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2020年8月

2020年8月31日 (月)

団地が甦るか?

今日の散歩は、JR京浜東北線赤羽駅から、駅の西側の丘に広がるUR都市機構のヌーヴェル赤羽台団地(旧住宅公団の赤羽台団地)を抜けて、都営住宅桐ヶ丘団地を見てきた。

 

 

● 朝の赤羽駅、京浜東北線ホームは上下線とも思ったほど混んではいなかった。 向かいの上野東京ラインのホームは整列乗車する人・人・人。 どちらも都心に向かうのだが、京浜東北線で通う人は時間に余裕があるのか“のんびり・ゆったり”、上野東京ラインで通う人は寝坊したのか時間に焦りを感じる。

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・・・・・・・・・・・・朝の赤羽駅は、川口・高島平方面からバスで来る人もかなり多く、バス停には絶えることなくバスが到着している。 一日に約20万人が乗り降りする大きな駅だ!

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● 駅からヌーヴェル赤羽台団地(かつて住宅公団赤羽台団地)へ向かう途中、「亀ヶ池弁財天」に立ち寄った。 赤羽台団地のある高台の下の住宅地の一角にある小さな弁天さま。、、、、昔、赤羽駅の西口一帯に大きな池があり、亀ヶ池と呼ばれていた。 この池は稲付城(今の静勝寺西側の、天然の防御であった。 昼なお薄暗く、一角のほこらには無数の亀がすんでいました。 特に大亀は甲の周囲8.9尺もあり、 小さな子供はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れてけっして出てこなかったといわれている。 現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれ、中の島に祀られている祠はかつて亀ヶ池の一角にあった物で、中には弁天像が納められている。 現在の池には亀がイッパイ、鯉は皆無。 この弁財天では願いが叶ったらお礼の印に細い絵馬型の御札をかけることになっているそうだ。
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● 亀ヶ池弁財天の裏から坂を上ると、UR都市機構のヌーヴェル赤羽台団地がある。 ここは、住棟の老朽化が進んだ赤羽台団地の建て替え事業として、平成18年(2006)から順次建て替えが進んでいる。 総戸数1400戸程の町並みはほぼ整備されたが、現在も工事は行われている。、、、、従来の公団の団地とは違い、高層マンションのようなモダンで、スッキリした外観となっている。 数年前にはグッドデザイン賞を受賞したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・団地の一画に、ここの敷地が明治時代の陸軍被服本廠の跡地であったことを標し、掘り出されたレンガでベンチの基礎を作り再利用している。

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● ヌーヴェル赤羽台の西側に、「赤羽緑道公園」がある。 この公園は、陸軍兵器補給廠や陸軍被服本廠等かつての軍事施設における物資輸送のために、JR赤羽駅付近から敷かれた軍用鉄道「東京陸軍兵器補給廠専用線」の線路跡に造られた公園だ。 緑道の道には、線路をイメージしたタイルが敷かれている。 終戦まで、陸軍の兵器や物資を満載した貨物列車がこの緑道公園を行き来していた。、、、、できれば、当時のように鉄道を復活してもらいたいね!

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桐ヶ丘団地は公団赤羽台団地の西側に造られたマンモス団地。 大きく、「桐ヶ丘一丁目アパート」(建設年度:1998~2009 総戸数:1941戸 約40棟)と「桐ヶ丘アパート」(建設年度:1959~1975 総戸数:2169戸 約140棟)で構成される。、、、、現在、都ではこの団地の建て替え計画を推進中で、アチラコチラに雑草が生えた更地があり、その先には建て替えられた高層住宅が見える。 また公園は荒れ放題、これまでの古い建物はボロボロ、そのボロボロを取り壊す重機、商店街は客も少なくシャッターは下りたまま。 団地が甦るまでの過渡期の混乱状態か? 我慢しよう!

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・・・・・・・・・・・・桐ヶ丘アパートの南側に、道路を挟み「都営赤羽西5丁目アパート」がある。 このアパートの向かいには、桐ヶ丘団地のショッピングセンター「桐ヶ丘中央商店街」があるのだが・・・・・

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・・・・・・・・・・・「桐ヶ丘中央商店街」、名はカッコイイが、実態はシャッター商店街か? 昭和30年代、団地建設当時のままの姿で残っている、化石のような商店街。 営業してる店舗もあり、“廃墟ではない”


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・・・・・・・・・・・「桐ヶ丘中央商店街」を俯瞰する。 背後の高層住宅は、建て替えられた桐ヶ丘団地の住居棟。

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・・・・・・・・・・・・商店街に隣接する「桐ヶ丘郷小学校」は、生徒数500名弱。 少子化により、平成14年(2002)に桐ヶ丘の2校が合併し誕生した小学校。 生徒数が減らないといいのだが、無理かな?

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・・・・・・・・・・・・中央公園は、暑さのせいか?、コロナのせいか?、手入れの悪さのせいか? 遊ぶ子はいない! 雑草は生え放題!、、、、公園の向こうに、給水塔と建て替えられた59号棟が見える。

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・・・・・・・・・・・「桐ヶ丘アパート」の公園でも雑草が元気に成長している。 脇の公衆便所ではコンクリート屋根の上で、雑草が伸び伸びと成長していた!

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・・・・・・・・・・・「桐ヶ丘アパート」も、昭和30年・40年代の棟が並び、老朽化が目立つ!  

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・・・・・・・・・・・・広い団地のあちら・こちらで建て替えが進められているが、広すぎて工事現場は目立たない!、、、、ところで、「桐ヶ丘団地」の整備計画は何時完了するのか? まだまだ時間がかかりそうだ!、、、、整備され、元気になった団地を早く見たいものだ!

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2020年8月30日 (日)

消えていく玉ノ井

立秋はとうに過ぎ、残暑の厳しさもおさまる処暑も過ぎた、二学期が始まるというのに、一向に秋風が吹いてこない、猛暑はいつまで続くのか? 連日、我が家でゴロゴロ・ごろ寝も、もう飽きた!、、、、今朝は、私の好きな堀切駅から、鐘ヶ淵駅、東向島駅と歩くつもりで、早朝に家を出た。 しかし、乗換の曳舟駅のホームに立つと、すでに日は昇り、ギラギラ太陽が眩しい。 『コリャ、散歩の途中で熱中症になるかも? 今朝、下着取り換えてこなかったので、病院に運ばれ看護婦さんに下着見られると恥ずかしい!』と、自問自答。 熱中症を避けて、急遽、堀切駅下車は止め、鐘ヶ淵駅から東向島駅までと短縮した。、、、、鐘ヶ淵駅から、かつての“玉ノ井”をブラブラ・ぶらつき、東向島駅まで、8千歩の散歩。


● 墨田区の最北端に位置する東武伊勢崎線の駅が、鐘ヶ淵駅である。 鐘ヶ淵駅は明治35年(1902)4月1日に開業した。 駅名の鐘ヶ淵は、近くの隅田川が大きく曲がる処を“曲ヶ淵(かねがふち)”と呼んでいたところから頂戴したらしい。、、、、中央の通過線2本を挟み、両側に相対式ホーム2面2線の地上駅。 両ホームの南端に、西口駅舎(下り線側)、東口駅舎(上り線側)がある。 ホームは大きくカーブして、電車の撮影には良いが、乗り降りには要注意!

