新川の復興橋
“新型コロナ”の感染者は増えたり減ったり、そしてまた増えた! 今だ、三密避けて、不要不急の外出は自粛。 理屈は判っても、気持ちは外出したくて、チョットだけならイイよね!、、、、今日は、都営浅草線の宝町駅で下車し、中央区新川地区に架かる南高橋、豊海橋の2橋を渡り、箱崎、浜町を抜け我が家(浅草橋)まで、1万3千歩の散歩です。
●体力維持に協力的な駅 ・・・・・・・散歩のスタートは、都営浅草線:浅草橋駅から4駅目の宝町駅である。、、、、駅名の「宝町」は、昭和38年(1963)2月28日、地下鉄開業当時の地名「宝町」を採用。 地名の宝町は昭和6年(1931)、町名の整理統合の際、めでたい名として選ばれ誕生した。 しかし、昭和53年(1978)の住居表示では、隣接の京橋に統合する形であえなく消滅。、、、、駅は相対式ホーム2面2線の地下駅。 西馬込方面のホームには、中央と後方(押上寄り)に改札があり、後方の改札にはエレベーターがある。 中央の改札から出ると、合計90段程の階段を上らないと地上に出ることができない、“コロナ”で体力が落ちた方には足腰を鍛える嬉しい機会を与えてくれる!、、、、【蛇足】宝町で下車した後、同駅で京急の特別塗装列車:新1000形の「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」と、600形の「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」のすれ違いがあった。 ラッキー、チョイト嬉しくてパチリ!





●橋上は寝床! ・・・・・・・・宝町駅から東に向かうと、昭和35年から昭和40年にかけて埋め立てられた楓川(もみじがわ)に架かる弾正橋(だんじょうばし)がある。 弾正橋の創架は江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643)頃と伝えられている。 橋名の由来は、この橋に近い八丁堀に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正 の屋敷があったことから「弾正橋」と呼ばれたそうだ。、、、、現在の「弾正橋」は、大正15年(1926)に架設されたもので、関東大震災の復興橋。 橋の下には首都高が、橋の上にも首都高が、平成の整備で橋に公園も造られ、日中でも薄暗くなった橋上はホームレスの寝床となった!


●鉄砲撃った鉄砲洲! ・・・・・・・弾正橋より道なりに東へ向かい、八丁堀交差点から南東方向に歩き、鉄砲洲稲荷神社(湊1)に立ち寄る。、、、、鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきた。 神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年現在地に移転し、今日に至っている。 大正12年(1923)の関東大震災により被害を受けた境内は、昭和10年(1935)より復興整備された。 また社殿の右奥には、富士山の溶岩で築いた昭和3年(1928)に築造された富士塚があり、そこを富士信仰の場としていた。、、、、鉄砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。、、、、「鉄砲洲」の地名は、昔、海岸だった頃のこの辺りの地形が細長~い三角形をしていたので、種子島と呼ばれた火縄銃の形に似ていたので“銕炮洲”と呼ばれ、“鉄砲洲”に変化した。 また寛永12年(1635)に、大筒をつくって幕府に納めていた井上氏、鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所でもある。



●湊地区のチョイト古い建物! ・・・・・・・中央区湊地区の建物
・・・・・・・・・・・・まずは、地区内に点在するマンサード屋根(腰折れ屋根とも言う。勾配が2段になっている屋根)の木造住宅。

・・・・・・・・・・・・和洋折衷というより、住居の木造2階建て日本家屋と商売用の3階建て洋風の家屋が同じ敷地に建っている「福隆商事」、、、、昭和2年(1927)の建築といわれている。

・・・・・・・・・・・・銅板貼りの建物は「日本不動産」、、、、昭和初期の建築か?

