増上寺の門・門・門
連日の猛暑もひと休みし、今朝は涼しい。 早速、『久しぶりに、増上寺へ行ってくる』と早朝に家を出る。 1万1千歩の散歩。
● 我が家のある浅草橋からは都営浅草線で7つ目の駅(乗車時間12分)が大門駅。 “大門”は“だいもん”と読み、増上寺の総門を指す。、、、、江戸っ子は“大門”を、“だいもん”と云えば芝増上寺、“おおもん”と云えば吉原のことだ。 女性らしくしなやかに、濁点をはずして“おおもん”と言われると、花魁を思い、行きたくなるのかも?、、、、大門駅は昭和39年(1964)10月1日、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業した。 平成12年(2000)12月12日には、都営大江戸線も開業し、乗り換え駅となる。



● 大門駅の西側に、増上寺の旧総門「大門」がある。、、、、大門は、明治維新の上地令により寺領が縮小するとき、増上寺では維持できなくなり東京府に寄付された。 東京府の所有となった大門は、昭和12年(1937)に従来の意匠のまま高さを1.5倍の5.25mにし、木造から現在のコンクリート造りで改築した。 しかし、その後何らかの理由で東京都の財産目録から抜け落ちてしまい、所有者不明となり放置され老朽化が進んだ。 東日本大震災では、瓦の一部が落下して安全性に不安が示され対策が求められた。 都では、大門が都の財産台帳から誤って抹消されたものと認め、さらに資産価値は無いものとして、平成28年(2016)に増上寺に返還された。 その後、増上寺にて改修工事が進められ現在に至る。、、、、木造の旧大門は大正12年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されたが昭和20年の空襲により焼失した。、、、、大門ある道路は区道であるが、門が占領していて拡張できないね!


・・・・・・・・・・・・・・チョイト脇にチビッタ話、、、、大門のある交差点に「区立大門際公衆便所」がある。 この公衆便所は歩道上に、和風の建物が半地下式で造られている。 戦前の公衆便所は階段を下りて半地下に入るタイプがあった、同じような例としては、九段会館脇や東京国立博物館などにあったが、10年程前にいずれも無くなり、現在も活躍中の便所は珍しい。、、、、歩道上から便器が見える! くれぐれも、ドアを閉めてから使用すること!

・・・・・・・・・・・・・・大門の北西80m程に常照院がある。 常照院の開創の年は未詳だが、開山周公上人は天正18年(1590)に寂している。 寺は増上寺山内寺院の一つとして、歴代の住持は増上寺の寺務を担い、また肥前鍋島藩などの宿坊でもあったそうだ。 本尊は善光寺如来の一光三尊阿弥陀如来。 本尊を祀る現本堂内陣(江戸時代の土蔵造平屋建、国登録有形文化財)は、江戸時代“あかん堂”の名称があった。 本尊が秘仏であって開帳しないので、それゆえに“あかん堂”と呼ばれたそうだ。、、、、『城木屋お駒』として有名な人形浄瑠璃(文楽)『恋娘昔八丈』のモデルとなった「白子屋お熊」の墓がある。 また、江戸時代は市川団十郎家の菩提寺で、境内に七代目団十郎が寄進した石の水鉢なども残る。当代の十一代市川海老蔵も先祖供養のため度々訪れているそうだ。



● 徳川家の菩提寺、浄土宗寺院の三縁山広度院増上寺(港区芝公園4)、、、、増上寺の創建年代等は不詳であるが、空海の弟子が麹町(千代田区)あたりに真言宗光明寺と称して建立したのが始まりらしい。 その後、明徳4年(1393、室町時代)に、浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号した。 天正18年(1590、豊臣秀吉の小田原征伐の年)に、家康が増上寺の前を通りかかったことが縁で、源誉存応上人と親しくなり、菩提寺となるきっかけとなった。 江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10,745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林(学問所)の筆頭となる。 墓域には、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人の将軍の墓所がある。、、、、明治時代に移ると、新政府は明治6年(1873)の太政官布達により全国に公園を整備することとなった。 東京では、芝増上寺、上野寛永寺、浅草、深川、飛鳥山が、東京で最初の公園として指定された。 広かった境内も公園化が進み、さらに戦災で大きく被災し、戦後の混乱期には増上寺と徳川家、国土計画(プリンスホテル)で土地登記のトラブルも発生した。 現在は、地名は「芝公園」だが、かつての増上寺の境内には、東京タワーがあり、プリンスホテルがあり、公園らしき緑地が点在し、もちろん増上寺自体も残り、まとまりのない“公園”となっている。、、、、今日の散歩は、現在の増上寺、プリンスホテル敷地内の三つの門、芝東照宮と巡ってきた。
● 現在の増上寺の主な諸堂・・・・・
・・・・・・・・・・・・三解脱門、、、、増上寺の正面玄関、都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇る門。(高さ約21m、7階建てビルに相当、デカイ!) 正式名称は三解脱門。 徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。 元和8年(1622)に再建された。 国の重要文化財。、、、、三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。


・・・・・・・・・・・・大殿(本堂)、、、、旧本堂は戦災で焼失したため、昭和49年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるように設計され、再建された本堂。、、、、首都圏では最大級の御堂で、間口48m、奥行45m、高さ23m。 石段を登りつめた2階に本堂、3階に道場、1階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室がある。、、、、本堂内部は、大空間が広がり、正面中央に本尊:阿弥陀如来(室町時代作)がまつられている。



・・・・・・・・・・・・本堂右隣には、戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂として使用していた建物:旧安国殿があった。 現在のあ安国殿は、老朽化した旧安国殿に変わり、平成23年(2011)に建てられた新しい安国殿である。、、、、堂内では、お守り・お札・クッキー・写真集などグッズが並んでいる。 チョイとした“みやげもの屋”かな???、、、、安国殿の脇から裏側に廻ると徳川将軍家墓所がある。 有料で公開されているが、残念なことに早朝で閉まっていた!

