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2020年6月

2020年6月29日 (月)

岩倉具視が眠る寺

京浜急行青物横丁駅で下車し、第一京浜国道の西側を歩いてきた。 我が家を出る時は、JR大森駅まで歩くつもりであったが、途中でチョイト時間を浪費し、京急の立会川駅までの散歩となった。 1万歩



●横町が横丁に! ・・・・・・・京急本線の「青物横丁駅」は、明治37年(1904)に開業した。 開業当初は「青物横町」という漢字表記で、その後(時期は不明)現在の「青物横丁」に改称された。 “横丁”は特定の目的地に行く道で、“横町”は表通り・街道から脇に入った小路で、「青物市場のある側の路地」ということで、ここでは青物横町の方が正しいと思う。 でも、誰も気にしてい居らず、使い慣れた用法でいいか! 

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●国道を越える! ・・・・・・・・青物横丁駅の出入口は第一京浜(国道)の脇にある。また、歴史好きのお散歩コース「旧東海道」は京急線の東側である。 今日の散歩は京急線・第一京浜の西側を歩いて、大森駅に向かう予定であった。 まずは、駅前の国道を横断する。

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●紅葉の名所! ・・・・・・・・南品川三丁目交差点角に、曹洞宗系単立の海晏寺(かいあんじ)がある。 海晏寺は補陀落山と号す。 建長3年(1251)頃鮫洲に浮上がった大鮫の死体から正観音木像が出てきたことから、その正観音木像を安置するための堂宇として、建長寺開山大覚禅師を迎え創建された。戦国時代には荒廃したが、徳川家康により再建され、文禄2年(1593)本多佐渡守正信を迎えて、臨済宗建長寺派から曹洞宗寺院として中興開山し、現在に至る。、、、、海晏寺の立地は、国道側の海岸線を間近にした平野部と仙台坂のある台地部の接際にあって、墓地となっているその台地からの見晴らしは海を臨める絶景で、紅葉が色づく秋の頃には観楓の名所にもなっていたそうだ。(今、海は見えない) 

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・・・・・・・・・・・・日本において、国葬の第1号は明治16年(1883)7月25日に行われた、右大臣:岩倉具視である。 岩倉具視(文政8年(1825)9月15日 ~ 明治16年(1883)7月20日)は、幕末・明治の公卿・政治家。 公武合体を唱え大久保利通らと王政復古を画策。新政権樹立後、参与・大納言等を歴任し廃藩置県を断行。 右大臣となり、条約改正交渉と米欧視察のため特命全権大使として外国を巡回。 憲法体制の基本方針を定めた。 癌により、59才で没す。、、、、その岩倉具視の墓が海晏寺の一画にある。 さすが偉い人で、私のような者は墓前まで行くことができず、チョイト遠くから墓をパチリ。

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●容堂の隠居所! ・・・・・・・京急鮫洲駅の西側、大きく緑が茂る品川区立「大井公園」がある。 その南隣には、品川区立立会小学校がある。、、、、大井公園の外側に沿って裏道を小学校の方に歩いてゆくと、鉄の門があり、階段坂がある。 門の管理は小学校が行っているのか、校長名で開門時間が標されていた。 数十段程上ると、校庭の隅の一画に土佐藩主山内容堂の墓がある。、、、、大井公園は、江戸時代には〝土佐山〟と俗称された下総山、土佐藩の下屋敷が置かれていたところだ。 大政奉還の建白を果たした大名のものとは思えないような狭苦しい場所に土饅頭型の墓があり、その脇に石製の墓碑が建っていて「贈従一位山内豊信公之墓」と刻んでいる。裏面は「明治五年六月二十一日薨」とある。 入口に一番近い場所には第13代藩主山内豊熈の妻の、やはり土饅頭の墓がある。 墓碑「嶋津常候之墓」、裏「従四位下山内豊熈朝目室 明治十三年十一月十六日逝」と刻してある。、、、、コロナの影響で、墓参に訪れる人も少ないと思われる!

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・・・・・・・・・・・・墓のある立会小学校から、約500m南下した国道沿いに品川区立浜川中学校がある。 校門の脇に「土佐高知藩山内家下屋敷跡」の説明板がある。、、、、『立会川沿いの土佐藩山内家の下屋敷16,800坪余と抱屋敷(揚場869)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。 共に万治元年(1658)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(中央区築地)にもあった。 第15代藩主山内豊信(容堂)は、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らと共に、国政の方向について論議建策したため、「幕末の四賢侯」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。また、河口の抱屋敷の地には、嘉永六年(1853)に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれていた。 安政二年(1855)頃の土佐藩主山内土佐守豊信は242,000石の家禄があり、上屋敷は鍛冶橋御門内大名小路(千代田区丸の内)にあった』

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●古都の寺? ・・・・・・・・浜川中学校の北側(東大井3)に、真言宗の寺「海賞山地蔵院来福寺」がある。 京都御室仁和寺末。正暦元年(990)智弁阿闍利の草創と伝える。嘗ては日本の東西を結ぶ古い道の近くにあり、眼下に海を見下ろす台地の外れに位置していた。 広大な寺領をもった大きな寺院だった。 昭和20年(1945)の戦災で、本堂、書院、宝庫など多くの建物を失った。 昭和27年に本堂、同47年に客殿が再建された。 本尊と共に戦災を免れた山門および聖天堂は、安政から万延頃の建築というという古い建物だ。 山門から参道が緩やかな坂道を辿ると美しい境内へと導かれる。その境内に、饅頭の製造法を伝えたといわれる赤坂の老菓子舗塩瀬の祖林浄因の碑があり、墓地には阿波の藍商人の集団墓碑などがある。、、、、只今、コロナの影響で、檀家以外は立入禁止。 私は檀家ではないので、もちろん立入禁止。 今日は忍法“コロナの術”で、こっそりと拝見してきた!

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・・・・・・・・・・・・墓地の中央付近に「阿波藍商人墓標群」がある。、、、、説明板では、『藍はタデ科の植物で藍染めの染料として、江戸時代になり木綿の普及とともに需要が高まりました。 阿波徳島藩(現在の徳島県)の蜂須賀家では、藩の財政を支える特産品として藍の栽培を保護奨励し阿波藍の名声は全国的なものとなります。 この墓標群は、阿波藍商人として江戸に進出した大坂屋庄三郎(江戸での町人名、本名は久次来兵次郎)家関係者のものです。 大坂屋は本八丁堀(現在の中央区八丁堀)に店を構え、藍のほかに材木も取り扱う店となりました。 大坂屋の江戸における菩提寺が来福寺です。 墓標は来福寺境外の地蔵堂墓域に建てられていましたが、道路拡張工事のため、昭和2年に現在の場所に移され合葬されました』
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●裏道は方向感覚が? ・・・・・・・このあと、仙台坂、見晴らし通りと歩いて、裏道を抜け、チョイト方向感覚が鈍った! 気がつくと、立会川駅前に出た。

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・・・・・・・・・・・・家を出る時は大森駅まで歩くつもりだったが、立合川駅に出てしまい、ココまでとする!

