彦左と太助の墓
前々から一度見てみたいと思っていた、白金の几号水準点(2ヵ所)を見に行ってきた。 白金方面に行くなら、高輪の泉岳寺、白金の大久保彦左衛門の墓にも寄ってみた。、、、、都営浅草線の泉岳寺で下車し、泉岳寺、清正公、立行寺、白金氷川神社、西光寺と寺社巡りをして、白金高輪駅から帰る。 1万歩の散歩です。
● 今年、JR山手線に高輪ゲートウェイ駅が開業し、乗換駅となった浅草線の泉岳寺駅。 一日当たりの乗降客数も令和元年の実績では、浅草線だけで20万人を超え、今後の増加を見越すと駅の改良が必要となった。 具体的には現行の5m幅の島式ホーム2本を10m幅に広げる予定である。 駅は国道15号の地下に位置し、国道下だけでは拡張するスペースが得られないため、道路沿いの民有地に食い込むような構造で再開発が行われるそうだ。 令和6年(2024)に完成予定。、、、、隣りの京急の品川駅も令和9年(2027)のホーム地平化を目指し、この付近は何だか慌ただしくなりそうだ。
● 討ち入りの日(12月14日)には、まだチョイと早いが、泉岳寺の「赤穂義士墓地」に参る。、、、、昭和の時代は暮れになると、講談・映画・歌舞伎、そしてTVのいずれかで「忠臣蔵」の演じられていたが、最近は“四十七”も下火となり、平成時代は、“48”、“46”になった。 私も、“46”のファンとして大石より白石の卒業が気になるね、“南部坂の別れ”より、“乃木坂の別れ”だ!
● 泉岳寺から、高輪学園横の路地を抜け、上皇様のお住まい高輪皇族邸前の二本榎通り、チョッピリ南に歩き、天神坂を西へ下れば、清正公前交差点に出る。 今日の目的地の一つ、清正公(せいしょうこう)である。 「清正公」は日蓮宗の寺院、最正山覚林寺の通称である。、、、、寺には、加藤清正の位牌や像が祀られていることから清正公と呼ばれている。、、、、加藤清正を祀った清正公堂は、拝殿・幣殿・本殿からなる権現造りで、慶応元年(1865)に再建されたものだ。 また、山門は安政3年(1856)に再建された薬医門である。
・・・・・・・・・・・・この清正公(覚林寺)山門脇の電話ボックスの隣りに、高さ2.5m程の「鎮守 清正公大神儀」の石碑がある。 この台座に“不”の字に似た几号水準点がある。 (全国の几号水準点を見てみたい私が、まだ見ていなかったもの)
● 清正公前の国道1号をチョッピリ北に向かい、白金高輪駅の西側に法華宗の智光山立行寺(りゅうぎょうじ)がある。 日通聖人(延宝5年1677年寂)が開山、旗本大久保彦左衛門が開基となり、寛永7年(1630)麻布六本木に創建、寛文8年(1668)には火災にあい当地(白金2)に移転した。、、、、ピンクの山門は嬉しいね!
・・・・・・・・・・・・境内墓地の中央には、鞘堂付の大久保彦左衛門の墓とTVでおなじみの魚屋一心太助の墓がある。 彦左衛門は徳川家康に仕えて戦功を立て、幕府の重臣として、また“天下の御意見番”として、徳川秀忠・家光を助けた。 また、彦左衛門の墓の後ろに「一心太助の墓」という墓石がある?(一心太助って実在したのか? 年配の人は中村錦之助をイメージすると思うね)
● 立行寺の西側に、白金氷川神社がある。 白鳳年間(今から1340年程前)に白金村の総鎮守として建立した、港区最古の神社。 江戸時代中期の明和9年(1772)目黒行人坂から出火した火災で類焼し、江戸後期に社殿が再建された。 太平洋戦争末期の昭和20年(1945)には、空襲によって社殿が焼亡した。 現在の社殿は昭和33年(1958)に竣工したものである。、、、、高級住宅地の中の小高い処に鎮座する、閑静な神社。
● 白金氷川神社からまたまた西へ、三光坂の上り口にある西光寺。 浄土宗寺院の西光寺は、称名山慈雲院と号す。 寛永2年(1621)以前の開山で、麻布六本木に創建、その後当地(白金4)へ移転した。 年代不詳、酒蔵のような白壁の本堂が印象的だ!
・・・・・・・・・・・・今日の目的地の2番目は、ここ西光寺の几号水準点である。 寺の山門から本堂に向かって、 左手に「南無阿弥陀佛」の石碑がある。 その台座には「渡陸尺」と刻字されているが、その左側側面に几号水準点がある。
● 白金高輪駅は、平成12年(2000)9月26日に開業し、東京メトロの南北線と、都営地下鉄の三田線が乗り入れている。 駅の管理は東京メトロが実施している。、、、、島式ホーム2面4線を有する地下駅で、外側2線を三田線、内側2線を南北線が使用し、方向別に配置されている。、、、、【問題です。当駅名「白金高輪」の読みは?】 “しろがねたかなわ”はブー、正解は“しろかねたかなわ”。 清正公のある「白金台」は“しろがねだい”と読む。 白金は“しろかね”、台がつくと“しろがねだい”