« 表玄関は東口?西口? | トップページ | 寂しい浅草! »

2020年7月27日 (月)

三島三兄弟!

昼から、チョイト用事で下谷方面に行き、その足で二社二寺に寄ってきた。 帰りは浅草に出て、大雨に遭遇。



● 台東区のコミニティバス(区内循環バス)で、浅草橋から下谷へ向かう。 大人100円は安く、運行本数も多く、便利で重宝している。、、、、これで、高齢者は半額にしてくれると、次期区長選挙で一票はかたいのだがね!

202007271508200001


● 根岸一丁目交差点から北東へ伸び三ノ輪交差点まで金杉通りを歩く。 この通りの東側に「下谷」、西側に「根岸」の町がある、金杉通りは“町の境”である。

202007271626040000


202007271625590000


● 根岸一丁目交差点近くに、下谷七福神の大黒天を祀る、浄土宗寺院の紫雲山常倫院英信寺(下谷2)がある。 知恩院第三十二世霊巌上人を開山とし慶長年間(1596~)に現在地に草創。 当時は紫雲院と称し、草庵に近いものであったが明暦2年(1656)丹波國亀山城主松平若狭守康信公の子:英信公が23才で逝去し、遺骸を当寺墓地に葬る。 英信公の姉である松平市正公の奥方は、逝去を深く悲しみ嘆き英信公の木像を造り当寺に安置(現存)、開基とし寺号を英信寺と改める。、、、、現本堂は安永年間(1772~)に完成、その後数度の修理改修を施し、昭和48年大改修落慶した。 境内は小さく狭い。

202007271544250000

202007271543170000

・・・・・・・・・・・・寺には弘法大師御真作と伝えられる三面大黒天が本堂左側の大黒堂に安置されている。 下谷七福神の一つ。 三面大黒天は、出世・開運・商売繁昌等の徳を授けてくれる御尊体で、中央の大黒天、右側に弁財天、左側に毘沙門天の三つの顔を持っ大黒さま。 一度で三倍ありがたい神様か?

202007271542190000

・・・・・・・・・・・・境内にある大灯籠二基は、上野寛永寺の通称お化灯籠を戦后整理の折に当寺に移置したものである。 八代将軍吉宗公(有徳院殿)が逝去の折、寛延4年(1751)奉献されたもの。 寛永寺の“お下がり”?

202007271544000000


● 英信寺の東側にある法華宗本門流寺院の法昌寺は、日照山と号す。 法昌寺は、日照(元禄3年(1690)寂)が開山となり慶安元年(1648)下谷御切手町付近に創建、元文2年(1737)当地へ移転したといいます。、、、、境内の一角に毘沙門堂があり、下谷七福神のひとつ毘沙門天が祀られている。

202007271552320000

202007271548500000

202007271549260000


● 法昌寺の北側(下谷2-13)に小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)がある。 小野篁(おののたかむら)を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る、最高のラインナップによる学問の神社。、、、、篁(802~853)は平安時代の歌人・学者で、小野妹子の子孫、小野小町と小野道風の祖父。 仁寿2年(852)、住民が上野照崎(現:上野公園)の地に小野篁を奉斎したのが起源である。 寛永年間(1624~43)には、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現在地に遷座した。、、、、現社殿は慶應2年(1866)の建築で、関東大震災、東京大空襲を免れた、運の強い神社。


202007271553480000

202007271556300000

202007271557440000

・・・・・・・・・・・・境内にある下谷坂本の富士塚は、入谷東講によって文政11年(1828)築造されたもので、高さ約5m、直径約16m、塚全体を富士の熔岩でおおっている。 塚の上の登山道に合目石を建て、一合目の岩屋に役行者像、五合目付近に富士講の祖と崇められる藤原角行(1646年没)の像をまつる石祠を置く。、、、、拝殿わきのチョイト薄暗いジメジメした処にある、ゲートは閉められ普段は登山禁止のようだ!、、、、この富士塚は昭和54年(1979)に国の重要有形民俗文化財の指定を受けた。

202007271600030000

・・・・・・・・・・・・境内の庚申塚には、数基の庚申塔が建ててあり、不動明王をはじめ幾つか石仏が安置されている。 力石も三つ並んで置かれている。、、、、日本三大庚申の一つとして、現在11基の塔が祀られており、最古のものは正保2年(1647)の作であり、青面金剛の塔は大阪四天王寺と同作の霊像と云われ、聖徳太子作(チョイト嘘っぽいね)と伝えられています。

202007271558290000


● 根岸の建物二棟、、、、まずは、古民家を改造してアートギャラリーとして利用している「そら塾」(根岸3-13) 昭和の時代までは、このような住宅があちらこちらにあった! 下町の懐かしい雰囲気が漂う建物。

202007271603540000

202007271604140000

・・・・・・・・・・・・金杉通り沿いの「矢島写真館」、、、、写真館は大正7年(1918)に開業。 洋風の建物は、昭和5年(1930)ごろ板張りの外壁をスクラッチタイル張りに改装した。 しかし、玄関や内部は大正期のままで、1階を住居、2階をスタジオとして使っていた。 タイルと赤い屋根の組み合わせが可愛らしい写真館であったが、残念なことに写真館の営業は平成25年に閉じた。

202007271611250000



● 金杉通りを北へ、下谷3丁目に三島神社がある。 神社は、弘安の役で勇名を馳せた河野通有の発願により、彼の出身地に鎮座する三島神社を、弘安4年(1281)に勧請、創建したと言われている。 当社と、鶯谷駅前はラブホテル街のド真ん中にある元三島神社と、台東区寿の三島神社の三社は、元が一つの神社であり、由緒も共通している。 つまりは、兄弟神社である。、、、、河野通有は氏神である大山祇神社(三島大明神)に戦勝祈願をして九州に出征し戦功を上げた。 伊予に帰国した後、夢に大山祇神が現れ、「武蔵国に我を祀れ」というお告げがあり、そこで、上野の山内にある河野氏の館に奉斎したことに始まる。 慶安3年(1650)寛永寺の造営に伴って社地移転を命ぜられ、金杉村に遷座した。 さらに宝永7年(1710)社地が御用地とされたため、浅草小揚町(現在の寿)に遷座した。 これが寿の本社三島神社である。 しかし、氏子地域から遠いのは困るということで、根岸・金杉村の氏子一同が協議し、根岸の熊野神社に勧請・合祀したのが、根岸の元三島神社である。 さらにその後、金杉村字金杉町にも勧請したのが当社である。 こうして三社が誕生した。

202007271616580000

202007271618060000

・・・・・・・・・・・・三島神社の北門の敷石に几号水準点がある。(赤〇印)

202007271621381111

202007271621031111


● 三ノ輪交差点に出た。 これより浅草方面へ歩こうとしたら、雨粒が落ち始める。 濡れたくないので、雷門行きのバスに乗る。

202007271640040000

・・・・・・・・・・・・・・雷門はドシャ降り。 この雨で“コロナ”が流されくれることを願いながら、浅草橋(我が家)方面行きのバスに乗り継ぐ!

202007271701200000

202007271700430000

202007271706290000

« 表玄関は東口?西口? | トップページ | 寂しい浅草! »

散歩」カテゴリの記事

台東区」カテゴリの記事