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・・・・・・・・・・・・駅前には鐘ヶ淵通り(補助第120号線)がとおり、駅前踏切で伊勢崎線と平面交差している。 現在、1時間当たりの踏切の最大遮断時間が41分で、120号線の拡幅工事が進むと、交通量も増え、増々危険な踏切となる。 私自身も、この踏切で危険な思いをしたので“納得できる!” 地元では立体交差化を求めているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・私が転んだ時、救急車を呼んでくれた踏切前(写真の三角地帯にあった)の交番も取り壊され、チョイト脇(三角地帯の後ろ)に移転した。

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・・・・・・・・・・・・拡幅される鐘ヶ淵通り。 既に更地となった商店もある。

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● 鐘ヶ淵駅から東向島駅までの間、今日は熱中症を意識して、裏道・路地を歩いてみた。 かつて「玉ノ井」と呼ばれた、戦後の私娼街(墨田3丁目の赤線)のあった処を歩いた。、、、、【基礎知識】 「玉ノ井」が私娼街であったことは、永井荷風の小説『墨東奇譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』に描かれている。 詳しく、興味深く、文学的に知りたい人は一読するとよい!(私は三読した。 しかし戦後生まれの私には、実体験の機会も無く、書物の知識だけではチョイトものたりない、残念無念!) ところで、「玉ノ井」の私娼街は、戦前には、現在の東向島5丁目(一部は6丁目にも)にあったが、東京大空襲で壊滅した。 当時を物語る建物・遺構などは何も残っていない。(あるのは写真だけ、想像するのみ) 戦前の「玉ノ井」で商売をしていた者は、戦後、近くの鳩の街(東向島1丁目付近)か、空襲で焼け残った墨田3丁目に移った。 「玉ノ井」の所在地は、戦前の「旧玉ノ井」(東向島5丁目)と戦後の「新玉ノ井」(墨田3丁目)に分けられ、別物である。 その東向島5丁目と墨田3丁目の境は、「いろは通り」と呼ばれる商店街である。

・・・・・・・・・・・・戦後75年、昭和32年(1957)の売春防止法施行、昭和33年(1958)の赤線廃止から62年、当時の建物はドンドン取り壊され、モダンな住宅、マンションに変わってきた。 狭かった道幅も、区の指導で徐々に広げられ車も通れるようになる。 (写真2枚目と3枚目は同じ通り。左側のそば屋の看板が同じ。商店街が消えた! 3枚目の写真は9年前に撮影)

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・・・・・・・・・・・・戦後の赤線時代の雰囲気を残す建物も少なくなったが、まだポツリ・ポツリと残っている。 どの店も、警察の指導により、強制的にカフェー風の店に改めさせられたそうだ! 当時の建物の特徴として、庇・柱などの出隅が丸みをあるデザインとなっている。 丸柱などもある。 建物の隅を切り欠いて、縦長の出入口が造られている。 タイル張りの意匠が多い。 (写真は全て墨田3丁目にて)

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・・・・・・・・・・・・新旧の玉ノ井を分ける「いろは通り」 通りの南側が旧玉ノ井のあった東向島5丁目、北側が新玉ノ井のあった墨田3丁目。、、、、商店街は、廃業した店も多そうだ。 また、商店街を歩いても、「玉ノ井」の名は街路灯の柱に残るだけとなった! 消えていく「玉ノ井」、寂しいね!
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● いろは通りを抜け東向島駅に着いた。 汗で、下着までビッショリ、搾ったら汗が水滴がして落ちるかも? これ以上歩くと、熱中症になること間違いなしと自己判断し、散歩は予定通り止め!、、、、東向島駅は明治35年(1902)4月1日、白鬚駅として開業。 明治38年(1905)には、白鬚駅の営業を休止し、明治41年(1908)に白鬚駅は廃止される。 大正13年(19024)10月1日、「玉ノ井駅」として営業を再開。 戦時中は、東京大空襲で被災し営業休止し、昭和24年(1949)に再び営業再開。 昭和62年(1987)12月21日、東向島駅に改称。、、、、玉ノ井駅改称後、23年経過したが、今でも駅名の表示では脇に小文字で「旧玉ノ井」と表示されている。 有名な私娼街「玉ノ井」に愛着があるのかも?、、、、駅ホームは相対式2面2線構造の高架ホーム。 改札口・出口は1階の1ヶ所のみ。

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2020年8月26日 (水)

高砂や~~から亀まで

炎天下、汗を噴き拭き、京成本線京成高砂駅から常磐線亀有駅まで、1万1千歩の散歩です。




● 今朝は、浅草橋駅で印旛日本医大行きの電車に乗り、『どこで降りようか?』車中悩み迷った結果、訳もなく京成高砂駅で下車した。、、、京成高砂駅は大正元年(1912)11月3日に「曲金駅(まがりかねえき)」として開業。 大正2年(1913)曲金駅を高砂駅に改称。 昭和6年(1931)11月18日高砂駅を京成高砂駅に改称。、、、、地上の島式ホーム2面4線と高架の単式ホーム1面1線(金町線用)を持つ駅で、橋上駅舎を有している。

・・・・・・・・・・・・赤い京浜急行の車両で京成高砂駅に到着。

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・・・・・・・・・・・・上り線ホームは、マスクを着用した通勤客で混雑!

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・・・・・・・・・・・・今年の夏は、夏休みも短縮され、すでに通学する生徒が多い。

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・・・・・・・・・・・・改札は金町線が到着するたびに、乗換客で混雑する。

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・・・・・・・・・・・・乗車券を購入するのは中高年? 

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・・・・・・・・・・・・この暑さ、改札口へ階段のぼるのも一苦労、エレベーターで楽したい!

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・・・・・・・・・・・・駅前の“あかずの踏切”は、お言葉どおり開かず、イライラが募る!、、、、私は踏切を渡らず、北へ歩くことにした。

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● 駅の北、葛飾区高砂7丁目に、関東大震災で被災した二つの寺院が、ともに昭和2年(1927)に移転してきた。 隣同士、宗派はちがうが仲良しか?

・・・・・・・・・・・・その一寺、曹洞宗寺院の理昌院は、千珪山と号し、慶安元年(1648)に品川天龍寺3代目の斧山鈯和尚が開山となり創建した。 本尊は釈迦牟尼如来座像。

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・・・・・・・・・・・・隣の一寺、真宗大谷派寺院の聞明寺は、神力山と号す。 天正15年(1587)歓喜坊栄源が下総国岡田郡横曽根村(茨城県水海道市)に創建、慶長7年(1602)江戸桜田本郷の報恩寺内に移転、寛永7年(1630)東本願寺(旧通称東京本願寺)内に移転した。 本尊は阿弥陀如来立像。 本堂は数年前に改修された。

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● 駅からさらに北へ、聞明寺の北に、都立葛飾商業高等学校がある。 学校は昭和37年(1962)の創立。 出身者の一人に、女子プロレスラーのマッハ文朱がいる。 また、映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎は本校中退という設定(第35作にて)である。

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● 学校の話をもう一つ。 葛飾商業高校のさらに北、水戸街道に出る手前(葛飾区新宿3)に葛飾区立新宿中学校がある。 昭和22年(1947)に葛飾区立第四中学校と称して創立した。 昭和25年(1950)第四中学校を新宿中学校と校名変更。、、、、ここの校歌「若き血に燃えて」は、ナント!、西條八十作詞、古関裕而作曲である。 ちなみに校歌の一番は、♪♪若き血に燃えて仰ぐ 葛飾の朝日 集まる我等 緑の風に よく学び よく鍛う その姿 映す中川 楽し我等 あゝ新宿の中学生 我等♪♪、、、、【注】 葛飾区の地名・校名の“新宿”は“にいじゅく”と読む。 “しんじゅく”と読むのは「ゴールデン街」のある処。

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● 亀有警察署前で国道6号(水戸街道)を横断し、JR金町支線(親金貨物線)の柴又踏切を越えると、旧水戸街道の三角地(新宿4-9)に石仏群「地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神石碑」がある。 享保、宝永といった江戸でも古い年号が彫られてる。 旧水戸街道の拡幅の際、ここに集められたそうだ。 ズラリ並んだ10数基の石仏は、この地の歴史を語っている。

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● 葛飾区の中央を北から南に流れる中川。 そこに、葛飾区新宿(東側)と亀有(西側)を結ぶ中川橋が架かっている。、、、、現橋は三代目で、初代は明治17年(1884)に明治天皇の行幸に合わせて橋が架けられた。 二代目は、昭和8年(1933)に架設された。 しかし近年、橋の老朽化、交通量増大に対応するため、平成20年(2008)に現:三代目の中川橋(橋長120.6m)が、事業費28億円で完成した。

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● 中川橋を渡れば亀有駅は近い。、、、、亀有駅は、明治30年(1897)5月17日に日本鉄道の駅として開業し、明治39年(1906)11月1日に国有鉄道の駅となる。 昭和46年(1971)4月20日以降は、地下鉄千代田線と常磐線の直通運転が始まり、亀有駅には千代田線直通の各駅停車のみが停まる駅となった。、、、、ホームは高架島式1面2線構造。 改札口は1ヶ所のみで地上1階にあり、出口は北口と南口の2ヶ所。、、、、亀有から浅草橋までJRで帰ろうとすると、北千住で常磐線快速などに乗り換え、上野で山手線に乗り換え、秋葉原で総武線に乗り換えて浅草橋まで、乗り換えが多く私の性格には合わない! そこで今日は、亀有駅前から新小岩行きのバス(敬老パスで年間乗り放題)に乗り、新小岩からJRで浅草橋まで帰った。 嬉しいことに、安くて、早かった!

