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2020年6月29日 (月)

岩倉具視が眠る寺

京浜急行青物横丁駅で下車し、第一京浜国道の西側を歩いてきた。 我が家を出る時は、JR大森駅まで歩くつもりであったが、途中でチョイト時間を浪費し、京急の立会川駅までの散歩となった。 1万歩



●横町が横丁に! ・・・・・・・京急本線の「青物横丁駅」は、明治37年(1904)に開業した。 開業当初は「青物横町」という漢字表記で、その後(時期は不明)現在の「青物横丁」に改称された。 “横丁”は特定の目的地に行く道で、“横町”は表通り・街道から脇に入った小路で、「青物市場のある側の路地」ということで、ここでは青物横町の方が正しいと思う。 でも、誰も気にしてい居らず、使い慣れた用法でいいか! 

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●国道を越える! ・・・・・・・・青物横丁駅の出入口は第一京浜(国道)の脇にある。また、歴史好きのお散歩コース「旧東海道」は京急線の東側である。 今日の散歩は京急線・第一京浜の西側を歩いて、大森駅に向かう予定であった。 まずは、駅前の国道を横断する。

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●紅葉の名所! ・・・・・・・・南品川三丁目交差点角に、曹洞宗系単立の海晏寺(かいあんじ)がある。 海晏寺は補陀落山と号す。 建長3年(1251)頃鮫洲に浮上がった大鮫の死体から正観音木像が出てきたことから、その正観音木像を安置するための堂宇として、建長寺開山大覚禅師を迎え創建された。戦国時代には荒廃したが、徳川家康により再建され、文禄2年(1593)本多佐渡守正信を迎えて、臨済宗建長寺派から曹洞宗寺院として中興開山し、現在に至る。、、、、海晏寺の立地は、国道側の海岸線を間近にした平野部と仙台坂のある台地部の接際にあって、墓地となっているその台地からの見晴らしは海を臨める絶景で、紅葉が色づく秋の頃には観楓の名所にもなっていたそうだ。(今、海は見えない) 

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・・・・・・・・・・・・日本において、国葬の第1号は明治16年(1883)7月25日に行われた、右大臣:岩倉具視である。 岩倉具視(文政8年(1825)9月15日 ~ 明治16年(1883)7月20日)は、幕末・明治の公卿・政治家。 公武合体を唱え大久保利通らと王政復古を画策。新政権樹立後、参与・大納言等を歴任し廃藩置県を断行。 右大臣となり、条約改正交渉と米欧視察のため特命全権大使として外国を巡回。 憲法体制の基本方針を定めた。 癌により、59才で没す。、、、、その岩倉具視の墓が海晏寺の一画にある。 さすが偉い人で、私のような者は墓前まで行くことができず、チョイト遠くから墓をパチリ。

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●容堂の隠居所! ・・・・・・・京急鮫洲駅の西側、大きく緑が茂る品川区立「大井公園」がある。 その南隣には、品川区立立会小学校がある。、、、、大井公園の外側に沿って裏道を小学校の方に歩いてゆくと、鉄の門があり、階段坂がある。 門の管理は小学校が行っているのか、校長名で開門時間が標されていた。 数十段程上ると、校庭の隅の一画に土佐藩主山内容堂の墓がある。、、、、大井公園は、江戸時代には〝土佐山〟と俗称された下総山、土佐藩の下屋敷が置かれていたところだ。 大政奉還の建白を果たした大名のものとは思えないような狭苦しい場所に土饅頭型の墓があり、その脇に石製の墓碑が建っていて「贈従一位山内豊信公之墓」と刻んでいる。裏面は「明治五年六月二十一日薨」とある。 入口に一番近い場所には第13代藩主山内豊熈の妻の、やはり土饅頭の墓がある。 墓碑「嶋津常候之墓」、裏「従四位下山内豊熈朝目室 明治十三年十一月十六日逝」と刻してある。、、、、コロナの影響で、墓参に訪れる人も少ないと思われる!

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・・・・・・・・・・・・墓のある立会小学校から、約500m南下した国道沿いに品川区立浜川中学校がある。 校門の脇に「土佐高知藩山内家下屋敷跡」の説明板がある。、、、、『立会川沿いの土佐藩山内家の下屋敷16,800坪余と抱屋敷(揚場869)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。 共に万治元年(1658)に拝領、囲込によって取得したもので、表門通りで結ばれていた。下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(中央区築地)にもあった。 第15代藩主山内豊信(容堂)は、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城らと共に、国政の方向について論議建策したため、「幕末の四賢侯」と称されている。安政の大獄に関連して隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷であった。また、河口の抱屋敷の地には、嘉永六年(1853)に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれていた。 安政二年(1855)頃の土佐藩主山内土佐守豊信は242,000石の家禄があり、上屋敷は鍛冶橋御門内大名小路(千代田区丸の内)にあった』

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●古都の寺? ・・・・・・・・浜川中学校の北側(東大井3)に、真言宗の寺「海賞山地蔵院来福寺」がある。 京都御室仁和寺末。正暦元年(990)智弁阿闍利の草創と伝える。嘗ては日本の東西を結ぶ古い道の近くにあり、眼下に海を見下ろす台地の外れに位置していた。 広大な寺領をもった大きな寺院だった。 昭和20年(1945)の戦災で、本堂、書院、宝庫など多くの建物を失った。 昭和27年に本堂、同47年に客殿が再建された。 本尊と共に戦災を免れた山門および聖天堂は、安政から万延頃の建築というという古い建物だ。 山門から参道が緩やかな坂道を辿ると美しい境内へと導かれる。その境内に、饅頭の製造法を伝えたといわれる赤坂の老菓子舗塩瀬の祖林浄因の碑があり、墓地には阿波の藍商人の集団墓碑などがある。、、、、只今、コロナの影響で、檀家以外は立入禁止。 私は檀家ではないので、もちろん立入禁止。 今日は忍法“コロナの術”で、こっそりと拝見してきた!

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・・・・・・・・・・・・墓地の中央付近に「阿波藍商人墓標群」がある。、、、、説明板では、『藍はタデ科の植物で藍染めの染料として、江戸時代になり木綿の普及とともに需要が高まりました。 阿波徳島藩(現在の徳島県)の蜂須賀家では、藩の財政を支える特産品として藍の栽培を保護奨励し阿波藍の名声は全国的なものとなります。 この墓標群は、阿波藍商人として江戸に進出した大坂屋庄三郎(江戸での町人名、本名は久次来兵次郎)家関係者のものです。 大坂屋は本八丁堀(現在の中央区八丁堀)に店を構え、藍のほかに材木も取り扱う店となりました。 大坂屋の江戸における菩提寺が来福寺です。 墓標は来福寺境外の地蔵堂墓域に建てられていましたが、道路拡張工事のため、昭和2年に現在の場所に移され合葬されました』
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●裏道は方向感覚が? ・・・・・・・このあと、仙台坂、見晴らし通りと歩いて、裏道を抜け、チョイト方向感覚が鈍った! 気がつくと、立会川駅前に出た。

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・・・・・・・・・・・・家を出る時は大森駅まで歩くつもりだったが、立合川駅に出てしまい、ココまでとする!

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