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2020年6月26日 (金)

再び北斎通り!

錦糸町へ買い物に、帰りは「北斎通り」を歩き両国へ、両国では久しぶりにガラガラ空き空きの江戸東京博物館に立ち寄り、浅草橋の我が家まで歩いて帰る。



●うんこオブジェ! ・・・・・・・・・JR総武線「錦糸町駅」北口を出ると、目の前のロータリー中央に、ワイヤーで吊るされた大きな輪っかのオブジェが目に飛び込んでくる。 普段は通り過ぎるだけのオブジェだが、今日はチョイト興味を持ち、正体を調べてみた!、、、、説明板によると、これは「“ECHO”エコー」と名付けられ、ヘ音記号を2つ組み合わせたものなんだとか。 へー、屁音記号だったのか、どうりで“うさんくさいオブジェだ”。 さらにオブジェを吊るすワイヤーは五線譜をあらわしている。 墨田区は昭和62年(1987)、「音楽都市」をめざして街づくりをすることを宣言し、北口再開発事業で交通広場の吸気・排気塔を利用して、音楽都市を象徴するモニュメントを設置することにした。 その結果、平成9年(1997)に、米国の作家:ローレン・マドソンの作品“ECHO”を設置した。、、、、このモニュメント、巷では色・形状を見て、“うんこオブジェ”と云うそうだ、同じ墨田区には、アサヒビールの“うんこビルもある。

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●マスク邪魔だ! ・・・・・・・駅前の“ECHO”モニュメント北側の通りが「北斎通り」である。 度々歩いているこの道を、今日も両国駅方向に歩く。、、、、日中は30℃超の気温、暑い暑い、コロナ予防に熱中症予防、マスクの中はムレムレ!

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・・・・・・・・・・・・駅前からチョイト西側にズレるとスカイツリーを正面に望む通りがある。、、、、今日は青空も見え、視界良好!

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・・・・・・・・・・・・駅前から300m程西へ歩くと、かつて津軽藩下屋敷内にあった「津軽稲荷神社」がある。、、、、神社のあるこの一帯はその昔、津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったそうだ。 明治以降は管理ままならず、明治43年(1910)の大水害後に地元町会に払い下げられた。 関東大震災と米軍の空爆で2度焼失したものの、昭和35年(1960)に拝殿・社務所・会館、同44年(1969)に鳥居が再建・復興した。、、、、赤い幟がなびく参道の先に、戦後に造られた鉄筋コンクリート造の社がある。 

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・・・・・・・・・・・・津軽稲荷神社から50m程、西へ歩くと「大横川親水公園」がある。 「北斎通り」から公園に入る処に、2基の親柱とトラス形状の鉄骨で造られたモニュメントがある。 かつて、ここに架かっていた「長崎橋」を記念したものだ!、、、、ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、島屋久五郎両名によって、墨田区亀沢4丁目より錦糸1丁目に架けられた。 最初は長さ10間(18m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年6月には鋼製トラス橋になった。 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去された。 橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名に因んで長崎橋と名付られ、永い間親しまれた。、、、、北の津軽に、南の長崎、錦糸町には各地の侍が住んでいたようだ!

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・・・・・・・・・・・・北斎通りを西へ 、、、、 そろそろ名残りのアジサイか

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・・・・・・・・・・・「野見宿禰神社」、すみだ北斎美術館の前を行く。

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●北斎通りはココまで! ・・・・・・・北斎通りは、江戸東京博物館前で清洲通りにぶつかり、ハイ・ココまでヨ~~。

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・・・・・・・・・・・・今日は江戸東京博物館の中を拝見することにした。、、、、巨大な建物は、建築家:菊竹清訓の設計により、平成4年(1992)に竣工した、地上7階建ての博物館。 高さは約62m程あり、高い! 竣工時は建物のデザインに批判的な人もいたようだ。、、、、巨大な吹き抜け部分の空間、毎度思うのだが『我が家が何戸ぐらい入るスペースだ?』 優に500戸分以上ありそうだ!

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・・・・・・・・・・・・老人割引のチケット(300円)買って、マスクをさせられ、長いエスカレーターで3階から6階へ。 マスク美人のおねえさんが、『手の消毒お願いします!』、、、、入場者より、博物館関係者の方が多い館内は、ガラガラ、『ご自由に、好きなだけ見てください』と云う感じだ!  何度か訪れている博物館だが、展示室に入り、大きな模型、実物大の家屋など、その大きさに今回も圧倒された。

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●以下省略! ・・・・・・この後、両国橋を渡り、浅草橋の我が家へ帰る!

2020年6月20日 (土)

牛田から梅島

大きな私鉄:東武鉄道になると当然駅も多い、日本人なら大往生するまでに一度は乗り降りしたことがある浅草駅、行ったことがなくても駅名は聞いたことがある北千住駅、どこにあるのかサッパリ判らん梅島駅、駅名を聞くのは生まれて初めて牛田駅など、ピンからキリまで選り取り見取り。 今日の散歩は、知名度の低い牛田駅から歩きはじめ、西新井橋を渡り梅島駅まで、1万5千歩の散歩です。




駅の向かいに駅 ・・・・・・・・浅草~北千住間の各駅に停車する普通か、区間準急、区間急行(浅草~北千住間は各停)に乗らないと牛田駅に下車することができない。 牛田駅は北千住駅の隣り駅だが、周辺にはめぼしい建物・施設はない。 京成電鉄本線の京成関屋駅とは道路を挟んで向かい側にあり乗り換えが楽な連絡駅となっている。、、、、牛田駅は昭和7年(1932)9月1日開業。 相対式ホーム2面2線の地上駅。

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・・・・・・・・・・・・駅の向かいに駅。 京成関屋駅がある、それぞれ乗り換える人が道路を横断していく!、、、、京成関屋駅は、昭和6年(1931)12月19日に開業した、相対式ホーム2面2線の高架駅。
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●墨堤通り! ・・・・・・・牛田駅から墨堤通り(都道461号)を西へ向かって歩くことにした。

・・・・・・・・・・・・踏切の先は、半円状に道路が整備された柳原地区。 墨堤通りは踏切の手前を左側(西側)に折れてる。

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・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線から分岐し、墨堤通りを横断していた岡田商事引込線跡。 京成本線の高架下を抜けた先(隅田川岸)に旧千住貨物駅があった。

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・・・・・・・・・・・・墨堤通りの南側に京成本線が並行する。 その先で、墨堤通りは常盤線・つくばエキスプレス・東京メトロ日比谷線の下をくぐり、千住宮元町交差点にて日光街道(国道4号)と交わる。

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●マスクした狛犬! ・・・・・・・・千住宮元町交差点近くに、千住青物市場の守護神としてであった河原町稲荷神社がある。 創建年代は不詳だが、千住市場が開かれた天正年間(1573~93)に遡ると云われている。、、、、昭和20年(1945)の空襲で社殿と社叢が全焼したが、御神体ならびに神輿庫は類焼を免れた。 昭和22年(1947)、トタン葺の木造社殿にて復興し、昭和41年(1966)に現社殿(鉄筋コンクリート造)が造営された。、、、、当神社の狛犬は足立区内最大の大きさを誇っているが、今年は“新型コロナ”の影響でマスクを使用している。 “安部のマスク”は貰えなかったので、自腹で特大のマスクを買ったらしい。 顔が見えない!