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2020年8月24日 (月)

増上寺の門・門・門

連日の猛暑もひと休みし、今朝は涼しい。 早速、『久しぶりに、増上寺へ行ってくる』と早朝に家を出る。 1万1千歩の散歩。


● 我が家のある浅草橋からは都営浅草線で7つ目の駅(乗車時間12分)が大門駅。 “大門”は“だいもん”と読み、増上寺の総門を指す。、、、、江戸っ子は“大門”を、“だいもん”と云えば芝増上寺、“おおもん”と云えば吉原のことだ。 女性らしくしなやかに、濁点をはずして“おおもん”と言われると、花魁を思い、行きたくなるのかも?、、、、大門駅は昭和39年(1964)10月1日、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業した。 平成12年(2000)12月12日には、都営大江戸線も開業し、乗り換え駅となる。

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● 大門駅の西側に、増上寺の旧総門「大門」がある。、、、、大門は、明治維新の上地令により寺領が縮小するとき、増上寺では維持できなくなり東京府に寄付された。 東京府の所有となった大門は、昭和12年(1937)に従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、木造から現在のコンクリート造りで改築した。 しかし、その後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者不明となり放置され老朽化が進んだ。 東日本大震災では、瓦の一部が落下して安全性に不安が示され対策が求められた。 都では、大門が都の財産台帳から誤って抹消されたものと認め、さらに資産価値は無いものとして、平成28年(2016)に増上寺に返還された。 その後、増上寺にて改修工事が進められ現在に至る。、、、、木造の旧大門は大正12年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されたが昭和20年の空襲により焼失した。、、、、大門ある道路は区道であるが、門が占領していて拡張できないね!

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・・・・・・・・・・・・・・チョイト脇にチビッタ話、、、、大門のある交差点に「区立大門際公衆便所」がある。 この公衆便所は歩道上に、和風の建物が半地下式で造られている。 戦前の公衆便所は階段を下りて半地下に入るタイプがあった、同じような例としては、九段会館脇や東京国立博物館などにあったが、10年程前にいずれも無くなり、現在も活躍中の便所は珍しい。、、、、歩道上から便器が見える! くれぐれも、ドアを閉めてから使用すること!

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・・・・・・・・・・・・・・大門の北西80m程に常照院がある。 常照院の開創の年は未詳だが、開山周公上人は天正18年(1590)に寂している。 寺は増上寺山内寺院の一つとして、歴代の住持は増上寺の寺務を担い、また肥前鍋島藩などの宿坊でもあったそうだ。 本尊は善光寺如来の一光三尊阿弥陀如来。 本尊を祀る現本堂内陣(江戸時代の土蔵造平屋建、国登録有形文化財)は、江戸時代“あかん堂”の名称があった。 本尊が秘仏であって開帳しないので、それゆえに“あかん堂”と呼ばれたそうだ。、、、、『城木屋お駒』として有名な人形浄瑠璃(文楽)『恋娘昔八丈』のモデルとなった「白子屋お熊」の墓がある。 また、江戸時代は市川団十郎家の菩提寺で、境内に七代目団十郎が寄進した石の水鉢なども残る。当代の十一代市川海老蔵も先祖供養のため度々訪れているそうだ。

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● 徳川家の菩提寺、浄土宗寺院の三縁山広度院増上寺(港区芝公園4)、、、、増上寺の創建年代等は不詳であるが、空海の弟子が麹町(千代田区)あたりに真言宗光明寺と称して建立したのが始まりらしい。 その後、明徳4年(1393、室町時代)に、浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号した。 天正18年(1590、豊臣秀吉の小田原征伐の年)に、家康が増上寺の前を通りかかったことが縁で、源誉存応上人と親しくなり、菩提寺となるきっかけとなった。 江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10,745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林(学問所)の筆頭となる。 墓域には、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人の将軍の墓所がある。、、、、明治時代に移ると、新政府は明治6年(1873)の太政官布達により全国に公園を整備することとなった。 東京では、芝増上寺、上野寛永寺、浅草、深川、飛鳥山が、東京で最初の公園として指定された。 広かった境内も公園化が進み、さらに戦災で大きく被災し、戦後の混乱期には増上寺と徳川家、国土計画(プリンスホテル)で土地登記のトラブルも発生した。 現在は、地名は「芝公園」だが、かつての増上寺の境内には、東京タワーがあり、プリンスホテルがあり、公園らしき緑地が点在し、もちろん増上寺自体も残り、まとまりのない“公園”となっている。、、、、今日の散歩は、現在の増上寺、プリンスホテル敷地内の三つの門、芝東照宮と巡ってきた。


現在の増上寺の主な諸堂・・・・・
・・・・・・・・・・・・三解脱門、、、、増上寺の正面玄関、都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇る門。(高さ約21m、7階建てビルに相当、デカイ!) 正式名称は三解脱門。 徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。 元和8年(1622)に再建された。 国の重要文化財。、、、、三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。

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・・・・・・・・・・・・大殿(本堂)、、、、旧本堂は戦災で焼失したため、昭和49年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるように設計され、再建された本堂。、、、、首都圏では最大級の御堂で、間口48m、奥行45m、高さ23m。 石段を登りつめた2階に本堂、3階に道場、1階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室がある。、、、、本堂内部は、大空間が広がり、正面中央に本尊:阿弥陀如来(室町時代作)がまつられている。

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・・・・・・・・・・・・本堂右隣には、戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂として使用していた建物:旧安国殿があった。 現在のあ安国殿は、老朽化した旧安国殿に変わり、平成23年(2011)に建てられた新しい安国殿である。、、、、堂内では、お守り・お札・クッキー・写真集などグッズが並んでいる。 チョイとした“みやげもの屋”かな???、、、、安国殿の脇から裏側に廻ると徳川将軍家墓所がある。 有料で公開されているが、残念なことに早朝で閉まっていた!

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・・・・・・・・・・・・本堂裏の大納骨堂は昭和8年(1933)に建立された。 御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像。 戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修された。 堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られているそうだ。、、、、内部を見てみたいが、チョイト怖そうだ!

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・・・・・・・・・・・・安国殿前に西向観音が安置されている。 その観音の前にズラリ並んだ「千躰子育地蔵尊」、つまりは水子地蔵である。 水子地蔵は、女性でないと理解できないかもね? 男性の私は、何兆だか数えられないほどの子種を殺していることか、チョイト???

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・・・・・・・・・・・・徳川幕府の助成により建立された「経蔵」は内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、白壁土蔵造りの典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されている。 中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康が増上寺に寄進したもので、国の重要文化財である。、、、、経蔵は、慶長10年(1605)に創建、天和元年(1681)改造移築し、さらに寛政12年(1800)現在地に移築した。、、、、内部公開日があり、その日に行くと入れるそうだ! 一度は内部に入ってみたい。

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・・・・・・・・・・・・三解脱門 の脇に、通用門的な「旧方丈門(黒門)」がある。 慶安年間(1648~1652)、三代将軍家光の寄進で建立された。 この門は、御成門交差点付近にあった増上寺方丈の表門で、黒漆塗りの門である。 いまは、漆も剥げ薄汚れた状態でチョイト可哀そうだ。、、、、なお、方丈は明治時代に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となった。

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● プリンスホテル敷地内の門・・・・・徳川家霊廟跡地の多くはプリンスホテルの敷地となり、そこに残された建造物もプリンスホテルの所有となった。、、、、現在、芝公園内のプリンスホテルには三つの門が残されている。
・・・・・・・・・・・御成門、、、、東京プリンスホテルの駐車場に移設され、風雨に曝され朽ちてきた哀れな門。、、、、江戸の初め、増上寺には東に表門があり、この門は裏門として北に開かれた。 将軍が参詣の折にだけ開かれたので御成門と呼ばれた。 一般の通行は禁じられていて、門前に下馬札が立っていた。 門のあった位置は、現在の御成門交差点の中だ。 明治中頃に、東京市区改正計画によって、芝園橋から三解脱門の前を通って内幸町に至る道(現:日比谷通り)が敷設される時、現在地に移築保存されることになった。、、、、説明板の最後に一言、『文化財を大切にしましょう』と、書かれていた。 空しいね!

