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2020年11月

2020年11月28日 (土)

名前に魅せられて

今日はチョイト早起きして、埼玉県草加市の北東、中川の岸にある女体神社(草加市柿木町)へ行ってきた。 社名から想像すると、何やら艶めかしい気がするが、実体はゴク普通の神社である。 いずれの女体神社も主祭神は、櫛名田比売(くしなだひめ)、伊弉冉尊/伊邪那美命(いざなみのみこと)など女神である。 女体神社は、草加・越谷・春日部・松戸付近に分布する。 また、神奈川県川崎にも数社ある。 10数年前、「武蔵国一宮」を称するさいたま市緑区の「氷川女体神社」へ参拝したのを始めとして、川崎の「女体神社」、越谷川柳町の「麦塚女体神社」など、これまでに数社に参って来た。、、、、いずれも、生身の女体に手を触れることもなく、静かに、真剣に、祈願する。 ご利益は、女の神様ということもあって、恋愛・結婚成就、良縁祈願、安産祈願、そして子孫繁栄、などが相場!

東武伊勢崎線の新田駅で下車し、ひたすら東に向かって歩き中川の岸まで、約6kmの散歩です。 1万3千歩。




● 北春日部行きの普通列車で新田駅に到着。 北千住から乗ってきた車両番号は「77707」、残念だがオール7とはいかなかったが、縁起の良さそうな番号だ、帰りに宝くじ買おう! 「77707」の車輛は、2018年1月、近畿車輛(徳庵工場)で製造された東武鉄道 70000系 ( モハ77700形 )、グッドデザイン賞を受賞車両、チョイト鉄道オタク的に紹介。、、、、江戸時代の開墾により関東平野には多くの新田が生まれ、草加市域だけでも「新田」と呼ばれた村は120ヵ村にのぼった。 新田駅付近では、明治時代に9ヵ村を合併して新しい村が誕生した、合併した村のうち6ヵ村が近世の新田開発で生まれた村であったところから、新たな村を「新田」と命名し駅名にもなったそうだ。 駅の開業は明治32年(1899)12月20日。、、、、現在は一日当たりの乗降人数約32,000人、普通列車しか停まらない高架駅。

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● 駅から、ひたすら東に向かって歩く。 東京都葛飾区の中央を北から南に流れ、江戸川区西葛西付近で荒川に合流し東京湾に注ぐ中川の岸(草加市柿木町1)まで、約5.5km程ある。
・・・・・・・・・・・・新田駅東口前は一応ロータリが造られ、良く言えば“昭和レトロな飲食店街”もあるが、悪く言えば“店は狭く寂れた感じの飲み屋が数軒”、これでは東京のベッドタウンの駅前とは言えない! どうやら再開発するようだ、駅前の区画整理事業が始まっている。

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・・・・・・・・・・・・駅前から、「そうか公園通り」と呼ばれる両側一車線のバス通りを歩く。 この道のどん詰まりが中川である。、、、、まずは、綾瀬川に架かる「槐戸橋」を渡る。 さて、「槐戸」と書いて何と読む? 難読、「さいかちど」と読むのです。 サイカチ(梍・皀莢)は、マメ科の落葉高木。 “槐”は、本来「エンジュ」と読み、鬼門除けなどに使われるりマメ科の高木。 “梍”と“槐”は、ともにマメ科の木で、漢字も似ており、どうでもいいから『一緒にしちゃえ』で、“槐戸”と書いて「サイカチド」になったようだ。 橋の東側の八幡町はかつて「槐戸村」と呼ばれたそうだ。、、、、橋の親柱にカブトムシがいる、なぜ? カブトムシは梍(さいかち)の樹液が好きな虫で、「サイカチ虫」と呼ばれることもあるそうだ。、、、、【ついでの話】 現在の東京都台東区千束3丁目、板橋区西台、神奈川県藤沢市高倉のいずれにも小字名として「槐戸」があったそうだ。(雑学に強くなるブログは雅万歩!)
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・・・・・・・・・・・・草加市八幡町、法務局、そうか公園通りの標識前、現役の赤いポスト前、古綾瀬川に架かる古川橋、葛西用水に架かる青上橋(せいじょうばし)、川柳小学校と、通り過ぎていく。

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・・・・・・・・・・・「八条用水橋」を渡ると、左手に「そうか公園」が広がる。、、、、その先で、東埼玉道路(=国道4号)を横断するのだが、道路には幅20m程もある中央分離帯があり、全体の幅は40m以上。 横断歩道の手前に『歩行者は青信号2回で渡って下さい』と書いてある。 実際、私が横断を始めると、中央分離帯で信号が赤になった!

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・・・・・・・・・・・・埼玉県柿木浄水場を過ぎると、「女体神社(南)」交差点。 ここはT字路で、歩いてきた「そうか公園通り」の終点。 交差点正面の民家の裏には、中川が流れている。 対岸は埼玉県吉川市。

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● 本日の目的地である、「柿木女体神社」に着いた!、、、、柿木女体神社は、伊弉冉尊を祀り、柿木の鎮守として人々に厚く敬われてきた。 柿木は、中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承では、この土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。 豊田氏は、平将門の伯父国香を祖とし、下総国豊田荘の地頭を務め、のち石毛に本城を構えた。しかし、天正3年(1575)城主豊田治親が恒例の雷電神社参拝の時、下妻の多賀谷氏の侵略にあい、治親は討たれ本城も陥ちてしまった。 残された婦人と遺子は急変により石毛を捨て縁をたよってここ柿木まで落ちのび、この地を永世の地と定めたというのである。 豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。 それによって分霊をこの地に勧請し創建したのが当尿体神社である。 社殿は北方、筑波山に向けて建てられている。、、、、ここは無人の神社。 若い巫女さん(学生アルバイトでもOK)でも居て、女体を模った根付け、キーホルダー、お守りでも売っていれば、買ってあげるのだが、残念!

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・・・・・・・・・・・・これで、また一ヵ所の女体神社を制覇した! まだ、10ヶ所以上の女体神社が残っているので、私の「女体神社巡り」は、まだまだ続く。



● 来た道を、浄水場の先まで戻り、バスで新田駅へ向かう。

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2020年11月26日 (木)

知らない浅草寺

三度目の時短要請で、いよいよ勝負の『三週間』に突入する。 何もすることのない年寄りは、『不要不急の外出は避け』家でジ~~ット我慢の子。・・・・・と云うことで、年寄りの一人である私も、家で“朝寝、朝風呂、朝御飯”と思ったが・・・・・『そうは問屋が卸さない』、妻の一声『ゴミ出して!』、もう一声『10時に〇〇(嫁いだ娘)が来るよ!』、ついでに一声『散歩に出るんでしょ!』、いつものパターンである。

今日は『三密』を避ける気持ちで、早朝の浅草寺まで歩いてきた。




● 朝の7時50分、雷門の前に七五三(?)  いやいや違った、早朝から結婚記念写真か(?) プロらしきカメラマンがいる、メイクする人もいる。、、、、近くで拝見すると、美男・美女のカップルだ! 自分の若い時を思い出す(70歳過ぎた今は美爺・美婆のカップルとなった) 若い二人が羨ましい!