・・・・・・・・・・・・南高橋の橋詰にある籠細工屋さん「籠平」、、、、下見板の木造建築ですが、2階上の部分のデザインは西部劇に出てきそうなモダンな建物。

・・・・・・・・・・・・鉄砲洲稲荷神社の並びにある「築地警察署 湊交番」、、、、建物は古くないが、昭和4年(1929)に湊地区の住宅街の交番として開設された。 周囲は閑静な住宅街と新大橋通り沿いの中小企業からなる地域です。近年の再開発でマンションの建設が増えています。

●両国橋の再利用! ・・・・・・・・中央区湊地区と新川地区を結び亀島川に架かる、関東大震災の復興橋「南高橋(みなみたかばし)」、、、、昭和7年の架橋、橋長は63.1m。、、、、南高橋は、関東大震災後、昭和6年に起工し、翌昭和7年3月に竣工した。 震災当時は、南高橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみであった。 大正12年(1923)の関東大震災ののち、街区の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に、新しく橋を架けることになった。 東京市は、多くの橋を改架したため予算も乏しく、そのため明治37年に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架橋したのである。 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなった。 貴重な近代の土木遺産である。




・・・・・・・・・・・・南高橋から亀島川の上流側を望む、、、、右側が新川地区、左側は八丁堀地区。

・・・・・・・・・・・・下流側は、隅田川に合流する手前に亀島川水門がある。、、、、水門は只今耐震工事中!

●私、中国から来ました! ・・・・・・・・南高橋から豊海橋へ抜ける途中、隅田川沿いに「東京住友ツインビル」(新川2)がある。 西館と東館の2棟構成で、21階・24階建て、設計は共に日建設計、竣工:昭和63年(1988)と平成3年(1991)、、、、ビルの前で見上げると巨大な2棟のビルが威圧的に感じる。、、、、ビルには三井住友系の大企業がオフィスを構えているらしい。

・・・・・・・・・・・・ビルの前で20歳前後の学生風の女性が見上げていた! オヤ、建築に興味あるのかな? にこやかな顔の可愛い女性だ。 『私、中国から来ました!』と話しかけてきた。 しばらく話すと、このビルの中の企業に就職が決まり勤めるそうだ。 私が異国からの就職、一人暮らしを思い『それは良かった、だけど大変だね』と云うと、何やら心配になったのか、『大変なんですか?』と聞き返してきた。 どうやら、就職する企業に問題があると受け止めたようだ。 すぐに気づき誤解は解けたが、私が、余分な心配をかけてしまった。 ゴメン! 日本で頑張って、仕事して、応援してま~す!

●眺望良し! ・・・・・・・・新川地区から、振り返り佃島のタワマンを望む。 また、行く先には永代橋。


●窓が並ぶ! ・・・・・・・・永代橋の西詰付近、日本橋川が隅田川に合流する処に、新川と日本橋箱崎を結び「豊海橋(とよみばし)」がある。、、、、豊海橋は、日本橋川の第一橋梁である。 大きな窓が並んでいるようでもあり、枠の幅がある梯子を横にしたような構造は、フィーレンディール橋と呼ばれ、永代橋との景観上のバランスを考慮して設計したそうだ。 シンプルなデザインのなかに鋲止形式という古い形態を残し、重量感のある鉄骨橋梁の代表例として貴重である。、、、、豊海橋は、復興橋として大正15年(1926)5月に着工し、昭和2年(1927)9月に完成した。



●日銀創業の地! ・・・・・・・・豊海橋を渡ると、日本IBMの本社(日本橋箱崎19)がある。 このビルの敷地の一角に、「日本銀行創業の地」の碑が建つ。、、、、明治15年10月10日、日銀の創業はこの場所で、その十数年後に現在地に移転したと碑文にある。 碑面には「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられている。、、、、創業時はこの地でお札を印刷したのか?


・・・・・・・・・・・・・・日銀創業の地の近くには、高尾稲荷神社がある。、、、、万冶2年(1659)12月江戸の花街新吉原京町1丁目、三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時19歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金とつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当所そこに庵を構え居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の始まり。、、、、若くして容姿端麗、諸芸に通じておれば、今の世のミスユニバースの優勝候補だ! 19歳で死ぬなんて、ア~~もったいない!

●車よ、落ちるな! ・・・・・・・・首都高の箱崎ジャンクションの下を歩く。、、、、頭上から車が2・3台、落ちてきそうだ! のんびり歩けず、足早に通り抜ける。




●・・・・・・・・・・箱崎を抜けると、水天宮・浜町・東日本橋をとおり、浅草橋の我が家に到着!