六地蔵の六番目?
江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。 宝永3年(1706)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。 一番(品川寺、東海道)から、五番(霊巌寺、水戸街道)までは現存するが、六番(永代寺、千葉街道)は明治元年の廃仏毀釈により、像は壊され、寺は廃寺となり、この世から“永代寺”は消えた。 28年後の明治29年(1896)、永代寺塔頭であった吉祥院が永代寺の名称を継ぎ、寺を再興し現在に至っている。・・・・・・今日は、妻と共に、かつての永代寺を偲び、深川公園、深川不動堂、富岡八幡宮の界隈を歩き回ってきた。 7千歩の散歩(妻と一緒の為、昼食・甘味・珈琲でカロリーオーバー!)
・・・・・・・・旧永代寺は、寛永元年(1624)、長盛上人の開山により永代島に創建された。 当時の永代島(現在の江東区富岡)は隅田川河口にあった約6万坪の砂州で、その内、2万2千坪程が寺社地であった。 旧永代寺は富岡八幡宮の別当寺として栄えたが、明治元年(1868)の神仏分離により廃寺となった。 跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになっており、深川一帯でも指折りの広大な寺院であった。 明治元年(1868)に廃仏毀釈により、廃寺となった。 広大な跡地は富岡八幡宮に移管されたようだ。、、、、江戸六地蔵の第六番は 、享保5年(1720)に造立され、富岡八幡宮の二の鳥居(現在の大鳥居より手前で、永代通りに面していた)の右奥(私の推測では、現在の大関力士碑の東側の住宅地かも)に安置されたが、明治元年(1868)の神仏分離令により壊された。、、、、また、永代寺の六地蔵は千葉街道の守護とされているが、江戸時代の千葉街道は、永代寺の北の竪川に沿っていた。 深川からはかなり離れた処で、本所地区を通過している。、、、、なお、江戸六地蔵を発願した深川地蔵坊正元の経歴は不明だが、一説では、永代寺の境内に小さな庵を持ち、このプロジェクトを推進したと云われている。
・・・・・・・・【おまけの話①】地名「門前仲町」の“門前”は旧永代寺を指している。 深川不動堂と間違えないで!
・・・・・・・・【おまけの話②】廃寺となった旧永代寺の和尚は、その後、富岡家となり、宮司として富岡八幡宮に奉仕することになる。 変わり身の早い和尚さんか?
・・・・・・・・【おまけの話③】平成29年(2017)、富岡八幡宮の宮司姉弟の喧嘩による殺人事件が発生。 詳細は自分で調べて!
● 旧永代寺はどこにあったのか?、、、、深川公園のグランド脇に、「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑がある。 公園は旧永代寺庭園の一部であったそうだ。、、、、碑の傍には、日清戦争の勝利を記念して建てられた燈明台(昔の灯台)がある。 外壁には、建設資金を拠出した歌舞伎役者、魚河岸、料亭、遊廓などの名が見える。 当初は深川不動堂の境内の南東に建てられていたが、平成20年に現在地に移設した。





● 深川公園の隣りの深川不動堂は何時から存在した?、、、、成田山深川不動堂のある処は、元は旧永代寺の寺域内である。 元禄16年(1703)に始まった成田山新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、旧永代寺内で行われていた。 旧永代寺は、明治の神仏分離令により明治政府から強引に廃寺とされ、七堂伽藍悉く取り壊されてしまった。 明治14年(1881)、何も無くなった地に不動堂が完成した。 これが、現在の深川不動堂の始まりとなった。、、、、旧永代寺にとっては、軒先を貸して母屋を取られたことになる。(成田山は当時の明治政府に賄賂を贈ったのか? その真相は謎!)



● 深川不動堂の参道に永代寺がある?、、、、現在の永代寺は深川不動の門前にある高野山真言宗の寺。 富岡八幡の別当寺だった旧永代寺塔頭の吉祥院が、明治29年に永代寺に改称し、その法灯を継承した。 つまり、潰れた老舗の番頭が自分の店の名を変え、“のれん”を守ったのだ!、、、、現在の永代寺には旧永代寺、江戸六地蔵にまつわるものは残されていない。


● 富岡八幡神社は何時、誰がつくったか?、、、、『平日の日中、大工さん』は答えにならない! 正解は、旧永代寺の長盛法印が寛永4年(1627)当時永代島と呼ばれていた現在地に創建した。、、、、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営され、鉄筋コンクリートを使用した、「重層型準八幡造り」となっている。


● 江戸六地蔵はどこに安置されていたか?、、、、私が調べた古書によると、富岡八幡宮の二の鳥居と表門を抜け、右奥に入った処に六地蔵は安置されていた。 富岡八幡宮の一の鳥居は現在の門前仲町交差点付近にあり、二の鳥居は現在の大鳥居の手前で永代通りに面していた。 そして二の鳥居の奥に表門があった。 私のチョイトいい加減な推測によると、現在の「大関力士碑」のあたりに表門があったと思われる。 そして、さらに右奥に入った処に六地蔵は安置されていた。 これを再び推測すると、現参道の右側:大関力士碑の後ろに建つマンション風住宅群のあたりと思われる。、、、、この辺りには「深川富岡〇番館」と称するマンション風住宅が複数棟ある。 これぞ、殺人事件に発展した富岡姉弟に関連する不動産かも(?) その地は六地蔵が安置されていた場所で、旧永代寺が廃寺になると、地蔵も壊され、更地となった場所を宮司の富岡家が保有し、住宅化したものと推理した。


● 最後に旧永代寺の江戸六地蔵はどこへ行った?、、、、壊され、川口の鋳物業者に売られ、溶かされてしまったらしい。 どこぞの寺の仏像に生まれ変わっているかも? 南無阿弥陀仏、合掌。
・・・・・・・・【おまけ】深川公園の西側に、癒しの空間が30数軒ズラリと並ぶ「辰巳新道」がある。 『仕事に疲れた主夫、家事に疲れた主婦、火事に疲れた消防士、どなたも夜になったら飲みに来て!』 『昭和レトロな飲み屋横丁で待ってます!』、、、、江戸六地蔵を語るならここで!



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