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・・・・・・・・・・・・若いカップルの撮影はおわり、人影少ない朝の仲見世をバッチリ!パチリ!

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・・・・・・・・・・・・普段は、建物を撮りたくても、美人に目がいき、ついついトリアージして美人優先。 今日は参拝客・観光客が少なく、今が撮影チャンスだ!

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・・・・・・・・・・・・修復中の本堂天井画、中央の川端龍子の「龍之図」は修復中の足場に隠れ見ることができず、左右に描かれた堂本印象の「天人之図」を見ることができた。 ヤッパリ、“龍”より“美人”か!

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● 今日は浅草寺境内にあるもので、見ても記憶に残らないもの、見ずに素通りしてしまうもの、幾つか紹介する。
・・・・・・・・・・・・まずは、仁王門の右横にある「久米平内堂」、、、、久米平内は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没した。 その生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺めたので、その罪を償うために「仁王坐禅」の法を修行し禅に打ち込んだ。 そして、自らの坐禅の姿を石に刻ませ、犯した罪を償うため、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。 それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。 現在でも、私を含め恋の仲立ちに期待し、願いをこめる人は多い。、、、、現在の堂は昭和53年(1978)に再建されたもの。

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・・・・・・・・・・・・現在、五重塔は仁王門の左手(西側)に建立されているが、かつてはその反対側(東側)に位置していた。 現在は、「旧五重塔跡」と記された石柱が跡地に建っている。 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33m)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立された。、、、、塔のあったこの付近は、修学旅行、ツアー旅行の集合場所。 いつもは、団体さんがウロチョロしている。

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・・・・・・・・・・・・・・お札所の裏側に「鳩ポッポの歌碑」がある。、、、、「鳩ポッポ」の歌は作詞:東くめ 作曲:滝廉太郎である。 東くめが明治34年(1901)に観音さまの境内にて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものだ。 歌碑の建立に際しては、彫刻家:朝倉文夫から鳩の像と題字が寄せられた。 作曲者滝廉太郎と同郷旧知の深いゆかりに依るものと云われている。 歌詞は御存じかな? ♪♪ 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポととんでこい お寺のやねからおりてこい 豆をやるから みなたべよ たべてもすぐに かえらずに ポッポ ポッポと ないてあそべ ♪♪ この歌はたちまち全国に広がった。、、、、しかし、10年後の明治44年(1911)、音楽の教科書「尋常小学唱歌」にて歌詞をチョイト変えた「」が登場した。(作者:不明) ♪♪ ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなで仲善く 食べに来い  ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆はうまいか 食べたなら 一度にそろって 飛んで行け ♪♪ 「鳩」が「鳩ポッポ」を制覇をしてしまった。、、、、この歌碑を見ていて気がついた、境内で糞を落としていた大勢の鳩が、いつの間にか境内で見なくなった! 何処へ行った? 

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・・・・・・・・・・・・鳩ポッポの歌碑の隣りに、「迷子しるべ石」がある。、、、、昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、右側面に「志らする方」、左側面に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。 情報未発達の時代には重宝され、江戸市内の繁華な地に建てられたものの一つ。 安政7年(1860)、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957)に再建された。、、、、“コロナ”の世では、右に求人情報、左に求職情報を貼って、マッチングさせたらどうだろう? 『Indeed』には負けるかも、前言却下!

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・・・・・・・・・・・・・・浅草寺の北側(裏側)、浅草寺病院に隣接する一画に浅草寺の支院が並んでいる、ここを「浅草寺一山支院」と称する。、、、、ここは、関東大震災後に区画整理でつくられた1100坪の敷地に、浅草寺の21の支院が集められ住宅地を形成している。 建物は不燃化のため、鉄筋コンクリート造、2階建て(現在の3階部分は後の増築)とし、基本は2院で1棟とする(入口は正反対になる)形態で設計し、昭和7年(1932)に竣工している。、、、、この建物群の設計は、大阪市中央公会堂、鳩山会館、黒田記念館など多くの名建築を残している岡田信一郎である。、、、、浅草寺参りの観光客も、散歩する近所の住民も、この建物に関心を持たず、ペチャクチャお喋りに夢中で、通り過ぎていく。 『文化財級の建物だよ!』と、教えてあげたいが、住んでいる方の迷惑になっても困るので内緒にしておく。

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・・・・・・・・・・・・本堂の裏は広い駐車場、去年までは中国人ツアーの観光バス、黄色のはとバスなどで、連日満車状態。 この駐車場の北側(浅草寺病院側)に老夫婦の胸像がある。 二人は、戦前は鉄鋼王、戦後はホテルニューオータニの創業者であった:大谷米太郎と妻の大谷さとである。 像は、宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年(1967)に造立。「功徳大宝海」の文字は清水谷恭順貫首の筆。 優しそうな大谷米太郎と物悲しげな妻の像に、なにか物語がありそうだ。 、、、、戦後の一時期は、菊池寛実(高萩炭鉱創業)、南俊二(相模鉄道社長)とともに『日本の三大億万長者』と称されたそうだ。 私も、一度でいいから『令和の大富豪』と云われてみたい!

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・・・・・・・・・・・・本堂の西隣にある影向堂(ようごうどう)は、平成6年(1994)に現在地に落慶した、鉄筋コンクリート寄棟造の立派な建物。 その影向堂の西側に小さな「六角堂」がある。、、、、六角堂は、室町時代(16世紀頃)の建立で、木造単層六角型の造り。 都内最古の木造建築なり。、、、、本尊は日限地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うらしい。 本当に叶うなら、“三週間”の間、“コロナ撲滅”の願いを祈るのだが、信じられない! 