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●再び、墨堤通り! ・・・・・・・千住宮元町交差点を過ぎると、墨堤通りは徐々に北に向かう。 私は、墨堤通りに並行する裏通りを歩く。 

・・・・・・・・・・・・只今、午前9時。 「ゆうやけ通り みどりちょう」と標された商店街に足を踏み入れたが、まだ夕焼けには時間があり、何処の店も開いてない! つまらないので、脇道を歩く。

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・・・・・・・・・・・「都営千住桜木一丁目アパート」の前に出た。 隅田川岸にたつ、平成13年(2001)竣工、総戸数:260戸(14階建て)の大きな都営住宅である。、、、、アパート裏の護岸に上ると、大きく蛇行する隅田川を眺めることができる。

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・・・・・・・・・・・・再び、墨堤通りを歩く。

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・・・・・・・・・・・・かつて、東京電力の守護神と云われたこともある元宿堰稲荷神社。 第116代桃園天皇の御代、宝暦4年(1754)の創建と伝えられるが、詳細は不明。
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・・・・・・・・・・・・墨堤通りが尾竹橋通りにぶつかる千住桜木町交差点、これより先は尾竹橋通りとして西新井橋を渡る。
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●スカット爽やか! ・・・・・・・・・・・尾竹橋通り(東京都道461号)を通す、橋長: 444.6mの西新井橋。、、、、今日は散歩日和で、橋の上を歩いても暑くない。 荒川の風も優しく吹き、気持ち良い散歩だ!

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●コロナか、霊気か?・・・・・・・・西新井橋を北詰から梅島駅に向かう。 途中、梅田6丁目にある、天照大神を祭神とし、慶長年間(1596~1615)の勧請という梅田神明宮に立ち寄る。 地主神が祭られていた当地に、神明宮を創建したそうだ。 また、井上正鐡が伝道した禊教発祥の霊場だと云われている。、、、、なんとなく、ジメットした境内は、コロナが居るのか?霊気が漂っているのか?

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●油断大敵! ・・・・・・・・梅島駅に到着! まだまだ油断できない“新型コロナ”、それでも外出したい人が多いようだ、駅にも人が出てきた!

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2020年6月17日 (水)

大井の大仏

大仏”とは、その言葉どうり大きな仏様のことである。 もう少し判りやすい基準を探すと、釈迦の背丈が1丈6尺(約4.85m)あったということから、その高さで造られた仏像を丈六仏(じょうろくぶつ)と称し、丈六仏より大きい仏像を「大仏」というそうだ。 さらに、背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分ほどの大きさ(約2.5m)になる。 でも、世の中には仏様を売り込み、参拝客を増やしたい坊さんもおり、丈六仏より小さくとも「大仏」と称する仏像もある。、、、、私が知る有名処の大仏は、奈良大仏(東大寺、14.7m)、鎌倉大仏(高徳院、11.39m)、東京大仏(乗蓮寺、8.2m)、鎌ケ谷大仏(1.8m)、越前大仏(清大寺、17.0m)、牛久大仏(牛久浄苑、100.0m)、飛鳥大仏(飛鳥寺、2.75m)など。 「〇〇大仏」と称する仏様は、全国で100箇所以上ある。

今日は、「大井の大仏(おおぼとけ)」と言われている如来寺の「五智如来」を拝観してきた。 都営浅草線馬込駅から、如来寺・山王草堂記念館・尾崎士郎記念館を巡り、JR大森駅まで、9千歩の散歩です。




●コロナは忘れた! ・・・・・・・環七通りと第二京浜が交差する松原橋交差点は、日本初の立体式交差点である。 その交差点、第二京浜の直下、環七通りに面して馬込駅の出入口がある。、、、、馬込駅は昭和43年(1968)11月15日に、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業。 ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。、、、、“コロナ禍”は終わり、忘れたように、通勤客が駅に吸い込まれていく。

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●五体の如来! ・・・・・・・馬込駅から東へ歩き、大田区と品川区の区境(品川区西大井5)に、天台宗の寺院、帰命山養玉院如来寺がある。 寺は、かつて上野(台東区)にあった養玉院と芝高輪(港区)にあった如来寺の2寺が大正12年(1923)に合併して成立した。、、、、如来寺は寛永年間(1624~1644)に木喰但唱が、芝高輪に創立した寺で、但唱の発起によって造立された五智如来が 安置されているところから、俗に高輪の大仏と呼ばれ、明治41年(1908)年に現在地に移転した。  養玉院は寛永12年(1635)に創立された、上野寛永寺の塔頭三明院がその前身で、開山として天海を迎えていますが、 寺を創立したのは天海の弟子賢海、二代目は賢海の弟子念海であります。 元禄11年(1698)に下谷坂本に移って養玉院と改めた。 大正12年(1923)如来寺と合併して、現在の場所に移った。、、、、昭和63年(1988)建立の山門は、通常閉ざされていて、脇に参詣路がある。 参詣路は緑が多く、一息つける。 本堂は、大正12年に下谷から移築した。 

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・・・・・・・・・・・・本堂の右に赤い如来堂の「瑞應殿(ずいおうでん)」がある。 ここに「大井の大仏(おおぼとけ)」である五智如来を祀っている。 堂の正面には、丈六の五体の如来像が、横一列に安置されている。 五智如来とは、大日如来を中尊とする五体の如来を総称した呼び名で、向って左から北方世界の釈迦如来、西方世界の阿弥陀如来、中央の大日如来の右隣が南方世界の宝生如来、そして右端に東方世界の薬師如来が並んでる。 厳かな尊容のうちに限りない慈悲の念を籠め、五体が並んでのお出迎えである、アリガタヤ! 五智とは五種の仏智ということで、深遠な密教教理に基づくもので、江戸時代には、広大無辺の仏智にすがり、さまざまの苦難から逃れようとする願望が、深い民間信仰となって世に広まった。 大日如来には万物を慈しむ太陽の功徳、薬師如来には医薬の功徳、宝生如来には福徳財宝・五穀豊穣の功徳、そして阿弥陀如来には往生極楽の功徳というように現世利益を願う信仰が強くなった。 “コロナ”の現世でも、願うことは同じようだ! 堂内に足を踏み入れると、荘厳な雰囲気に圧倒される。

