観音堂はどこだ?
『天気も良さそうだ、チョイト、田圃を見に行こう!』と、妻をさそい北総線千葉ニュータウン中央駅の北にあるという「宝珠院観音堂」へ行ってきた。 千葉ニュータウン中央駅から寺を巡り再び駅にもどる、全行程約7kmの散策です。
● 線路・駅など鉄道施設を保有する千葉ニュータウン鉄道の路線に、北総鉄道と京成電鉄の車輛が乗り入れ利用している北総線。 その北総線の千葉ニュータウン中央駅で下車した。、、、、昭和59年(1984)3月19日、千葉ニュータウン中央駅開業時は、駅の施設は住宅・都市整備公団によって建てられた。 その後、平成16年(2004)に構造物の所有は、京成電鉄の100%子会社である千葉ニュータウン鉄道に移った。 なお、駅の運営は北総鉄道が行っている。(鉄道各社は、いろいろ、ややっこしい関係にあるので、詳細は自習してね!)、、、、中止となった成田新幹線用の広い掘割状の敷地内に駅はある。 一日当たり約3万人の乗降客が利用している。
● 千葉ニュータウン中央駅の北側に広がる、新興の町を抜ける。 駅前はイオンなどの商業施設、そのさらに北側にUR都市機構の住宅団地、東側にはカッコイイ銀行の事務センター、企業の研究所等が建ち並ぶ。 間違いなく、私の住む下町:浅草橋と比べると、近代的でオシャレな町だ、負けたかな?!
● 千葉ニュータウンの町を抜けると、少々車が頻繁に通りうるさいが、雰囲気は一変し、懐かしい田舎町に入った。 茅葺き屋根を鉄板で覆った勾配のキツイ屋根の家も点在する、納屋もある、畑も見える。 道端には、ズラリと並んだ庚申塔がお出迎え。 古びた鳥居(鳥見神社)の奥には朽ちてきた祠が一つ、二つ、三つ。 この辺りは“印西市小倉”と云う地名らしい。
● しばらく歩くと集落があり、天台宗の寺院「泉倉寺(せんぞうじ)」の前に着いた。 泉倉寺は、大同2年(807)飢餓民救済のため平城天皇の命を受け、空海の弟子である慈観上人によって建立された古刹。 かつては、延命院勝光寺と称し本埜村(現:印西市)にあったそうだ。 延喜17年(917)には天龍山龍腹寺と称し、永禄6年(1563)に現在地(印西市和泉)に移転した。 その後、地名の“和泉”、“小倉”から一字頂戴し「泉倉寺」となる。 本尊は阿弥陀如来。、、、、本堂は、青磁色の“重層銅板葺き”の阿弥陀堂形式。 堂の優美な姿は庭の緑と一体となり、“Wonderful Beautiful!”
● 私の持つタブレットでGoogleマップを見ると、泉倉寺の西側100m程の処に、今日の目的地「宝珠院観音堂」があるのだが? 下調べせずに来たので、参道が判らない、困った! 何度地図を見てもそれらしき参道がない。 航空写真を見ると、堂は写っているが、周囲は森のような樹々に囲まれ参道が見えない、集落の誰かに尋ねたくとも人影がない、ますます困った! “ポツント一軒家”みたいだ! とりあえず妻と二人で、周囲を歩き廻り堂への参道を探す、見つからず元の泉倉寺前に出た。 妻は『あきらめよう!』と云うが、ここは男の意地で探すことに・・・・・・・
・・・・・・・・・・・あきらめられぬ男が、泉倉寺前で再び地図を取り出した時、、、、ふと、脇を見ると、塀の横の古びた石柱の後ろに、かすれた文字で『国宝光堂入口』と読める案内が見えた。 『これだ、ここだ、これだ!』 思わす叫んだ。 誰が見ても、国の重要文化財がある寺への参道とは思えない、民家の裏へ抜ける路地のような道があった。
・・・・・・・・・・・・・・木立の奥に、さほど広くはない平坦な境内に、宝珠院観音堂(光堂)が静かに表れた。 感動した一瞬である。 寺務所のような建物はあるが、施錠し誰もいない、居るのは私達夫婦だけ。、、、、宝珠院は貞観年間(859~877)の開基と伝えられる古刹である。 しかし、現在はこの観音堂のみとなっているらしい。 境内の隅で、庚申塔が並んで、悪さする者を見張っているようだ!
・・・・・・・・・・・・・・観音堂正面には、これが正面の参道かと、これまた首をかしげたくなる道があった。 急な下りの階段坂、幅は狭く、手摺もない。 下っていくと、ケモノ道のようになり、田圃の前の農道に出た!、、、、これじゃ~、いくら参道を探しても見つからないね、二人で納得!
● 宝珠院観音堂からは田圃の中を歩く。 暑い日射しの下、野の花を見ながら、カマキリ・トンボと遊び、夫婦で健脚を競う。 道の先に駅前の高層ビルが見えてきた。 千葉ニュータウン中央駅はスグそこだ!
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