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・・・・・・・・・・・・有章院(徳川家継)霊廟二天門、、、、御成門と同じ駐車場にある。 この有章院(7代将軍徳川家継)霊廟二天門は、現在の御成門と同様に、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しかったが、平成27年(2015)より約3年の期間をかけて大規模な保存修理工事が行われ、かつての豪華さがよみがえった!

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・・・・・・・・・・・・旧台徳院霊廟惣門、、、、台徳院霊廟は、2代将軍徳川秀忠の霊廟建築である。 壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったそうだが、残念ながら一部を除き、戦災で焼失した。 惣門は数少ない罹災を免れた建築。、、、、寛永9年(1632)に造営された。 惣門は、三間一戸八脚門、入母屋作りで、屋根は正面に唐破風を持つ銅製桟瓦葺きで、全体朱塗りの単純和洋建築だ。 この惣門も近年、改修工事が行われた、まだ輝いているようだ。、、、、安置している仁王像は、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現:川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもの。 その後、安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)東京の浅草寺に移された。 さらに、昭和33年頃にはこの惣門に安置されたと云われている。 “埼玉から都心へ出世した仁王像?”

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● 増上寺の隣り芝東照宮、、、、慶長6年(1601)家康60歳の時、生存中等身の自像を彫刻させ、自から祭供をなし、元和2年(1616)には増上寺観智国師に命じて、同年、安国殿に鎮座させて、永世国家を守護せんと命じた。 元和3年(1617)に家康は逝去し、その後、家康の遺訓どおり、社殿造営のことはじまり、翌年落成する。 土井大炊頭利勝が奉行した。 その後、寛永11年(1634)模様替あり、同18年さらに社殿を新築する。 その構造雄大にして、大正4年国宝建造物に指定されたが、昭和20年戦災にかかり、灰燼と化した。、、、、日光・久能山の東照宮を知る者には、『これが東照宮?』と言いたくなる社殿だ!(現社殿は昭和44年(1969)の造営)

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・・・・・・・・・・・・東照宮の石の鳥居、本殿に向かって右の柱の下に几号水準点がある。 鳥居の周りは駐車場にもなっており、鳥居の柱は保護枠で囲まれている。「不」の字の横棒は7.5cm、縦棒は9.5cm程。

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・・・・・・・・・・・・東照宮の裏山(芝丸山古墳)頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がある。 伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪であったことから、その功績を顕彰して遺功表を建てたそうだ。

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2020年8月19日 (水)

夏の墓巡り

今日も暑そうだ、『霊園なら幽霊も居ることだし、“冷園”だから涼しいだろう』と、谷中霊園に行ってきた。 JR日暮里駅から谷中霊園、谷中の寺町を抜け、東京メトロ千代田線根津駅まで、1万歩の散歩です。


JR日暮里駅は3面6線の島式ホームと線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、北口と南口の2カ所の改札口がそれぞれの橋上駅舎にある。、、、、日暮里駅は明治38年(1905)4月1日に日本鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には日本鉄道の国有化に伴い、駅も国有となる。 開業時より駅出入口は御殿坂側(現:北口)にあった。 南口が出来たのは、新幹線が上野方面の地下から地上に顔を出すトンネルの坑口が日暮里駅構内に造られた以降である。(南口橋上駅舎がトンネルの坑口の上に造られてるため) 「南口」の開業は昭和60年(1985)前後と思われる。 緑のトンガリ屋根の南口駅舎は、なんともかわいい造りだ。、、、、駅舎の出入口は跨線橋「紅葉坂橋」の中程で、駅を出て東側に向かうと京成の日暮里駅をとおり駅前ロータリーに出る。 西側へ向かうと「紅葉坂」(階段)を上り谷中霊園である。

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● 紅葉坂を上がると、護国山天王寺がある。 天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建された。 不受不施派に対する禁令により、元禄11年(1698)天台宗に改宗した。 享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。 富くじ興行は次第に人気が出て、最盛期には毎月行われたそうだ、ジャンボ宝くじと同じ! 『胴元としてウハウハの丸儲け』で、寺も潤ったかも? しかし上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年(1957)の放火心中事件で谷中墓地の中央にあった五重塔を焼失した。、、、、現本堂は昭和57年(1982)に再建。 平成10年(1998)にはモダンな新山門も新築した。

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・・・・・・・・・・・・境内には、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したと判る「銅造釈迦如来坐像」がある。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置された。


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● 谷中霊園は、日暮里駅の南(山手線の内側)に広がる約10万㎡、7000基の墓がある都立霊園。 私を含め地元では谷中墓地(やなかぼち)と呼んでいる。、、、、谷中霊園は、主として天王寺の敷地等を東京府が引き継ぎ、明治7年(1874)に開園した。 現在は、都が管理する部分の他に、寛永寺、天王寺、了俒寺等の墓地が入り交じり、複雑な形状となっているが、一般には全体で「谷中墓地」だ!、、、、谷中墓地には、徳川慶喜(正式には寛永寺墓地)、長谷川一夫、牧野富太郎など著名人の墓が多い。 また、有名人ではないが墓碑を読むと、〇〇大学の〇〇博士、南方戦線で指揮した〇〇中将・〇〇大将、〇〇株式会社の創設者などの墓が、あちらにも、こちらにも建っている。

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・・・・・・・以下は、今日、私がはじめて参った墓を紹介する。
 
・・・・・・・・・・・・東大医学部解剖死体慰霊塔、、、、天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 門柱に「東京大学医学部 納骨堂」と彫られてる。 東京大学医学部では毎年、献体され遺体解剖により医学の発展に尽くしてくれた御霊に感謝し、天王寺において「解剖体慰霊祭」を開催している。、、、、なお、この納骨堂のある場所は、明治8年(1875)まで、現:天王寺境内にある銅像釈迦如来像があった処で、納骨堂の基壇は釈迦如来像のものをそのまま再利用しているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・彫刻家:朝倉文夫の墓。 この墓も天王寺後にある。 朝倉は大分県大野郡出身で、10歳(1893)で朝倉氏の養子となり朝倉宗家を継ぐ。19歳の明治35年(1902)のとき中学校を中退し上京、実兄の彫塑家:渡辺長男宅(旧下谷区谷中初音町)に住み彫塑を学ぶ。 明治36年(1903)東京美術学校彫刻選科に入学、明治40年(1907)同校彫刻選科卒業。 谷中天王寺町にアトリエを新築し、朝倉塾として子弟養成。 多くの賞を受賞し、彫刻界の重鎮として活躍。 昭和9年(1934)谷中初音町にアトリエを改築し朝倉彫塑塾(現:朝倉彫塑館)とする。 昭和23年(1948)文化勲章を授与。 

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・・・・・・・・・・・・稲垣千穎の墓。 稲垣千穎(いながき ちかい、弘化4年(1845)8月~大正2年(1913)2月9日)と聞いて『ああ、知ってる、あの人でしょ』と判った人は、スゴイ、尊敬しちゃうね!(もちろん、私は知らなかった。墓碑を読んで知った次第なり!)、、、、稲垣千穎は、国学者、教育者、歌人、唱歌作詞者、教科書編集者。 東京師範学校教諭として和文教育を行い、多数の和文教科書を編纂した。 また、音楽取調掛として、日本人ならほぼ全員が知っている『蛍の光』 ♪♪螢の光 窓の雪 書讀む月日 重ねつゝ 何時しか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く♪♪ の作詞者である。
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● 谷中墓地の南側(台東区谷中6)に真言宗豊山派寺院の長久院がある。 長久院は、瑠璃光山薬師寺と号し、慶長16年(1611)に神田北寺町に開山、慶安11年(1658)に現在地へ移転した。、、、、本堂前に、「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」が祀られている。 その説明板には、『この石仏は、中央に閻魔王像、右左にそれぞれ司命、司録像を配しています。閻魔王は死者の生前の行いに応じて死後の行き先を決めるという冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされています。台座に刻まれた銘文によると、この三躰は六十六部聖(六部聖ともいう)の光誉円心という人物が享保11年(1726)に造立したものです。六十六部聖とは「法華経」を六十六部書写し、全国六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納した聖のことをいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に、石塔・石仏を各地に造立するようになりました。経典の書写や石塔・石仏の造立を重ねることは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです。都内に現存する六十六部聖が造立した石仏を調べてみると、地蔵菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王像は極めて稀であることが分かります。本像は六部聖が江戸時代の谷中でも活動していたことを裏付けるとともに、希少な石仏として貴重な文化財の一つです。この六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像は平成9年に台東区有形文化財に登載されました。(台東区教育委員会掲示より)』と標されていた。 この閻魔は、にこやかな顔をしており、「笑い閻魔」とも呼ばれているそうだ。