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・・・・・・・・・・・影向堂から南西方向に50m程の処(新奥山の碑群)に「瓜生岩子の像」がある。、、、、「瓜生岩子(うりゅういわこ)」とは? 文政12年(1829)岩代耶麻郡(現:福島県耶麻郡)熱塩村の渡辺家に生れたが、9才の時父を失い、母は岩子を連れて生家へ帰った。 そのため岩子は母方の姓瓜生を称えた。 14才の時会津若松の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。 17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。 明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、同22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努め東京でも深川と根岸で孤児たちの救護所の設置、助産婦養成や失業救済のため水飴の製法伝習所を開設し無料で講習した。 その製品の売上金は慈善事業に役立てるなどして「仏の岩子」と呼ばれた。 さらに明治26年には「済生病院」を開設するなど社会福祉事業に尽くした功績が認められ、同29年女性では最初の「藍綬褒賞」を受賞したが、翌30年福島で没した。 享年69歳。 生涯を慈善事業に捧げた岩子の善行を賞揚し、同34年(1901)篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。 フックラ顔で真剣に見つめている像は、『日本のナイチンゲール』です。

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・・・・・・・・・・・・最後は、火除け、盗難除けの狸! 浅草公会堂前(伝法院通り)の伝法院山門の左側に狸が居る鎮護堂がある。 チョイト控えめな山門は素通りしてしまうかも?、、、、明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首唯我韶舜大僧正が、夢告により境内に棲む狸を伝法院の守護としてまつったもので、鎮護堂は伝法院境内脇にある。 現在の堂舎は、大正2年(1913)建立。、、、、境内には、狸だけでなく、水子地蔵、加頭地蔵、幇間塚なども祀られている。

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2020年11月22日 (日)

道なりに二社一寺

東武伊勢崎線の五反野駅から日暮里舎人ライナーの高野駅まで歩く予定で、五反野駅から散歩を始めた。 旧日光街道まで来ると「神明宮通り」称する商店街があった。 『これは参道だ! 行ってみよう!』と道なりに歩けば、以前寄ったことがある「梅田神明宮」 参道をさらに道なりに歩くと「梅田稲荷神社」 さらにさらに道なりに歩くと「関原不動尊」に出た。 いずれの寺社も五反野から高野に向かう方向にあったが、途中でチョイト寄り道をしたため、関原不動尊を過ぎた時点でタイムオーバー。 尾竹橋通りに出て「本木二丁目」のバス停からバスで帰る。 1万歩の散歩です。




● “密”を避け、東武伊勢崎線のガラガラの各駅停車に乗り、各駅停車しか停まらない乗降客の少ない五反野駅で降りる。 ここの駅なら、朝から“コロナ”も居ないだろうと、妙な安心を感じる。 

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● 五反野駅から西に向かって住宅地の裏道を行く。 所々、住宅の軒下に、〇〇工務店、〇〇塗装、〇〇工業と、建設関連の会社名がみえる、足立区らしいね! 梅田2丁目で国道4号(日光街道)を横断する。、、、、表通りも裏通りも、三連休で、人も車も少なく、歩きやすい。

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● 梅田3丁目の東端に沿って旧日光街道が北へ伸びている。 その梅田3丁目と6丁目の境に「神明宮通り」と云う商店街を見つけたので、その道を歩いてみることにした。、、、、600m超の神明宮通りには、20軒程の商店が商店街を構成している。 戦後設立した商店街で、昭和50年頃は活気があったが、今は振興組合も解散したそうだ。、、、、Go To トラベル 、Go To イートの恩恵には縁がなさそうな商店街だ!

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● 商店街のほぼ中央に「梅田神明宮」がある。 鳥居の前に立って『アッ! ここは今年の春、来た・来た』、、、、梅田神明宮の創建年代は不詳だが、地主神が祭られていた当地に、神明宮を創建した。 井上正鐡が伝道した禊教発祥の霊場だといわれている。、、、、明治7年(1874)の造営である拝殿と幣殿は、チョイトくたびれてきたようだ。 また、拝殿の右側には天保11年(1840)より教祖が住んでいた旧宅が残されている。(柵仕切られ近づけず)

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● 神明宮通りの西端には「梅田稲荷神社」がある。、、、、梅田稲荷神社は、梅田町(足立区梅田一帯)の鎮守で村社であった。 志田先生義広(源義広)が創建したと伝わるので、本当なら平安時代末期である。 どうやら、神明宮より古そうだ、ならば鳥居前の通りは「神明宮通り」と云うより「稲荷通り」に変更しては?

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、青面金剛の庚申塔が2基ある。

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● 梅田稲荷神社から西に向かって、ほぼ道なりに進むと、西新井橋北詰と西新井駅を結ぶ「関原通り」にぶつかる。 この角に、関原不動尊(大聖寺)がある。、、、、真言宗豊山派寺院の大聖寺は、関原山不動院と号し、関原不動尊として有名である。 寺は、宝徳元年(1449)開山とも文明7年(1475)開山ともいわれてる。 本尊は、不動院の名のとおり不動明王。 ひときわ目立つ木造の本堂は、足立区内最大の大きさを誇る。 現本堂は、嘉永元年(1848)に深川木場の講中が、材木その他を寄進し、8年の歳月を掛けて再建された。、、、、浅草山谷講中が寄進した、銅の鋲がふんだんに打ち込まれた大賽銭箱(安政4年銘)も自慢の一つ。、、、、自分の病んでいる部分を撫でると治るといわれている「おびんずる様」も居たので、チョイト頭を撫でてご挨拶。

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● 「関原通り」(商店街)を100m程歩いて、横道を抜け尾竹橋通りに出た。 ここから、日暮里舎人ライナー高野駅までは、あと40分以上は掛かるので、今日の散歩はここまでとする。 「本木二丁目」から北千住駅行きのバスに乗る。

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2020年11月21日 (土)

江戸川区の中心

ここ数日、コロナ新規感染者数は東京で500人を超え、都民はピリピリしている。 さらに『高齢者の不要不急の外出はひかえて欲しい』と云われると、散歩するのも躊躇する。 今日も“密”を避けて、都営新宿線の船堀駅から、東京メトロ東西線の葛西駅まで歩いてきた。 1万歩。




● 乗客の少ないガラガラ電車で船堀駅に到着。 かつて金魚の養殖が盛んだった街「船堀」をアピールする金魚の駅の壁画、かつて白鷺が群れ飛ぶ田園地帯「船堀」を象徴する駅前の白鷺の像、いずれも“かつて”の船堀だ! 今の船堀は江戸川区の中心部で、駅の北側にあった都営住宅の跡地に区役所を新築・移転する予定である。

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・・・・・・・・・・・・駅前に建っている“梯子”のような塔、コレは何?、、、、一番上の緑の位置が江戸川区を流れる中川の堤防の高さ、その下の赤の位置が伊勢湾台風クラスが襲来した時の推定最高潮位、黄の位置は昭和24年のキティ台風襲来時の潮位、水色の位置は平時の最高潮位。 要するに、堤防が決壊すると江戸川区は水没すると云うことだ。 コロナも心配だが、台風・地震がそれ以上に恐いね! ハザードマップをよく見て、日頃からは早めの対策を心がけよう!

