碑がイッパイ!
一向に収まらない“新型コロナ”は、宣言解除後の“夜の街”にも広がり、何時まで経っても、“三密に注意”、“不要不急の外出は避ける”、“県外への移動は自粛”など、“新型コロナ”向けのキャチフレーズが出たままだ! 一日中暇な私は如何に身を処すべきか判らず、毎日、戸惑うばかり。、、、、今朝も体力維持の散歩で、浅草橋の我が家から湯島天神まで往復してきた。 1万1千歩
●朝から和菓子! ・・・・・・・・蔵前橋通り(鳥越一丁目交差点)・昭和通り(台東三丁目交差点)・中央通り(上野三丁目交差点)を順に横断し、湯島天神へ向かう。、、、、今の季節、道路の植え込みにはアジサイが彩りを添えている。 さいの目に切った寒天で白餡を包んだ、和菓子の“アジサイ”を思い出し、朝からチョイト“バーチャル胸やけ”だ!




・・・・・・・・・・・・中央通りのビル(台東区上野1-1)の一角に日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地の碑がある。 碑はステンレスとガラスでできており、コーヒーカップから湯気が立ち上がる様子をデザインしたと思われる。、、、、明治21年(1888)4月13日、 日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名:西村鶴吉)によりこの地に開店した。 二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。 一階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞・ 雑誌類・その他和漢洋書・書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。 コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していたらしい。、、、、現在、4月13日は日本初の喫茶店「可否茶館」が開店したのを記念して 「喫茶店の日」と決められているそうだ!

・・・・・・・・・・・・中央通りの西側(上野1-16)に台東区立黒門小学校がある。、、、、明治43年(1910)創立の小学校。 関東大震災のあと、復興小学校として昭和5年(1930)に現在の校舎が再建された。 東京市の設計、日本土木建築KKの施工による、鉄筋コンクリート3階建て。玄関部分はアールデコ調、3階外部の舟形が連続する窓はドイツ表現派のデザインだ。 今に残る、昭和のモダン建築で、国の重要文化財に指定して欲しい!、、、、実は、私もチョッピリ学んだ校舎。 小学6年の時、台東区内の各小学校から数名の代表が選ばれ、毎土曜の午後、ここ黒門小学校の理科室に集合して、理科の勉強をする「黒門科学教室」という学習の場があった。 それに参加して、約1年学んだが、果たして、血となり、肉となり、脳味噌になったか? 今、思うに、消化不良したようだ! (校庭側の写真は、2014/2/10撮影)




●ウッ・碑・碑・ヒ! ・・・・・・・・我が家から片道約40分、文京区湯島三丁目の湯島天神に到着。、、、社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀る神社として創建された。 正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称する。 江戸っ子は、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」の呼称がいいね!、、、、現在の社殿は平成7年(1995)に造営された、権現造り様式による総檜造り。 建築費は??? 「合格祈願」の御守販売で、建築費が賄えたか?





・・・・・・・・・・・・天神さま正面の「表鳥居」は、銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘がある。 この貴重な鳥居は、現在までに数度の修理を重ねて維持されてきた。 鳥居の様式は神明鳥居といわれるもので、横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いている。 鳥居は、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81m。 下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。

・・・・・・・・・・・・この表鳥居の左側柱脚の台座に、“不”の字に似た几号水準点がある。、、、、天神さま境内に几号水準点を説明する文章は見あたらず、これを見に来る人は極少数の几号マニアだけ!

・・・・・・・・・・・・境内に向かう三つの坂、その名は男坂、女坂、夫婦坂。、、、、まずは、38段の石段坂で、上野広小路の方から一直線に、一気に上る「男坂」 江戸時代の書物「御府内備考」によると、湯島天神参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道にもなったといわれてる。 現在でも、通勤経路の一部としてこの坂を利用する人が多い。、、、、男坂の石段脇には、関東大震災後に早期復興を願い地元有志が祀った復興地蔵尊がある。



・・・・・・・・・・・・続いて、33段の石段坂で、すぐ脇の急な男坂に対して「女坂」という。 坂の頂部で、男坂と交わる。 梅の季節には女坂の周辺に白梅が咲き揃う、画になる坂。、、、、歌にもなった坂。 歌手:原田悠里の歌謡曲「おんな坂」の発売を記念して建てられた碑が、坂の上り口にある。 、、、、坂の上には、「女坂寄附 湯島六丁目 日野屋庄兵衛 明治二十五年」の碑がある。 女坂は寄付で造られたのか?




・・・・・・・・・・・・三番目の坂は「夫婦坂」、、、、夫婦坂は湯島天神の北(社殿裏側)にある切通坂から境内に上る坂をいう。 平成8年(1996)に湯島天神の改築があり、夫婦坂の途中に立派な門ができ、この門は登龍門と名づけられた。 切通ができて造成されたので時代が新しく、古い坂が男坂、女坂とあるため「夫婦坂」と命名したようだ。、、、、天神さまの勝手口のような坂。

・・・・・・・・・・・・境内の梅園にたつ「奇縁氷人石」、、、、この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されている。 これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。 この石柱があると云うことは、天神さまの境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことが推測される。今の世は、子供の迷子より大人の迷子の方が、ボケ・痴呆で探しにくいかも、この石柱が役にたつといいのだが、難しそうだ!

・・・・・・・・・・・・男坂を上った処に、この「新派」の記念碑がある。 碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和52年(1977)、松竹株式会社と水谷八重子により新橋演舞場玄関脇に建てられた。 新派の始まりは明治21年(1888)に自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町座で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされている。 その後の90年間で、今日「劇団新派」として隆盛を見たその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑が建立された。 そして新橋演舞場の改築にあたり、当湯島天神の境内に移させてもらったものである。、、、、頭でっかちの碑は、誰か蹴飛ばしたら首が折れそうな形状で、触るとヤバイ!

・・・・・・・・・・・・上記の他、都都逸の碑、水平式日時計、王貞治の努力の碑、講談高座発祥の碑、湯島の白梅の碑、文房至宝碑、包丁塚、筆塚、小唄顕彰碑、梅園建設碑、菅公遺訓碑、菅公千年祭記念碑、泉鏡花筆塚などなど、その他にも撫牛、瓦斯灯、宝物殿などもあり、いろいろ取り揃えてある。 全部紹介すると今日中に寝れないので、ここいらで止めておく!