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● 長久院の西側(谷中4)に日蓮宗寺院の瑞輪寺がある。 瑞輪寺は、慈雲山と号し、身延山久遠寺第十七世慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正19年(1591)開山した。 元禄年中には、不受不施派の弾圧により、天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から、江戸十祖師の一つである安産飯匙の祖師を移しています。 その後慶安2年(1649)に現在地へ移転した。 江戸期には、身延山久遠寺末触頭で、善立寺、宗延寺と並び日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭の一つに連なる名刹です。、、、、本堂横の墓地には、徳川家康の家臣:大久保主水の墓(写真中央)がある。 永禄6年三河の一向一揆との戦いで負傷し、歩行が不自由となる。 天正18年(1590)、家康に命じられ奉行として江戸小石川上水(のちの神田上水)を完成させ主水(もんと)の名をあたえられた。 菓子づくりでも知られ、製品は主水菓子とよばれた。

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・・・・・・・・・・・・瑞輪寺本堂の東側に、除厄・
安産の飯匙祖師がある。、、、、【注】“飯匙”と書いて“しゃもじ”と読む。

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● 谷中1-6の三叉路角に、「みかどパン店」とヒマラヤ杉の巨木がある。このヒマラヤ杉は、戦前、今の店主の祖父の代に鉢植えで育てていたものが、いつの間にか大きくなり、今のような大木になったそうだ。 「みかどパン店」は、谷中に古くからあるパン屋さんで、菓子パンやジュースなどを売っている、町によくある店だ。 建物も古く明治後期に建てられた長屋といわれている。 戦後75年となったが、“戦前”から約100年としても、100年間でこれ程の大木となるとは、成長の早い木だ!


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● ヒマラヤ杉の前をとおり(谷中4)に、赤い山門の日蓮宗寺院の寂静山蓮華寺がある。 蓮華寺は、中山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室として創始、第三世常在院日在聖人が寛永7年(1630)当地に創建した。、、、、ここの赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は誠に貴重なものだ。 また、現在の本堂等は、江戸文政年頃大檀越勘定奉行細田丹波守の寄進した建造物で、老朽の美を表しているそうだ。、、、、境内には、新内中興の祖:初代富士松加賀太夫(富士松魯中)の墓もある。 魯中は寛政9年(1797)~文久元年(1861)。


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● さて、台東区谷中1丁目と2丁目の境にある三浦坂を下り、地下鉄根津駅に向かう。、、、、この坂は、長さ約160m、高低差6m程で急勾配で、下りは怖い、上りはキツイ。 坂の名は、三浦志摩守下屋敷の前を下る坂であったから名付けられた。 

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● 東京メトロ千代田線根津駅から電車に乗る。、、、、昭和44年(1969)12月20日、開業。 単式ホーム1面1線上下2層構造の地下駅で、1番線ホーム(大手町、代々木上原方向)の下に2番線ホーム(北千住、綾瀬方向)が設置されている。 一日当たりの乗降客数は3万人程である。

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2020年8月17日 (月)

夜の亀戸線

猛暑日が続き、熱中症が恐い! 感染者が連日100人超え、コロナが恐い! どちらに罹っても、多くの人に迷惑をかけるので、散歩を自粛していた。 しかし一週間、家でゴロゴロしていると、そろそろ限界に近づき歩きたくなった。 日中の散歩は怖いので、夕方6時過ぎに東武亀戸線沿いに、亀戸から曳舟まで歩いてきた。 1万1千歩の散歩。、、、、、亀戸線沿いの散歩はこれまで何度も歩いている。 こちらを見て!


● 亀戸駅・・・・・頭端式1面2線の地上ホームは、いつ来ても、何とも言えない雰囲気がある。 私の好きな駅の一つ。

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●隣駅「亀戸水神駅」に向かう・・・・・亀戸駅と亀戸水神駅の駅間距離はわずか0.7kmだが、亀戸水神駅は暗闇の中。 

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● 次の駅は「東あずま駅」・・・・・亀戸水神、東あずまの両駅には、珍しくなった構内踏切がある。 ローカル色が残る駅!

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● チョイト読みにくい「小村井駅」・・・・・“小村井”は“おむらい”と読む。 亀戸線の途中駅、全3駅で最も乗降客の多い駅、なんと一日当たり約12,000人が乗り降りする。、、、、駅舎は明治通りに面し、出入口は1か所のみ。 駅前で待ち合わせをしても、間違えることはない、安心!

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● スカイツリーの下を走って「曳舟駅」へ・・・・・2両編成の電車は亀戸~曳舟間を約10分間隔で行ったり来たり。 

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2020年8月13日 (木)

連日の猛暑日

70を超えた年寄りには、連日の猛暑は堪える! コロナの恐怖に、熱中症の恐怖・・・・・家から15分間歩いただけで倒れた人もいたようだ。 残念だけど、猛暑日の散歩は止めた!

年寄りは、暑い、暑い夏  若い二人は、熱い、熱い夏


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2020年8月 8日 (土)

アスリートの町

JR京浜東北線の東十条駅から、環七通りに出て埼京線を越え、西が丘を抜け本蓮沼駅前から北東に歩き、都営三田線志村坂上駅まで、1万2千歩の散歩です。


● 京浜東北線東十条駅は島式ホーム2面3線の地上駅。 ホーム両端に改札口があり、それぞれ北口、南口と称している。 北口は橋上駅舎で改札を出ると、東西方向に行ける。 今日は駅前の狭い道を抜け、駅西側の北区中十条から散歩を始める。

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● 駅の北側にある真言宗智山派の寺院:無量山龍谷院西音寺。 本尊は不動明王。 文明年間(1469~1486)の僧玄仲による創建と伝えられる。 3代将軍家光が日光社参の都度ここで休み、畳・襖・雪隠などを寄進したほか灯明料・普請料の名目で若干の金子を奉納したこともあった。、、、、立派な山門は江戸時代後期の建築。 山門横の観音堂も江戸時代後期の建築。 本堂は正徳2年(1712)の建立。 木造洋風の檀徒会館は、昭和5年(1930)に建築された旧和光学園幼稚園舎を移築したもの。、、、、近くの北区立荒川小学校は、明治6年(1873)に児童数15名で西音寺で開校したそうだ。

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環七通りに出る。 「富士見橋」にて埼京線を越える。

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・・・・・・・・・・・・埼京線の西側(十条仲原2)の環七通りの裏、小さな社の「日枝神社」がある。、、、、祭礼のようだが、コロナの影響で自粛するそうだ。 日本中の神社で、祭礼は自粛ムード、今年は神輿を見るのが難しいかも?、、、、祭神に大山咋命を祀り、社殿には「山王大権現」と記している。 元禄2年(1689)創建とある。、、、、また、境内右奥の延宝4年(1678)の「十条仲原庚申塔」は、手入れも良く残されている。 昭和50年(1975)に地元有志によって昭和初年以来途絶えていた庚申講が復活したそうだ。

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● 環七通りの北側、十条仲原3丁目の裏道を歩き、方向感覚が怪しくなってきたとき、♪♪この道は いつか来た道 ああ そうだよ 暮れに来た坂だ覚えてる♪♪ 「游鯉園の坂を下り、同じ道を歩きたくないので西に折れた。 ツタの絡まるチャペル風の廃屋がある。 いつの間にか住所は西が丘2丁目、懐かしい木造の目隠し塀もある。

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西が丘トレーニングセンター国立スポーツ科学センターなどの大規模施設が並ぶ、オリンピックのアスリート育成拠点に出てきた。、、、、凄い施設だ、相当“金”も掛かっている、これでオリンピック中止になると、どうなるのか?????

