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2020年6月 5日 (金)

向う両国

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、回向院・江島杉山神社に参り新大橋で再び隅田川を越えて浜町に入り浅草橋へ、1万2千歩の散歩です。 




●両国とは? ・・・・・・・・隅田川に架かる両国橋は、あまりにも有名で知らぬは外人だけ! 今は、東詰めは東京都墨田区両国1丁目、西詰は東京都中央区東日本橋2丁目。、、、、江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より少々下流に架かっていた。 当時の橋の東詰めは下総国、西詰は武蔵国で、両方の国の境に架かる橋で「両国橋」 解りやすい! もちろん江戸時代の橋は木橋で、流出や焼落、破損により何度も架け替えられた。 木橋としては明治8年(1875)の架け替えまで続いたそうだ。 この明治の木橋も明治30年(1897)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず欄干が崩落してしまった。 木橋の終焉である。、、、、現在の両国橋は鉄橋の2代目で、関東大震災後の昭和7年(1932)の竣工、構造は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋、施工は石川島造船所/間組、 総工費 987,500円也。 約100万円で橋が架けられた時代は昔の話となった! 

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・・・・・・・・・・・・両国橋の東側(墨田区両国)には古き歴史を語る説明板、石碑などが多い。、、、、まずは、東詰めにある「両国橋児童遊園」と表示された広場。 一面に砂利がひき詰められ、公衆便所と3本程の桜の若木、そして日露戦争の忠魂碑、赤穂浪士の一人:大高源吾の句碑、さらに観光用と思われる周辺の案内図などがある。 “児童遊園”なのに、子供向けの設備・遊具は何もない、どうなってんだ!

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・・・・・・・・・・・・両国橋児童遊園の隣りにある建築史上貴重な建物は、「岡田商事」の社屋。 戦前に建てられたものでアールデコ調の美しい建築。、、、、今日は改修工事か? 外壁に足場が架けられていた。 (夕暮れの写真は、2018年10月撮影) 

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・・・・・・・・・・・・岡田商事の建物の隣り、駐車場のフェンスに3枚の説明板がある。 駐車場のこの辺りに「両国橋広小路」があった。、、、、江戸時代の両国橋は現在の橋より50mほど下流に架かっていた。 橋の西側、つまり中央区側の広小路(火避地)は「両国広小路」、東側(墨田区側)を江戸の人は「向う両国」と呼んだ。 西側は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。 寛保2年(1742)頃には1日に20,000人以上が往来したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・そして、もう一枚の説明板「赤穂浪士休息の地」によると、元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士の討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に休息したのがここにあった向う両国の広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を通らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。、、、、今の世であれば、地元の町内会で甘酒・汁粉を作ってふるまったかもね! また、野次馬が集まりサインを求めたと思うよ!

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●本当に義賊か? ・・・・・・・・両国にきたら、チョイト回向院鼠小僧次郎吉に手を合わせて行こう!、、、、ところで、鼠小僧次郎吉は俗名中村治郎吉。 実在した人物だそうだ、しかし義賊と云うのはあやしいらしい、盗んだ金は全てパチンコに使い、懐はいつもスッカラカンのステテコテンだったという説もある。 さらに、鼠小僧が生きていたと言われている当時は、犯罪者は墓が建てられないので墓があること自体あり得ない。 墓が建てられたとすれば明治以後のことで、墓自体もあやしいものらしい。、、、、いつの頃からか鼠小僧の墓石のかけらを持っていると、勝負師には「賭け事に勝つ」「運がつく」など、受験生には「するりと入れる」と言われて、墓石を欠き取る人が絶えないらしい。 

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●縦に流れる堅川! ・・・・・・・両国橋の下流200m程の処から、東に向かいほぼ一直線に旧中川まで堅川が流れている。 竪川は、万治2年(1659)に掘られた運河で、当時、江戸城からみて縦に通じているところから竪川と称したそうだ。 竪川の最初の目的は排水のためであったが、のちに隅田川と中川とを連絡する水路として輸送に大いに利用され、河岸には材木屋も多く木場の続きともなっていた。 一之橋はその堅川で隅田川寄りに最初に架かる橋である。、、、、現橋は3径間鋼桁で、橋長36.9m、昭和54年(1979)に竣工した。 隅田川寄りに、昭和35年(1960)に竪川水門がある。 また頭上には、首都高速7号小松川線が横切る。 チョイト、風情の無い景色となっている!

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●蛇の洞窟は怖い! ・・・・・・・一之橋を渡ると、江島杉山神社がある。 江島杉山神社は、鍼術の神様・杉山和一(1610~1694)が五代将軍綱吉から、神社のある本所一ツ目に約1万2千㎡の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明し、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かった。 その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍した。 この和一の名声を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。、、、、神社は昭和20年(1945)の米軍の空襲で焼失したが、昭和27年(1952)に再建された。 また、境内の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、中には、杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。 蛇が大嫌いな私には、チョイト気味の悪い洞窟だ!

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●モダンな橋! ・・・・・・・・隅田川に架かる新大橋を渡り、中央区日本橋浜町に入る。、、、、現在の橋、構造形式は2径間連続斜張橋、橋長 170.0m、昭和52年(1977)に石川島播磨重工業の施行で竣工した。 黄色の主塔が印象的!、、、、最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)である、隅田川3番目の橋で「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。

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●ただいま~ ・・・・・・・新大橋を渡ると、浜町公園・清正公寺・薬研堀不動院をとおり、浅草橋へお帰り!

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