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・・・・・・・・・・・・瑞應殿裏の墓地には、対馬厳原の藩主宗対馬守の墓所、高取藩藩主植村家の墓所もある。


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●広い公園、全部が居宅跡! ・・・・・・・如来寺から、東海道新幹線・横須賀線の高架下を抜け再び大田区に入る。 この辺は坂が多くアップ・ダウンが多い! 大田区山王1丁目の住宅地に「蘇峰公園」がある。 ここは、大正13年(1924)から昭和18年(1943)まで徳冨蘇峰が住んだ居宅跡である。 公園となった広い起伏ある敷地の片隅に、鉄筋コンクリート造の山王草堂記念館があり、蘇峰の旧宅「山王草堂」の2階部分と玄関部分が復元保存されている。 山王草堂の設計は黒田記念館などの作品が残る岡田信一郎らしい。、、、、館内には、近世日本国民史の原稿、弟の徳富蘆花の原稿、坪内逍遥や与謝野晶子などからの書簡蘇峰愛用の文房具や印鑑の類、勝海舟との親交の資料などが展示されている。、、、、7年ぶりに記念館に訪れてみたが、展示内容に変化なし! 何回訪れても、知らないことを知る、チャンス!

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●人生劇場の記念館! ・・・・・・・蘇峰公園から70m程歩くと「尾崎士郎記念館」もある。 こちらも7年ぶりの訪問だが、人影はない。、、、、作家:尾崎士郎が昭和29年(1954)山王に転居し、同39年(1964)2月19日に永眠するまで生活をした場所である。 建物は、昭和29年(1954)に建てられた居宅のうち書庫、客間、書斎を再現し、庭も整備して平成20年(2008)に記念館としてオープンした。 愛用した机や遺品などが展示されている。(建物内部に立ち入ることはできない)、、、、こちらは、平屋の住宅で“記念館”と知らされてなければ、通り過ぎてしまうと思うね!

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●チョイト汚れてきた! ・・・・・・・・多くの店舗が入居しているビルの地下からホームに出られる大森駅北口。 改札を入ると、大宮寄りのホーム端部に出られる。 昭和34年(1959)の北口開設から60年余り経過し、改札周辺・駅ビルなどそろそろリニューアルする時期だ!

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2020年6月15日 (月)

新川の復興橋

“新型コロナ”の感染者は増えたり減ったり、そしてまた増えた! 今だ、三密避けて、不要不急の外出は自粛。 理屈は判っても、気持ちは外出したくて、チョットだけならイイよね!、、、、今日は、都営浅草線の宝町駅で下車し、中央区新川地区に架かる南高橋、豊海橋の2橋を渡り、箱崎、浜町を抜け我が家(浅草橋)まで、1万3千歩の散歩です。



●体力維持に協力的な駅 ・・・・・・・散歩のスタートは、都営浅草線:浅草橋駅から4駅目の宝町駅である。、、、、駅名の「宝町」は、昭和38年(1963)2月28日、地下鉄開業当時の地名「宝町」を採用。 地名の宝町は昭和6年(1931)、町名の整理統合の際、めでたい名として選ばれ誕生した。 しかし、昭和53年(1978)の住居表示では、隣接の京橋に統合する形であえなく消滅。、、、、駅は相対式ホーム2面2線の地下駅。 西馬込方面のホームには、中央と後方(押上寄り)に改札があり、後方の改札にはエレベーターがある。 中央の改札から出ると、合計90段程の階段を上らないと地上に出ることができない、“コロナ”で体力が落ちた方には足腰を鍛える嬉しい機会を与えてくれる!、、、、【蛇足】宝町で下車した後、同駅で京急の特別塗装列車:新1000形の「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」と、600形の「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」のすれ違いがあった。 ラッキー、チョイト嬉しくてパチリ!

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●橋上は寝床! ・・・・・・・・宝町駅から東に向かうと、昭和35年から昭和40年にかけて埋め立てられた楓川(もみじがわ)に架かる弾正橋(だんじょうばし)がある。 弾正橋の創架は江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643)頃と伝えられている。 橋名の由来は、この橋に近い八丁堀に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正 の屋敷があったことから「弾正橋」と呼ばれたそうだ。、、、、現在の「弾正橋」は、大正15年(1926)に架設されたもので、関東大震災の復興橋。 橋の下には首都高が、橋の上にも首都高が、平成の整備で橋に公園も造られ、日中でも薄暗くなった橋上はホームレスの寝床となった!

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●鉄砲撃った鉄砲洲! ・・・・・・・弾正橋より道なりに東へ向かい、八丁堀交差点から南東方向に歩き、鉄砲洲稲荷神社(湊1)に立ち寄る。、、、、鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきた。 神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年現在地に移転し、今日に至っている。 大正12年(1923)の関東大震災により被害を受けた境内は、昭和10年(1935)より復興整備された。 また社殿の右奥には、富士山の溶岩で築いた昭和3年(1928)に築造された富士塚があり、そこを富士信仰の場としていた。、、、、鉄砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。、、、、「鉄砲洲」の地名は、昔、海岸だった頃のこの辺りの地形が細長~い三角形をしていたので、種子島と呼ばれた火縄銃の形に似ていたので“銕炮洲”と呼ばれ、“鉄砲洲”に変化した。 また寛永12年(1635)に、大筒をつくって幕府に納めていた井上氏、鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所でもある。 

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●湊地区のチョイト古い建物! ・・・・・・・中央区湊地区の建物

・・・・・・・・・・・・まずは、地区内に点在するマンサード屋根(腰折れ屋根とも言う。勾配が2段になっている屋根)の木造住宅。

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・・・・・・・・・・・・和洋折衷というより、住居の木造2階建て日本家屋と商売用の3階建て洋風の家屋が同じ敷地に建っている「福隆商事」、、、、昭和2年(1927)の建築といわれている。

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・・・・・・・・・・・・銅板貼りの建物は「日本不動産」、、、、昭和初期の建築か?