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● 駅から船堀街道を南下し、新川に架かる宇喜田橋を渡る。、、、、初代の宇喜田橋は昭和4年(1929)に架設された賃取橋(有料の橋)であった。 二代目は昭和15年(1940)木造で架橋された。 現在は三代目で、昭和32年(1957)に架設された長さ37.5mの中路鋼床版箱桁橋で、日本初の鋼床版橋である。 設計・架設は横河橋梁製作所。

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・・・・・・・・・・・・新川は、並行する都営新宿線と東京メトロ東西線の中程を東西に流れ、中川と旧江戸川を結ぶ運河である。 徳川家康が江戸に入府し、利根川流域から江戸に向け水運を活発化させる整備事業として造られた。 日本橋茅場町から隅田川をチョイと上って、小名木川に入り、小松川閘門を通り新川に入り、浦安の北側で旧江戸川に入り、またまた川を上り行徳に至る水運路が整備された。(注:江戸時代には、現在の荒川・中川は無かった)、、、、家康は古くからあった隅田川、旧中川、旧江戸川を小名木川、新川の運河で結び、行徳の塩、利根川周辺の味噌、醤油、東北地方の年貢米など、江戸へ輸送する大動脈を構築したのである。

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● 新川を越えて、左に曲がり、右に曲がり、左に、右に、ギザギザに歩いて、北葛西4にある浄土宗の寺「華光山巌池院法蓮寺」の前に出た。 立派な山門の奥に、鉄筋コンクリート造の立派な本堂が見えた。 チョイト、手を合わせて行こう。、、、、寛永3年(1626)宇喜田新田の開発者宇田川喜兵衛定氏の隠居所跡に、子の定次が亡父追悼ために建てたのが草創。 開山は寛永13年(1636)真譽上人。 法蓮は定氏の入道名。 本尊は二尺一寸五分の阿弥陀如来で、聖徳太子の作と伝えられているそうだ。、、、、境内にある、駒形の月日青面金剛像邪鬼三猿二鶏の庚申塔(正徳5年(1715)銘)は、さほど劣化しておらず良い状態で残っている。

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葛西橋通りを東に歩き、都バスの江戸川営業所付近から、右に、左に、また右に、また左に、何度か曲がって、東京メトロ東西線の葛西駅に向かう。

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・・・・・・・・・・・・葛西駅に到着。 葛西駅は昭和44年(1969)3月29日 に開業の高架駅。、、、、駅前のバス停に、ナント!秋葉原駅行きが停まってる。 このバスに乗れば、浅草橋(我が家)の近くを通るだろうと思い、丁度、発車寸前、あわてて乗る。(写真を撮る時間も無し) 

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2020年11月18日 (水)

戸田橋と荒川橋梁

一昨日笹目橋を渡り戸田公園駅まで歩いたので、今日は戸田公園駅から戸田橋を渡り浮間舟渡駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 赤羽で埼京線に乗換て戸田公園駅まで来た、我が家(浅草橋)からは所要時間:約40分。 多くの通勤客の移動方向とは逆なので、電車は比較的すいており座れた。 都心に向かう電車は乗車率120%ぐらい、着席するのは無理だね!、、、、戸田公園駅に到着した時、反対側のホームに上り(都心方面)列車が停まっており、見ると・ナント!相鉄線直通の海老名行きであった。 武蔵浦和駅始発で新宿・大崎・武蔵小杉・西谷経由で相鉄線の海老名駅まで、所要時間:1時間36分の列車である。 埼玉県のベッドタウンから都心を貫いて神奈川県のベッドタウンまで、端から端まで乗る人は、どんな人かチョイト興味が湧いてきた。(きっと、私ような鉄道オタクのヒマジンかな)

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● 駅から戸田橋へ向かう前に、戸田漕艇場地蔵堂に寄ってみた。、、、、、、

・・・・・・・・・・・・まずは、漕艇場の手前にある戸田橋親水公園に保存されている「三代目戸田橋の親柱」を見る。 三代目戸田橋は、長さ545m、幅11m、当時の橋梁技術の粋を集めた近代的な鉄製トラス橋で、完成当時は日本一美しい橋として話題を呼んだそうだ。 親水公園には、三代目戸田橋の埼玉県側の親柱一対が移設されている。、、、、戸田橋の設計者は、昭和初期の著名な橋梁設計士であった増田淳であり、親柱の下段石積みに施された隅部の面取り加工や、石積み中段に施された曲線と直線を混合させたアール・デコ調の石造彫刻など、凝ったデザインが目を引く。 橋は総工費101万9000円で、昭和7年(1932)に完成した。 現在の戸田橋の完成後、昭和53年(1978)に撤去された。

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・・・・・・・・・・・・戸田橋親水公園の前に、長~い戸田漕艇場が見える。両側には、大学・企業の艇庫が並ぶ。 コロナの影響か(?)、練習している姿が見えない!、、、、オリンピックに向け、選手強化は大丈夫か?

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・・・・・・・・・・・・新幹線・埼京線の高架橋を抜けて、漕艇場とは反対側の戸田市川岸1丁目の「地蔵堂」に寄る。 この地蔵堂は、ナント・戸田市最古の木造建築である。 江戸時代の「中山道分間延絵図」にも記されているそうだ。、、、、墓地には、これまた古そうな、庚申塔・板碑・地蔵・墓がゴロゴロ。 “戸田市最古”では、重要文化財にならないのかな!(国・県・市のいずれも無指定)

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・・・・・・・・・・・・地蔵堂の南、荒川の土手下に「水神社」がある。 神社の創立など詳細は不明だが、御神体の「水神宮」の石碑には寛政8年(1796)の銘がある。 古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様のようになっていた。、、、、小さな神社で、かつて渡しがあった時代、街道脇に祀られていたのかも?

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● 荒川には、国道17号(中山道)を通す戸田橋が架かり、その下流側にはJR東北新幹線・埼京線の荒川橋梁が並行して架かっている。
・・・・・・・・・・・・・・現在の戸田橋は、昭和53年(1978)8月13日に完成した、橋長519.0m、幅員21.0mの鋼連続箱桁橋。 四代目の戸田橋である。、、、、初代戸田橋は、明治7年(1874)に民間人が私財を投じ戸田橋の工事に着手した。 途中資金不足で、オーナーは変わったが明治8年(1875)に木製、橋長136.0m、幅員4.2mの戸田橋が竣工した。 通行は有料であった。、、、、二代目の戸田橋は、初代の橋が傷んだため、東京都と埼玉県が資金を折半し、大正元年(1912)に木製の土橋に架け替えられた。 橋長129.0m、幅員5.0m。 大正12年(1923)の関東大震災と翌年の大水で破損した。、、、、三代目の戸田橋は、先に説明した通り、昭和7年(1932)に完成し、昭和53年(1978)に撤去された。

・・・・・・・・・・・・・・戸田橋から下流に70m程離れて、東北新幹線・埼京線が走る複々線の荒川橋梁が架かっている。 橋長は521.2m、総幅員20.7m、最大スパン86.7mの鉄道橋。 工費は約100億円。 橋梁の開通は、先ず昭和60年(1985)3月14日の東北新幹線部分の供用が開始され、次いで昭和60年9月30日に埼京線部分の供用が開始された。


