再び北斎通り!
錦糸町へ買い物に、帰りは「北斎通り」を歩き両国へ、両国では久しぶりにガラガラ空き空きの江戸東京博物館に立ち寄り、浅草橋の我が家まで歩いて帰る。
●うんこオブジェ! ・・・・・・・・・JR総武線「錦糸町駅」北口を出ると、目の前のロータリー中央に、ワイヤーで吊るされた大きな輪っかのオブジェが目に飛び込んでくる。 普段は通り過ぎるだけのオブジェだが、今日はチョイト興味を持ち、正体を調べてみた!、、、、説明板によると、これは「“ECHO”エコー」と名付けられ、ヘ音記号を2つ組み合わせたものなんだとか。 へー、屁音記号だったのか、どうりで“うさんくさいオブジェだ”。 さらにオブジェを吊るすワイヤーは五線譜をあらわしている。 墨田区は昭和62年(1987)、「音楽都市」をめざして街づくりをすることを宣言し、北口再開発事業で交通広場の吸気・排気塔を利用して、音楽都市を象徴するモニュメントを設置することにした。 その結果、平成9年(1997)に、米国の作家:ローレン・マドソンの作品“ECHO”を設置した。、、、、このモニュメント、巷では色・形状を見て、“うんこオブジェ”と云うそうだ、同じ墨田区には、アサヒビールの“うんこビル”もある。


●マスク邪魔だ! ・・・・・・・駅前の“ECHO”モニュメント北側の通りが「北斎通り」である。 度々歩いているこの道を、今日も両国駅方向に歩く。、、、、日中は30℃超の気温、暑い暑い、コロナ予防に熱中症予防、マスクの中はムレムレ!

・・・・・・・・・・・・駅前からチョイト西側にズレるとスカイツリーを正面に望む通りがある。、、、、今日は青空も見え、視界良好!

・・・・・・・・・・・・駅前から300m程西へ歩くと、かつて津軽藩下屋敷内にあった「津軽稲荷神社」がある。、、、、神社のあるこの一帯はその昔、津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったそうだ。 明治以降は管理ままならず、明治43年(1910)の大水害後に地元町会に払い下げられた。 関東大震災と米軍の空爆で2度焼失したものの、昭和35年(1960)に拝殿・社務所・会館、同44年(1969)に鳥居が再建・復興した。、、、、赤い幟がなびく参道の先に、戦後に造られた鉄筋コンクリート造の社がある。


・・・・・・・・・・・・津軽稲荷神社から50m程、西へ歩くと「大横川親水公園」がある。 「北斎通り」から公園に入る処に、2基の親柱とトラス形状の鉄骨で造られたモニュメントがある。 かつて、ここに架かっていた「長崎橋」を記念したものだ!、、、、ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、島屋久五郎両名によって、墨田区亀沢4丁目より錦糸1丁目に架けられた。 最初は長さ10間(18m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年6月には鋼製トラス橋になった。 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去された。 橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名に因んで長崎橋と名付られ、永い間親しまれた。、、、、北の津軽に、南の長崎、錦糸町には各地の侍が住んでいたようだ!

・・・・・・・・・・・・北斎通りを西へ 、、、、 そろそろ名残りのアジサイか


・・・・・・・・・・・「野見宿禰神社」、「すみだ北斎美術館」の前を行く。


●北斎通りはココまで! ・・・・・・・北斎通りは、江戸東京博物館前で清洲通りにぶつかり、ハイ・ココまでヨ~~。

・・・・・・・・・・・・今日は江戸東京博物館の中を拝見することにした。、、、、巨大な建物は、建築家:菊竹清訓の設計により、平成4年(1992)に竣工した、地上7階建ての博物館。 高さは約62m程あり、高い! 竣工時は建物のデザインに批判的な人もいたようだ。、、、、巨大な吹き抜け部分の空間、毎度思うのだが『我が家が何戸ぐらい入るスペースだ?』 優に500戸分以上ありそうだ!






・・・・・・・・・・・・老人割引のチケット(300円)買って、マスクをさせられ、長いエスカレーターで3階から6階へ。 マスク美人のおねえさんが、『手の消毒お願いします!』、、、、入場者より、博物館関係者の方が多い館内は、ガラガラ、『ご自由に、好きなだけ見てください』と云う感じだ! 何度か訪れている博物館だが、展示室に入り、大きな模型、実物大の家屋など、その大きさに今回も圧倒された。






●以下省略! ・・・・・・この後、両国橋を渡り、浅草橋の我が家へ帰る!
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