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・・・・・・・・・・・・南高橋の橋詰にある籠細工屋さん「籠平」、、、、下見板の木造建築ですが、2階上の部分のデザインは西部劇に出てきそうなモダンな建物。

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・・・・・・・・・・・・鉄砲洲稲荷神社の並びにある「築地警察署 湊交番」、、、、建物は古くないが、昭和4年(1929)に湊地区の住宅街の交番として開設された。 周囲は閑静な住宅街と新大橋通り沿いの中小企業からなる地域です。近年の再開発でマンションの建設が増えています。


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●両国橋の再利用! ・・・・・・・・中央区湊地区と新川地区を結び亀島川に架かる、関東大震災の復興橋「南高橋(みなみたかばし)」、、、、昭和7年の架橋、橋長は63.1m。、、、、南高橋は、関東大震災後、昭和6年に起工し、翌昭和7年3月に竣工した。 震災当時は、南高橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみであった。 大正12年(1923)の関東大震災ののち、街区の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に、新しく橋を架けることになった。 東京市は、多くの橋を改架したため予算も乏しく、そのため明治37年に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架橋したのである。 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなった。 貴重な近代の土木遺産である。

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・・・・・・・・・・・・南高橋から亀島川の上流側を望む、、、、右側が新川地区、左側は八丁堀地区。

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・・・・・・・・・・・・下流側は、隅田川に合流する手前に亀島川水門がある。、、、、水門は只今耐震工事中!

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●私、中国から来ました! ・・・・・・・・南高橋から豊海橋へ抜ける途中、隅田川沿いに「東京住友ツインビル」(新川2)がある。 西館と東館の2棟構成で、21階・24階建て、設計は共に日建設計、竣工:昭和63年(1988)と平成3年(1991)、、、、ビルの前で見上げると巨大な2棟のビルが威圧的に感じる。、、、、ビルには三井住友系の大企業がオフィスを構えているらしい。

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・・・・・・・・・・・・ビルの前で20歳前後の学生風の女性が見上げていた! オヤ、建築に興味あるのかな? にこやかな顔の可愛い女性だ。 『私、中国から来ました!』と話しかけてきた。 しばらく話すと、このビルの中の企業に就職が決まり勤めるそうだ。 私が異国からの就職、一人暮らしを思い『それは良かった、だけど大変だね』と云うと、何やら心配になったのか、『大変なんですか?』と聞き返してきた。 どうやら、就職する企業に問題があると受け止めたようだ。 すぐに気づき誤解は解けたが、私が、余分な心配をかけてしまった。 ゴメン! 日本で頑張って、仕事して、応援してま~す!

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●眺望良し! ・・・・・・・・新川地区から、振り返り佃島のタワマンを望む。 また、行く先には永代橋

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●窓が並ぶ! ・・・・・・・・永代橋の西詰付近、日本橋川が隅田川に合流する処に、新川と日本橋箱崎を結び「豊海橋(とよみばし)」がある。、、、、豊海橋は、日本橋川の第一橋梁である。 大きな窓が並んでいるようでもあり、枠の幅がある梯子を横にしたような構造は、フィーレンディール橋と呼ばれ、永代橋との景観上のバランスを考慮して設計したそうだ。 シンプルなデザインのなかに鋲止形式という古い形態を残し、重量感のある鉄骨橋梁の代表例として貴重である。、、、、豊海橋は、復興橋として大正15年(1926)5月に着工し、昭和2年(1927)9月に完成した。

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●日銀創業の地! ・・・・・・・・豊海橋を渡ると、日本IBMの本社(日本橋箱崎19)がある。 このビルの敷地の一角に、「日本銀行創業の地」の碑が建つ。、、、、明治15年10月10日、日銀の創業はこの場所で、その十数年後に現在地に移転したと碑文にある。 碑面には「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられている。、、、、創業時はこの地でお札を印刷したのか?

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・・・・・・・・・・・・・・日銀創業の地の近くには、高尾稲荷神社がある。、、、、万冶2年(1659)12月江戸の花街新吉原京町1丁目、三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時19歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金とつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当所そこに庵を構え居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の始まり。、、、、若くして容姿端麗、諸芸に通じておれば、今の世のミスユニバースの優勝候補だ! 19歳で死ぬなんて、ア~~もったいない!

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●車よ、落ちるな! ・・・・・・・・首都高の箱崎ジャンクションの下を歩く。、、、、頭上から車が2・3台、落ちてきそうだ! のんびり歩けず、足早に通り抜ける。

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●・・・・・・・・・・箱崎を抜けると、水天宮・浜町・東日本橋をとおり、浅草橋の我が家に到着!

2020年6月 9日 (火)

菖蒲とどら焼き

そろそろ東京は梅雨入りの時期となった。 今朝の天気予報では晴天は今日まで、明日からは雨雲が空にかかるそうだ。 コロナ対応の気も緩み、今日は“不要不急の外出”を決行した。、、、、例年、今頃の時期になると、堀切菖蒲園と水元公園では「葛飾 菖蒲まつり」が開催される。 しかし今年は、コロナの影響でまつりは中止となった。 それでも、時期が来ればどの花も咲き、菖蒲もしかり! 菖蒲園・公園では、派手な“まつり”は自粛したが、訪れた人は入園できる、ただし菖蒲に接近し三密状態が生じないように立ち入り制限などで規制している。 今日は平日で訪れる人の少ないことを期待し、妻と、水元公園へ行ってきた。 広い公園の一部、菖蒲田の周辺だけ歩き、9千歩の散歩です。




●100種の菖蒲! ・・・・・・・JR、京成の金町駅からバスで10分程、「水元公園」に到着。 水元公園のあるこの地域はもともとは古利根川の河川敷であった。 徳川家光の江戸川改修事業により古利根川は廃止されたため、小合村(1889年水元村に合併、1932年に葛飾区に合併)が江戸幕府の許可を得て埋め立てて耕作地として、水を蓄えて小合溜と称して管理してきた。 昭和15年(1940)、紀元2600年事業のひとつとして水元緑地が計画された。 昭和17年(1942)までに168haが買収されたが、太平洋戦争により整備が中断。戦後は自作農創設特別措置法によって150haを耕作者に開放した。 その後、都は住民から土地を買い上げ、昭和40年(1965)に都立水元公園が開園した。 敷地面積:963,013.00㎡、樹木数:高木 約19,100本、主な施設は大芝生広場、水生植物園、花菖蒲園、野外ステージ、キャンプ広場、バーベキュー広場、冒険広場などを有する、都内最大の水郷公園。、、、、園内の花菖蒲園には、大小14の菖蒲田があり、100種、14,000株の菖蒲が植えられている。 菖蒲田の周囲にはアジサイも咲き、こちらも御見事!

・・・・・・・・・・・・広大な水郷公園、、、、のんびり釣りを楽しむ人が多いが、“密”ではないね。

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・・・・・・・・・・・・菖蒲田、、、、鑑賞に訪れる人は少ないようだ、こちらも“密”は回避。 菖蒲はビッシリ“密”に咲き、美しさを競い勝負だ!
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・・・・・・・・・・・・アジサイも、彩りを競い勝負だ!