・・・・・・・・・・・・・・まず埼玉県戸田市の土手から、右(上流側)に戸田橋、左(下流側)に荒川橋梁が見える。(橋上に外路灯がたっているのが戸田橋、架線柱がたっているのは荒川橋梁)

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・・・・・・・・・・・・戸田橋を渡る


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・・・・・・・・・・・・東京都板橋区の土手から、左(上流側)に戸田橋、右(下流側)に荒川橋梁が見える。

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● 戸田橋を渡ると、JRの高架橋は大きくカーブして、浮間舟渡駅に向かう。 浮間舟渡駅は北区浮間と板橋区舟渡にまたがる駅。(ホームの中程に区境があるようだ) 昭和60年(1985)に埼京線の駅として開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。 ホームからは隣に並走する新幹線が良く見える。、、、、サラリーマン時代には、東北方面へ出張した帰り、夜、大宮を過ぎるとマンション・団地の明りが灯る夜景の中に、浮間舟渡駅の駅名が見えると、『あ、東京に入った、もうすぐ上野だ!』とホッとする思い出がある。

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2020年11月16日 (月)

終点、西高新平

地図を眺めていたら笹目橋を渡って埼玉県に入ってみたくなり、今日は都営三田線の終点:西高島平駅から笹目橋を渡りJR埼京線の戸田公園駅まで、1万歩の散歩です。




● 巣鴨でJR山手線から都営三田線に乗換て、約23分で西高島平駅に到着。 我が家(浅草橋)からは、約50分要する、“散歩”にしてはチョイト遠いね!、、、、三田線の終点:西高島平駅は相対式ホーム2面2線の高架駅である。 列車は両方のホームから交互に発車するので、先発列車がどちらのホームから出るか、乗る前に確認する必要がある。 ホームの先に、国道17号新大宮バイパスの上を走る首都高5号が至近距離にあるため、列車停車位置から車止めまでの過走距離は短かく、停車位置に止まらずオバーランすると、車止めに激突する確率は高い! 事故が起きないように慎重に運転して欲しいね。、、、、駅名の“西高島平”は地名としては存在せず、高島平の西端の駅という意味合いらしい。 駅から西へ400m程歩けば埼玉県和光市である。 

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● 駅から大宮バイパス沿いに北へ500m程歩くと笹目橋(ささめばし)がある。 笹目橋は、東京都板橋区高島平と埼玉県戸田市堤外の間で荒川および新河岸川(下流で隅田川に合流)に架かる橋。 国道17号新大宮バイパス上り線の橋と下り線の橋と、それらの間にある首都高速5号池袋線の橋の、計3本の橋の総称である。 上流側から新大宮バイパス下り(4車線+自歩道)、首都高速5号池袋線(上下各2車線)、新大宮バイパス上り(4車線+自歩道)の3本の橋が並んで架かっており、竣工年が最も古い下り線の橋のみ一段低くなっている。、、、、初代の笹目橋は、昭和17年(1942)に開通した、欄干のない木造橋で、河川増水時は水面下に沈む冠水橋だったそうだ。 戦後、昭和29年(1954)には2代目の笹目橋(冠水橋)が竣工する。 昭和39年(1964)に現在の大宮バイパスの下り線に該当する笹目橋第一橋が完成する。 昭和52年(1977)に第二橋(現在の首都高5号線)が、昭和63年(1988)に第三橋(現在の大宮バイパス上り線)が完成する。 全長はいずれも621.7 mの鋼製連続箱桁橋。 戦後も造られた冠水橋、残しておいて欲しかったね!、、、、橋の名前は現在の戸田市南西部にあった、旧笹目村に由来する。

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・・・・・・・・・・・・笹目橋上の都県境は橋の中央ではなく、荒川の右岸より(新河岸川より)にある。 新河岸川は東京都板橋区に属す。 また、埼玉県の部分で、板橋区側の100m程は埼玉県和光市に属し、その北側の左岸までが埼玉県戸田市に属す。 橋上には、都県境、市境の標識が並ぶ。、、、、両岸は板橋区と戸田市なので、橋上の和光市の標識は“不要”と思う人もいるだろうね。 私もその一人!

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● 笹目橋を渡り戸田市に入ると、県道68号(オリンピック通り)を歩き、戸田公園駅に向かう。、、、、「オリンピック通り」は、1964年東京オリンピックの漕艇競技場(現在:戸田漕艇場)までの交通のために整備された道路である。 道路の両側は大型の工場・倉庫とマンションが並び、興味を引くものもない、面白くない道だ。 ひたすら歩くだけ!

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オリンピック通りは私をJR埼京線戸田公園駅まで誘導してくれた!、、、、昭和60年(1985)9月30日に国鉄の駅として開業。 島式ホーム1面2線とその外側に2線の通過線を有する高架駅。 快速の停車駅で、新宿まで23分と便利な処なので、駅周辺にはマンションが並んでいる。
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2020年11月14日 (土)

昔の名前で出ています

久しぶりに西武新宿線の都立家政駅で降りてみた。 駅から南のJR高円寺駅に向かって歩きはじめたが、途中で進路を西へ「八幡通り」と称する裏通りを行き、日蓮宗寺院:蓮華寺の山門前に出た。 蓮華寺からは南西に歩きJR阿佐ヶ谷駅まで、1万歩の散歩です。

 



● 高田馬場から普通に乗って6駅目、西武新宿線の「都立家政駅」で下車。 相対式ホーム2面2線の地上駅で、改札は上りホーム側に北口、下りホーム側に南口がそれぞれある。 また、昭和59年(1984)に完成した両ホームを結ぶ地下道もある。 一日当たりの平均乗降客数は1万9千人程で、各駅停車以外は全て通過する小さな駅。、、、、駅は昭和12年12月25日に「府立家政駅」として開業した。 開業時、近くにあった「東京府立中野高等家政女学校」の父母と地元有志による陳情・土地提供で設置された。 昭和18年(1943)10月1日、東京府が東京都になった時に、駅名も現在の「都立家政」に改称された。 昭和21年(1946)3月、家政女学校は廃止され都立鷺宮高等学校に変わったが、以来60余年たった現在も駅名は変わらず健在である。 地元では「都立家政」の名に愛着があるようで、駅名変更の要望はないらしい。、、、、最近の似た話だが、「豊島園駅」は遊園地がなくなり、駅名改称するのかな(?)