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中山道に出た、都営三田線の本蓮沼駅を通り、一つ先の志村坂上駅に向かう。

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・・・・・・・・・・・・志村坂上駅の手前、中山道の左右に対になった一里塚がある。 けっこう大きな塚で、江戸時代に築かれた。、、、、一里塚の隣りには、明治22年(1889)創業の原木商「斎藤商店」がある。昭和8年(1933)に建てられた現建物は、町のランドマークとなっている。(登録文化財)

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・・・・・・・・・・・・一里塚の隣りに志村坂上駅もある。、、、、昭和30年代、私の中・高等学校は白山にあり、水道橋方面から都電18番(神田橋~志村坂上)に乗って通学していた。 当時は、巣鴨から北の志村坂上とはどんな処なのか知ることもなく、興味もない町だった。 都電が「志村坂上」行きなので、名前だけは頭にこびりついていた!

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2020年8月 6日 (木)

都内最後のスターハウス

今日は午後から中野の病院で白内障手術後の診察日。 先生から、綺麗に回復しているので問題なし、との言葉をもらう。、、、“綺麗”と云うことは、私の瞳は10000ボルトで見る人を悩殺する力がついたか? チョイト、眼科受付のお姉さんを見つめてみたが、怪しまれた! 恥ずかしい!!




● 診察が早く終わったので、暇な人間は、野方駅近くの「野方団地」へ行ってみることにした。 病院前のバス停から野方駅行きに乗る。(バス代は敬老パスで無料?)

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● 外は晴天、気温は30℃超、熱中症に注意しながら「野方団地」に行く。、、、、団地は西武新宿線野方駅の南側(徒歩7分ぐらい)、住宅地の中にある。 昭和34年(1959)に建設された住宅公団の団地で、総戸数92戸(全5棟)の小さな団地である。 10年程前には全面建て替えの話があったが、築後60余年経過した今、建て替えの話はどこか消えて、リニューアル工事も終わり団地は健在のようだ! この団地の特徴は、古さだけでなく、Y字型の平面形状で1フロア3住戸を有するスターハウスが2棟ある。 かつては全国的にみられたスターハウスも、平成時代に入ると次々と建て替えられ、ここ野方団地が都内最後の入居可能なスターハウスとなった。(注:赤羽台団地にあったスターハウスは登録有形文化財に指定され保存されている) 各戸の面積は44㎡2~48m2で、単身者またはお二人さん向き。 家賃は10万円強。、、、、なお、この団地の敷地は、明治の元勲山本権兵衛の別荘跡だった。

・・・・・・・・・・・・駅前の商店街を抜け住宅地をチョッピリ歩き、妙正寺川の手前(中野区野方5)に団地はある。 団地入り口にはオシャレな書体で「野方団地」と標されている。

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・・・・・・・・・・・・入り口の脇には、団地案内図、公衆電話、ゴミ集積場が並んでいる。、、、、案内図には、中層フラット型の1~3号棟、スターハウスの4、5号棟、管理集会所が標されている。 全体的にゆとりある配置で、緑が多い。

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・・・・・・・・・・・・3号棟から、1、2、5号棟を眺める。、、、、緑も多く、“新型コロナ”には縁のなさそうな環境だ!

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・・・・・・・・・・・・1~3号棟、、、、ベランダ前の庭も芝が綺麗だ、野菜を植えた個人農園が無いのは気持ちいいね!、、、、公園まで芝が占領しているのは、遊ぶ子供がいないのか?

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・・・・・・・・・・・・スターハウスの4、5号棟、、、、スターハウスは全2棟24戸で、入居するにはあくのを待つ以外にはなさそうだ。、、、、スターハウスの階段は三角形をつくり上っていく。

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・・・・・・・・・・・・1号棟前に古くて大きな石灯籠がある。 これは、山本権兵衛の別荘であった当時からのもの。

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● 野方駅前の「野方本町通り」を歩いてみると「野方文化マーケット」の文字が見えた。 懐かしい“マーケット”の響きで、狭い路地を入りチョイト覗いてみた。 路地はV字型になって入った通りに戻るようになっている。 終戦直後のバラックから始まったマーケットらしい。 呑み屋、おでん屋、玩具屋、骨董品屋などの店がある。、、、、“昭和”が残っている街!

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● 熱中症を避け、野方駅から早めに帰ることにした。

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2020年8月 5日 (水)

死の散歩?

東京の最高気温35℃の予報がでた! 今日の散歩は、“三密”を避け、人混みがなさそうな都営新宿線一之江駅から新小岩駅まで歩くことにした。 1万3千歩の散歩。




● 都心から本八幡行きに乗り、終点本八幡の3駅手前「一之江駅」で下車する。 空いてる電車から、降りる人は少ない。 ホームでは都心に向かう通勤客がスマホ片手に電車待ち。 在宅勤務が多いのか、改札を通る人も少ないようだ! 地上に出ると、まだいくらも歩かないのに、もう汗が出ている。 『今日は暑そうだ、散歩に出てきたのは失敗だったかも?』と、熱中症への不安がよぎる。

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● 駅からは、とりあえず北に向かって歩く。 今井街道を横切り、一之江4丁目の裏道を北へ目指す。 

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・・・・・・・・・・・・数軒の住宅で玄関に「笑門」(しょうもん)の注連飾りが見えた。、、、、「笑門」は、しめ縄飾りにつける魔除けの木札のこと。 三重県伊勢地方では通年で飾っておくのが一般的である。 風習の起源は素戔嗚尊(スサノオノミコト)が伊勢に訪れた時、蘇民将来(そんみしょうらい)の家に泊めてもらい、宿を貸りたお礼に「注連飾りを年中掛けておけば、後世疫病から免れることが出来る」と言い残して立ち去ったことによるものらしい。、、、、私も伊勢・近江に行ったとき、多くの家で飾ってあるのを見たが、最近、その風習が東京でも見られるようになったみたいだ。

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● 一之江5丁目に、真言宗豊山派の医王山不動院妙音寺がある。 建久元年(1190)の開山といわれ、江戸川区内でも有数の古刹。 本尊は桃山時代に作られた木造十一面観音立像。 
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・・・・・・・・・・・・境内、右手に薬師堂があり、薬師如来がまつられている。、、、、この寺にのこる片目の鮒の伝説:『むかし、ひとりの目の不自由な娘がいました。その娘は、目を治そうと、妙音寺の薬師如来に21日の願をかけ、食を断ってお祈りしました。すると満願の日に、目が見えるようになりました。娘はお礼にと薬師の池にたくさんの鮒を放ったところ、鮒は全て片目になったといわれています。』、、、、池に八つ目鰻を放つと、七つ目鰻になるのか、新種誕生だ!

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● 首都高7号小松川線を横切り、西一之江2丁目に入る。 シャツは汗で濡れ身体はサウナ風呂。 そろそろ熱中症が心配になり、自販機でコーラを買い水分補給。 日陰を探しながら歩く。

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・・・・・・・・・・・・・・京葉道路に出たが、太陽は頭上真上にあるようだ。 日影が無い! 冬の八甲田ならぬ夏の江戸川区、死の行軍ならぬ死の散歩である。 『まだ死にたくない、ああ、“氷あずき”を食べたい!』

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・・・・・・・・・・・・・・人影のない公園があった! 広い公園だ「大杉一丁目公園」、、、、公園正面に女神像? 『捨てる神あれば拾う神あり』 公園の手洗いで水を頭からかぶる、どうせ服は汗でビショビショ、歩いていれば乾くだろう!、、、、チョイト、休憩して“死の散歩”は続く!

