六地蔵の四番目
江戸六地蔵の四番目は日光街道(奥州街道)沿いの東禅寺に安置されている。 今日の散歩は、東禅寺はもちろんだが、旧日光街道の一部であった現在の都道464号線を踏破してきた。 1万2千歩の散歩。
・・・・・・・・都道464号線とは、、、、台東区浅草6丁目(言問橋西交差点)を起点とし、山谷、南千住駅を通り、荒川区南千住7丁目(南千住交差点)を終点とする、2.5km程の都道である。 全線が旧日光街道(奥州街道)の一部にあたる。 なお、台東区側は「吉野通り」、荒川区側は「コツ通り」の愛称がついている。
● 浅草橋(我が家)から都バスで飛ばして、「墨田公園」バス停で下車。 バス停は言問橋西交差点にある。 言問橋方向には、早朝の輝く太陽とスカイツリーが重なり、カメラを覗く目はまぶしい!
・・・・・・・・・・・・・・交差点から北に伸びる2本の都道。 右は隅田川沿いに汐入・堀切方面へ伸びる都道314号線、左は旧日光街道(吉野通り)の都道464号線。
● 待乳山聖天付近の都道464号線。 土曜日だから? 早朝だから? 車の少ない旧日光街道。、、、、この付近は『観音さま(浅草寺)の裏』と言ってもいいのだろう、江戸時代の常設芝居小屋である、「中村座」「市村座」「森田座」の猿若三座があった処。 今は、当時を偲んで石碑が建立されている。
● 都立浅草高等学校の付近で、都道464号線が通っていた「吉野橋」の親柱が道路両側に残されている。 下を流れていたのは山谷堀、上流は北区飛鳥山付近の音無川で、台東区に入ると吉原付近を流れ、吉野橋の先で隅田川に注いでた。 “おだいじんさま”は、“猪牙船”で隅田川・山谷堀と遡り吉原へ通ったのだ。、、、、当時、『 GO TO 吉原! 最大40%オフ』なんてあったら江戸幕府の人気は大いに上がったであろう!
・・・・・・・・・・・・山谷堀は埋め立てられ、現在は「山谷堀公園」として、かつての川筋に伸びている。
● 吉野橋から500m程北へ歩くと、東浅草2丁目に浄土宗寺院の春慶院がある。 春慶院は、月光山覚道寺と号す。 霊厳寺末として寛永5年(1628)に建立した。、、、、寺と云うより、和風住宅と云う趣の建物。
・・・・・・・・・・・・ここ春慶院に、吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいはれる「高尾太夫」の墓がある。11人の高尾太夫は、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。 この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓と云われている。、、、、この墓は、初代の高尾太夫のもの。 いやまて、三代目高尾太夫の墓だ! 諸説あるらしい。 いずれにしても、「高尾太夫の墓」である。
● 春慶院の北西50m程に処、旧日光街道からチョイト脇に入った処に、洞雲山東漸寺(東浅草2)がある。 東禅寺は寛永元年(1624)に創建された。 寺の正面に、江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が鎮座し、左隣には、アンパンの銀座木村屋総本店:開業者・木村安兵衛と妻ブナの夫婦像がある。、、、、本堂・像などを、狭い境内に押し込めたようで、変わった配置の寺だ!
・・・・・・・・・・・・東禅寺の六地蔵(地蔵菩薩坐像)の高さは2.71m。 品川寺に次いで第2番の宝永7年(1710)に造立された。 他の六地蔵は鍍金が施されているのに対し記録では本像は像の表面を布目条にやすりをかけ、弁柄色の漆を塗った上に金箔を置いたあとが残っていたとそうだ。 永年の風雨により、損傷が著しかったため、平成11年(1999)に修復工事を行った。 また、胎内仏として小形の銅造六地蔵地蔵菩薩坐像等が現存するそうだ。 なお東禅寺は昭和3年に、山谷堀近くの今戸町から現在地に移ってきた。、、、、この像も今戸から引っ越したためか、他の六地蔵と異なり、石の台座が無い!
● 南千住に入ると都道464号線は愛称「コツ通り」となる。 “コツ”とは何ぞや? 私は、小塚原刑場跡があるので、“骨”のことかと想像し、縁起でもない名だと思い、調べた。 答えは、地名「小塚原」を略し“コツ”としたそうだ。 “骨”のコツではない。 いずれにせよ、チョイト、気になる名だ!
● そのコツ通り(都道464号線)が日光街道(国道4号線)にぶつかる南千住交差点が都道464号線の終点である。 南千住交差点には素盞雄神社(すさのおじんじゃ)が鎮座。、、、、賽銭をはずみ(50円)、しっかりと家族(母、妻、娘家族 計8名)の健康・長寿を祈願、安いね!
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