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●どら焼きの寺! ・・・・・・・水元公園近くの一社一寺にお立ち寄り!

・・・・・・・・・・・・水元公園に隣接している香取神社(東水元2)。 かつて下小合村の鎮守で、祭神は経津主神。 境内末社は八幡・厳島・天満宮・稲荷・富士嶽の5社。 小合は古くは小鮎と記され、下総国香取神宮の処役地であった関係から当社も勧請されたのだろう。当社の神職鈴木氏の遠祖は猿俣関在住の卜部氏とともに、香取神宮貢税の所役を掌ったと伝えられる。江戸時代には神職鈴木家は京都吉田家の配下であり、文政2年(1819)には、吉田家から恒例の神式に風折烏帽子と狩衣の着用が許された。 社殿はしばしば洪水のために大破したが、文政11年には神職鈴木大和安治が社殿等を造営し、昭和3年に修築が加えられた。、、、、拝殿の正面に「香取社 海舟安房拝書」の額を掲げる。 家の中に飾りたくなる額だ!

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・・・・・・・・・・・・こちらも、水元公園に近い、天台宗の寺院、業平山東泉寺と号す「南蔵院」、、、、南蔵院は、権僧都林能法師(貞和4年1348年寂)が在原業平が居住していたといわれる地(本所小梅町付近:現業平橋周辺)に創建した。 元禄11年(1698)中之郷八軒町(墨田区吾妻橋3)へ移転、しばられ地蔵で著名となる。 関東大震災で罹災し、廃寺となっていた聖徳寺の地(当地)へ移転した。

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・・・・・・・・・・・・南蔵院の「しばられ地蔵」とは?、、、、享保年間(1716~36)夏、日本橋の呉服間屋の手代が大八車に反物を山と積んで、業平橋(現:墨田区)近くの南蔵院の門前で一休みした。 目がさめると、門前に置いた反物は車ごとない。 あわてた手代はさっそく訴え出ると、取調べに当たったのが町奉行の大岡越前で、「反物が盗まれたのを見すごすとは、門前の地蔵も同罪である。縄打って引っ立てて参れ」と命じた。地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きにされ、大八車に乗せられて奉行所へ。物見高いは江戸っ子の常、前代未聞のお地蔵様の引き立てに、ぞろぞろついて行く。奉行所の門は開いている。やがて、ころを見て越前守は門をしめさせ、「奉行所の白州へ乱入するとは不届至極、その罰として反物一反を納めよ」野次馬たちは驚いたが、なんとか工面して反物を持ってくる。それを呉服屋に見させた。その中から盗まれた反物が発見され、大盗賊団がことごとく捕まる。 『これにて、一件落着!』 、、、、以来「しばられ地蔵」と呼ばれ、盗難除け、足止め、厄除け、さては縁結びまで、あらゆる願い事を聞いてくれる地蔵尊となった。 願い事をお願いする時は縛り、願い叶えば縄解きをする風習となっている。、、、、今日は妻が100円で荒縄を買い、地蔵を縛って、私の病気(来月、白内障の手術)平癒を願ってくれた。 サンキュー!、、、、身動きできぬほどの縄で縛られ、地蔵さんも忙しそうだ! テレワーク、在宅勤務で願い事を解決できるように、地蔵さんも働き方改革をしたらいい!

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・・・・・・・・・・・・南蔵院に来たので、金町駅前の和菓子店「ゑびす」にて、しばられ地蔵にあやかった「満願どら焼き」を買って帰る。 見た目は普通のどら焼きだが、満願どら焼きの魅力は、ふわっと軽い皮で、あくまで軽く優しい食感。 そして餡は、北海道産の小豆による優しい餡。 皮と餡、絶妙なハーモニー。 自分で買って、食べてみて!

2020年6月 8日 (月)

碑がイッパイ!

一向に収まらない“新型コロナ”は、宣言解除後の“夜の街”にも広がり、何時まで経っても、“三密に注意”、“不要不急の外出は避ける”、“県外への移動は自粛”など、“新型コロナ”向けのキャチフレーズが出たままだ! 一日中暇な私は如何に身を処すべきか判らず、毎日、戸惑うばかり。、、、、今朝も体力維持の散歩で、浅草橋の我が家から湯島天神まで往復してきた。 1万1千歩




●朝から和菓子! ・・・・・・・・蔵前橋通り(鳥越一丁目交差点)・昭和通り(台東三丁目交差点)・中央通り(上野三丁目交差点)を順に横断し、湯島天神へ向かう。、、、、今の季節、道路の植え込みにはアジサイが彩りを添えている。 さいの目に切った寒天で白餡を包んだ、和菓子の“アジサイ”を思い出し、朝からチョイト“バーチャル胸やけ”だ!

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・・・・・・・・・・・・中央通りのビル(台東区上野1-1)の一角に日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地の碑がある。 碑はステンレスとガラスでできており、コーヒーカップから湯気が立ち上がる様子をデザインしたと思われる。、、、、明治21年(1888)4月13日、 日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名:西村鶴吉)によりこの地に開店した。 二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。 一階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞・ 雑誌類・その他和漢洋書・書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。 コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していたらしい。、、、、現在、4月13日は日本初の喫茶店「可否茶館」が開店したのを記念して 「喫茶店の日」と決められているそうだ!

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・・・・・・・・・・・・中央通りの西側(上野1-16)に台東区立黒門小学校がある。、、、、明治43年(1910)創立の小学校。 関東大震災のあと、復興小学校として昭和5年(1930)に現在の校舎が再建された。 東京市の設計、日本土木建築KKの施工による、鉄筋コンクリート3階建て。玄関部分はアールデコ調、3階外部の舟形が連続する窓はドイツ表現派のデザインだ。 今に残る、昭和のモダン建築で、国の重要文化財に指定して欲しい!、、、、実は、私もチョッピリ学んだ校舎。 小学6年の時、台東区内の各小学校から数名の代表が選ばれ、毎土曜の午後、ここ黒門小学校の理科室に集合して、理科の勉強をする「黒門科学教室」という学習の場があった。 それに参加して、約1年学んだが、果たして、血となり、肉となり、脳味噌になったか? 今、思うに、消化不良したようだ! (校庭側の写真は、2014/2/10撮影)

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●ウッ・碑・碑・ヒ! ・・・・・・・・我が家から片道約40分、文京区湯島三丁目の湯島天神に到着。、、、社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀る神社として創建された。 正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称する。 江戸っ子は、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」の呼称がいいね!、、、、現在の社殿は平成7年(1995)に造営された、権現造り様式による総檜造り。 建築費は??? 「合格祈願」の御守販売で、建築費が賄えたか? 