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● 北へ向かい歩くと大杉天祖神社(大杉1)がある。、、、、大杉天祖神社の創建年代は不詳だが、もと神明社と称し、葛西御厨の一つだった。 旧西一之江村の鎮守で、将軍家康鷹狩の際は参詣の後、境内の東方にあった腰掛山という小高い所で、休憩したそうだ。、、、、私も、境内のベンチに座り幼稚園の先生らしき女性を横目で見つめながら休憩。

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● 再び新小岩駅を目指し歩きはじめる。 首に巻いた濡れ手拭が乾きはじめた、『頑張ろう!』自分に言い聞かせる。、、、、新小岩駅行きのバス停があった。 『バスで新小岩駅に行くか?』と、時刻表を見ると1時間に1本、次は30分後。 この炎天下で30分待ちは辛い、ヤッパリ歩くぞ!、、、、東小松川香取神社前(中央4)にでる、チョイト手を合わせて、駅までももう一頑張り。

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・・・・・・・・・・・・・・やっと、新小岩駅前の「新小岩ルミエール商店街」(葛飾区新小岩)に到着。 アーケイドが日射しを遮り、商店の冷房が冷えた空気を送ってくれる、『幸せだな~~?』と一言。、、、、気持ちに余裕が出てきた。 薬局があったので、コロナに効く“うがい薬”「イソジン」があるか聞いてみると、ヤッパリ売り切れで在庫なし!

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● “死の散歩”は終わり、無事、新小岩駅へ到着。、、、、そろそろ自分の歳も考え、無理のない散歩に心掛けよう!

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2020年8月 4日 (火)

夏の大田黒公園

梅雨が明けて一気に夏到来。 まだ、猛暑日ではないが身体が慣れておらず、マスクをしているだけで全身から汗が噴き出ている感じだ! 今日は、家内と荻窪へ行ってきた、行ったついでに駅周辺の文化財級の建物巡り。




● JR中央線荻窪駅は、明治24年(1891)12月21日に甲武鉄道の駅として開業した。 明治39年、甲武鉄道は国有化される。 昭和7年(1932)7月、中央線・総武線の直通運転が開始され、我が家のある浅草橋からも緩行線で乗り換えなしの一本で行けるようになる。 昭和37年(1962)には、地下鉄荻窪線(現:丸ノ内線)が開業。 昭和41年(1966)には、地下鉄東西線も中野駅から荻窪まで緩行線に乗り入れ、ターミナル駅に変身していく。、、、、荻窪駅は島式ホーム2面4線を有する地上駅。 新宿側は地下部分に駅舎があり、改札口から南北にそれぞれ出入口があり、地下駅のようになっている。 また、三鷹側は橋上駅舎で、南北双方に出入口が設けられている。、、、、今日は、新宿寄りの改札から南口に出た。 

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● 南口を出て150m程東に歩くと、「明治天皇荻窪御小休所」(杉並区荻窪4)の碑が建つ長屋門がある。、、、、ここは、明治16年(1883)の行幸の際、明治天皇が2度にわたり休憩した場所と云われている。 今は屋敷の建物は姿を消し、江戸時代に建造された門だけが残されています。 門の中は高層のオフィスビルが建ち、チョイト違和感を感じる。、、、、以前はこの門の説明板があったのだが、今日行って見ると無くなっていた。 また、歴史的建造物なんだけど、なぜか公的な文化財には登録されていないようだ。

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● 長屋門の前の道をさらに150m程歩くと、昭和レトロな旅館「西郊」(荻窪3)の前に出る。 建物は、ドーム屋根を持つ洋室の新館(昭和13年築、現:西郊ロッヂング)と、和室の本館(昭和6年築)が連結された造りになっている。 和室の本館は旅館として営業中。 新館は集合住宅として利用しているようだ。、、、、本館・新館とも国登録の有形文化財。 昭和初期の表現主義風建物であるが、内部は自腹で泊まって、見てね!
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● 旅館:西郊から南へ歩くと、杉並区立「大田黒公園」(荻窪3)がある。 今日は4年ぶりに訪れたが、公園の静寂と美しさは以前と変わっていない。、、、、公園は音楽評論家の大田黒元雄氏の屋敷跡地につくられた。 約2719坪の面積を有する公園で、ケヤキ・クロマツ・アカマツ・シイノキなどの巨木がうっそうと茂っている。 池には、多くの“お高そうな”錦鯉が悠々と泳いでいる。、、、、大田黒元雄氏(明治43年(1910)~昭和54年(1979)) 大正初期から、ドビッシー、ストラビンスキーを日本に紹介し、欧米音楽の普及に努めた。 戦後は、NHKラジオ番組「話の泉」のレギュラー出演者として歯切れの良い語り口で人気を博した。 私が知るのは、この番組の回答者としての大田黒氏である。 残念だが音楽の世界での大田黒氏の活躍は、よく知らなかった。

・・・・・・・・・・・・総檜造りの正門を入ると、70mの御影石敷かれ、両側には樹齢100年を経た27本のイチョウが並ぶ。

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・・・・・・・・・・・・イチョウ並木の先には、茶室と和風の管理事務所がある。 ここで、茶会など行われるそうだ。

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・・・・・・・・・・・・その奥には、大木が茂る芝の庭と、鯉の遊ぶ池、秋には60本以上の紅葉が色づくそうだ。、、、、今は、セミの音と、石組みの間を水が流れ落ちる音のコラボで、森の中にいるようだ!

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・・・・・・・・・・・・公園のシンボル的建物は、大田黒氏の仕事部屋であったベンガラ色の記念館。 昭和8年(1933)に建築された当時としては珍しい西洋風の建物。(国の登録有形文化財) 内部には生前氏が愛用していたスタインウェイ製のピアノ、蓄音機などが残されている。

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● ここまで来たら、もう一ヵ所! 俳人で、角川書店創設者の角川源義氏の邸宅(荻窪3)が、ご遺族から寄贈され、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として公開されている。、、、、建物の幻戯山房(すぎなみ詩歌館)は、建築家:加倉井昭夫が設計した、近代数奇屋造りの建物。 平成21年(2009)に、国の登録有形文化財に指定された。
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2020年8月 2日 (日)

商店街と団地

JR亀戸駅から南に歩く、商店街・団地・商店街・団地・商店街と続き、江東区北砂の亀高橋バス停まで、1万1千歩の散歩。



● 我が家のある浅草橋駅からは、両国・錦糸町・亀戸で、3つ目の駅(所要7分)である。 コロナの感染リスクを考慮し、今日は亀戸駅東口に降り立った。、、、、亀戸駅は総武鉄道の駅として、明治37年(1904)に開業。 駅は島式ホーム1面2線の高架駅。 出入口は、亀戸天神に近い北口と京葉道路側に東口の2カ所。 北口が表玄関なら、東口は勝手口という感じ。、、、、一日平均12万人程が乗り降りする駅である。 今日は日曜で通勤・通学客も少ない。 東口は、越中島貨物線の高架下に出る。 駅前は狭く、駐輪場が動線を限定する。

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● 亀戸駅の南側をとおる国道14号(京葉道路)を横断し、「昭和橋通り」と書かれた商店街を歩く。 時刻は午前8時前、店のシャッターは何時開くのか? ひょっとすると、『昔、商店街 今、シャッター街』?

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・・・・・・・・・・・・商店街の脇に区立亀戸平岩公園がある。 公園の一角には、小さな「平岩稲荷神社」が祀られている。、、、、神社脇の由来碑には次のように記されていた。 『この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸の居を定めてから、大正の中頃まで、約300年に亘って平岩家代々の居所であった。 幕末より明治にかけて竹問屋として名を成した6代目平岩甚助の死後、昭和16年に楠にかこまれた広大な敷地内にあった1000坪の池が埋めたてられ、その一部約340坪が公園として東京市に寄付された。 その後、昭和25年に東京都より江東区に移管され現在に至る。 現存する稲荷神社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。 平成元年11月  改修にあたりこれを記す平岩』、、、、現在の公園は、屋敷の池の1/3と云うことだ! 屋敷の広さが何となく解るね。

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・・・・・・・・・・・・昭和橋通りの南端には、埋め立てられた堅川に架かる「昭和橋」がある。 川はなくなり、頭上は首都高が走り、橋は残っても、橋としての役目は終わった。

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● 昭和橋を渡ると、西側は大島3丁目の「UR 大島3丁目団地」、東側は大島6丁目の「UR 大島6丁目団地」。 でっかそうな「UR 大島6丁目団地」に寄ってみた。、、、、大島6丁目団地は中央の広場を7棟の14階建ての建物が“コ”の字型に囲む団地。 建物は昭和45年3月~昭和46年8月に完成した7棟で、約2900世帯が入居している。 チョイト古いデータによると、平成23年(2011)の団地内の実態調査では、60歳以上の世帯主が72%、20歳・30歳代の世帯主は8%。 居住者は60歳・70歳代の合計がほぼ半数の50.1%。 当団地に25年以上住んでいる人は半数の55%にもなるそうだ。 現在は、もっと高齢化が進んでいるものと思われる。、、、、夏休みなのに、子供の声が聞こえない!


