六地蔵の五番目
江戸六地蔵の五番目は、江東区白川にある霊巌寺の地蔵菩薩。 浅草橋(我が家)から徒歩1時間ほどで霊巌寺に参り、その足で深川の閻魔堂にも手を合わせてきた。 1万2千歩の散歩。
● 朝7時25分、浅草橋駅前から散歩はスタート。 東日本橋駅前から清洲橋通りを行く。 幟はためく明治座前を通過。 どちらも隅田川に架かる、清洲橋通りと新大橋通りが交差する浜町交番前。 そして、正面に清洲橋が見えた!





● 関東大震災の復興橋として、重厚かつ雄大で男性的な永代橋と対になるように繊細で女性的なデザインを意図して設計された清洲橋を渡る。、、、、清洲橋の構造は日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、当時世界一美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋をモデルとした。 設計は永代橋と同じく太田圓三を中心に鈴木精一が行った。 大正14年(1925)3月に着工、昭和3年(1928)3月に竣工。 長さ186.3m、幅22m。 平成19年(2007)に、勝鬨橋、永代橋とともに、国の重要文化財となる。、、、、橋名の「清洲橋」は、当時の町名、西詰の日本橋区中洲町、東詰の深川区清住町から一字づつとって名付けられた。



● 清洲橋を渡り清澄通りに出ると、清澄庭園を背にして、昭和3年(1928)に関東大震災の復興事業として建てられた、長屋風のコンクリート店鋪兼住宅の「旧東京市営清澄庭園店舗向住宅」がある。 建物は1階が店舗で2階が住居というもので、6軒程が一つの建物となって建ち並んでいる。 当初は東京市営で賃借だったらしいが、現在は民間に払い下げになったそうだ。、、、、各店舗ではファサードをかなり改装したものもあり、バラバラなデザインとなったが、全体的には、建設当時を偲ぶことができる貴重な建物である。




● 清澄庭園の東側、深川江戸資料館の隣りに、浄土宗寺院の霊巌寺がある。 江戸時代は御朱印50石を賜わり、区内で最も寺格の高い寺院で、昔は18寮・8庵・11子院を持ち関東18檀林の1つとして、江戸屈指の寺院だった。、、、、寺の初めは、霊巌上人が現在の中央区新川がまだ湿地の葦原だった元和年間(1615~1623)にその地を埋め立てて霊巌島とした。 ここに一寺を建て霊巌寺と称したが、後に明暦の大火に遭い、総てが灰燼に帰し、万治3年(1660)に改めて深川の地に土地を拝領し、ここに寺を移したのが現在の霊巌寺である。 現在の本堂は昭和56年(1981)に鉄筋コンクリート造で建てられた。、、、、朝の山門前は、隣りの幼稚園児のお母さんがたむろし、小心者の私は恐怖を感じ本能的に“ソーシャルディスタンス”を保つ。


・・・・・・・・・・・・本堂に向かい境内の左側に、江戸六地蔵の五番目の銅造地蔵菩薩坐像が安置されている。 この像は享保2年(1717)に造立された。 像高は2.73mで、かつては鍍金が施され、一部には金箔が残っているそうだ。 また、他の六地蔵に比べ、宝珠を持つ左手の指のうち四本の指が密着した形になっているのが特徴らしい。 丸顔のおとなしそうな地蔵さん!、、、、この像も、袈裟・蓮台・石の台座などに、造立時の多くの寄進者名が読み取れる。





● 霊巌寺の山門前にある浄土宗寺院の長専院は、不動寺と号し、「深川の出世不動」として親しまれている。 長専院は、德川四天王の一人榊原忠次(寛文五年没1665)が開基、命誉圓壽が開祖となり霊巌島に創建、万治元年(1658)に霊巌寺とともに移転、昭和3年(1928)に不動寺を合併したと云われている。、、、、不動堂は昭和初期(昭和7年?)の鉄筋コンクリート造。



● 長専院の南隣、浄土宗寺院の成等院には、江戸中期の豪商、紀伊国屋文左衛門が眠る墓所がある。、、、、墓所は仕切られた一画にあるが、立ち入ることが難しい、鉄扉の外からパチリ! 墓を守る有志の活動が休止しているそうで、石碑にミカンの枝が覆いかぶさり、手入れも出来ていないようだ!

● 『深川ゑんま堂』として知られている真言宗豊山派の寺院「法乗院」にお立ち寄り。、、、、法乗院は、寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年に現在地(深川2)に移転した。、、、、法乗院の閻魔堂は昭和4年(1929)建造の鉄筋コンクリート建築。 近年には、闇魔堂が改築され、お賽銭を入れると、コンピューター制御で、堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じてありがたいお言葉が流れてくるのというので、ハイテク闇魔とも呼ばれている。 現在の閻魔座像は平成元年(1989)に作られた。、、、、【蛇足】 寺では『江戸三閻魔』の一つと言ってるが、世間で言う『三閻魔』は「華徳院(杉並松の木)・太宗寺(新宿)・善養寺(西巣鴨)」である。 ウソついたら、閻魔さまに舌を抜かれるぞ!!


● 散歩の最後は、閻魔堂の隣りにある臨済宗妙心寺派の寺院「陽岳寺」、、、、本堂は昭和6年(1931)の鉄筋コンクリート建築。 残念ながら、山門が閉まっており境内では見えず、道路の向かいから眺める。

● お帰りは、陽岳寺の前からバスに乗って・・・・・
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