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● 駅前で北へ(西武池袋線練馬駅方面)行くか、南へ(JR中央線高円寺駅方面)行くか、悩み悩んでいると、脇を短いスカート女子高生が通過。 目が女子高生の方に向くと、引き続いて男子高生が数人脇を通過、その瞬間ひらめいた『駅名の由来となった旧都立家政(鷺宮高校)を見に行こう!』、、、、と云うことで、駅から南の商店街をチョイト歩いて、都立鷺宮高等学校に寄ってみた。 もちろん、校内には入れないので外からギョロギョロ・ジ~と拝見すれど、特に私を喜ばすもの、感動させるもの、驚かすもの、何も見えず、つまらない! 早々に、学校を立ち去る。

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● 高校から、もと来た商店街に戻り南(高円寺方面)へ歩くと、商店街の外れ(中野区若宮2)に庚申塔があった。、、、、祠には「享保十乙巳年十月吉日」(1725)銘の月日青面金剛二鶏邪鬼三猿の庚申塔がある。 近所の方が、面倒を見ているそうだ。、、、、庚申塔がある地点は、早稲田通りと青梅街道を結ぶ間道で、さらに都立家政駅の方から(歩いてきた)道がぶつかる“追分”であったと推測される。 300年前の庚申塔に合掌!

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● 妙正寺川に架かる川北橋を渡ると「大和町中央通り」となり、この道を道なりに歩くと高円寺駅前の「純情商店街」に出る。、、、、橋を渡り大和町中央通りを歩いてみたが、道路拡張のため両側は、立ち退いた後の空き地と、新しい建物ばかり、この道は面白味が無い! 少し行くと「八幡通り」と書いた裏道と交差した。 細い道の方が面白そうだと、直角に曲がり八幡通りを西へ向かう。(後に気付いたのだが、この道を東に向かうと大和町八幡神社がある)

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・・・・・・・・・・・・八幡通りの西端に到着、なんとココは以前訪れた蓮華寺(大和町4)の門前であった。

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● 蓮華寺門前まで来たので、チョイト手を合わせて行こう!、、、、早稲田通りから北西へ入った裏道の傍に朱塗りの山門がある日蓮宗の大寺「泉光山蓮華寺」 鬱蒼とした樹林に囲まれた大きな池のある寺。、、、、蓮華寺は、増山弾正少弼正利の母で徳川家綱外祖母のむらさき(法名:泉光院殿妙澄日行)と、増山正利の妹女毛利刑部少弼室(法名:蓮華院殿妙通日香大姉)開基となり、万治元年(1658)関口台町(文京区)に創建、幕府より寺領20石を拝領した。 明治44年(1911)現在地へ移転した。 本門寺末。


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● 早稲田通りを横断し、杉並区に入る。 南西方向に1km程歩き、小さな商店街を抜けるとJR阿佐ヶ谷駅に出る。、、、、阿佐ヶ谷駅は大正11年(1922)7月15日に国鉄の駅として開業。 昭和41年(1966)に高架複々線化工事完了した。、、、、平日は快速電車が停車するが、土休日は停車しないため、快速線のホームは閉鎖されてしまう。 今日は土曜、快速は停まらないので、中央・総武緩行線に乗る。 緩行線は我が家のある浅草橋を通り千葉方面へ向かうので、乗ったら一本。 気持ちよく、チョイト一眠り。

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2020年11月11日 (水)

寄席発祥の地

3ヵ月ぶりに泌尿器科の定期検診で、上野の病院に行ってきた。 数年前に、前立腺肥大の兆候があり診てもらったのが縁で、以来、定期検診を受けている。、、、、私の住む浅草橋駅周辺は、泌尿器科の不毛地帯である。 『泌尿器科 浅草橋』でWeb検索すると、10件程出てくるが、紹介状が必要な大病院が数軒、その他は、スグ診てもらえるがチョイト不安な“何でも屋”(先生一人で、内科、小児科、外科、皮膚科、婦人科、精神科など、全てOK)の診療所ばかり。 “泌尿器科”専門・準専門の診療所が無い! 婦人科・産科・小児科・性病科も、同様に不毛地帯である。 “浅草橋”の住人は、『チンチンの病に罹らず、頑張っても子宝に恵まれぬ、丈夫な体をもち、欲はなく決して質の悪い性病に罹らず、いつも静かに笑ってる、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、みんなに“ヨ!旦那!”と呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういうものに私はなりたい』と思っているのかな?

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・・・・・・・・・我が家から、病院へ、その後東上野のお寺を歩いてきた。 8千歩




● 検診を受け病院を出ると下谷神社(東上野3)がある。 「浅草通り」に面して、大きな一の鳥居が迎えてくれる。 扁額の字は東郷平八郎の書と云われている。、、、、下谷神社は天平2年(730)上野の忍ヶ岡に創建され、寛永4年(1627)寛永寺建立のため山下(現:岩倉高校付近)に移された。 延宝8年(1680)に現在地の北西50m程の処に移る。 その頃、本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」などとよばれたそうだ。 稲荷町という地名も、本社に由来する。 江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。 明治5年(1872)に「下谷神社」と改称。 関東大震災の後、昭和3年(1928)、区画整理により現在地に移転。、、、、境内では、“梯子乗り”の練習用と思われる梯子が固定されてる。 世の中も変わり、町内の鳶職も少なくなり、後継者不足では? 稀に、落下して救急搬送される人もいるようだ、皆さん注意して!

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・・・・・・・・・・・・・・・・・寛政10年(1798)下谷稲荷社境内に於て、噺の会が初めて有料で催され、これが江戸の寄席の発祥と伝えられている。 子規の句碑「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」と並んで「寄席発祥之地」の碑が建っている。


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● 地下鉄稲荷町駅前の交番の隣り(東上野5)に、朝日山願成院永昌寺がある。 永昌寺は永禄元年(1558)下谷長者町にて開創、寛永14年(1637)現在地に移転した。 大正12年(1923)の大震災により当時の建物は焼失している。、、、、講道館柔道の祖である嘉納治五郎が明治15年(1882)境内に12畳の道場を建てたのが講道館の始まりである。 当時の境内は、現在よりも広く2000坪程あったそうだ。 今は面影なし!

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● 永昌寺の北東(松が谷1)に日蓮宗寺院の妙音寺がある。 妙音寺は、安立院日雄聖人(元和5年(1619)寂)が開山、華光院日性霊(俗姓富田半七)が開基となり、慶長15年(1611)馬喰町(現:中央区)に創建、明暦の大火により当地へ移転したと云われてる。、、、、寺は、安産飯匙(しゃもじ)の祖師を祀り、厄除け、安産守りのご利益で信仰を集めている。 手入れの行き届いた境内には大きな池もあり、鯉も悠々と泳いでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、糸・衣の神様として「金色養蚕大明神」が、古くから祀られている。 この「金色養蚕大明神」は、伝説では、インド王姫として生まれた金色姫は、継母にいじめられ、それを不憫に思った王が姫を船に乗せて海に流した。船は常陸の国に流れ着き、漁師の権太夫夫婦に助けられる。併し、金色姫は間もなく亡くなり、その霊魂または死骸が蚕となり、日本で養蚕が始まったという。 現在は、糸問屋組合が祀る神様だ!