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● 大島6丁目団地を突き抜けると新大橋通り、この下には都営新宿線が走っている。 大島駅が近くに在るはずだと思い、キョロキョロ。 駅よりも「中央銀座」のアーチが目に飛び込み、駅を忘れて“銀座”に足が入っていく。、、、、中央銀座商店街は大島駅の南側で、新大橋通りと並行する商店街である。 私が入って来たアーチは商店街のアプローチ部分であった。 91店舗で構成する商店街、まだ8時半どの店舗も開店前。

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● 中央銀座を足早に抜けると小名木川にぶつかる。 昭和54年(1979)に完成した1径間鋼製箱桁の歩行者・自転車専用橋「砂島橋(すなしまばし)」を渡り、大島5丁目から対岸の北砂5丁目に向かう。、、、、川の両岸はマンション・高層アパートが並ぶ。 小名木川は江戸時代の運河で、流れは穏やかである。 

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・・・・・・・・・・・・・・ 砂島橋を渡った北砂5丁目側に「小名木川旧護岸」が残されている。 地盤沈下が続いた町を水害から守るため、度重なる護岸のかさ上げ工事が行われ、その歴史を知ることができる。

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● 砂島橋の南側は「UR 北砂5丁目団地」である。 橋を渡り、そのまま南へ向かえば団地の中。、、、、団地は、旧日本住宅公団の時代、昭和52年(1977)から、順次入居が始まった。 総戸数2809戸(10棟)の団地。 中央の広場は野球もできる程広い!

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・・・・・・・・・・・・団地内の公園でセミ採りをする兄妹がいた。 しばし忘れかけていた情景がよみがえり、思わずニッコリしていたら、女の子が虫カゴを持ってきて、二匹のセミを見せてくれた。 いつまでも仲良くね!

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・・・・・・・・・・・・北砂5丁目団地の公園の木立の中に、「我国精製糖発祥之地」の碑がある。 碑の裏面に「昭和十五年十二月十三日 大日本精糖株式会社建之」とある。、、、、小名木川両岸は東京有数の工業地区だった。 日本における最初の精製糖工場もこの地に建てられた。 明治23年(1890)、この地に建てられていた鈴木藤三郎の製糖所で漸く成功し、砂村(現:北砂)において日本で初めて純白の砂糖が誕生しました。 鈴木藤三郎は、安政2年(1855)遠江国(静岡県)に生まれ、明治17年より氷砂糖を製造した。 同22年上京し、砂村に工場を移し、同25年から本格的に精製糖の製造を開始した。 明治28年(1895)同志とともに日本精製糖株式会社を設立したそうだ。 北砂が精糖の発祥地とは意外であった。 

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● 北砂5丁目団地を抜けると、150m程南に歩くと地域密着型の商店街「砂町銀座」がある。 時刻はまだ10時前、多くのどの店も開店準備中。 お客もこれからのようだ! 私も買い物するわけではないので、商店街の東端(丸八通り)に抜けた。

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● 時刻は10時過ぎ、気温もあがり汗が出る、マスクの中はムレムレ状態、チョイト熱中症が心配になる。 地下鉄東西線の南砂町駅までは、あと30分ぐらいかかりそうだ。 まだ梅雨が明けて二日目、身体が暑さに不慣れなため、今日はこの辺で引き上げることにした。 北砂4丁目の亀高橋バス停から帰る。

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2020年8月 1日 (土)

京成に沿って

一日当たりの東京の新型コロナ感染者数が500人に近づいた。 また、今日(8月1日)は梅雨開けで30℃超、熱中症も心配な季節となった。 外出時のマスク着用は必須、熱中症対策も必要、こうなると必然的に、散歩するのも躊躇する。 でも、今日は久しぶりの青空、『チョットぐらい散歩してもいいだろう!』と自問自答する。 “三密”を避けて、青砥駅で下車し、京成本線に沿って南側を歩き、堀切菖蒲園駅まで1万歩の散歩。


青砥駅の開業は昭和3年(1928)11月1日、日暮里~青砥間の開通時に分岐駅として、それまでの立石~高砂間に設置された。 昭和48年(1973)から昭和61年(1986)までは、立体交差化工事が行われ、二層構造の高架駅となった。 現在は特急「スカイライナー」も停車する下町のターミナル!、、、、二層構造の青砥駅は、2階と3階にそれぞれ島式1面2線のホームを持ち、2階が上り線(上野、押上方面行き)、3階が下り線(成田、千葉方面行き)となっている。

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・・・・・・・・・・・・高架下の駅入口の横に、高架の柱を利用したベンチ形式のモニュメントがある。 その名は「ワルツの塔」。 立ってバイオリンを弾く人の像を中央に据え、柱の上部には複数の天使がラッパを吹いている。 チョイト、下町の駅には似つかわしくないモニュメントである。、、、、この像のモデルである、バイオリンの奏者は「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世だそうだ。 このヨハン・シュトラウス2世の像は、彼の出身地であるオーストリア・ウィーンの市立公園にオリジナルがあり、そちらは黄金の像となっているそうだ。 この像は、東京都葛飾区とオーストリア・ウィーンのフロリズドルフ区と友好都市提携を結んだ記念として製作されたようだ。

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・・・・・・・・・・・・脇の道路から見上げると、巨大な立体駐車場のようにも見える青砥駅。 駅の端から上野方を見ると、多少カーブしながら京成本線の高架橋が伸びていく。 また、同じように本線の南側では、京成押上線の高架橋が押上方に直線的に伸びている。 この押上線の先では、只今、青砥~四ツ木間の高架化工事が進められている。

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● 葛飾区文化会館(かつしかシンフォニーヒルズ)と呼ばれる音楽ホールの前をとおる道は「シンフォニー通り」と名付けられている。 そのシンフォニー通りの植え込みに童謡「通りゃんせ」の歌詞が標された石碑があった。、、、、この歌とこの場所、何の関係が? 調べてみたが謎である。 「通りゃんせ」の舞台は埼玉県川越市、作詞者は不明、作曲者は本居長世または野口雨情ともに葛飾区とは取り立てて縁はなさそうだが??? 謎の碑だ!

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● 京成本線沿いに南側の町「葛飾区立石六丁目」を歩く。 特別変わったものがあるわけでもない、ゴク普通の下町である。 

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● 白鳥一丁目交差点で国道6号(水戸街道)を越える。 南側の正面にスカイツリーが見える。 北側、京成の架道橋にスカイライナーが通過。、、、、スカイライナーのデザインは、先日(7/21)亡くなったファッションデザイナーの山本寛斎氏によるものだ。 同氏は京成職員の制服、ヘッドマークなども手掛けた。 私が勤めていた某ゼネコンの制服も寛斎氏が手掛けた。 スカイライナーを見て『寛斎さん ありがとう

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● 国道を渡り白鳥1丁目の町を抜けるとお花茶屋駅に出る。 お花茶屋駅は、昭和6年(1931)12月19日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。、、、、駅周辺のスナック、クラブには“お花ちゃん”がいるかも?

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● 今年はコロナの影響で、今日(8/1)から夏休みの小・中学校が多いそうだ。 京成の踏切には、休みに入り早速、活躍しだした撮り鉄がカメラを構えていた。、、、、『小学生のくせに、私のカメラより高そうなものを持って、コノヤロー!』と言いたい気持ちを抑えて・抑えて、ニッコリ笑って『夢中になって怪我するなよ!』と優しい一言。、、、、数年前、踏切で撮影に夢中となり、不幸にも脱臼して救急搬送された人を知ってるからね!

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● お花茶屋から地上を走っていた電車は、手前で盛土を上り高架駅の堀切菖蒲園駅に着く。、、、、堀切菖蒲園駅は昭和6年(1931)12月19日の開業。 駅は相対式ホーム2面2線の構造。 改札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。、、、、一日当たりの平均乗降客数は2万3千人弱と少ない。

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