・・・・・・・・・・・・本堂裏の大納骨堂は昭和8年(1933)に建立された。 御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像。 戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修された。 堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られているそうだ。、、、、内部を見てみたいが、チョイト怖そうだ!

・・・・・・・・・・・・安国殿前に西向観音が安置されている。 その観音の前にズラリ並んだ「千躰子育地蔵尊」、つまりは水子地蔵である。 水子地蔵は、女性でないと理解できないかもね? 男性の私は、何兆だか数えられないほどの子種を殺していることか、チョイト???


・・・・・・・・・・・・徳川幕府の助成により建立された「経蔵」は内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、白壁土蔵造りの典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されている。 中に収蔵されていた宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康が増上寺に寄進したもので、国の重要文化財である。、、、、経蔵は、慶長10年(1605)に創建、天和元年(1681)改造移築し、さらに寛政12年(1800)現在地に移築した。、、、、内部公開日があり、その日に行くと入れるそうだ! 一度は内部に入ってみたい。

・・・・・・・・・・・・三解脱門 の脇に、通用門的な「旧方丈門(黒門)」がある。 慶安年間(1648~1652)、三代将軍家光の寄進で建立された。 この門は、御成門交差点付近にあった増上寺方丈の表門で、黒漆塗りの門である。 いまは、漆も剥げ薄汚れた状態でチョイト可哀そうだ。、、、、なお、方丈は明治時代に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となった。

● プリンスホテル敷地内の門・・・・・徳川家霊廟跡地の多くはプリンスホテルの敷地となり、そこに残された建造物もプリンスホテルの所有となった。、、、、現在、芝公園内のプリンスホテルには三つの門が残されている。
・・・・・・・・・・・御成門、、、、東京プリンスホテルの駐車場に移設され、風雨に曝され朽ちてきた哀れな門。、、、、江戸の初め、増上寺には東に表門があり、この門は裏門として北に開かれた。 将軍が参詣の折にだけ開かれたので御成門と呼ばれた。 一般の通行は禁じられていて、門前に下馬札が立っていた。 門のあった位置は、現在の御成門交差点の中だ。 明治中頃に、東京市区改正計画によって、芝園橋から三解脱門の前を通って内幸町に至る道(現:日比谷通り)が敷設される時、現在地に移築保存されることになった。、、、、説明板の最後に一言、『文化財を大切にしましょう』と、書かれていた。 空しいね!


・・・・・・・・・・・・有章院(徳川家継)霊廟二天門、、、、御成門と同じ駐車場にある。 この有章院(7代将軍徳川家継)霊廟二天門は、現在の御成門と同様に、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しかったが、平成27年(2015)より約3年の期間をかけて大規模な保存修理工事が行われ、かつての豪華さがよみがえった!


・・・・・・・・・・・・旧台徳院霊廟惣門、、、、台徳院霊廟は、2代将軍徳川秀忠の霊廟建築である。 壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったそうだが、残念ながら一部を除き、戦災で焼失した。 惣門は数少ない罹災を免れた建築。、、、、寛永9年(1632)に造営された。 惣門は、三間一戸八脚門、入母屋作りで、屋根は正面に唐破風を持つ銅製桟瓦葺きで、全体朱塗りの単純和洋建築だ。 この惣門も近年、改修工事が行われた、まだ輝いているようだ。、、、、安置している仁王像は、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現:川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもの。 その後、安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)東京の浅草寺に移された。 さらに、昭和33年頃にはこの惣門に安置されたと云われている。 “埼玉から都心へ出世した仁王像?”



● 増上寺の隣り芝東照宮、、、、慶長6年(1601)家康60歳の時、生存中等身の自像を彫刻させ、自から祭供をなし、元和2年(1616)には増上寺観智国師に命じて、同年、安国殿に鎮座させて、永世国家を守護せんと命じた。 元和3年(1617)に家康は逝去し、その後、家康の遺訓どおり、社殿造営のことはじまり、翌年落成する。 土井大炊頭利勝が奉行した。 その後、寛永11年(1634)模様替あり、同18年さらに社殿を新築する。 その構造雄大にして、大正4年国宝建造物に指定されたが、昭和20年戦災にかかり、灰燼と化した。、、、、日光・久能山の東照宮を知る者には、『これが東照宮?』と言いたくなる社殿だ!(現社殿は昭和44年(1969)の造営)


・・・・・・・・・・・・東照宮の石の鳥居、本殿に向かって右の柱の下に几号水準点がある。 鳥居の周りは駐車場にもなっており、鳥居の柱は保護枠で囲まれている。「不」の字の横棒は7.5cm、縦棒は9.5cm程。

・・・・・・・・・・・・東照宮の裏山(芝丸山古墳)頂上には、「伊能忠敬測地遺功表」がある。 伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪であったことから、その功績を顕彰して遺功表を建てたそうだ。

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