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・・・・・・・・・・・・天神さま正面の「表鳥居」は、銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘がある。 この貴重な鳥居は、現在までに数度の修理を重ねて維持されてきた。 鳥居の様式は神明鳥居といわれるもので、横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いている。 鳥居は、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81m。 下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。

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・・・・・・・・・・・・この表鳥居の左側柱脚の台座に、“不”の字に似た几号水準点がある。、、、、天神さま境内に几号水準点を説明する文章は見あたらず、これを見に来る人は極少数の几号マニアだけ!

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・・・・・・・・・・・・境内に向かう三つの坂、その名は男坂女坂夫婦坂。、、、、まずは、38段の石段坂で、上野広小路の方から一直線に、一気に上る「男坂」  江戸時代の書物「御府内備考」によると、湯島天神参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道にもなったといわれてる。 現在でも、通勤経路の一部としてこの坂を利用する人が多い。、、、、男坂の石段脇には、関東大震災後に早期復興を願い地元有志が祀った復興地蔵尊がある。 

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・・・・・・・・・・・・続いて、33段の石段坂で、すぐ脇の急な男坂に対して「女坂」という。 坂の頂部で、男坂と交わる。 梅の季節には女坂の周辺に白梅が咲き揃う、画になる坂。、、、、歌にもなった坂。 歌手:原田悠里の歌謡曲「おんな坂」の発売を記念して建てられた碑が、坂の上り口にある。 、、、、坂の上には、「女坂寄附 湯島六丁目 日野屋庄兵衛  明治二十五年」の碑がある。 女坂は寄付で造られたのか?

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・・・・・・・・・・・・三番目の坂は「夫婦坂」、、、、夫婦坂は湯島天神の北(社殿裏側)にある切通坂から境内に上る坂をいう。 平成8年(1996)に湯島天神の改築があり、夫婦坂の途中に立派な門ができ、この門は登龍門と名づけられた。 切通ができて造成されたので時代が新しく、古い坂が男坂、女坂とあるため「夫婦坂」と命名したようだ。、、、、天神さまの勝手口のような坂。
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・・・・・・・・・・・・境内の梅園にたつ「奇縁氷人石」、、、、この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されている。 これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。 この石柱があると云うことは、天神さまの境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことが推測される。今の世は、子供の迷子より大人の迷子の方が、ボケ・痴呆で探しにくいかも、この石柱が役にたつといいのだが、難しそうだ!

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・・・・・・・・・・・・男坂を上った処に、この「新派」の記念碑がある。 碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和52年(1977)、松竹株式会社と水谷八重子により新橋演舞場玄関脇に建てられた。 新派の始まりは明治21年(1888)に自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町座で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされている。 その後の90年間で、今日「劇団新派」として隆盛を見たその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑が建立された。 そして新橋演舞場の改築にあたり、当湯島天神の境内に移させてもらったものである。、、、、頭でっかちの碑は、誰か蹴飛ばしたら首が折れそうな形状で、触るとヤバイ!

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・・・・・・・・・・・・上記の他、都都逸の碑、水平式日時計、王貞治の努力の碑、講談高座発祥の碑、湯島の白梅の碑、文房至宝碑、包丁塚、筆塚、小唄顕彰碑、梅園建設碑、菅公遺訓碑、菅公千年祭記念碑、泉鏡花筆塚などなど、その他にも撫牛、瓦斯灯、宝物殿などもあり、いろいろ取り揃えてある。 全部紹介すると今日中に寝れないので、ここいらで止めておく!

2020年6月 5日 (金)

向う両国

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、回向院・江島杉山神社に参り新大橋で再び隅田川を越えて浜町に入り浅草橋へ、1万2千歩の散歩です。 




●両国とは? ・・・・・・・・隅田川に架かる両国橋は、あまりにも有名で知らぬは外人だけ! 今は、東詰めは東京都墨田区両国1丁目、西詰は東京都中央区東日本橋2丁目。、、、、江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より少々下流に架かっていた。 当時の橋の東詰めは下総国、西詰は武蔵国で、両方の国の境に架かる橋で「両国橋」 解りやすい! もちろん江戸時代の橋は木橋で、流出や焼落、破損により何度も架け替えられた。 木橋としては明治8年(1875)の架け替えまで続いたそうだ。 この明治の木橋も明治30年(1897)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず欄干が崩落してしまった。 木橋の終焉である。、、、、現在の両国橋は鉄橋の2代目で、関東大震災後の昭和7年(1932)の竣工、構造は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋、施工は石川島造船所/間組、 総工費 987,500円也。 約100万円で橋が架けられた時代は昔の話となった! 

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・・・・・・・・・・・・両国橋の東側(墨田区両国)には古き歴史を語る説明板、石碑などが多い。、、、、まずは、東詰めにある「両国橋児童遊園」と表示された広場。 一面に砂利がひき詰められ、公衆便所と3本程の桜の若木、そして日露戦争の忠魂碑、赤穂浪士の一人:大高源吾の句碑、さらに観光用と思われる周辺の案内図などがある。 “児童遊園”なのに、子供向けの設備・遊具は何もない、どうなってんだ!

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・・・・・・・・・・・・両国橋児童遊園の隣りにある建築史上貴重な建物は、「岡田商事」の社屋。 戦前に建てられたものでアールデコ調の美しい建築。、、、、今日は改修工事か? 外壁に足場が架けられていた。 (夕暮れの写真は、2018年10月撮影) 

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・・・・・・・・・・・・岡田商事の建物の隣り、駐車場のフェンスに3枚の説明板がある。 駐車場のこの辺りに「両国橋広小路」があった。、、、、江戸時代の両国橋は現在の橋より50mほど下流に架かっていた。 橋の西側、つまり中央区側の広小路(火避地)は「両国広小路」、東側(墨田区側)を江戸の人は「向う両国」と呼んだ。 西側は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。 寛保2年(1742)頃には1日に20,000人以上が往来したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・そして、もう一枚の説明板「赤穂浪士休息の地」によると、元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士の討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に休息したのがここにあった向う両国の広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を通らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。、、、、今の世であれば、地元の町内会で甘酒・汁粉を作ってふるまったかもね! また、野次馬が集まりサインを求めたと思うよ!

