらしい。 七色唐辛子は、廻船業「えびや」が諸国の産物の中から、七種を選んで混合したのが最初と言われている。 それで薬研堀の唐辛子屋はみんな七色唐辛子を売ったので「やげんぼり」といえば「七色唐辛子」ということになった。 ちなみに、七色(七味)とは、焼き赤唐辛子、乾し赤唐辛子、生姜、紫蘇、罌粟(ケシ)、山椒、陳皮、黒胡麻、白胡麻、麻実、青海苔の内から7種を混ぜ合わせたもの。 「七色」と「七味」の違いは、七色が乾燥唐辛子の粉を使うのに対して、七味は焼き唐辛子、または焙り唐辛子の粉を加えるそうだ。 でも、今の時代その違いはあやふやだ。 ここ薬研堀に現在も営業している唯一の唐辛子屋さん、「えびや」の子孫「大木唐からし店」(東日本橋2)では、七色に固執しているそうだ。、、、、浅草の唐辛子屋さん「やげん堀」も、以前は薬研堀にあったそうだ。、、、、写真は、現在の大木唐からし店。


●昔の名前で出ています! ・・・・・・・日本橋中学校の西南角に「矢ノ倉」跡の碑が建っている。 由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しみ地元住民が建てた碑である。、、、、江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建てこれを谷之御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。 昭和46年住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。、、、、この碑は、昭和50年(1975)に建てられた。、、、、世が変わると地名も変わり、あと50年もすると「東日本橋」も「イースト・ジャパン・ブリッジ」という地名になっているかも? その頃、私は彼の世で嘆いているか、笑っているか、どうでもいいか!

●商売繁盛で油揚げ大好き! ・・・・・・・ここで、東日本橋の町に祀っられている稲荷を一挙大公開!、、、、江戸の商人は、商売繁盛を願い稲荷信仰に熱心だった。 その名残!、、、、全て、小社で説明は省略!
・・・・・・・・・・・・写真順に、矢ノ庫稲荷神社(東日本橋2)、川上稲荷神社(東日本橋2)、初音森神社(東日本橋2)、両国稲荷神社(東日本橋2)、玉尾稲荷神社(東日本橋3)




