六地蔵の一番目
久しぶりに「江戸六地蔵」巡りをしてみようと思う。 今日はその一番目で品川寺に行ってきた。 京浜急行青物横丁駅で下車し、品川寺とその周辺を歩き、隣りの鮫洲駅まで、8千歩の散歩です。
・・・・・・・・・江戸六地蔵とは、、、、深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したので、京都の六地蔵に倣って造立の願を発し、人々の浄財を集め造立された。 宝永5年(1708)から順次、江戸の街道出入口6ヵ所に丈六の金銅地蔵菩薩を安置した。 この金銅地蔵菩薩像を「江戸六地蔵」と云う。、、、、6ヵ寺は、品川寺(旧東海道、品川)・太宗寺(甲州街道、四谷)・真性寺(旧中山道、巣鴨)・東禅寺(奥州街道、山谷)・霊巌寺(水戸街道、深川)・永代寺(千葉街道、深川、明治元年に廃寺となり像は失われ現存しない)、、、、鋳造は神田鍋町鋳物師:太田駿河守正儀により鋳造された。 像高はいずれも270cm前後で、造立時には鍍金が施されていた。(東禅寺の像は弁柄色の漆) それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められ、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72,000名以上になる。、、、、【注】「江戸六地蔵」とは別に、元禄3年に「東都六地蔵」が造立されたが、寺も作者も別ものである。 トリンプとワコールの違いのようなもの(何だか判らん?)
● 京浜急行本線の青物横丁駅で下車する。 乗る人と同じくらい降りる人がいる、電車が停まると、ホーム、改札に人が溢れ、駅の東側にできた「品川シーサイド」の超高層ビル群に向かうようだ。、、、、駅名の“横丁”は、横丁の実体が無いのでチョイト寂しいが、駅名は変えずに残して欲しいね!





● 旧東海道に面して営業する「竹内医院」はノスタルジックな素敵な建物。 以前は竹内外科医院と称していたが、今は耳鼻咽喉科の医院に変わった。 建物は明治40年(1907)築。 一度、内部を拝見したいね。


● 竹内医院の前から旧東海道を南へ歩いて100m程、品川寺(ほんせんじ)の参道と六地蔵が見える。、、、、「品川寺」は、“しながわでら”ではなく、“ほんせんじ”と読む。 真言宗醍醐派の品川寺は、海照山普門院と号し、真言宗醍醐派の別格本山。 品川寺の開創は、平安時代のショッパナである大同年間(806~810)で区内最古刹。 本尊は聖観音菩薩。



・・・・・・・・・・・・参道脇で、参拝客を迎える地蔵菩薩に手を合わせる、今日の散歩の目的達成!、、、、この像は、江戸六地蔵の内、宝永5年(1708)に造られた第一号である。 像高は現存する江戸六地蔵の中では最大の2.75m。 この像は、東海道の尊像として、「天下安全・仏法繁栄・衆人快楽」の祈願のもと奉安されている。、、、、優しい顔をした地蔵菩薩。 チョイト、顔の汚れを拭いてあげたくなるね!



● 品川寺の南側、江戸時代から「品川の荒神さん」として知られている「海雲寺(かいうんじ)」がある。 海雲寺は、曹洞宗の寺院、山号は龍吟山。 「千躰荒神」を祀る寺として知られる。 この寺は、建長3年(1251=鎌倉時代)に近くの海晏寺内に建てた「庵瑞林」に始まるそうだ。 慶長元年(1596)に海晏寺の和尚により開山し、曹洞宗に改められ、寛文元年(1661=江戸時代)海雲寺になった。
・・・・・・・・・・・・立派な造りの山門をくぐり、正面右に本尊の十一面観音を安置する本堂がある。 本堂は扉を閉め静かだ!


・・・・・・・・・・・・本堂の左側に、千躰荒神を祀っている荒神堂、、、、寛永14年(1637、島原の乱が起こり、討伐を命じられた佐賀藩鍋島勝茂が、天草にある「荒神宮」に祈って勝利を収めたので、江戸藩邸に荒神宮を祀り、のちこの寺の境内に別堂を建てたのが、品川の荒神祭の始まりだ。 荒神は竈(かまど、へっつい)の神様として信仰され、大祭日には参拝者は箱入りの荒神を風呂敷に包み、首にかけて参拝し、新しいお札を納め、途中寄り道や立ち止まらず、また後を振り返らないで家に持ち帰る。 また、当日は境内でお釜型の菓子「おこし」を売る店が出て賑わうそうだ。 これは「お釜を起こす」の駄洒落から名づけられたらしい。 今年はコロナの影響で、11月の大祭は中止らしい。、、、、堂に上がり多くの扁額を拝見。 浪曲家廣澤虎造夫妻の文字額もある。(最近は浪曲を聴く機会も無くなり、生活様式の変化を感じるね!)



● 荒神様から東へ、京急の高架下を抜け第一京浜国道に出ると、曹洞宗の寺院「海晏寺(かいあんじ)」がある。 建長3年(1251)の開山。本尊は聖観音菩薩、山号は補蛇落山。、、、、今春に参ったので、詳細はカット!


● 再び旧東海道に戻り、鮫洲(さめず)駅前の「鮫洲八幡神社」に寄ってみた、、、、旧御林町(のち大井鮫洲町、現在は東大井1・2の一部と4丁目)の総鎮守。 創立の年代は不詳とされているが、寛文年間(1661~1673)の頃には、すでにあったとされている。、、、、社殿は鉄筋コンクリート造で戦後の建築と思われる。 境内の社務所らしき木造建築にチョイト古さを感じた。



● 私と同じ終戦前後の年代の人に“鮫洲に行ってくるよ”と言えば、免許取得・免許更新で鮫洲運転免許試験場へ行くことであった。 最近は最寄りの警察署でも更新でき、鮫洲へ行く用事も無くなったね! 昭和60年頃までの鮫洲駅では、早朝の電車から人がゾロゾロ降りて、駅前にズラリ代書屋が並ぶ道を歩き、空いている代書屋に飛びこむ人達が見られた。 私もその一人で、スピード写真を撮ってもらい、おばさんにタイプで書類を作ってもらい、茶封筒に入れてもらったものだ。、、、、その代書屋が1軒、鮫洲駅前に残っていた。 まだ、“昭和”が残っている!

● 「鮫洲駅」は島式ホーム1面2線の外側に通過線を2線を有する高架駅。 ホーム有効長は6両編成分で、普通列車以外の優等列車は停まれない。 普通列車が停まると、外側の通過線をエアポート急行・特急・快特などが、複数本まとめて通過して行くこともある。 イライラし、精神的に悪い!




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● 20/11/3追記、、、、「江戸六地蔵」の記事をまとめました。
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