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● 妙音寺の斜め向かい(東上野6)に、真宗大谷派の寺院「高龍山報恩寺」がある。 報恩寺は、親鸞聖人法脈第一の直弟で二十四輩の一人でもある性信上人が建保2年(1214)下総国横曽根に創建、慶長7年(1602)江戸に移転、坂東報恩寺と称されていた。 その後市中を三転し、文化3年(1806)当地へ移転した。、、、、この法恩寺には、正月の行事「俎開き」が約800年の永きにわたり続いている。 「俎開き」とは、多分ニュースなどで見たことがあると思うが、下総国岡田郡の飯沼天満宮から献上した目の下1尺許りの鯉二尾を、住職以下役僧が見守る中、烏帽子に大紋の装束を付けた料理人が、大俎の上で箸と包丁を使ってさばいていく儀式。


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● 報恩寺の北200m(東上野6)に浄土宗寺院の五台山文殊院源空寺がある。 源空寺は、天正18年(1590)円誉上人が湯島に創建。 湯島では多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたそうだ。 慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えた。 寛永11年(1634)には徳川家光より洪鐘の寄進を受けた。 明暦3年(1657)の大火で類焼し、現在地へ移転。、、、、本堂は鉄骨造で建て直された。

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・・・・・・・・・・・・・・源空寺本堂とは道路を挟んで墓地がある。 墓地には、伊能忠敬(御存知、地図作りの名人)、高橋至時(伊能忠敬のお友達で天文学者)、谷文晁(水墨山水に妙を得た江戸時代の画家)、幡随院長兵衛(江戸初期の侠客)の各墓が並んでる。 (写真は、忠敬、至時、文晁、長兵衛の順)

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● 上野学園の前で、タイミングよく浅草橋方面行きのコミニュティバスが来た!、、、、乗せておくれよ、運転手さん!

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2020年11月 9日 (月)

江戸六地蔵のルーツ

昨日まで、夫婦で京都の秋を堪能してきた。 高雄の神護寺、嵐山の天龍寺、伏見の東福寺など、紅葉の名所と云われている処を巡り歩いた。 今日は、旅の疲れ、特に硬くなった足をほぐすため、散歩は休み。




● まずは、チョイトだけ “京の秋” を・・・・・遠くの紅葉を眺め、近くのマスク美人を見つめ、眼と首が疲れること!

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● さて本題です、東福寺へ向かうのに、JR奈良線を利用した。 車内の停車駅案内図で、京都駅の次が東福寺駅、その次は伏見大社がある稲荷駅、その次の次は桃山駅、駅名が面白ろそうな妻は、その次を見て『あなた、六地蔵駅があるわよ!』と奇声をあげた。 江戸六地蔵巡りで、新宿太宗寺、深川永代寺に同行した妻は、“六地蔵”に興味を持ったようだ。 早速『後で、寄ってみよう!』、、、、“江戸六地蔵”のルーツにあえるかも?

・・・・・・・・・・・・JR奈良線六地蔵駅で下車する。 駅の開業は平成4年(1992)10月22日で比較的新しいが、線路は明治29年(1896)に京都~玉水間が開業している。 改札口は1箇所のみで、島式ホーム1面2線の高架駅である。、、、、駅員さんに“六地蔵”はどこか尋ねると、「大善寺」に祀られていることを教えてくれた。

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・・・・・・・・・・・・JR六地蔵駅から、400m程離れ川を挟んで、京阪電鉄六地蔵駅がある。 こちらは、大正2年(1913)6月1日の開業である。 盛土上に造られた相対式ホーム2面2線の駅。、、、、京阪の六地蔵駅開設時、駅の西北西にある京都六地蔵の一つでもある大善寺が古くから「六地蔵さん」と呼ばれ親しまれていることから、この駅名が付けられたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・何か不思議な縁で、とうとう江戸六地蔵のルーツである京都六地蔵にやって来た! 大善寺は、慶雲2年(705)定恵の開山により創建された寺と伝えられ、平安時代前期に円珍が天台宗に改宗したという。 その後永禄年間(1558~1570)現在の浄土宗に改められた。、、、、大善寺は、京都十三佛霊場の第五番札所でもある。 京都十三佛霊場とは、古都京都に、由緒ある寺々が集まり昭和56年(1981)に誕生した全国の中でも最も古い霊場であり、各寺院は極めて古い歴史をもち、その開基も飛鳥時代一、奈良時代一、平安時代七、鎌倉時代一、室町時代三となって、もっとも新しい寺でも六百年の寺歴をもっている。 智積院、平等院、仁和寺など、古刹の集まりである。、、、、大善寺は、京都市内から外れた処にある、小さなこじんまりとした寺である、訪れる観光客は極わずかと思われる。 境内には、我が夫婦しか見えない!

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・・・・・・・・・・・・・・境内の「六地蔵堂」に、仁寿2年(852)に小野篁(おののたかむら)が桜の大木を用いて六体の地蔵菩薩像を彫った、その内の一体の地蔵菩薩像(重文、161cm)が安置されている。 その後、後白河天皇の勅命により、平清盛が疫病退散のため保元年間(1156~1159)に、僧侶:西光に命じて街道口6カ所にそれぞれ六角堂を建て、六体の地蔵菩薩像を一体ずつ分置した。 ・奈良街道は伏見の大善寺 ・大坂街道は鳥羽の浄禅寺  ・丹波街道は桂の地蔵寺  ・周山街道は常盤の源光寺  ・鞍馬街道は賀茂の深泥池畔(現:上善寺)  ・東海道は山科の徳林庵 である。、、、、これら六体の地蔵菩薩像がいずれも京都にあるので六体まとめて「京都六地蔵」と呼ぶ。 室町時代、庶民に地蔵信仰が広まると、京都の街道口に安置された上記六体の地蔵菩薩像を巡拝して家内安全、無病息災を祈る「六地蔵巡り」が始まり、大善寺が「六地蔵巡り」の根本道場とされた。、、、、まさしく、京都六地蔵を倣って造立したと云われている、江戸六地蔵のルーツである。 我が散歩でも、残り5カ所の京都六地蔵を参拝したくなった。 妻曰く『また、ちかいうちに京都に来ようね!』 返事は『・・・・・(簡単に首を縦に降れない)』


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● 紅葉にふれて、マスク美人にふられ、六地蔵のルーツにふれた、夫婦旅となった。 次回は・・・・・???

2020年11月 4日 (水)

竹ノ塚の団地見学?