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●本当に義賊か? ・・・・・・・・両国にきたら、チョイト回向院鼠小僧次郎吉に手を合わせて行こう!、、、、ところで、鼠小僧次郎吉は俗名中村治郎吉。 実在した人物だそうだ、しかし義賊と云うのはあやしいらしい、盗んだ金は全てパチンコに使い、懐はいつもスッカラカンのステテコテンだったという説もある。 さらに、鼠小僧が生きていたと言われている当時は、犯罪者は墓が建てられないので墓があること自体あり得ない。 墓が建てられたとすれば明治以後のことで、墓自体もあやしいものらしい。、、、、いつの頃からか鼠小僧の墓石のかけらを持っていると、勝負師には「賭け事に勝つ」「運がつく」など、受験生には「するりと入れる」と言われて、墓石を欠き取る人が絶えないらしい。 

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●縦に流れる堅川! ・・・・・・・両国橋の下流200m程の処から、東に向かいほぼ一直線に旧中川まで堅川が流れている。 竪川は、万治2年(1659)に掘られた運河で、当時、江戸城からみて縦に通じているところから竪川と称したそうだ。 竪川の最初の目的は排水のためであったが、のちに隅田川と中川とを連絡する水路として輸送に大いに利用され、河岸には材木屋も多く木場の続きともなっていた。 一之橋はその堅川で隅田川寄りに最初に架かる橋である。、、、、現橋は3径間鋼桁で、橋長36.9m、昭和54年(1979)に竣工した。 隅田川寄りに、昭和35年(1960)に竪川水門がある。 また頭上には、首都高速7号小松川線が横切る。 チョイト、風情の無い景色となっている!

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●蛇の洞窟は怖い! ・・・・・・・一之橋を渡ると、江島杉山神社がある。 江島杉山神社は、鍼術の神様・杉山和一(1610~1694)が五代将軍綱吉から、神社のある本所一ツ目に約1万2千㎡の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明し、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かった。 その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍した。 この和一の名声を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。、、、、神社は昭和20年(1945)の米軍の空襲で焼失したが、昭和27年(1952)に再建された。 また、境内の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、中には、杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。 蛇が大嫌いな私には、チョイト気味の悪い洞窟だ!

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●モダンな橋! ・・・・・・・・隅田川に架かる新大橋を渡り、中央区日本橋浜町に入る。、、、、現在の橋、構造形式は2径間連続斜張橋、橋長 170.0m、昭和52年(1977)に石川島播磨重工業の施行で竣工した。 黄色の主塔が印象的!、、、、最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)である、隅田川3番目の橋で「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。

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●ただいま~ ・・・・・・・新大橋を渡ると、浜町公園・清正公寺・薬研堀不動院をとおり、浅草橋へお帰り!

2020年6月 2日 (火)

蕎麦と寺と公園

三密を避け、他県への移動を避け、今日は夫婦で調布の深大寺と隣の神代植物公園に行ってきた。 初夏の陽気と、マスク着用で、暑い・暑い!




●腹ごしらえ! ・・・・・・・京王線調布駅からバスで深大寺へ、バスを降りると丁度12時、『腹が減っては参拝できぬ』、まずは腹ごしらえから。 名物深大寺そばを食べることにして、参道の店へはいる。 平日にコロナ禍が重なり店は空き空き、並ぶことなく『いらっしゃ~~い』。、、、、なぜ、深大寺そばが名物になったのか? その、歴史については諸説あるそうだが、その一つに、江戸時代、近隣農家から深大寺に納められたそば粉を使い、深大寺寺坊で打ったそば切りが、来山者に評判となったことが始まりといわれている。 その後、三代将軍徳川家光が鷹狩の途中立ち寄った際、食したそばの味が絶品であったため、将軍自らも周囲に推奨したという話もある。 もともと深大寺周辺の土地はそば栽培に適し、更に豊富な湧水をそばのさらし水として用いるなど、そば作りに最も適していたそうだ。、、、、昭和36年(1961)神代植物園が開園すると、来山者も増え深大寺そばも全国的に有名となる。 現在は、門前に20軒以上のそば屋さんが軒を連ね、賑わっている。 さすが参道にはそば屋が多く、ここでラーメン屋・うどん屋を開業する勇気ある者は居ないようだ。

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●癒しの森! ・・・・・・緑深い武蔵野の面影を残す森に、天台宗の寺院:深大寺はある。
・・・・・・・・・・・・そば屋の並ぶ参道を抜けると山門がある。、、、、山門は南向きで両控造り。 丸柱二聞に一間半の茅葺き、朱塗りである桃山式建築で二度の火災にも難を免れた。 

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・・・・・・・・・・・・山門をくぐると、正面に本堂がある。、、、、天台宗寺院の深大寺は、浮岳山昌楽院と号す。 深大寺は、満功上人が天平5年(733)に堂宇を建立、750年に深沙大王像を安置して創建した。 その後武蔵国司蔵宗の乱降伏祈念に際して朝廷の命を受けた比叡山の恵亮和尚が、道場として天台宗に改め、991年には元三慈恵大師が自刻像を当寺にうつしたといいます。 江戸時代には寺領50石の御朱印状を拝領、現在は天台宗の別格本山。、、、、江戸時代の本堂が幕末の火災で焼失した後、本尊の阿弥陀如来像は仮に、再建した庫裡に安置されていたが、大正8年(1920)に今の本堂が完成した。  南向きの本堂は、江戸期の作風をもち、深大寺の扇額を掲げている。堂内に本尊および金銅製の釈迦如来倚像が安置されている。 この釈迦如来像が国宝白鳳仏で、関東地方所在の仏像中最古のものと云われている。(残念ながら、私は拝見したことがない)

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・・・・・・・・・・・・山門を入り右側に鐘楼がある、、、、鐘楼の前には、江戸時代に再建された茅葺き屋根の庫裏もある。

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・・・・・・・・・・・・本堂裏手の一段高い処に、元三大大師堂がある。、、、、この堂は山門についで古いもので、慶応3年(1867)の建立、大師の自刻像と、天平勝宝7年(755)に満功上人がつくったと伝えられる秘仏、深沙大王像が安置されている。 茅葺きの建物で、廊下の天井に、河鍋暁斎の描いた竜が雄渾な筆跡を残している。暁斎が描いた壁画の中でも傑作といわれているものである。

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・・・・・・・・・・・・元三大大師堂の脇から少々上ると、昭和58年(1983)に建てられた開山堂がある。、、、、堂の多い寺は、個別に賽銭をあげて来ると、小銭がスグ無くなり、紙幣(特に万札)ではお釣りを貰えないし、悩む! そこで提案、各堂の前に両替機を置いて欲しいね!(グッド・アイデア)

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●花も暑そうだ! ・・・・・・・深大寺の裏山に神代植物公園があり、寺からは地続きで入園できる、、、、、公園は戦前から計画され、戦後の昭和36年(1961)に開園した。 都内唯一として開園した植物公園。 ばら園・さくら園・うめ園・・・など、植物ごとに〇〇園があるが、ばら園は広く多種が咲き誇り圧巻!、、、、大温室は窓を開け換気されているが、サウナ状態で暑い・暑い・アッチッチ!

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●良い運動だった! ・・・・・・・・・神代植物公園から、バスで三鷹駅に出て帰宅。、、、、お寺・公園内を歩き、約1万1千歩の散歩。

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