今朝の都心は風が強く散歩に出るのもチョイト迷ったが、ここは強気で家を出た。 家は出たけれど行き先未定、さて、どこさいくべか、思案橋! 考えに考えたが特段の理由もなく、つくばエキスプレスの六町駅から歩くことにした。 六町駅から西に向かって歩いたら、都営住宅、新興住宅街、公団住宅と続き、何だか団地の見学会のような散歩となった。 たどり着いたのは東武伊勢崎線の竹ノ塚駅。、、、、1万1千歩、、、、後で、ニュースを見たら、気象庁は、東京で冬の訪れを告げる「木枯らし1号」が吹いたと発表した。




● 浅草橋の我が家から秋葉原までは徒歩15分、秋葉原から「つくばエキスプレス」の六町駅(ろくちょうえき)までは17分、合計40分程で我が家から六町駅まで行ける。、、、、六町駅は、平成17年(2005)8月24日に、つくばエキスプレスの開通と同時に、足立区の陸の孤島地区に開業した。 開業後15年、これまで普通列車しか停車しなかった六町駅は、今年から朝のラッシュ時間帯に上り区間快速(13本)が停車する駅にチョピット昇格した。、、、、陸の孤島時代に比べれば格段に便利になったはず、これから10年後、もっと便利になってるといいね!、、、、「六町」の由来は、『江戸時代には、保木間村・竹塚村・六月村・花畑村の4ヶ村の飛地が入り組んでいたが、昭和11年(1936)六つの飛地をあわせた町域を1町とし、「六町」と命名した』と云われている。


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六町駅周辺には、大型スパーが1軒あるが、他には何もない! 駅周辺は、つくばエキスプレスが開通し、田畑が住宅地に変わった町だ!、、、、ネオンきらめく夜の街がないのは残念に思う人も多いのではなかろうか? “つまらん街だ!”

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・・・・・・・・・・・・・・只今、駅周辺では「六町地区 土地区画整理事業」が、東京都で進められている。 これから期待できる町に変わるか?

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● 六町駅から西に向かってスタコラサ、東西に走る「花畑大橋通り」を横断すると、住所は“足立区東六月”となる。、、、、“六町”だ、“六月”だと、“六”が好きな町だと思って地図を見ると、六町駅の北東には“足立区六木”という町もあった。 ついでに「六六通り」もある。、、、、東六月の町には、昭和46年(1971)にできた「都営 六月町アパート」がある。 完成した年は、まだつくばエキスプレスの工事も着手していない頃で、当時の最寄り駅は直線で約3km先の綾瀬駅だ! まさに、この辺りは陸の孤島であった。

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● 東六月町の中心部に23区最大級の大型分譲住宅「パレットコート六町」がある、総戸数214戸の戸建街。 総開発面積32,000㎡超。 平成24年(2012)に分譲された街は、緑豊富な外路に楽しさを感じているのかも。、、、、足立区には、民間でも大きな分譲団地を開発できる土地があるようだ!

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● 日光街道(国道4号)を越えると、「竹の塚第一団地」(UR都市機構)がある。、、、、昭和36年(1961)日本住宅公団は竹ノ塚駅東側約100ヘクタール(東京ディズニーリゾートとほぼ同じ)の農地を区画整理し、竹の塚第一、第二、第三団地、竹ノ塚駅前市街地住宅など、全部で2800戸程を建設した。、、、、竹の塚第一団地は、昭和40年(1965)から入居が始まった、総戸数1286 戸(全35棟)の中規模団地である。 竹の塚第一から第三団地まであるが、ここが一番先に完成した。、、、、竹の塚団地は人気が高く、なかなか空き家も出ないそうだ。 かつての給水塔などは、現在撤去され、跡地に高層棟が建てられている。 公園・保育所なども整備され住みやすそうだ。

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・・・・・・・・・・・・団地の一画にタイムカプセルが埋められてる、、、、1991年に埋められ、44年後の2035年にオープンする予定とのこと。 中には、当時の居住者による、写真・絵・作文が入っているそうだ。 小学生の頃埋めた人も、オープンする時は中高年、自分の作品を目にしたときは、感動し泣けるかも?

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竹ノ塚駅は只今、連続高架化工事の真っ最中。 完成は令和4年(2022)3月。 まだまだ仮ホームで我慢です。

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2020年11月 3日 (火)

観光客が戻ってきた!

今日は文化の日。 今朝から、小雨がぱらついたり、どんより曇ったり、落ち着きのない一日となった。 文化の日は、「晴れの特異日」のはずだが、今日は“得意技”を出すのを忘れたようだ!、、、、早朝の散歩は取り止め、昼前に夫婦で昼食を兼ね浅草へ行ってきた。




● しばらく閑古鳥が鳴く浅草であったが、今日は最盛期の半分ぐらいの人出かな?、活気が戻ってきた。 歩いて気付いたのは、中国人ツアーがいない、イスラムのスカーフを巻いた女性がいない、欧米のスマートなカップルがいない。 目立つのは日本人が多いね!、、、、日本人観光客は今がチャンスかも? どこの店も、ちょうど居心地の良い込み具合だ。 マナーの悪い人に気分を害されることもない。 どこの道ものんびりゆったり歩け、“密”の心配不要! 

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● 浅草寺は正月に向け、本堂天井画の修復工事真っ最中。 正月の初詣前には足場も撤去しないとね!、、、、妻『天井にどんな画が描かれてた?』 私『年に何回も来ていて、知らないのか! 龍の画だよ!』 妻『(関心がなく)フ~~ン』 私(心配になり、内緒で、ネットで確認すると、中央に龍、左右に天女)『(声も大きく)記憶力は俺の方が良いね!』 妻『(興味ナシ)・・・・・』

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● 本堂裏に新しくなった「銭塚地蔵尊」がある。 昭和39年(1964)に再建した堂も古くなり、昨年末、鉄筋コンクリート造の新しい堂が完成した。 堂内には、六地蔵尊が祀られ、この像の下には江戸時代の貨幣「寛永通宝」が埋められていると云われている。、、、、その由来は、江戸時代後期に摂津国(兵庫県)に山口貞樹という武士の妻が住んでいて、垣根の修理中に庭先で「寛永通宝」がいっぱい詰まった壺を掘り当てたが、山分けしようとした人夫たちを「銭は働いて得るもの」と諭し、壺を再び埋めてしまった。 二人の息子たちも母の教えを守り、真面目に働いたから山口家は栄え、壺の上に塚を作り地蔵尊を建て「銭塚地蔵尊」と呼ばれた。 正徳3年(1713)息子の一人が浅草で成功し、郷里の銭塚地蔵尊から分祀したものである。正直・質素を旨として商売繁盛の祈願を集めている。 

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● 浅草寺境内(宝蔵門脇)に、「濡れ仏」の名で世に知られる「二尊仏」がある。 ここには、観世音菩薩(右)、勢至菩薩(左)二菩薩の金銅坐像がある。 像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。 蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)に造立した。、、、、この像も、江戸六地蔵と同じ鋳物師:神田鍋町の太田久衛門正儀の鋳造である。、、、、また、この像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄3年(1690)在銘の像が群馬県館林市茂林寺にある。 館林では、チョイト簡単に『像を見に、散歩してくる』と家を出るわけにはいかず、残念!

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